話題:ひとりごと



共感を求めることに重きを置いていないと、好きなものを語る、と云う行為が途端に身近ではなくなります。
ですからドッペルよろしく、例えば自身が増殖したとしても、同じ価値観を持つであろう自分とさえ語り合いたいとは思わないのです。
だって「頭の中だけでは」強くて平和で正しい言葉や思想は、体外では無力で歪で詰まらないから。


好きなモノを楽しそうに語る方を見るのはとても好きなのに、それを行使する権利と魅力が自分には備わっていないから。


ヒトサマの「好き」に比べて、手前の「好き」は矮小過ぎる氣もするのです。
確かに好きなのに、泣いたり笑ったり紅潮したり……その表現に直結しない「好き」は、何だか拙いモノに思えて、不誠実なモノにも思えて、羞ぢらいと後ろめたさと情けなさで呑み込むのが常になりがちです。
故に手前が「好き」を語る度、そのモノの価値を下げている氣がして内臓が震えるのですが、
「手前ごときが及ぼせる影響なんて何も無いから」だけを盾に、眼を瞑って五感を窄めて「好き」だと叫ぶのです。




「好き」に優劣は無いと
秘めたものがか弱い存在では無いと
「頭の中だけでは」よく理解しているのですけれど。おかしな話ですね。
















あ、PTPの話では無くてね!
(否、PTPもですが!!!)