久しぶりに寝不足で倒れそうなくらい眠い。お彼岸中日で両親が来ることになっていたので、早起きして夕方まで憑依したり通訳していた。
母はらいちとおしゃべり。らいちは鈴木福君みたいな声で喋り可愛いのである。猫が喋るなんて不思議だよね。
今日も痛ましいニュースが多かったな。犠牲になるのはみんな子どもたち。
福島では相双地方(相馬〜双葉町までの浜通りの地域)の小学五年生が、自ら命をたったという。どうして死を選んだのかわからないが、長引く環境の変化でつらかったのかもしれない。こういうのが最近また増えつつあり、心の叫びに世間が気づいて力を貸して欲しいものだ。福島はまだまだご支援を待っている。
県内の子どもたちが震災直後から外で遊ぶことが少なくなっていたのだが、だんだんと外で遊んでいるのが増えてきた。
先日、どこだか忘れたけど「公園の子どもたちの声がうるさい!」と苦情があったというニュースを観て、唖然とした。公園で遊ぶ子どもたちは何も悪くないのに。遊んで騒ぐこと以外、何をすればいのだろう?
昨日の女児バラバラ殺人事件もそうだが、子どもたちに優しく出来ない大人が増えてきた。みんな心の余裕が無さすぎるよね。
たくさんの拍手ありがとうございました!
>> 魚座B型女・ 1979年生まれさん
こちらこそ、有難うございます。
元気出さないと駄目ですね(;^_^A
1979年のananに掲載された沖雅也氏のエッセイ『出会いの後にくる別離(わかれ)が旅の最大の魅力だとおもう』を紹介したい。
沖様は年末年始を毎年パリで過ごすのが恒例だったそうだ。事務所の人たちや付き人、『俺たちは天使だ!』や時代劇でも共演が多かった同じ事務所の沖様唯一親友だと認めている三景啓司さんらを連れて、休暇を楽しんだ。その様子をエッセイにまとめているので抜粋して少し紹介したい。
元旦の朝、僕たちはサンミッシェルの喫茶店でコーヒーを飲んでいた。
古都の一日をなんの拘束もなく過ごす、という最高の贅沢にひたりながら、新春をひっそりと祝福している並木を眺めていた。(中略)
それぞれがそれぞれの思いで、パリとの再会に感謝しながら、コーヒーを口に運んでいる。僕は一生このまま、ここで彼らと座っているだけで生きていけそうな気がしてくる…。(ハッピーな時間ってこれなんだ)
などとうきうきした気持ちで、ふと近くのテーブルに目をやると、男が笑いかけてきた。
40歳くらいのいかにも人の良さそうなパリジャン。僕は自然と席を立って彼の傍へ行き、そして自然に「BON ANNЁE(ボンナンネ)」と言っていた。(中略)彼は「アケマシテオメデトウ」と言ったのだ。
ジェラード・オリビエという名の彼は、かつて一度だけ映画の仕事で京都に滞在したことがあるという、無名のシナリオライター。もちろん僕たちはすぐに友達になった。
ジェラードに招待された彼の部屋は、レ・アルのアパートの屋根裏部屋。今にもジャン・ギャバンがヌッと現れそうな、映画でみたとおりの部屋である。
(中略)地下鉄(メトロ)の出口で見た光景を、僕は忘れない。改札口の小さなドアを開けて出る人たちが、必ず次の人が来るまで待っていてくれるのだ。日本のように鼻先にピシャリなどという場面は絶対に見られない。それは、公衆道徳という類のものではない、と僕は思う。ゆとりだ。ゆとりから生まれる優しさだ。フランス人は見事な個人主義に徹した人種だが、自信に裏打ちされた個人主義だからこそ、真の優しさが優しさが生まれるのだと、僕は信じている。
かなり中略して、締めの文が粋だ。
昨日、夜更けてドアがノックされた。ボーイが渡してくれたのは『アイ・ラブ・パリ』という一冊の本だった。その中に小さな紙切れがはさんであった。
《パリに友達がいることを忘れないでくれ。ジェラード》
なんてキザで、なんて嬉しい奴だろう…。
人はよく、旅は出会いだというけれど、出会いのあとにくる別離(わかれ)こそ旅の最大の魅力だと、僕は思う。
淋しく切ない別離が多いほど、その旅は素晴らしかったことになる。また来年も、あのサンミッシェルのカフェで、ジェラードとお茶が飲めるだろうか。もう来ることができないかもしれないが…。
(1月9日 パリ・ド・ゴール空港にて記)
実にまとまった文章、そして読みやすい。沖様の詩も素晴らしいけど、このエッセイもなかなかいいですな。
ジェラードとはその後、再会できたのだろうか。彼はシナリオライターだったというから、きっと沖様がスターのオーラを輝かせていたのに気づいたのだろう。
それにしてもパリの街の風景がうまく書かれている。観察しながら、紳士の振る舞いを学習したのかもしれない。
故郷の大分は帰りづらいから、パリで過ごされていたみたい。他にもお母様や妹さんを連れてアメリカにも旅をしている。その様子はまた別の機会にご紹介しよう。
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