来訪者がなくなった頃、ピノはクレシエルと私の3人で話しがしたいと言った。久しぶりに目を合わせたことに気が付いた。
「お父様、今まで家を空けてしまい、申し訳ありませんでした」
「ああ、いや、いい」
「今日はお父様にお願いがあります。聞いていただけますか」
「なんでも言いなさい」
「ありがとうございます。実は寄宿舎に戻ろうかと思っています」
「それは本当か!」
「はい」
「そうか、そうか……そうか」
「……」
「手続きをしなければいけないね」
「そういったことは済ませました」
「はは、お前はすごいな」
「試験も受けて、こちらにお父様のサインをいただきたいのです」
「おおそうか」
「あの、その前にもう一つお話しがあります」
「なんだ」
「私は以前にあの寄宿舎にいたので理事も校長も快く許可してくださったのですが、その際にこちらから聞いてみたところ、クレシエルにも入学許可をいただけたのです」
「……」
「……あ、俺は要らない」
「……」
「な、何、急に。学校に行けって言うのなら、俺はパブリックでもいいし」
「なぜ」
「まあ正直に言えばビビってるって言葉で伝わるかな?」
「怖い場所ではないよ」
「あのね、俺ピノがボロ雑巾にされてたの知ってるからね」
「……」
「ごめん、あの、それは今は違うんだし……ごめん」
「……」
「お父様、私は、クレシエルが行かないと言うのなら、」
「待ってぇぇー!! 何言おとしてるか分かってしまったから止めさせていただく!」
「……」
「お父様、私は、」
「なんで!? そこそこ可愛い弟が泣きそうな顔して抵抗しているんだよ!?」
「……」
「クレシエル、寄宿舎へ入りなさい」
「……」
「……俺、学校なんて行ったことないよ」
「お前たちは、二人でいるあいだ、一度も学校へ行かなかったのか?」
「ええ」
「クレシエルが1回生の勉強から履修しなければならなくて、それが恥ずかしいと言うのなら、1年間は家庭教師を付けてもいいんと思う。しかし寄宿舎に入ることには賛成だ」
「……」
「いや、俺は寄宿舎とか嫌です」
「じゃあ働くの?」
「へ?」
「俺がしていたように、朝から夜まで休みもなく、クレアに働けるの?」
「それは……」
「ピノの言う通りだ。お前には、もう少し厳しくした方がいいと思っていたのだから」
「でも、あの時は、行きたくないなら、いいって言った」「……」
「……」
「クレア、ごめん」
「へ?」
「俺はお前と離れたくない。あそこへ行くならクレアとじゃなければ嫌だということだ。それにお父様には今まで酷いことをしてきたから、俺は何か、よいことをしたいんだよ」
「……」
「あの寄宿舎には、いい人がたくさんいる。仕事場の人たちもいい人たちだったけれど、勉強をするならあそこほどいい場所はない。みんなで切磋琢磨しながら学んでゆける」
「……いい人たち、ね」
「クレア、私が入学した時のことは、何かの間違いだったんだよ」
「間違い!? ピノはそうやって2年間も耐えたわけ!?」
「……クレア、あれは、間違いだったんだ」
「嘘くせぇんだよ!! この家にきて昔のお兄様に戻ったのかよ!?」
「クレシエル、その言葉づかい、やめなさい」
「お父様は分からない!? 俺はっ! 俺は、それが、怖いんだよ」
「……」
「ピノが今のままのピノじゃなくなるようなことがあったら、次は僕が、もう、……耐えられなくなる」
「……」
「クレア、大丈夫。きっとクレアも好きになる」
「……」
「嘘は、嫌いだ……僕は、人を傷付ける嘘だけは、赦せない」
「……」
「お兄様は、僕を傷付けるようなことは、してこなかった。けど他の人は、違う」
「クレア、私が働き始める前に言ったこと、憶えている?」
「はい」
「なんだ憶えているのか」
「はい、あれは、ごめんなさい」
「いや、いいんだよ。つまり、あれと同じだと言いたいんだ。時が過ぎれば今日のことも、恥ずかしいとさえ思えるようになる」
「……」
「兄としては、私がまたイジメられるんじゃないかと、そんな風にビビっくれて嬉しいんだけど」
「……」
「きっと気に入るよ。また戻りたいと思うようになる」
「……あ、え、あれ?」
「どうしたの」
「本当に戻りたいの!?」
「そうだよ」
「それならそうって言ってよ!! 俺はてっきり、世間体のために戻るのかと……」
「どっちもだよ」
「……」
「だからこそ、戻るのさ」
「……」
「さあ、お父様、サインをいただけますか」
「……あ、ああ」
その時になって私は初めて、この息子たちの、無邪気な顔からこぼれる真実の笑顔を見て、どこまでも抜けていくような本物の笑い声を聞いた。心に広がったのは、初めて知る温もりと、言いようのない疎外感だった。