ルカと敵対する全てを嬲って詰って虐殺するつもりがグリーンに会って心変わりした。グリーンは殺しはいけないことでそれ以上はない罪深い行いだと言った。酔った勢いの戯れ事だと店主たちは受け流したけれど、酔っていたからこそ嘘偽りない本音であることにも違いなかった。
「食器なんて揃えて、本当に良いの…?」
グリーンは不安げに俺を見た。
「あなたが言ったんじゃないですか。もう少し色気のある同棲をしようって、」
「ちょっと!こんなところでっ、」
こんなところでこんなことで赤面するこの男を近頃の俺は可愛いと思ってしまっている。
いいなあ、と漠然と思う。
殺すことは造作ない。けれどそれを思い留まるようになったのはこの色気のない同棲相手の所為だった。どれ程残酷な拷問でも殺すことは次元が違う、と受け売りの理論で遣り過ごしているのは信念を曲げたからでも技術が衰えたからでも度胸がなくなったからでもない。
「人が見ていますよ」
耳元で甘い声を出すとグリーンは茹だったように首筋まで赤くなった。
それがまた、可愛い。
この男が俺の声に弱いことは知っている。時々馬鹿みたいに俺に見惚れて剰えそれを馬鹿正直に告白することが少なくないことも分かっている。俺の顔に弱いことも性交渉がなくても満足してしまうくらい俺という存在に惚れていることも知っている。そういう自分を自覚した上で、俺にいつ捨てられても良いと覚悟を決めていることも知っている。
他方で向こうは俺のことを知らない。例えば俺が仕事上の定石を破ってまでグリーンを精神的に受け入れていることも、グリーンを置いて家を出る時の寂しさも。
既に切って捨てられるような存在ではなくなった。
「……目星、付けたんだけど」
分かり易く話しを逸らすとグリーンは皿を1枚取り上げた。顔にはまだ赤みがあるがこれ以上からかうのは止めて俺もそれを見ることにする。
「爽やかでいいですね」
「だよね!?」
「あとは、どれがいいんですか?」
「こっち!」
次に指差したのも至ってシンプルなものだった。
「あなたの趣味が少し分かった気がします」
グリーンがそれなりに上流の家庭で育ったことは伝わってくる。弟については時折話しても家のことは話したくないらしく会話からは正確な家族構成すら把握できないが、やはり独特の上品さは感じる。
遠慮があるにしても存外な趣味だ。
「え、あ、え、俺って趣味悪い?」
グリーンは皿をディスプレーに戻して俺を見た。
「いいから好きなの選んでください。他にも候補はあるんですか?」
「……すみません、俺、いつも自分のことばっかで…」
「……」
「あの、君はどれがいいの?」
辛うじて涙が溢れていないだけの泣き顔でグリーンは口角を無理矢理引き攣った。
そういうところが好きだ。
斜めに傾いた自尊心とか螺子の抜けた羞恥心とか不健全な自己犠牲とか、恐らく自虐的なだけなんだろうけれどそれらは俺にはないものだ。
自分と違うから惹かれるのではないが多少はその部分に影響されることもある。
時宜が良いとは思えない今では折角の告白も台無しにされ兼ねないので胸の内に留めておくけれど、例えばあなたの喜ぶ顔が見られるならいくら趣味の合わない服でも着てみせるとか、言っていくらでも聞かせてみたいと思うこともある。
我慢するのは自分の為。
優位に立って、あなたを支配したい。
笑って頭を撫でてやるとグリーンは更に顔を歪めた。手放しに甘やかされるのを嫌がるのは育ってきた環境の所為だろう。
「好きなもの選べって言っただろう?」
キスをしようと顔を近付けると垂れ気味の丸い瞳から、つ、と涙が流れた。驚いてそれ以上動けないでいると狼狽したのはグリーンの方で、彼は弾けるように顔を逸らすとあっという間に小さな食器店を出て行ってしまった。カランとドアの鐘が鳴ったのを合図に俺も慌てて後を追った。
ドアを出ようとした瞬間、目の前に年配の男が現れた。避けたけれど余程驚いたらしいその男は一人で蹌踉けて転びながら抱えていた荷物を放り投げ、それがカチャカチャと高い陶器のぶつかる音を発するのを聞いて俺は反射的にそれを空中で拾い上げた。
「……おお、」
年配の男は地面に座り込んで目も口も鼻の穴も開き切って無責任に感心している。
俺は俺で普段なら他人の物に寸毫の関心も寄せない奇行に近い自分の行動に言い知れぬ気恥ずかしさを感じ、その間に気配だけは捉えていたグリーンを見失ってしまった。
家に帰っていれば良いけれど。
「……大丈夫ですか」
自棄で無用な優しさまで見せるとその男は豪快に笑って立ち上がった。
「兄ちゃん、凄いねえ! 腰が抜けたよ、全く!」
荷物を渡すとにこにこしながら受け取った。やはりカチャカチャと聞こえるから陶器の何からしい。
「……中身、割れていないといいですね」
こんな男だとしても大切な人と選んだ大切な食器が無下に壊れたら落ち込むに違いない。むしろそういう思いで地面に落ちないようにと拾い受けたのだから勝手だとしてもそうであった方が都合が良い。
男は眉を下げた。
「うん、まあ、そうなんだけど、でもこれはもう割れてるんだよ」
「……そうなんですか」
予想外の答えに言葉が詰まった。既に壊れているとは思いもしなかった。
「直してもらえないか持って行くところだけど、捨てる覚悟もしてきたところでね」
捨てる覚悟。
「大切なものだったんですか」
抱え直された荷物が再び鳴った。忘れないでと言っているようにも聞こえるか細い音で。
「そうだね。でも壊れてしまったものは仕方ないし、無理に直したって使えなきゃ意味がねえや」
豪快な笑い声が、前とは違って聞こえた。
軽く会釈して別れを告げると男は礼を言って去って行った。
いっそ粉々になってしまえと、無意識に手放したということもあるのかもしれない。可能性を探ることに疲れたのなら偶然の悲劇で花を添えることの方が思い出としても上等だ。
捨てられる覚悟はある。
しかし捨てる覚悟は、あるのだろうか。
店のウィンドウ越しに先程グリーンが手にした皿を見た。どちらも簡素だけれど洗練された綺麗さと使い勝手の良さを感じて、そこに食事を盛り付けるのさえ想像できる。
俺も気に入ったと言えば良かったのか。
趣味ぐらい破滅的に乖離していたって構わない。食事の好みや暮らしにおける性向はともかく、服や家具の趣味は生活にとっては重要度の低いことだ。俺ならそう思う。
キスで有耶無耶にしようとした俺にも非はあるが冷静になってみるとくだらないことで感傷に浸るグリーンに苛立ちのようなものも覚えてしまう。
簡単に俺の元から離れた。
捨てられる覚悟は俺にもある。別れを受け入れるしかない原因を積んできた自覚はあるし生きてきた世界が違い過ぎると思い知らされることも少なくない。
しかし捨てる覚悟は端から無い。捨てる気なんて無いからだ。
店に入って選んだデザインの食器をセットで買うと家に戻った。そこにはグリーンはいなかった。がらんどうの部屋はあるべき姿に返ったようにも、あるべきものを失ったようにも思える。
俺は苛立ちを隠すように予定になかった仕事を入れた。