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燃えよ煩悩/ぶしさに

※刀さに(ぶしさに)
※女審神者




音もなくしとしと雨が降っている。風も吹いて肌寒い。薄着の二人は布団の中でもつれ合い、やがて深く口付けた。

「主殿」
「うん……」

山伏が私の寝間着に手を差し入れた。素肌が触れ合う。手甲がない。

「主殿」
「うん……」

服を脱ぐ。あまり受け身だと飽きられてしまいそうだけど、慣れていると思われてかえって良くないかしら。まあ、今さらか。神様のことはわからない。

山伏にじっと見られているのがわかる。緊張する。でも嬉しい。緊張なのか興奮なのかわからなくなる。

私も山伏を見る。山伏は美しい。そして逞しい。その山伏が私を見ている。

うまくいって、お願い。私は心の中で願った。

私には気がかりなことがある。

「山伏も、」
「ああ」

肌けたところから触れる山伏の手が熱い。彼はなんてちょうどいい加減で触れてくれるのだろう。優しすぎず、山伏の力強さを感じられるちょっと強引な、でも決して無理を強いない加減で。その彼の手がとても熱い。

山伏は何もかもが熱い。

彼の大きな手も、私に向けられる視線も、かけられる言葉も。

なんて熱いのだろう。

山伏が一層深く抱きしめたとき、私の指が思わず跳ねた。快感からではない。その余りの熱さ故に。

やっぱりだ。気のせいではない。

「主殿?」

心配そうに声を掛けてくれた山伏にどんな言葉も返せないまま、もう一度山伏の背に腕を回すが、とても我慢できそうになかった。熱い、熱いのだ。余りにも。

山伏が再度深く抱きしめようとしたところで、私は彼の胸に手をついてそっと押し返した。

「ごめん、ちょっと……本当にごめん」

山伏は普段からは想像できないような優しい声音で「お気に召されるな」と答えて、私の寝間着を整えてくれた。聞こえるはずのない夜更けの雨音が、私たち二人のあいだにまで届いた気がした。


 **


ここのところの私の悩みは山伏との夜のことだ。それはつまり、恋人として過ごす、夜のこと……。実は、初めて服を脱いで山伏に触れたとき、その余りの熱さに彼を突き飛ばしてしまった。山伏はびっくりしていたし、直ぐ私に謝罪した。私はとにかく誤解のないよう、山伏に好意を伝えたが、どこまで伝わっていたのかわからない。そういうことが三度あった。

それから山伏は私に何もしてこない。

これでは飽きられる前に呆れられてしまう。

季節は変わって寒さの厳しい時分となった。最後に二人で寝所に入ったのはだいぶ前のことのように思う。

この頃、朝は特に冷え込む。今日も寒さの余り私は寝たふりを決め込んでいたが、見計らったように歌仙が「おはよう、主。今日もいい天気だね」などと言いながら部屋へ入ってきて、布団のシーツを足下から強引に剥がしながら「ところで、山伏国広とはどうなんだい?」と尋ねた。私は追い出されるように布団から這い出つつも、その行動とは裏腹な歌仙の優しさに泣きつきたくなった。

私と山伏との関係は本丸内で概ね知れ渡っているようだけれど、さすがに誰彼なしにそのことを相談できるはずもない。歌仙は数少ない私の相談相手だ。

歌仙は面倒見のいい刀だ。それを歓迎する者と、そうでない者がいるだけで。初期刀として顕現した責任が彼をそうさせるのか、それは私にはわからない。

刀剣男士に個性のような違いがあることは、政府から説明されている。私の本丸の歌仙と、他の本丸の歌仙は、まったく同じに思えることもあれば、どこかが違うと感じることもある。

だから、山伏に何か他の本丸との違いがあるとすれば、それは彼を顕現させた私のせいだろう。

『山伏国広』を顕現させたのは私だ。山伏がただ居てさえくれればそれでいいとか、他の本丸と違うならそれでもかまわないとか、それでは余りに無責任だ。私と山伏とのことは、私たちが解決しなければならない。

「相談に乗ってくれる?」

歌仙は私のすがるような目線を雅に受け流し、「どうしようかな」と答えた。

私はかまわず彼に話しかける。

「歌仙さんは山伏の入れ墨に触ったことある?」
「あるよ」

歌仙は事も無げに答えた。

それは一体どんな時だったか、気にならないでもなかったが、今はそれより自分のことだ。

「実は、私、山伏のあの入れ墨がすごく熱く感じて、ずっと触っていられないの。あの入れ墨って、不動明王の迦楼羅炎、ってやつなのかな。それで、その、あれって私みたいな『人間』には、触れないものなのかな……。それとも、それは、私の問題? 私が煩悩まみれだからとか……。そのせいで私、山伏と共寝もできてなくて、申し訳なくて……」

煩悩まみれ。口をついて出た言葉だけど、そのとおりだ。

それならこれは私自身の問題であると言える。

私のせい。

私のせいで、この先ずっと山伏を抱きしめることができないということ。互いになるべく触れないようにして体をつなげることは可能だろうけど。

「主。それでは、山伏をやめて他の誰かにするかい?」
「そうだね。山伏には、その方がいいのかも」
「主はひどく残酷なことを言うね。僕たちはもうただの刀じゃない。手に取ったり手放したり、物のように扱われては山伏国広だって可哀想だ」

言わせたのは歌仙のくせに。

私は心の中で悪態をついた。

「それって私がこのまま山伏に触れないことと、どっちが残酷なのかな」
「僕が言ったのは、そういうことじゃないんだけどね」
「そうかなあ」

歌仙は私を一瞥して「なぜこの僕がこんなに情緒を解さない主に仕えなければならないのだろうねぇ」などと独り言とは思えない声量でつぶやいた。

「主。その入れ墨、今度昼間に触ってみたらどうだい?」
「昼?」

そのことについて歌仙ははっきりとは説明せず、「僕はもう行くよ。片付かないんだから、早くご飯を食べにおいで」と言って、シーツを抱えて部屋を出て行った。

歌仙は雨の日も夏の暑い日にも風流を感じると言ってはよく歌を詠んでいる。私も歌仙くらい雅な人間なら、山伏に自分の気持ちを和歌にして伝えたりできたかもしれないけど、それは難しそうだ。

私は身支度を整えて食堂へ行った。

食堂では内番に当たっていない刀が遅めの朝食をとっている。特に決められた席はないのでみんな好きにしているようだ。

「やあ、おはよう」
「おはようございます」

私は白いジャージを肩に掛けた、山鳥毛の向かいに座った。

山鳥毛にも入れ墨が入っている。彼のはよりモチーフ性が高い。ときどきアクセサリーを身に付けていて、髪型も大人っぽく整えられて色気がある、そんな彼をより魅力的に見せる入れ墨だ。

座っていると光忠が朝食を運んできてくれた。

「おはよう。どうしたの、山鳥毛くんのことじっと見つめて」

見つめていたかな?

私が「山鳥毛さんはカッコいいなあと思って」と答えると、光忠も山鳥毛を見つめた。

一度に二人に見つめられた山鳥毛は、「ありがとう。そんな風に言われると、照れてしまうな」と言って赤くなった頬を掻いた。

私は山鳥毛が恥じらう姿が好きだ。思わず目を細めて「本当だよ。カッコいいよ」とさらに褒めると、やり過ぎだと言わんばかりに光忠が「ほら、ご飯も食べてね」と言って私を小突いた。

しばらく静かに食事していると、私にまだ視線を送られているのに気づいたらしい山鳥毛が、「小鳥は何か私に聞きたいことがあるようだな」と言った。

サングラスをかけて同派の刀を率いる姿は相当な強面だが、こういう気さくなところもあるのが憎い。山鳥毛は、彼を支えなければと思わせる不思議な力を持っている。

山伏は、彼といると、どちらかと言うと寄りかかりたくなる。

同じ刀剣男士でもこんなに違う。

「不躾なお願いなのだけど。山鳥毛さんの入れ墨に、触ってみてもいい?」

山鳥毛は私の目を真剣に見返して、「ああ。手でもいいか?」と答えて左手を差し出した。大きくて、でもとても綺麗な手だ。グローブで隠れているが、手の甲から腕の方まで入れ墨が入っているようだ。

山鳥毛の手を取って、腕の方にある入れ墨を撫でてみる。彼の体温は感じるが、熱くはないし、特に痛みもない。

いつまでも山鳥毛の腕を触っていると、「主殿」と声をかけられた。

「山伏、おはよう」
「あまりそう、ひとの肌に触れるべきではない」

声をかけたのは山伏だった。山伏は、山鳥毛の後ろから私を真っ直ぐ見下ろして言ったが、その手は山鳥毛の肩に置かれたので山鳥毛を咎めるような印象を与えた。

「これは失礼した」
「すみません、私が……」

山鳥毛は落ち着いた様子で詫びて、そっと腕を戻した。私のせいで彼が詫びるなんて良くないとは思ったが、山伏の燃えるような強い視線を前にして私は言葉を失ってしまった。

山伏は嫉妬深い神様ではないと思う。妬みや憎しみからはほど遠い。仲間と楽しそうに過ごしているか、或いは静かに瞑想している。山伏にこういう目を向けられるのを、おそらく私は一度も経験したことがない。

嫉妬でないなら、軽薄な女と思われた?

私は山伏から目を逸らし、やっと絞り出した声で「お皿、下げてきます」と言って席を立った。

私はちょっと、ショックを受けた。

怖くなっちゃった。

山伏が感情を露にした、それだけでこれほど動揺してしまう。

私は山伏を神様らしい神様だと思っていた。彼に刻まれた不動明王の入れ墨、彼の戦装束、『山伏国広』という御刀、それで私は山伏をいかにも神様らしい神様だと思って、自分は無条件に庇護される立場であると高を括っていたのだ。そういう傲慢な自分にもショックを受けた。

私が山伏を神様だと思うからそう見え、そうでない一面に触れても見ぬ振りをしていたのではないか。

流しには椅子に腰掛けて雑誌を読んでいるらしい燭台切光忠がいた。

「山伏を怒らせちゃった」

私の言葉に光忠は何も返さず、私の後ろへ視線を寄越した。

振り返るとそこには山伏がいた。先程感情を露にしていたのが嘘のように、いつもと変わりない山伏だ。ただ少し、申し訳なさそうに眉尻を下げている。

「あいすまぬ。主殿へ相応しくない物言いをしてしまったゆえ謝罪がしたく」

しゅんとした山伏は「それは拙僧が」と言って私の使った食器を受け取って流しに置いた。お詫びのつもりらしい。

こういうところを可愛いと思う。

でもそれは、私が怖がらないよう、山伏が努めてそのように振る舞っていただけなのかもしれない。彼の中には激情が渦巻いていて、山伏自身もそれと対峙しているのかも。

山伏が食器を洗い始めたので私は彼の横に立って少しだけ体をくっつけた。

山伏は濡れるのも構わず手甲をつけたまま洗い物をしている。光忠はまめに手袋を外しているのを見かけるが、山伏の手甲はほとんど外すのを見たことがない。お風呂上がり、もう寝るだけでというとき、同じ布団に入って私に優しく触れてくれた彼の手を思い出す。大きくて、熱くて、私を求める手。

「変なお願いしてもいい?」

山伏は食器を水切りかごに置いて、「なんであるか?」と大らかに聞き返した。

「山伏の、入れ墨を触ってもいいかな……」

山伏は「うむ」と短く返事して、袖をまくった腕を差し出した。

山伏の腕は筋肉質で、その肌にはまるで生きものが這っているかのような炎の入れ墨が彫り込まれている。山鳥毛とはやはり違う。触っているうちに、熱くなってきた気がして、私はそっと手を離した。山伏の入れ墨は今にも体の内からその身を焼き尽くしてしまいそうな迫力がある。

そう言えば歌仙は昼に入れ墨に触ってみればと提案してくれたが、どういう意味だったのか。

「僕、席を外した方がいいかな?」

光忠におもむろに声をかけられたので、私と山伏は目を見合わせて笑ってしまった。どうやら話しの続きは場所を移動した方が良さそうだ。

「ごめん。もう出ていくね」

私は用意してもらったお茶を持って、山伏と執務室へ行った。いつもなら朝食の後は今日やる仕事について歌仙から報告があるが、歌仙が訪ねてくる様子はない。何か察して時間をつくってくれたのかもしれない。

「主殿。先ほども、山鳥毛殿の腕に触れていたようであるが」

部屋で二人きりになるとさっそく山伏に切り出された。直球だ。ごまかしは効かないだろう。

私は覚悟を決め、山伏に座るよう促してから「そのことなのだけど」と話しを続けた。山伏の入れ墨が熱く感じること、それは山伏だけ特別であるようだということ、この問題をどうにか解決したいと思っていること。歌仙に相談したところ、昼間なら何か違うかもしれないと提案されたこと。

山伏は囁くように「主殿、抱き締めても?」と尋ねた。

拒否するべくもない。

山伏は膝立ちになって私を抱き締め、「主殿の心配事は、すべて拙僧の未熟ゆえのことである」と言った。

「拙僧の体を覆う、この炎。これは『山伏国広』に彫られた不動明王に由来するものであろう」

山伏は私から離れると、おもむろに服を脱いで私に背を向けた。そこには背中をすべて隠してしまうほど大きな不動明王が、世界に災厄をもたらすものすべてを牽制するようにこちらを睨んで座している。山伏が呼吸するたび不動明王とその身にまとう迦楼羅炎がうごめいて、まるで生きているかのように錯覚する。見事だ。真に迫るものがある。

私は言葉を失って山伏の背中に見惚れた。

「この炎は拙僧の身を焼く迦楼羅炎。拙僧の未熟さがこの炎を地獄の業火へ変えてしまうのである。まさか主殿までこの炎を熱いと思っているとは知らず、心配をかけ申した。あいすまぬ」

一体どんな顔でそんなことを言ったのか、背を向けられているから想像するしかない。

『山伏国広』に彫られた不動明王という神様の浮き彫りは、鋼に彫られたとは信じられないほどに緻密で、恐ろしく、思わず手で触れたくなるような美しさを持っている。触れれば何か願いが叶うのではと思わせる力がある。

山伏国広は人の願いを聞く側の存在だったのに。

山伏国広は美しい「祈り」の御刀だったのに。

山伏国広は刃こぼれとも錆とも無縁で、生まれたままの姿を愛され大切にされてきたのに。

今や山伏は自ら願いを抱き、祈り、そして人を愛そうとして苦しんでいる。戦って、その刀で誰かを傷つけて、自分の未熟さを知って、迷って、これだけ苦しんでいるのにまだ道は続いている。

私が彼を呼んだ。それで彼は苦しみを知ってしまった。でも私がやらなくても誰かがやっただろう。未来の見えない戦況、複雑化する情勢、政府を助ける刀剣男士は増え続けている。人の心に一条の救いをもたらすようにと生まれた『山伏国広』が、誰にも呼ばれないはずがない。

私は山伏の背中に触れた。

「今も熱い?」

触れたところから痛ましいほどの熱が伝わってくる。

「うむ。熱い」

私は山伏にぴったりくっついて、彼の体に腕を回した。ちょうど目前には不動明王が見えて、その余りの迫力に、彼の三鈷剣で私の体が切れてしまうのではと怖いくらいだった。でも離れ難い。

「この炎の熱さは、私が煩悩まみれだからなのかなって思ってた」

私の腕に山伏が触れた。手甲はすっかり乾いている。

「拙僧はこの姿で顕現した。山と修行と、筋肉を鍛えることが好きである。この体を覆う炎、背中に座す不動明王、それは入れ墨とは違う。このように在るよう、はじめから定められている。腕を切られ、肌が焼け落ち、肉体を失っても、主殿に呼ばれる限り拙僧は必ずまたこの姿で現れるという確信がある。何度溶かされ、何度鍛え直され再刃されても、拙僧の在りようは変わらぬ。それは主殿には責任のないこと」

山伏を苛むもの、それは山伏の在りようそのものだ。

そんなに苦しめるくらいなら顕現させなきゃいい。それだけのことで山伏は太刀として、所有者に大切に手入れされ、穏やかな時間を過ごせる。

でも私には山伏が必要だ。

彼の炎が、不動明王が、熱くても、苦しくても、山伏の肌から離れないのと同じように。まるでそのようにはじめから在るように。

歴史修正主義者との戦いを、他の男士がいるからいいや、とは割り切れない。

私には山伏が必要なのだ。

「責任ならある。私は山伏の主だから」

山伏が「カカカカカ」と笑った。背中から私の頭の中に直接響くような大きな笑い声だ。

「では、責任を取っていただくかな」

不敵な声音でそう言ったかと思うと、山伏は体を捻って私と向き合い、私を強く抱きしめた。そして、信じられないことに、山伏はそのまま私の首元にキスを落とした。私はいま山伏と触れ合えている。

この展開は……。

驚きつつも、私はこれをチャンスと思った。

「布団ひく?」

私が小さい声でそう言うと山伏は虚をつかれたような顔で私を見返した。

言った自分も恥ずかしくなる。

「それはまた夜に」

今度こそ私は恥ずかしさに顔を真っ赤に染めた。


 **


「この炎が熱くなるのは、私の心の持ちようなのかな」

私が尋ねると山伏は自分の腕に走る炎の一筋を撫でた。興奮すると色を濃くするそれは、確かに入れ墨とは違うもののようだ。生きた、彼の体の一部なのだ。

「拙僧が、主殿に下心を覚えると炎が熱くなるのは事実である」
「え?」
「歌仙殿が昼間に触ってみるよう促したのは、その為であろう。ただし、拙僧がこの炎を熱いと思うときと、主殿がそう感じるときは同じようでいて少し違う。それぞれの煩悩の形が違うように。今日、主殿と触れ合えたのは、主殿と拙僧が、互いを受け入れる準備ができたゆえかもしれぬなあ」
「心のことを言ってる? それとも体の?」

私が笑って尋ねると、山伏に片目をすがめて「両方を願うのは欲深いかな?」と返された。

それなら私だって欲深い。

生きることは苦しみに満ちている。傷つき、苦しみ、痛み、もがき、逃げる術はなく、立ち向かい、抗い、死ぬまで生きる。でも私たちも、刀剣男士も、苦しむために生まれてくるはずがない。そんなことあってはいけない。

私は熱いくらいの山伏の体に顔を寄せて、彼がいまここに存在することに感謝した。

「拙僧は、筋肉を鍛えるために修行している」
「え?」
「苦しむためではない。この筋肉で人々を救うため。誤った方法で人を傷つける者を止めるため。主殿と心を通わせるため。その歓びは何にも変え難い」

私は山伏の言葉に呆気に取られた。

それはそっくり私の考えていたことと同じだからだ。

私のための言葉みたいに、その言葉は私のこころの奥深くまで沁み入った。

「主殿。拙僧を顕現してくれたこと、感謝である」

山伏は八重歯を見せてにっこり笑った。

「山伏……。この本丸にきてくれて、ありがとう」

この歓びを得るために私は生まれた。

燃えよ煩悩、私は生きている。生きる苦しみ、生きる寂しさ、上等じゃないかしら。この煩悩がないなら、私は死んでいるのと同じだ。そしてこの苦しみはどこまでも私一人のもので、孤独だけれど、生きているひと、みんなどこか痛くてひとりで耐えている。

だから私は、今日くらいは痛みを忘れてこの歓びに浸ろうと思った。

Something's Got a Hold on Me

『Something's Got a Hold on Me』
Etta James(エタ・ジェイムズ)


※素人和訳です



Oh, sometimes I get a good feeling, yeah
そう、ときどき、最高の気分になるんだ
I get a feeling that I never, never, never never had before, no no
今まで、絶対、絶対、一度も、なかったような気分
I just wanna tell you right now that
早く伝えたいよ
I believe, I really do believe that
本当なんだ、本当にそうなんだ

Some thing's got a hold on me, yeah
そういうの頭から離れなくて
Oh, it must be love
それってきっと愛かもね
Oh, some thing's got a hold on me right now child
ねえ今も頭から離れないんだ
Oh, it must be love
それってきっと愛だよね

Let me tell you now
ねえ、言ってもいい
I've got a feeling, I feel so strange
この気持ち、なんか変な感じ
Everything about me seems to have changed
何もかも変わっちゃったみたい
Step by step, I got a brand new walk
踏み出す一歩、すべてが新しい
I even sound sweeter when I talk
話す言葉も優しくなって

I said, oh, oh, oh, oh, hey hey, hey yeah
言ったでしょう
Oh, it must be love, you know it must be love
それってきっと愛かもね
そうでしょ、きっと愛だよね

Let me tell you now
ねえ、言ってもいい
Some thing's got a hold on me, yeah
頭から離れないんだ
Oh, it must be love
それってきっと愛かもね
Oh, some thing's got a hold on me right now child
ねえ今も頭から離れないんだ
Oh, it must be love
それってきっと愛だよね

Let me tell you now
ねえ、言ってもいい
I've never felt like this before
こんなのはじめてなんだ
Some thing's got a hold on me that won't let go
そういうの頭から離れなくて、今もずっと残ってて
I believe I'd die if I only could
私たぶん死んじゃうと思う
I feel so strange, but I sure is good
なんか変な感じ、でも最高の気分

I said, oh, oh, oh, oh, hey hey, hey yeah
言ったでしょう
Oh, it must be love, you know it must be love
それってきっと愛かもね、そうきっと愛だよね

Let me tell you now
ねえ、言ってもいい
My heart feels heavy, my feet feel light
心は重苦しくて、足取りは軽くて
I shake all over but I feel alright
体は震えてる、でも大丈夫って思える
I never felt like this before
こんなのはじめてなんだ
Some thing's got a hold on me that won't let go
そういうの頭から離れなくて、今もずっと残ってて

I never thought it could happen to me
人を好きになるなんて
Got me heavy when I'm in misery
つらいときは、気分が重くなって
But I never thought it could be this way
でもこんなの考えたこともなかった
Love's sure gonna put a hurting on me
愛が私を打ちのめすんだ

I said, oh, oh, oh, oh, hey hey, hey yeah
言ったでしょう
Oh, it must be love, you know it must be love
それってきっと愛かもね、そうきっと愛だよね

Oh, you know it walks like love, you know it walks like love
歩くと恋人同士みたい
It talks like love, you know it talks like love
話すと恋人同士みたい
Make me feel alright, make me feel alright
気分は最高になって
In the middle of the night, in the middle of the night
そんな真夜中0時
La la la la, la la la la
ララララ…
La la la la, la la la la
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憂鬱なイデア・シュラウド/ツイステ夢

※twstBL
※イデア夢
※イデア×モブ寮生♂
※notイチャラブ
※イデアが経験豊富っぽい描写あります




イデアはボードゲーム部に所属している。ゲームをするためではない。ゲーム以外のことに時間を費やさないために。

イデアはボードゲーム部に所属してから暫くは部員とゲームをすることもあったが1か月もしないうちに誰ともゲームをしなくなった。イデアはゲームに負けるのが嫌いだけれど、負けっぱなしの人間はもっと嫌いだったからだ。

「イデアさんは、いま恋人いらっしゃいますか?」

いまイデアと将棋盤を挟んで話しかけてきた生徒はアズールという生徒だ。イデアが入部してから1年経ってやって来た。学年が一つ下で、タコの人魚だと言う。嘘ではないだろうがイデアはタコの姿のアズールを想像できない。

アズールは努力家で負けっぱなしを許さない負けず嫌いだ。アズールとボードゲームをするのは楽しい。アズールが入部してからはもっぱらアズールとゲームをしている。

アズールと話すのも嫌いではない。

でも今回の話題は嫌いだ。

「なんで? オタクに恋人がいるかどうか聞いてどんな商売するおつもりで?」

イデアは将棋の盤面から目を離さずそう答えた。

イデアは彼女がいるか、よく聞かれる。どうしてそんなことを聞きたがるのかまったく理解できない。彼女がいてもいなくても自分を笑うつもりなんだろう。だいたいオタクのそういう事情なんて聞いて気持ち悪くないのだろうか。

まさかアズールにそんなことを聞かれるとは。

イデアの攻撃的な返答にアズールは驚いた。怒らせるつもりはまったく無かった。実はイデアの言うとおりマドルの絡んだ話しなのでどうにか形勢を立て直したい。

「不躾でしたね、申し訳ありません」

アズールは眉尻を下げてイデアを見つめた。

人魚の涙には不思議な力があると言う。タコの涙にそんな効用があるとは聞いたことがなかったが、アズールの涙はイデアによく効く。

イデアはアズールの様子を疑いながらも、実際目の前でそんな顔をさせておくのも気が引けた。アズールは信用ならない。でもイデアにとっては数少ない気の置けない後輩だ。話しくらい聞いたっていい。

イデアは怠惰な人間が困っているのを見るのは愉快だが、努力家が困っているのを見ると放っておけない。ナイトレイブンカレッジでオルトと過ごすようになって自分のその傾向がより顕著になった自覚はある。

「いや、別に。……でもなんでそんなこと聞くの」

アズールは内心ほくそ笑んだ。

「イデアさんに興味を持っている方に頼まれまして。とってもかわいいオクタヴィネルの寮生です。それで、彼女は?」

イデアが動揺しているのを見てアズールは畳み掛けるのが良いだろうと踏んだ。直球勝負。ただし手の内すべてを明かすわけではない。

「えっ。あ、……それって」
「ご心配はわかります。何も相手がいないならすぐ付き合えってことではありません。ただひと言か、ふた言か、話せたらそれでいいと本人は言っています。いけませんか?」

イデアは「嘘だ」と思った。

でもそういう後輩がいるのは本当なんだろう。

イデアは迷った。いきなり直接会うのはちょっと怖いが、この部室の片隅でリバーシをやりながら話すくらいならかまわない。でも問題がある。イデアには先週まで交際していた先輩がいた。ボムフィオーレ寮生のシュルツという先輩で3か月ほどは付き合っていた。前触れなく別れたいと言われたのでイデアの方から別れたくないとすがったばかりだった。

イデアは一途な方だ。浮気はするのもされるのも絶対に許せない。

べつにシュルツのことを愛していたわけではないが理由もなく別れたいと言われたのはショックだった。シュルツも悲しそうに泣いていてとても別れたがっているようには見えなかった。

こんな状態でアズールの後輩と楽しくゲームしながらお話しするのはポリシーに反する。

もう別れているのだし浮気ではないのだけど。

「拙者なんかと会いたいなんて変わり者がいるのは有難い話しなんだけど、ちょっと今は時期が悪いと言うか……その子、少し待てないの?」

アズールは目を細めてにっこり笑った。

「もちろんです。都合が良くなったら必ずご連絡くださいね」
「は、はい」

その日の話しはそれで終わった。

再びその話しを持ちかけられたのは2週間ほど経ってからだ。アズールからの電話に出ると「会ってくださらないのですか」と切なそうに訴えられてイデアは参ってしまった。

イデアだって現状を打破したい気持ちはある。でもあれからシュルツにしつこく電話したが一向に折り返しがないままになっていたのだ。

アズールからの電話を切って、イデアは立ったり座ったりしながら考えた。また電話するか。いやいやこれまでも何回かけても出ないし返事もなかった。これ以上続けても明らかに迷惑行為だし警察に届け出されたら捕まる自信がある。今回のことに限らずイデアからは叩けばホコリが積もるほど出る。接近禁止命令が出てもおかしくない。

考えるうちに夜が明けていた。

これはもう次の手に出るしかない。イデアの不健康な色合いの口からは思わずため息が漏れた。

シュルツに直接会うほかない。

この選択肢はずいぶん前からイデアの頭にあったが選ばなくて済むならそうしたかったので目を背けていた。イデアは極度の対人嫌悪でアズールなどの親しい人以外と直接話す機会はとことん避けている。

イデアは再び大きいため息を吐いた。

意を決した。久しぶりに登校するのだ。靴下を履くのも久しぶりだ。イデアは寮内では裸足でいることが多い。

校内には驚くほど人がいた。

最悪だ。

光がまぶしい。

人が多すぎる。

珍しく生身の体で登校しているイデアは奇異の目にさらされながらそんなことをブツブツつぶやいていた。自分の授業に出るでもなくタブレットとドローンを駆使してようやくシュルツを見つけ出した頃にはちょうど昼休み前の授業が終わる時間になっていた。

我先に食堂へ向かおうとする生徒たちはドアの前に立つイデアに驚いた。青く燃える髪を初めて見る生徒も少なくない。それでも、見たことはなくても一目でわかる。

「イデア・シュラウドだ」

誰かが言った。

その声はイデアには届かなかった。イデアは人目を避けることも忘れて親の仇でも探すかのように生徒の一人ひとりを睨んでいる。姿勢悪く背を丸めて、目の下の隈はひどく目つきも悪い。

生徒はぎょっとしてイデアを見るが、余りの迫力にすぐ目を逸らして足早に去って行く。どうしたの、などと声を掛ける者はただの一人もいない。

ようやくシュルツが教室から出てきてイデアに目をとめた頃には生徒はほとんどいなくなっていた。

シュルツは大勢で騒ぐより少人数で静かに過ごしていたいタイプだった。シュルツ自身も物事にのめり込む性質があり、イデアがするゲームの話しにも理解を示して熱心に耳を傾けてくれた。そんなことがふと思い出されてイデアは余計に険しい顔をした。

シュルツはというと突然のことに口を開けたまま固まっていた。ポムフィオーレの寮長が見たらだらしないと怒るだろう。

イデアはシュルツの腕を掴んだ。

「フヒ、急に来て驚いた? もう僕とは話すことなんてなんにもないよね、うん知ってる。あと何回も電話かけちゃってすみませんね。着歴すごかったでしょキモすぎでしょ。でもそういうのわかってて付き合ってくれてたんじゃないの。まあいいけど。一応けじめ付けたいし。このままってのも気分悪いし。もう一度ちゃんと話したいんだけどそれも無理?」

シュルツはイデアの煌々と光る瞳に射すくめられた。

ひどい顔だ。綺麗な顔が台無しだ。ゲームで徹夜した翌る日でもここまでではなかったろうとシュルツは思った。

でもやっぱり綺麗だとも思った。

端正な顔立ちが憂いを帯びてこの世のものとは思えない色気を生んでいる。シュルツはこの近寄り難いほどの妖しい雰囲気をまとうイデアが自分を求めてくれるのが好きだった。

今だって嫌いではない。

むしろ好きだ。

シュルツはイデアが憎くなって別れたいと言ったのではない。イデアの愛が自分にないと思い知ったから別れたくなった。

シュルツは周りに誰もいないのを確認して口を開いた。

「無理じゃ、ないけど。あの、今からってこと?」

シュルツからの返事にイデアはその場で座り込みたいくらい安堵した。今まですっかり無視されていたので今日も無視されるかもしれないと覚悟していた。

「どっちでも。せめて電話かメッセージちょうだい」

イデアはすっかり目的を果たした気になっていた。

逃げることを許さないようにシュルツの腕を強く掴んでいた手をあっさり離してイデアが立ち去ろうとしたので、慌ててシュルツが引き止めた。

「今話したい!」

ちょうどシュルツが先程まで使っていた講義室を覗くと誰もいなかったので二人は電気もつけずに席についた。イデアが先に奥に座ったのでシュルツは一つ空けた隣に座った。昼休みということもあって唾を飲む音が聞こえるほど静かだ。

いざとなると言葉が見つからずイデアは黙り込んでいる。

「そういえば、これってまだGPS入ってるの?」

シュルツは携帯端末を出して冗談っぽくそう言った。付き合い始めたときアプリを入れられてイデアに位置情報が送信されるようにしたのだ。詳しいことはシュルツにはわからないが、別れ話をしたときにはそれどころではなく、アプリもそのままになっているのを思い出した。

「アヒ、あ、それ。消し、消します。ごめん」
「いやそれはべつに、いいんだけど」

実際はすでに位置情報は送信されないように設定が変えられている。別れたいと言って去ってしまった元交際相手の位置情報を理由もなく取得するほどイデアも悪趣味ではない。

イデアは机に置かれた携帯端末を見てから、シュルツに視線を移した。イデアのことを眺めていたシュルツと自然と目が合う。

シュルツはイデアの髪の毛先が赤っぽくなっていることに気づいた。

イデアの髪は燃えている。普段は真っ青だが、照れると桃色になるのがシュルツは好きだった。なんて美しいのだろうと思っていた。青から桃色へのグラデーションはイデアの黄金色の瞳と合わさると印象派の絵画の世界から出てきたみたいに非現実的なほど綺麗なのだ。

こういう赤っぽい色は見たことがない。

普段と違う部分があるのだろうか。体調が悪いとか。廊下にいたときにはまだ青かったはずだが。

「それで」とシュルツが言おうとしたとき、イデアが急に立ち上がった。

「ねえ」

イデアは表情の無い顔でシュルツを見下ろした。イデアの髪はみるみる赤くなっていく。

シュルツは本能的にこれは良くないことだと感じた。

「なんでいっこ空けて座るの?」
「え?」

イデアは一歩前に出てシュルツに触れるほど近寄った。近すぎてシュルツからはイデアの胸の辺りまでしか見えない。いつもより何トーンも低いイデアの声が上から降ってくる。

「僕のこと嫌いになった?」
「イデア君、髪が……」

赤くなった髪は荒々しく燃え上がっていた。

イデアは怒っているのだとシュルツは察した。

「髪? 話し逸らすなよ。僕と話すって言ったよね。僕の何が嫌いになったの。髪が燃えてて陰キャで引きこもりのオタクだからとか言うなよ。それわかってて付き合ったんだよね」

イデアの髪は勢いを増して燃料を得た炎のように燃え広がっている。普段は触れても熱くないイデアの髪だが、今は触れれば火傷しそうに思われた。

「隣に座ると緊張するから!」

シュルツは思わず大きな声を出してしまった。

「イデア君、あの。もちろんそういうのわかって付き合ったよ。席空けて座ったのはごめん。でも隣に座ったら付き合ってたときのこと思い出しちゃうから。それだけ……」

シュルツは恥ずかしさで顔を赤くした。反対に、視界に入るイデアの髪は少しずつしぼんで青っぽくなっている。

イデアはたまらず身を屈めてシュルツのうなじに手を添えた。シュルツの髪は柔らかくて指通りがよくて自分のものとはまるで違う。その柔らかな髪からはよく知っている香りがする。付き合っていた頃と何も変わらない。頬を赤くしたシュルツの様子は自分を嫌っているものとは到底思えなかった。

ほかに事情があるのかもしれない。

イデアにも心当たりはある。家のこと、将来のこと、オルトのこと、この燃える髪と呪われた血のこと。何もかも捨てて望んだ仕事に就いて好きな人とただ暮らしていくことはできない。

イデアは改めて自分はなんて面倒な男だろうと思った。そしてシュルツのことをどうしようもなく愛しいと感じた。シュルツはこんな変な自分を受け入れてくれた。

でもその彼が望むなら。

シュルツが別れたいと言うなら。

イデアはシュルツに触れながらだんだん別れの覚悟ができてきた。学校は人が多くてしんどかったけど会いにきてよかったと思った。

イデアの長い指で優しくくすぐられて、シュルツは耳まで赤くした。

せっかく離れて座ったのに。

シュルツは目を閉じた。イデアを制止する言葉をかけられないのは、彼の指が心地いいからだ。自分から別れたのにこんな風にイデアに触れてもらえることが嬉しい。

「どうしても別れるの?」

イデアが切ない声で尋ねた。

シュルツは立ち上がってイデアに抱きついた。

「はい」と言えばこの関係は本当に無くなってしまうだろう。イデアは自分と付き合っているあいだ、他に親しい人の気配をまったく感じさせなかった。イデアに友達がいないという以上に、彼自身が人付き合いを拒んでいるからだ。たぶん別れたら復縁の機会は完全に失われるだろう。

イデアとシュルツでは互いに才能のある分野も興味あることも生まれも育ちもまったく違う。そんな二人が学校を卒業して、この先の人生で接点を得る可能性は限りなく低い。

イデアの恋人であるというのはなんて心地いいのだろう。付き合っているあいだ彼には自分だけだという絶対の安心感があった。将来有望で魔導工学の分野では知らない人はいないほどだという。見目麗しく、時折育ちの良さを感じさせる。外出先で彼がフォーマルな服装で自分をエスコートしたときに集めた観衆の目のなんと甘美だったことか。

シュルツは葛藤した。イデアとの交際は終わりにしろと感情は訴えるが、打算的な自分は他の道を模索しようとする。

ああ、でも。

イデアは自分を大切に扱ってくれるだろうけど、決して愛してはくれないのだ。シュルツはそう思い知った日のことをはっきり覚えている。

その日は二人でシュルツの部屋のベッドに寝転がりながら、ファーストキスについて話していた。そこでイデアは彼の父に言われたという『アドバイス』を教えてくれた。

イデアがナイトレイブンカレッジに入学する前のこと。

イデアは小さい頃は恥ずかしがり屋で家族の前でもよく顔を赤くして、ほとんどの時間ピンクがかった髪色をしていた。髪が青くならないのは健康上の問題が原因ではと心配されたほどだが、成長するにつれ髪の色は青くなり、ときどき毛先が色を変える程度になった。そしてイデアの容貌の美しさはそんな小さい頃から際立っていた。

美しい容姿と控えめな性格の少年は一部の女性に好まれた。彼女たちはイデアが子どもだとわかって近づいてくる。

イデアが母の身長を超えた頃、父がわざわざ部屋へやって来てイデアに言って聞かせた。

「イデア、よく聞いて」
「なに」
「イデアはこれから先、女性とデートしたりすると思う」
「え?」
「気になる子ができて、もっと仲良くなりたいと思うのは当たり前のことだから」

イデアは市販のAIロボットを改造する手を止めて父を見た。ビックリして配線を傷つけてしまいそうだったからだ。

「気になるロボットは分解したくなるみたいなこと?」

イデアはジョークのつもりで言ったが父はまったく取り合わなかった。父はあくまで真剣な眼差しでイデアをじっと見ていた。イデアが変なジョークで真剣な話しを茶化すのはよくあることだった。

「これから女性とデートしたり、二人きりで会ったとき、手を握ってほしいとか、抱き締めてほしいとか、お願いされることがあると思う。もしかしたら、キスとか、それ以上のことも」
「セックスの話し?」
「違う」

父の余りの気迫にイデアはようやく観念した。手袋を外して作業台に置き、父と向き合った。

「イデア。よく聞いて。女性を傷つけてはいけない。女性はイデアのことを好きになって、なんでもしてくれると言うかもしれない。でもね、イデアが同じようになんでもしたいと思えないうちは、決して女性の好意に甘えちゃいけない」

イデアは父の気迫に押されて「はい」と答えた。

「僕のことそんなに好きになる人はいないと思うけど」

イデアは手遊びしてそう呟いた。

「いるよ」

父は優しく答えてくれた。

イデアは家族に愛されている自信がある。イデアの知能が高いことを敬遠しないで、仕事のことも隠さず話してくれる。父や母が近くにいてくれるとき、イデアは自分が全能の神になったような、全宇宙に存在を肯定されているような気持ちになれる。『作品』をガラクタと思われて廃棄されたことは何度もあるが、両親に好奇心を否定されたことは人生においてたった一度だけしかない。

父に甘えて優しい言葉を強請ったようで、イデアは恥ずかしくなり毛先を少しピンクにした。

「お父さんが子どもの頃はよく怒って髪を真っ赤にしてた。すごく怒りっぽくて周りを怖がらせてた。イデアの髪はいつも優しい色をしてる。イデアが好きになった女性に、同じように好かれるように、これからも優しいままだといいんだけど」

父はイデアの髪を見ながら言った。

「それはよくわかんないけど。女性には優しくしろってこと?」
「違う」
「ぇえ?」
「一生のうち、一人の女性にだけ優しくすればいいということだ。イデアが愛して、キスして、セックスしたいという女性は、ただ一人だけにしなさいという話しだ」

イデアは得心した。

最近女性から手紙をもらうことがある。同い年くらいの女の子のいる家族を招待してお茶会のようなものを開くので、気に入られると手紙が届くのだ。どこで会ったかまったく思い出せない人からも届く。イデアはそれに返事をしたことはないが、女の子の印象がどうだったかは家族によく聞かれた。

これは忠告だ。

好意を向けられても手を出すなと。

「わかった」
「ほんとうに?」
「女の子とのキスはちゃんと大切にとっておく。僕が一生ずっと一緒にいたくて、なんでもしてあげたくなるような女の子のために」

イデアが大真面目に答えたので父はかえって驚いた。それでも笑わずに「そうそう。そういうこと」と言って、部屋を出て行った。

イデアはそのことを今でも心に留めている。だから未だに女性とキスしたことはない。もちろん手をつないだりハグしたりもない。これから先、心から愛して、自分も愛されたいと思ったときの、そのたった一人のために取ってある。

シュルツはそれを聞いて唖然とした。

イデアとはキスもしたしセックスもしたというのに、イデアに面と向かって「ファーストキスはまだ」と言われたのだ。返す言葉が見つからなかった。

イデアにとって自分は、『愛』の外側にいるのだと思い知った。

たぶんこれから先もそうだろう。

イデアと付き合う前、自分が彼とこんな関係になるとは思いもしなかった。それにイデアがこれほど愛情深いとは。別れ話のために学校に来たイデアに別れたくないと言い寄られたなんて、おそらく友人やクラスメイトは信じないだろう。自分でも信じられない。イデアは少なからず自分のことを好きでいてくれた。

でもダメだ。

イデアは自分を愛さないと知ってしまった。

何かいい方法があるかもしれない。たとえばイデアに近づく女を一人残らず排除すれば、自分は事実上イデアの一番になれる。いっそ自分の体を女性にする魔法薬を飲んでしまうとか。イデアがもっともっと離れ難くなるように、もっと美しく、もっともっと自分を磨くとか。

そんな考えがどうしても頭をもたげる。

でもダメだ。

シュルツは自分の心の内にある奮励の精神を恨んだ。こんなときまで頑張ろうとしなくていい。

シュルツはイデアにくっ付けていた体を離して「うん。別れたい」と改めて伝えた。

イデアはそれを聞いて完全に諦めがついた。諦めることには慣れている。教室から出て行くとき最後に振り返ったシュルツを見て、本当に好きだと思った。でも諦めることにした。そうするしかない。

イデアの人生は諦めの連続だ。

この燃える髪。嘆きの島。魔導工学のこと。人間とのコミュニケーション。オルトのこと。

本当に憂鬱になる。

イデアは静まりかえった教室でタブレットを机に置いた。そしてアズールにメッセージを送る。

「いろいろ片付いたんで時間つくれるようになりました」

アズールからすぐに返信が届いた。イデアはその返信の速さに、よほどマドルになる案件なのだろうかと思えて笑った。こういうところもアズールは付き合いやすくていいとイデアは思っている。アズールの思想は一貫していてわかりやすい。

イデアは僕に会いたいなんていったいどんな子なのかな、と思いながらアズールにまた返信した。

諦めることには慣れている。

だからせめて自分が楽しいと思えることに時間を費やす。

イデアは遠くで活気を取り戻しつつある楽しげな笑い声を聞いて、背中を丸めて教室を出た。

イグニハイドに戻る途中、タブレットのメモ帳を開いて、教科書に書いてあった小さなコラムからオルトの新しい換装パーツのアイデアを得たことをイデアは思い出した。シュルツに別れたいと言われてすっかりそのままにしていた。帰ったら何時間か寝て、そのアイデアを固めよう。

きらきら光る太陽を青く燃える髪に反射させ、イデアはひとり、フヒヒと笑った。
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