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穴があったら入りたい

蛍路に手紙を見せると、予想通りの反応を見せてくれた。

「マジか」

『マジ』なのは俺の手元にある手紙のことだ。昨日告白して来た男からのラブレター。下駄箱に入っているところがなんとも古典的で面白い。内容は当然俺への愛の言葉で埋められているが、紙はただのルーズリーフだし字は綺麗だけど男の字という感じで可愛らしさは無い。

「仁志の愛を、受け止めて来るわ」

仁志は俺のクラスメイトらしいけどはっきり言ってどんな男だったか覚えてない。

だけど俺は一目惚れしてしまったのだ。

あいつの天然記念物級の大ボケに。

「お前ねー、マジな話さ、普通に女と付き合った方がいいよ」
「それってココでする話なん?」

ここは学校の玄関で、遅刻寸前の駆け込みでそこそこ人通りがある。

蛍路の言いたいことは分かるけど、分かるのはほんのちょっとで、それは俺が蛍路を理解しようという心意気があるからだ。ぶっちゃけ蛍路と付き合ったのも好きとかそういう感情からではないし、俺的には楽しければそれでいい。

シリアスっぽい雰囲気を察知した俺はだから蛍路を牽制した。

「あー、じゃあとりあえず仁志ってのと会っとこう」
「そうそう。ダチってことで挨拶しとけって」
「ダチかあ」

元彼の方がいいっすか。

俺はいきなり修羅場になるのかと身構えたけど蛍路はころっと態度を明るくした。こいつがダチとかそういう言葉を好きなことは仲間内では有名である。

「見た目的にはね、ちょっと、そこも面白いとこなので、期待しちゃってオーケーよ」
「マジー?」
「あ、あれかな」

教室に着くと俺は仁志のところへ向かった。

蛍路は俺とはちょっと離れたところでそれを見物している。俺は「仁志くん、おはよう」とかそんな風に声を掛けたけど、どうもおかしい。

「野口」

え?

聞いたことある声だと思ったら、隣に仁志がいた。俺が声を掛けたのは全く関係ない奴だった。

蛍路を見ると完全にめんどくさそうな顔をしていたので俺は笑ってごまかしておいた。

「あー、仁志くん、おはよう」
「お前いま人違いしたのか」
「昨日のことさ、ちゃんと話そうと思って」
「俺の顔も覚えてないのか」

仁志はけっこう怒っていた。

ここ最近では誰も俺を真面目に怒らないのでかなり新鮮だ。新鮮過ぎてリアクションできない。そんなところもムカつくのか仁志は相当怒った感じで俺を睨んでいる。

俺はとりあえず笑っておいた。

「ジョークじゃん。怒んなって、ね?」
「そういうジョークは好きではない」

仁志はそのまま廊下の方へ歩いて行った。蛍路の横を通り過ぎて、俺も仁志を追い掛ける。

「この手紙さ、ありがとう」
「もういい。忘れてくれ」
「怒んなって。ジョークっつってんじゃん」

仁志は突然立ち止まって振り返った。

「なあ」

俺は仁志と正対した。授業の始まった廊下は静かで時間が俺たちを残して行ったみたいだった。

「お前、本気じゃないならそんなもの破って棄ててくれ」
「えー、それはどうだろう」
「俺は男だ。泣いたり陰口を叩いたりはしない」
「もう絶対間違えないよ、おれ」
「間違えてもらって一向に構わない」
「ごめんって」
「俺はお前にチョコレートを渡されてからお前のことをよく考えた。それで俺はお前が馬鹿でもいいと思ったが、それはお前が本気だと思ったからだ」
「いまは、けっこう本気だよ」
「それなら俺に示せ」

はあ?

俺はビビった。正直かなりビビった。

「示すって…」

仁志は真顔だった。俺は笑ってられなくなって仁志を見返した。昨日まではもっと笑える雰囲気だったけど今は全く状況が違う。

「今のままだと俺のことを蔑ろにされている気がして、とても普通には付き合えない。俺は野口とのことを真剣に考えたのにすごく気分が悪い」
「ないがしろとか、してないよ」
「それを俺に示してくれ」

示すってなんだよ。

蛍路がしたようにすればいいの?

わかんない。

「俺はただ仁志くんのこと好きなんだよ。なんで分かってくれねえの」

俺は馬鹿みたいに真っ直ぐに仁志に言った。ちょっと泣きそうになってたと思う。仁志の目は真っ直ぐ俺に向いてるから俺だって笑ってられなかった。

仁志はふと笑った。

「俺もだ」

仁志の言ってることはよくわかんなかったしなんか違うって気もしたけど、仁志が笑うのを見たら全部忘れた。急にキレ出して意味わかんないって思ったけど、その笑顔はそういうことをみんな吹き飛ばしてくれた。

『俺もだ』

仁志の言葉が頭を巡る。ぐるぐる回って出口を見付けられずにいる。ふわふわする。どきどきする。くらくらする。

俺は仁志と両想いなんだと思った。

こんなこと初めてだ。

「それって付き合うってこと?」
「ああ、異存がなければ」

仁志は笑った。静かな廊下に俺の心臓の音が響いてるんじゃないかと不安になるくらい俺は仁志の笑顔にハートを撃ち抜かれていた。

「俺ね、仁志のことけっこう好きだわ」

俺はそれだけ言うのも一苦労だった。緊張して手が震えた。恥ずかしくて仁志の目を見られなかった。

教室に戻ろうとしたとき、そこに男が居ることに気付いた。それは蛍路だった。

蛍路は信じられないと言う風に目を見開いている。

最悪だ。

なんてことだ。

俺はマジの愛の告白をいい加減な気持ちで付き合っていた友達に聞かれていたのだ。興味本位で付き合おうとしていたのに、本当は俺がマジで一目惚れしていたことを知られてしまった。

恥ずかしい。

顔が熱い。



曰く、“穴があったら入りたい”。
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A Thousand Miles

会いたいの
貴方に呼ばれたら、1000マイルだって歩くわ
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後は野となれ山となれ

野口はへらへら笑って今日あったことを話している。

クラスメイトに告白されたというのだから景気のいいことの様だけれど真相は違う。告白してきたのは仁志という男で、ホワイトデーだからとチョコを渡されたと言うのだ。

「いやー、俺的には笑えないよ?」

野口は整った歯並びを見せて笑いっぱなしだ。

「笑えるっしょ!」
「笑えないっしょー……」

はっきり言ってホラーみたいな話だと思う。ストーカーとかその手の雰囲気を感じる。

「仁志くんホモってことじゃん?」
「おもろいのはソコかい」
「おもろいのは、俺って男にもモテモテっつうところよ」

うーむ。

やっぱり全く笑えないんだけど。

「まあね、俺が笑えるとしたら、今日が3月15日ってとこくらいだわ」

野口はそれを聞いて寧ろ笑うのを止めてちょっと驚いた顔を俺に向けた。

「今日、ホワイトデーじゃないじゃん」
「そうなるわな」
「何ソレ!」

野口は再びぶっ壊れたオモチャみたいに「ウケるー」と言って笑い出した。野口はいつもへらへら笑うくらいで、今ぐらい爆笑することは滅多にない。だからこそ俺としてはそれも込みでホラーだった。

「ウケてる場合じゃないっしょ。チョコ受け取ったらヤバいんじゃねえの?」
「いやあ、ノリで」
「両想いとか思われてたりして」
「思ってんじゃないかなー」
「え」

ますます怖い。

野口も怖い。

「ちょっと電話してみよ」

野口は酷く楽しげにスマートフォンを操作した。そして暫くして「あっ」と呟いて俺を見た。

「今度は何」

お前が今度は何を言い出すのか、俺はけっこう本気で怖いんだけどね。たぶん野口は俺のことはどうでも良くなってんだろうね。

「仁志の番号知らなかったわ」

ああ、そうだろうな。

「だってお前仁志とかいうのと全然話したことないんだろ」

野口はまた爆笑し始めた。

野口は確かに今までも享楽主義っぽいところが強かったし、楽しければ何でもオッケーな奴だった。俺と付き合うとか言い出して、しかも最後までヤっちゃったのなんて俺的にはけっこうキツいネタなんだけど、野口はそういうことを簡単に言い触らすから口止めするのが大変だった。

「おもろすぎて、苦しい」

野口は文字通り腹を抱えて笑い転げている。

「笑ってる場合かい、マジで」

お前、まさかとは思うけど。

「明日さ、学校で、仁志が本気だったら、たぶん付き合っちゃうわ」

まさかとは思うけど。

「えー、それって」

まさかとは思うけど。

「ごめん。でも仁志がおもしろすぎて」

俺とは別れるってこと?

「それは、いーけど」

良くない。全然良くない。

仁志とか言う変態野郎に野口を取られたってことじゃん。すげームカつく。俺が野口を好きとかそういうことじゃないけど、でもすげームカつく。

「見てコレ」

笑い過ぎて震えている野口の手にはチョコレートがある。メルヘンチックな箱に可愛らしく包まれたそれは、高確率で手作りの愛情チョコレートに違いなかった。

「なにコレ」

それには俺も爆笑するしかなかった。



曰く、“後は野となれ山となれ”。
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室生 悠夜

訓練してもリュウには追い付けないんだと僕は思った。何をしても完璧なリュウがボロボロで帰って来る度に、僕は恐怖に呑まれた。

「死んだかと思った」

僕は本当にそう思った。

澤口司令はリュウを気に入っているけれど、それで僕たちを甘やかす人でもないのは分かってる。

それに、甘やかされたら僕たちは生きる意味を失う。

リュウは僕の頭を撫でた。

「俺が死んでも泣くなよ」

人間とは思えないくらい綺麗なリュウが死んだら、きっと偉い天使が迎えに来るんだろう。それで天使にスカウトするのだ。神様の世界には時間がないだろうから、ミケランジェロが天使になったリュウを壁画にしたり宗教画にしたりしたのかもしれない。

リュウが死んだら僕は泣くだろうか。

僕が死んだらリュウは泣いてくれる気がする。

リュウは僕の癖っ毛で纏まりのない髪を梳かしてその感触を楽しんでいる。トシも僕の髪を触るのが好きたけれど、リュウはそれとは少し違う。

リュウは僕が淋しがりで怖がりなのを知っている。

僕が子どもの時、母は妹を虐待していた。妹が泣く力もなくなった時、母は僕の頭を撫でた。頭を撫でられると当時のことを思い出して辛い筈なのにとても安心する。僕は頭を撫でられるのを嫌がったけれどリュウは止めなかった。

今僕は頭を撫でられるのが嫌ではない。

「僕が死んだら、泣いてね」

僕が言うと、リュウは「そうだな」と優しく答えた。

File:ロスト・ワン

 榎本さんは仕事がとても丁寧だ。少し時間が掛かるので駄目だと言う人も居るけれど、榎本さんの作る資料はすごく綺麗で見やすいから私はよく仕事をお願いしていた。
「あの、これ昨日の報告書です」
「ありがとうございます」
 報告書は簡潔で見やすくて注文以上の出来映えだ。私はそういったセンスが無いので、こういうのを見ると感動する。思えば小学生の頃から工作や絵が苦手だった。
「どうでしょうか」
「大丈夫です。ありがとうございます」
「あ、あの、良かったです」
「榎本さんの作る文書好きです。またよろしくお願いします」
 頭を下げて言うと榎本さんはおどおどして視線を泳がせた。
「あの、私、契約が切れて、今月で」
 榎本さんは私を見ずにそれだけぼそぼそと話している。声がはっきりしないのでよく聞き取れない部分もあるけれど、今月で契約を終えたらしいことは分かった。榎本さんにとってそれがどういう意味を持つのかが分からなかったので、私はどう返答すべきかと困ってしまった。
「じゃあ、ひょっとしてこれが最後の仕事だったんですか」
 明日が末日だけれど、明日だけでできる仕事はほとんど無い筈だ。そうでなくても書類整理やコピーばかりやらされていたし、よく考えれば榎本さんの契約が延長されなかったのは道理だ。
「あ、はい。明日は有給で、来ないので。今日で最後です」
 長い前髪に遮られて榎本さんの表情は見えなかった。私は榎本さんといて、俯いて話すからこんなに聞き取りづらいのかとか、自分も注意しようとか考えていた。榎本さんとプライベートで仲良かった訳ではないし、特別悲しいとは思わないのだから仕方ない。
「あの、ちょっとでもお役に立てて、嬉しかったです」
「ああ、それは、こちらこそありがとうございました」
「本当に、嬉しかったです……」
 私は榎本さんに同情したのだろうか。
 榎本さんが遂に一度も私と目を合わせないまま立ち去ろうとしたので、私は思わず声を掛けていた。そして連絡先を交換し、外で会う約束をしていた。


 アドレス帳にある『榎本』の字に、私は自分で面倒になったなあと思ったのだった。

後の祭

1日遅れて渡されたらそこに込められた気持ちまで全く異なってしまうのだろうか。7月8日に揺れる短冊はただの紙切れなのだろうか。

俺はそうは思わない。

先月、バレンタインチョコレートを貰った。

「準備はできた」

今日はバレンタインデーの返事をする為にチョコレートを持って来た。俺に残されていることは野口に会ってこれを渡すこと。至って簡単なこと。

「仁志?」

声のする方には長身の男が立っている。細身の身体を制服に包んで、黒縁の眼鏡を掛けた男。へらっと笑った拍子に黒っぽい石だけのピアスが光った。

「野口、早かったな」

彼こそが俺にチョコレートを渡した男だった。

「いやー、仁志くんに呼び出されるとは思ってなかったわあ。なんの用なん?」

野口は茶髪にピアスで俺の苦手とする人間だけれど、その彼が俺に好意を寄せていると分かった時は嬉しかった。野口について聞いたところ生粋のサディストだと多数の人間が証言したけれど、この爽やかな笑顔を見るに何かの誤解だろうと結論付けた。

「これ、野口に」
「ん?」
「ホワイトデーの」

野口は眼鏡を通しても分かるくらい目を見開いた。

「えー、まじか。俺に?」
「うん」
「俺ねー、いまチョービックリしてるわ」

野口の口は半開きだけれど、シャープな輪郭と綺麗な口元が決して彼を間抜けには見せない。いい男は得だな。

「分かってる。先月は俺も驚いたからな」

返事が来るとは全くもって思っていなかったらしく、野口はとても動揺している。けっこう乙女っぽいところあるんだなあと俺は感心した。

「一応なんだけどさ、確認してもいー?」
「何」
「これは、仁志って俺のこと好きとかそういう感じ?」

野口はにこにこ笑って尋ねてきた。

「まあ、嫌いじゃない」

あの日までは違ったけれど、野口みたいな頭が軽くて軽率で社会の風紀を乱していそうな同年代の奴は大嫌いだったけれど、そんな人間でもこういう真剣な一面もあるのかと思うと、まあ、嫌いじゃない。

「おっけー、おっけー。了解です」
「了解っていうのは……?」

付き合うってことか?

「あー、ちょい待ってもらえる?」

野口はそう言いながら教室を出て行ってしまった。笑うと八重歯が覗いて、前はそんな趣味なかったけれど八重歯の良さが少し分かった様な気がした。

こんな風にお互い一歩ずつ歩み寄るのも悪くない。

野口はなかなか戻って来なかった。

もしかしてチョコレートが嫌いだったのだろうか。或いは、ホワイトデーに返すもので返事の意味が変わるというのを聞いたことがあるし、そういう部分が引っ掛かっているのかも。俺はバレンタインの礼儀には不案内だし、知らず知らずの内に野口を傷付けていたりして。

俺ははっとした。

これからって時に早速恋人を傷付けてしまった。なんて男なんだ、俺は。

野口は見た目はチャラチャラしているけれど実は内面は純粋できっと今頃俺のしたことで色々と悲しんでいるのだ。

俺は野口を追い掛けようと教室を飛び出した。

今日は3月15日だ。

1日遅れでバレンタインのチョコレートを貰ったから、ホワイトデーも1日遅らせてしまったけれど、それがいけなかったに違いない。男同士は1日遅らせる習慣があるのかと思い込んでしまっていた。

とんでもない失態だ。

俺は俺を好いてくれている野口に酷い仕打ちをした。

謝ろう!

そして俺たちの関係はこれからだと伝えよう!

廊下を全力疾走したお陰であっという間に下駄箱に辿り着いた。そして靴を履き替えてから俺は重大な事実に気付いた。

野口は何処に行ったんだ?

嗚々、なんだかとても切ない気分だ。

連絡先も知らない俺は、野口の下足入れに書き置きをして家に帰ることにした。
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京香

教授と呼ばれているヘンリーはパーティーには参加していなかったらしく、私たちはデューリトリの案内で彼の屋敷へ直接向うことになった。

屋敷では一度使用人らしい女性が顔を出してから教授が現れた。教授は見た目や言葉遣いや物腰はとても紳士然としている。しかし、デューリトリに続いてゴアとへスターが挨拶すると明白に態度を変え、それはとても紳士的とは言えないものだった。

教授は貴族ではないんだろうなあと思った。なんとなく。

「珍しいお客様だ。貴族様」

教授はまずゴアに声を掛けた。

「妖精の様に可憐なお嬢様が言語学に興味があると言うのでね。邪魔であったか?」
「いいえ。どうぞ中へ」
「ああ、失礼するな」

教授はゴアの言葉にとても嫌そうに首を振った。ゴアは教授の態度は気にも留めず屋敷の中へ入っていった。

「ようこそ、略奪王」

教授は次にへスターへ声を掛けた。へスターは慣れているのか皮肉にも言い返すことなく悠々と頭を下げた。

「次は魔物ですか」

教授は最後に私を見た。しかしその視線には見せ物を見る様な興味本位の色も、見下す様な色もなかった。

「京香と申します。お会いできて光栄です。突然のご無礼をお許しください」

これ以上機嫌を損ねられると困るので、知っている限り一番丁寧で上品な挨拶を心掛けた。スカートの裾を摘まんでやや腰を落として柔らかく頭を下げる。

「ようこそ、お嬢様」

私の思い違いでなければ教授はにこやかに私を招き入れてくれた。

屋敷に入って直ぐの部屋は客間らしく、美しい刺繍の施されたソファや高価そうな絵画が目に入った。ピアノも置いてあるので、このまま音楽会でも開けそうだ。

「君は随分と社交的になったものだな」

客間に入る直前、教授がデューリトリに囁くのを聞いてしまった。それはとても棘のある言葉で、デューリトリがとても悔しそうに教授を睨むのまで見てしまった。

彼らには上下関係がありそうだ。

「さて、皆さんお揃いでなんの御用件でしょうか?」
「この娘について分かることを教えてください」

教授の問い掛けにへスターが答えた。

ゴアはデューリトリに近寄って話し掛けている。

へスターの言う『この娘』とは、間違いなく私のことだった。

「え?」

私が頬を引き攣らせてへスターに次いで教授を見ると、教授は既に観察する様な鋭い目付きで私を見据えていた。何もかもを見透かされるような冷静で怜悧な目だった。

ジャック

もう駄目だ。生きることへの希望は欠片も残されていない。きっと世界は俺を赦さない。

生きていたくない。

この先はゆっくり堕ちて行くだけだ。

俺はピノを苦しめた。そのピノに赦されない俺が楽しく生きて良い筈がない。クレアに善い人間の振りをして近付くなんて最低だ。

動くのも嫌だ。

自分のことを考えると涙が出て来る。

泣いても何も変わらないのに勝手に滲む涙は俺には相応しくない。俺が多くの人間の様に真っ当に生きているのならまだしも、自堕落に這いつくばって他人に生かされているだけの俺が丸で普通の人間の様に苦しい振りをするなんて赦されない。

生産されたものを消費するだけの生き方をしている。

死んだ方が良い。

何処へも行きたくない。

目の前が暗闇で覆われているのは、俺が自分自身で招いた悪に押し潰されているからだ。頭の天辺から爪先まで重くどろどろとした悪が纏わり付いている。

死んだ方が良い。

生まれてこなければ良かった。

すみません。すみません。すみません。

ピノに会って謝罪したい。詰られて踏み躙られてそのまま消えたい。ピノに話し掛けるのも烏滸がましいけれど、謝らなければ耐えられない。

生きてすみません。

普通の人間の様に苦しむ権利なんてないのに。さっさと死んだ方が良いのに。社会にとって害悪でしかないのに。

嗚々、俺、どうして生きてるんだろう。

どうして生まれて来たんだろう。

苦しい。

息をするのも止めたい。

胸が痛い。

頭が痛い。

ピノはまだ俺を恨んでいるだろうか。作り笑いを続けているだろうか。俺が彼の為にできることは限られているし、なんでもした積もりでも、結局彼は俺が爪を剥がなかった時点で俺を赦す気がなくなったに違いない。

死んだ方が良い。

すみません。

死んだ方が良い。

死んだ方が良い。

シバ

レルムがテンマの作品だと知っているのはアンドロイドの製作に実際にかかわった何よりの証拠だ。それどころかノクスはレルムを自らの作品だと言う。

「その子は『der Zwillingsengel』だもん。もう一体はヘンリーが持ってるから、お願いすれば見せてくれると思うけど」
「『双子』……?」
「テンマから聞いてないの?」

ノクスは心外だと言うように顔を顰めた。

「私はミスター?アレンのコレクションを見てやっとこのレルムがテンマ=モデルだということを確信しました。しかし失礼ながら何故貴方がご存知なんですか」

アンドロイドにモデル?

初耳だ、そんな話は。

「とにかくその子の見た目は“あの双子”なの。テンマは芸術を理解する人だったから貸してあげたんだよ」
「お言葉ですが、レルムが造られたのは約20年前だと推測しています。貴方の言葉を信じると時系列が狂ってしまう」
「『双子』は6歳の時に作った人形だよ」

はい?

「失礼、ノクスは、それで25歳なんですよ」

呆気に取られるとはこのことだ。アンドロイドのコレクションを見るだけの積もりが、製作者に会えるとは思わぬ収穫だ。見た目のモデルについては考えもしなかっただけに驚きが大きい。

「レルムの、モデル」
「輪郭と鼻のバランス、目と額の形、そして唇。鑑定士に見せたいくらいだよ。完全に『双子』だし、そうでなければもう人形作りは一生やらないと約束してもいい」
「テンマに会ったんですか」

ノクスは私が彼女の作品よりもテンマに興味があることを察知して咎めるような視線を向けた。しかし私にはそんなことに構っている余裕はない。

「テンマは人間嫌いだよ」

ノクスは囁いた。

「……知ってます」
「ただ、二人だけ好きな人も居たみたい」

それは、知りたい。

知るべきことの様な気がする。

「教えてください」

ノクスはレルムを見た。じっと見ている間、レルムも微動だにせずノクスを真っ直ぐ見返していた。ふと、レルムの瞳の色がノクスのそれと全く同じ色だと気付いた。綺麗な色だった。

モンハン学園

怖い。気持ち悪い。

あいつにクラス教えてないよな、俺。あんなのジンよりずっと質が悪いだろ。怖すぎる。

あいつの怖さって間合いの曖昧さにあるのだと思う。届かないと思っていると捕まえられる。届くと思っていると逃げられる。ぐらぐら揺れて幽霊みたいに不気味に、そして時には不意に俊敏に接近してくる。

そんな風にあの気持ち悪さや怖さを冷静に考えてもみるのだけれど。

いや、あれは理屈抜きでも十分怖い。

天使に会いたい。

癒されたい。

できればホテルで一緒に天国へ逝きたい。

笠木 征治

紘平は美しい。だから俺はこいつに甘えられると自分が丸で神にでも成った様に思えて嬉しかった。

「お待たせしました」
「ありがとう」

紘平の手にあるのが高級なティーカップでも違和感なかっただろう。普段はジャージを羽織っているからただの制服のブレザーでもけっこう大人びて見える。それは紘平が委員長を務めることになってから一層感じることだった。

「僕、笠木さんが昼のこと怒ってるって分かってちょっと嬉しかったんですよ」
「は?」
「湊さんと僕、付き合ってると思ってる人もいるらしいんです」
「なんだ、お前」

学校の外だと饒舌なのは相変わらずだ。

よく喋る紘平を独占できるのははっきり言って可成り嬉しい。

ああ、でもそんなことは言われても嬉しくねえよ。お前にはただの噂話でも、俺はそんなこと知りたくもなかった。

「嫉妬されたのは初めてです」

紘平は染み染み言った。

「は?」

そんな訳無いだろう。だって俺はずっと嫉妬している。お前みたいな人間に生まれていれば何か違っただろうかと付き合う前から妬んでいた。お前と付き合い始めたら今度はお前が誰にでも愛想が良いのを妬んでいる。

紘平はプラスチックのカップの結露を指で掬った。

「僕にもそんな資格あったんだなあって」

指の動きを止めて、紘平は俺を見た。切れ長の瞳は綺麗に黒く澄んでいる。俺は改めててこの男はその存在だけで親孝行になるんだろうなと馬鹿なことを考えた。

「資格って、お前」

俺と付き合っているのだから、それを資格と呼ぶのなら、お前には当たり前に資格がある。

俺にその資格があると言った方が良い。

だから俺は嫉妬する。

他人でも嫉妬するんだ。

恋人なら尚更。

「嗚々、そうか」
「なんだよ」

紘平は俺を見ながら首を傾げた。前髪がさらさらと崩れて彼の顔に陰を作った。

「笠木さんは、女の子が好きなんでしたっけ」

紘平は指で前髪に触れて丁寧に耳に掛けた。指に付いていた水が彼の細い黒髪に絡んで妙に艶かしかった。

目を、奪われた。

「なんか関係あんのか」

俺が浮気したことを言ってんのか?

浮気したから、もう嫉妬もしないと思ったのか?

紘平は表情を崩さずに瞬きした。それは純真な青年のものの様で、俺は耐えられずに目線を逸らした。

怒っているのは、お前じゃないか。

「僕は男ですよ」
「は?」
「僕を好きになってくれる男なんていません」
「はあ?」
「嫉妬してくれるってことは、僕のことちょっとは好きってことじゃないですか」

紘平はごまかして笑った。

「お前さあ」

いい加減にしろよ。

「だから嬉しかったんですよ」

紘平はごまかして笑った。

「ふざけんなよ」
「真剣です」
「だったらへらへら笑ってんじゃねえよ!」

そんなんでごまかすなよ。お前は今自分がどんな顔をしているか分かってんのか。

紘平はへらっと笑った顔のまま黙った。

ポーカーフェイスって言うのは自分でコントロールできるからそう言うんだろう。紘平は校内ではポーカーフェイスで有名だけど、今のこいつはそんなんじゃない。

泣きたい時に泣けないなんて。

そんなのただの不幸だろ。

ふざんな。

俺は紘平を置いて店を出た。紘平が追い掛けて来るのが目の端に見えたけれど構わず歩いた。あんなこと言われるくらいなら紘平に浮気された方が幾分かましだと思ったから、自分が過去にしたことはすっかり棚に上げていた。

あー、ムカつく。

見たことも無いのに、紘平の泣き顔が脳裏に過った。

グリーン

部屋には誰もいなかった。ルーセンは今日は仕事がないと言っていたから何処かへ行っているとしたら原因は俺だと思う。別れた恋人と一緒だったことまでは知らないだろうけれど俺が感情的になって飛び出したことだって十分原因に成り得るし以前も似たことがあった。

電気、点けようかな。

部屋は暗い。実はルーセンはこの闇に紛れているだけで俺のことを見ていたりして。

例え彼が俺を殺す積もりでも、それっていいなあと思う。

ルーセンの瞳に宿る闇は彼が人を殺すだけ広がって行く気がした。その闇が深い程月光に照らされる道を歩むには都合が良いだろうし、その闇が恐怖である程誰も俺さえも彼の心の内を透かして見られなくなる。俺が殺された時彼の瞳が闇に溶けてしまうくらい堕ちて行くならばそれで俺はルーセンと溶け合えるし愛されて一生を終えられる気がする。

捨てられる覚悟はある。

けれども殺される方が魅力的だ。

俺は明かりを点けるのは止めて部屋を出ることにした。アパートの前で汚れた壁に凭れながら通りがかる人を一人ひとり眺める。

ルーセンは変装が上手いけれど例え彼がどんな格好でも見つけ出したい。現実には鈍臭くて頭の悪い俺には可成りの難しさがあるのだと理解はしているけれど愛でカバーすれば良いんじゃないのかとも思う。

ルーセンは目が悪いし。

どうやら俺を弄んでいる様だし。

俺は彼に骨抜きにされてしまったし。

こうして待って居ればまたあの甘い声音で俺を労い長く逞しい腕を腰に回し他人には滅多に見せない極上の微笑を向けて愛を示してくれるかもしれない。

今日が覚悟していたあの日だとしたら、俺が捨てられる日だとしたら、それはそれで良い。

外はもう夜更けだ。

誰にも俺の涙は見えないだろう。

月は冷たく白い輝きを放って霞む街を微かに照らしているけれど俺には道を歩けるだけの明るさだとは思えなかった。

ロス

恭博さんはタキに追い出されたことを根に持っているのか、病室では可成り警戒している様だった。今はその時程には気を張っていないらしく、ソファにだらっと座っている。

「退院早かったな」
「はい。恭博さんが忠実に通ってくれたからですねー」

俺が言うと恭博さんは頬を引き攣らせた。

「お前は、能力の跡を辿って追跡できるくせに、あんなんでよく生きてこれたな」

なんか、冷たい恭博さんも好きだなあ。

「嬉しそうにすんな!」

わお、バレた。

「60年間、恭博さんと仕事したくて、名前を売ってきたからですよー。敵が多いんです」

恭博さんは眉間に皺を寄せた。それは彼の声の調子や態度とは違ってとても思い詰めた表情だった。俺を批難する積もりだと思っていたけれど、そういう風ではない。

「本当ですよ」

恭博さんを探そうと決意した時には手遅れだった。彼は適格者になっていて、お互いに遠いところで稼いでいた。学院に居た頃とは違って恭博さんが何を考えているのかさっぱり分からなくなった。

「お前、死のうとしたのか」

恭博さんは相変わらず辛そうな表情をしている。声だけがその場にそぐわない淡々としたリズムを刻む。

「なあ、そうなのか」

そうかと聞かれたら、そうだ。

「そんなこと言わないでください。今は恭博さんに会えて嬉しいし、恭博さんにも同じ様に思って欲しいんですよ。こんな風に、あの頃みたいに、また話したいって思ってました」

ずっと思ってた。

会いたい。

会って話したい。

最後に言われた言葉があんな罵声では悲しすぎる。

「でもあんなの、自殺と同じだ」
「死んでもいいのと死にたいのは違います」
「同じだろ」
「違いますよ!」
「生きなきゃ意味ねえんだよ! 生きてたから会えたんだろ、俺たちは」

恭博さんは舌打ちして俯いた。

「違います。俺は、恭博さんに会う為に生きてきました」

恭博さんが死んだら、俺は生きる意味を失う。生温い仲間意識に浸ってタキやユーリとやっていくのはもう耐えられない。それは生きる為にはいい調味料でもその為に生きることとは掛け離れている。

恭博さんが、好きだ。

恭博さんを好きではない俺ではもう駄目だ。生きていけない。60年間平気だったことが、変わってしまった。

「お前って昔から頭おかしいよな」

恭博さんが笑った。

昔と違ってとても口が悪いところは是非とも直して欲しいのだけれど、左の頬にある黒子と笑った時の緩んだ表情は変わっていない。

好きだ。

凄く好きだ。

「はい。おかしいんですよ、おれ」

普通じゃいられない。きっと恭博さんが腕を切るのを見たあの日に、彼の鮮血が俺の心を奪ったまま恭博さんの中に還ってしまったのだ。普通でいられるわけがない。

それを初恋と呼ぶのだろうか。

「バカ」

恭博さんは俺を笑った。そこには不確かな愛があるような気がした。俺が見下してきた心温まる愛が、恭博さんの息の中から伝わった気がした。

馬鹿なんですよ。

おかしいんですよ。

恭博さんが俺の心をどうにかさせたんですよ。

藍沢 亮司

疼痛の中、俺は子供の頃を振り返っていた。

俺は頭が良かったしその自覚もあった。家庭は裕福で良識のある親を持ち全くの苦労知らずだったけれど、不興を買うような能のない若者ではなかった。未来への展望は限りなく広く、有事下においても国外で遊行する余裕があった。

これが傲慢そのものだと今日まで気付かなかった。

医学を得てからは人の役に立つ仕事をしようと思ったけれど、始めは自分の頭を生かせる仕事ならなんでも良かった。病院勤務とは違うことがしたくて、その為にはここが一番面白そうだと思った。

木邨は最悪だけれど、人間としては俺より真面だろう。

『医者っていうのもいいですね』

木邨は初めて会った時にそう言った。教育枠児童の彼には将来を選ぶ権利がなかっただろうから、俺は後ろめたい気持ちさえ覚えた。

「忙しそうですね」
「ええ、そうみたいですね」
「休みたかったら、何時でもここを使って下さい」

俺が言うと、木邨はにこっと笑った。

「ありがとうございます。でも悪いですから」

初めて会った時に彼を匿ったことで俺は背徳への好奇心を抱いていた。そして何より世界を穎脱した頭脳を持つ青年が唯一心を許せる場所を俺だけが提供できるのだという愉悦は冷静な判断力を鈍らせた。

俺は彼らに慈愛の手を差し伸べた積もりだった。

しかしその手は彼らを谷底へ突き落とした。

僅か9歳のリュウでさえ誰にも心を許すことはなく、ヨルが頼るのは同じ境遇のリュウだけだ。

俺は甘ったれた人間だった。

欲望はなかった。なんでも手に入ったから。

俺の様な世間知らずに彼らが共感したり心を開く筈がなかった。どんなに苦しくてもどんな暗闇の中でも彼らは這ってでも前に進もうと生きてきた。無数の選択肢の中から一番楽な道を呑気に鼻唄交じりに歩いてきた俺は彼らの視界にさえ入るべきではなかった。

だから、こうなったのだ。

木邨の暴力は俺への怒りだ。

俺は鼻にある詰め物を取った。血をよく含んだそれが取れると、奥から再び血が垂れてきた。前にこれだけ血が出る怪我を負ったのは何十年も昔のことだと思う。

俺は自分の惨めさに泣いた。

無知な自分の惨めさに漸く気付いたのだ。痛め付けられて初めて知ったのだ。

木邨が優しく笑いながら諭していたら、きっと俺は実感しなかった。そんな情けないことを今頃になって10歳以上も年下の青年に思い知らされた。

悔し涙は目のずっと奥から溢れてくるのだと知った。
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宇津木 紘平

僕が委員長になった時、忍野先輩は何時もの爽やかな笑みに細やかな祝いの言葉を添えて歓迎してくれた。だから僕は二度とこの学校を裏切る様なことはしないと心に誓った。

「紘平」

声の方を見ると笠木さんが居た。

「あ、先輩。昼はすみませんでした」
「いいよ」

許容した笠木さんの顔は、けっこう苛立っているからちょっと笑ってしまう。先輩ってこういう時には折れてくれるけど、顔は全然折れてないから。

「もう帰ります?」
「ああ」
「僕もこれ書いたら鍵閉めて帰る積もりなんですけど、一緒に帰りますか?」
「…ああ」

やっぱり怒ってるよなあ。

「怒らないんですか」
「ぁあ?」
「僕が女の子と仲良くしてたから、怒ってるんですか」

笠木さんは眼光を鋭くして僕を睨んだ。

「お前さ、あの時、俺は結局浮気してんだろうと思った?」

僕は書類を棚にしまって鍵を掛けた。

「それとも、俺がしてないって言ったんだからしてないって思った?」

立ち上がると笠木さんはまだ僕を睨んでいた。攻撃的ではないけれど、威圧的ではあると思う。

なんだ、本当に怒ってんのか。

安心した。

「先に、鍵返して来ますね」

浮気なんて本当はどっちでも良かった。したけど謝るから許してって言われるよりは、してないから別れたくないって言い分の方がまだましだっただけだ。だから忘れることにした。

曖昧な真実を求めるよりも笠木さんに触って貰う方が僕の欲望を満たすから。僕には清く健やかな恋愛をする権利はないから。同級生の少女たちのように「あたしだけを見て!」とは言えないから。

ここのところそれで上手く行っていた。

そうではなかったのだろうか。

硬質な音を鳴らす冷たい鍵は僕の心を写す鏡だった。悲しみも苛立ちも喜びもない冷めた自分の目が僕を覗いている。

この学校に居る限り僕の心は休まらない。忍野先輩の言葉は重くて陰鬱な枷であり、僕の心を固く閉ざす鉄の扉となった。彼の言葉は僕を祝福したけれど、同時に僕を呪い殺す言葉でもあった。

笠木さんと居ると時々は自由を感じたのだけれど。

今はどうだ。

委員会室のドアは大袈裟な音を立てて鍵が掛けられた。そこは僕にさえ踏み込めない暗い部屋となった。

I Walk the Line

寄り道ばかりした。
間違いを犯した。
お前の方は真っ直ぐ歩いてきたんだな。
ああ、それは。
どんなに正しいことだろうか。

真っ直ぐ歩くよ。
君と一緒に、真っ直ぐ歩きたいんだ。
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戸田 誠

宇津木は空いている教室に迷いなく入って俺をエスコートした。

「すみません。食べながらでけっこうですから」
「ああ、じゃあ、悪いけど」

宇津木は少し長い前髪を左手で横に流した。白い肌にはさらさらの黒髪がよく映える。こいつなら真井京平にも勝てるんだろうなと思った。

「それで、どうしたの」

俺が尋ねると宇津木は逡巡して答えた。

「僕には悩みを相談するべき人が居なくて、浮かんだのが戸田先輩だったんです。先輩、花岡さんと付き合ってますよね。それで聞きたいことがあります」

恋愛相談か?

「何」

宇津木は少し視線を彷徨わせた。切れ長の鋭い目は伏せられてもまだ威厳を失わない。

「花岡さんが真井先輩と近付いているのに何か理由はあるんでしょうか」

え?

「生徒会と風紀が歩み寄る道はあるんでしょうか」

ちょっと、待てよ。

「結衣が、真井と?」

それは俺が怖れていることそのものだ。結衣たちはあの日、保健室で、初めてああなったのではなかったのか。宇津木が気付くくらいには、誰の目からも2人が仲良いのだろうか。

俺は混乱していた。

「あ、すみません。変な意味ではないんですけど」

『変』も『真っ当』もないだろう。俺は何故か結衣と真井との関係をあの場限りのものと信じて疑わなかった。あの時を遣り過ごせたのだから、あとは多少の注意で乗り切れるもとだと思っていた。

『近付いている』とは、どういう意味だ。

俺の知らないところで何をしている?

「生徒会と風紀は分かり合えないよ。君だってよく知ってる筈だ」

俺はそんなことしか言えなかった。宇津木は真剣に慶明の将来を憂いているし、結衣と真井との間に疚しいこもないに違いない。結衣は真井を好きにはならない。あの顔を綺麗だと思うことと、その内面に惹かれることとは全く別次元の問題だ。

だいたい、もっと大事なことは、そのことと宇津木は無関係ということだ。

「そうですね」

宇津木は悔しそうに呟いた。

俺は最低な男だ。

俺は真井京平にも宇津木にも劣ることで好きな女を取られるのではと怯えているのだ。それで宇津木に八つ当たりで冷たい態度を取っている。

「それでも、お前は、お前のやりたいようにやれよ」

そう言ったとき俺は宇津木を見られなかった。宇津木が絶望すればいいのにと思っているのに、彼の過酷な挑戦を心から応援できる筈がない。間違えて、失敗して、躓いて、絶望すればいいのだ。

宇津木はそっと「そうですね」と答えた。

凛とした声は、俺の醜い心を貫いて、何処か明るい方へ飛んで行った。

佐倉 利一郎

サエはクリームたっぷりで最高に甘そうなコーヒーを一口飲んだ。ストローを咥える仕草が女の子って感じがして、そういうところは京平よりも良平が好きそうな雰囲気だ。

「貴方もあの2人が好きなのね」

サエは相変わらず淡々と話す。

「『貴方も』ってことは、サエもってこと?」
「ええ、そうね」

あー、そっか。

やっぱりね。

「どうやってあの2人を見分けているのかしら」
「んー?」
「分かるんでしょう?」
「えーと、その話しが目的なの?」
「ええ、まあ。そうね」

俺はサエの綺麗な鎖骨を前に、一気に気持ちが冷めた。

あの2人の“どちらか”を好きになる奴は、だいたいこの問題にぶつかる。つまり、あの2人を見分けられないということに。“どちらか”を好きなのに見分けられないなんてバカだけど、俺にはそんなの関係ない。

俺があいつらを見分けられるとして、彼女にどうしろと言うんだ。

「それで俺にどうしろって?」

俺はクッキーを囓った。チョコがごろごろ入っててなかなか美味しいやつ。

「私は、彼らがよく分からなくなるわ」
「なんで」
「あの2人、時々入れ替わってるでしょう」
「あー、そう?」

そこには気付いたのか。優秀じゃん。

「双子って言っても別人なのに、同じ振りをしてるんだわ」

サエは首にかかるゴールドのアクセサリーを撫でた。なんとなくだけど、それは良平からの贈り物なんじゃないかなと思った。

「そんなこと言われたの始めてだよ」

京平と良平は全然違う。それは誰もが認めることだし、京平たち自身でも思ってることだ。

だから全然違う。

入れ替わるのはただのゲームなんだと思ってたし、深い意味なんて無いと思ってた。あいつらだってそうじゃないのか。

「貴方は見分けられるから、彼らも最後に貴方を頼ろうとするのよ」
「えーと、頼られたことなんてないよ、俺」
「分からない?」

濃くアイラインが引かれた目が俺を見た。

そう言われても。

「京平くんと仲良さそうだけど、真面目に授業受けてるみたいだし、どんな人なのかと思ってたけど、」
「けど?」
「彼らが好きになるタイプよ、貴方」

え?

それってちょっと嬉しい。

「ありがと」

サエは始めて頬を緩めた。日本人離れしたはっきりした顔立ちは、普段はクールで少し怖いけど、こうして笑うとなかなか美人だ。

「それで2人を見分けられるなんて、サービスし過ぎよ」
「サービス?」
「どうやって見分けてるの?」

またそれ?

なんか言ってることよくわかんなくなってきたなー。

とりあえず、俺が言えることは一つだろう。女の子に聞かれる度にこれだけは答えてあげてた。京平に泣きそうな顔を向けられる度にこれだけは自信をもって伝えてた。

「それはさ、俺があいつらを好きだからじゃん?」

サエはゆっくり瞬きした。マスカラががっつり乗った睫毛を重たそうに動かして。

俺はバカだから難しいことはわかんねえ。

2人の違いなんて考えてもちゃんと答えらんない。

でも、好きなことは確かだ。

好きなことだけは確かだ。

「そうかもね」

サエはそう返事してまた笑った。すごく素直な女の子なんだなあと思った。クッキーは、甘い生地に甘いチョコがたくさん入ったやつが美味しいんだけど、苦い生地に甘いチョコが隠れてるのもけっこう美味しい。

Foolish Games

こんなことは終わりにしなきゃいけない。
わかってる。
こんな割に合わないゲームは終わりにしてやるよ。
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モンハン学園/洞窟の奥に眠る怪物

男に抱き付かれて視界が揺れた。横転しかけたところを助けてくれたのもまたその男だった。

「なんだてめぇ」

比較的動かせる脚を持ち上げて、全身全霊を掛けて男の足を踏み抜いた。

「…いた、い」

この声には、聞き覚えがある。

緩んだ腕から抜け出して身体を離すと肌の白い男が立っていた。女っぽい顔立ちの薄気味悪い男だ。

「お前、あんときの」

男は笑った。それは感情の余り感じられない冷淡な、そしてじめじめとした湿度の高い笑みだった。肌寒い洞窟の奥に眠る怪物の様な男だと思った。


【洞窟の奥に眠る怪物】


「すごく捜した」
「は?」
「やっと逢えた。ね?」

怖い。すげえ怖い。

意味は分からないけどとにかく怖い。

「甘い。匂い、いい匂い」
「あそう。俺ちょっと行くとこあるんだわ」
「何処?」
「あ?」

えーと。

どこって。

「授業とかだろ」

男はふふっと笑った。そして俺の腕を掴んだ。

男と接触しない間合いを保っていた積もりだったので余計に怖い。男の腕はぐんと伸びた気がした。なんで俺に笑うんだよ、なんで俺に触るんだよ、なんで俺に近寄るんだよ。

「おい、ぶん殴るぞ」

俺の脅し文句にも怯まず、男はまだ笑っている。

「痛いのは嫌い。仲良くして」

怖い。怖い怖い怖い怖い。

なんだてめえすげー怖いっつうの!

「離せ糞野郎!」

俺は男を殴ろうと腕を振り上げた。それは威嚇の意味合いもあったので大袈裟にやった。男は冷たい顔で、その腕を受け止めた。

「痛いの、好き?」

は?

「離せよ」

痛いっつうのは、好きとか嫌いとかいうことではないだろう。痛みはそこに在るものだ。避けたり誤魔化したりできないものだ。

「好き?」

男は繰り返し尋ねた。

うるせえ。うるせえ。

「うるせえ」
「嫌い?」
「うるせえよ。好きな時も嫌いな時も耐えなきゃなんねえのが痛みだろうが」

だから“痛い”んだよ。

男はふふふと笑った。温度のない冷めた笑い声に、彼の息も酷く冷たいんだろうかと思った。

「じゃあ仲良くして。ね?」

男の赤い目が俺を見た。

男の赤い舌がその唇を舐めた。

う、わ。

「意味がわかんねえ!」

俺は男の腕を振り払った。男の腕は相当握力が強いのかしなって簡単には外れなかったけれど、もう一度力を込めて払うと今度は軽く外せた。

「ふふふ」

男に背を向けると、冷淡な笑い声が聞こえた。笑った顔が見えないと、それは更に冷たく響いた。
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