スポンサーサイト



この広告は30日以上更新がないブログに表示されます。

九鬼

「なんでこんな計算間違えたんだろう…」

石田は先日あった模試の問題と解説を机に広げて顎に手を当てている。数学の点数が思うように伸びなかったらしい。

今はまだ浪人生は別の模試を受けているが、夏を過ぎれば合流して同じ模試を受けることになっている。順位や偏差値もそれに伴って下降するし、成績のいい彼にも不安感があるらしい。

本番では誰とでも対等に競うのだから、今更悩む程のことかと俺は思うけれど。

石田は問題用紙を繰った。

「緊張してたとか?」
「うん、まあ。それ程じゃないけど…」
「大丈夫だろ。君なら」
「そうかな」
「多少の上がり下がりは俺にもあるし」
「キューにも?」

俺はロボットかよ。

「もちろん」

それでも石田はぼんやりノートの計算と解説を見比べていた。落ち着いて解き直したのであろうノートの計算には間違いはない。

チャイムが鳴ったので石田はのろのろと机の上を片付け始めた。

1年後には進路が決まっているんだ。

頑張れ。

丸まった背中に俺は思った。

そうして自分の席に戻って行く石田を眺めていると、戸田が視界を塞いだ。長身で体格も良いので目の前に立たれると自然とそうなってしまう。

「……」

戸田はただ黙って立っている。

「何見詰め合ってんの」と秋津が茶化したので漸く戸田ははっとしたらしい。慌てて自分の席に着いていた。

挨拶も無し?

「戸田、」

俺が呼ぶと戸田は振り返ったけれど、直後に先生が来て授業を始めたので話すことはできなかった。

授業を終えて教科書を片付けながら戸田を見ると、彼は窓の外を眺めていた。授業が終わっていることにも気付いていないのかもしれない。

「今日学食行きたいんだけど」

秋津が財布を持って言った。

秋津とは去年から急に仲良くなって、今では毎日昼を一緒に食べている。図書委員だった頃は一人でさっさと食べて受付をやっていたので、こういう友人がいるのはなかなか心地好かった。

キューというあだ名を付けたのは彼だ。

「いいよ、」と立ち上がると、秋津の隣には戸田がいた。

「……」

俺の可笑しな態度に気付いて秋津は戸田を見て、戸田も秋津を見た。2人は互いにどう声を掛けて良いのか分からないといった顔をして目を合わせていた。

「とりあえず食堂行く?」

俺の言葉に秋津はやっと「戸田も一緒に来たいの?」と言ったのだった。

「…じゃあ、良い?」

戸田が机に昼食を取りに行くのを秋津は睨んで待った。

秋津は誰とでも仲良くする人間ではない。プライドが高くて独占的が強いから大人数の中で上手くやることが難しいのだ。

俺は正直秋津が好きではなかった。

眞木と伊佐木と連んでいた頃の秋津は教師によく反抗していて校内での評判は余り良くなかった。何より、成績に関してシビアな慶明には珍しく、彼らは所謂“家柄を笠に着た”態度を取っていた。

今でもそういう一面はある。

秋津だけが5組になったから、彼らの中でも何かあったのだろう。

「混んでないといいな」

秋津の気を紛らわす為に言った言葉に「混んでたら戸田のせいだね」と返されてしまい、俺は憂鬱になった。

誘わなければ良かった。

セネカ

ホーンの顔は恐怖に歪んでいた。

あのスネイルズの義弟だから扱いにはそれなのに気を遣ったし、血の繋がりがないと知ってはいても私たちは彼に少なからぬ情を持って接していた。

大切にしてきた。

そのホーンがどうして狙われるのだろうか。

そんなホーンだから狙われるのだろうか。

「具合は如何ですか」

ホーンは目に涙を浮かべて片腕を上げて見せた。小刻みに揺らしながらゆっくりと。

「まだ力が入りません」

その指には人差し指から薬指まで丁寧に包帯が巻かれている。報告によると爪が剥がされていたらしい。暴行はそれ以外にもあったようだ。

行為はエスカレートしている。

だから余計に怖いのだろう。

次は何をされるのか。

先の見えない恐怖が心の見えないところに堆積していく。それは質の悪い雪のように水を含んで重く、処理を怠ると固まって次第に圧迫する。

ホーンは腕を下ろして震える指をぼうっと眺めた。

「…三度目はありません」

それは謝罪でも反省でもない価値のない言葉だった。失言だったと思った時には遅かった。

ホーンはぼろりと涙を零してから私を睨み付けて叫んだ。

「二度目だって、御免だ!」

鼓膜が揺れた。

保身の為の偽善、組織とその行いを正当化する歪んだ正義、そういう脆く下らない私の利己も同時に彼の叫びに揺さ振られた。

『もう二度と御免です』

ホーンの悲痛な表情が脳裡に浮かぶ。

あの時既に彼の許容を超えていたのだ。逃げたくても逃げなかったのは彼が無知だったからで、私たちへの恩義に遠慮したからではない。

知っている。

彼は普通の人間だ。

「すみません」

私は強要した無知への罪悪に謝罪した。彼の被った暴力や恐怖は、私の強要したその無知から辿られた道だったのだ。

ホーンは私から視線を外すことなく続ける。

「もう嫌だ…ここから出せよ…!」
「できません」

ホーンはとめどなく涙を流して咽び泣いた。

「どうせ私は何も知らないんですから、いいじゃないですか」
「外はここより危ないんです」
「同じでしょう!?」

確かに同じなのかもしれない。侵入者は容易に入って逃れて隠れる。

「セシカとはまだ接触していませんから、何か目的がある筈です。それが明確でない今、外へ不用意に出るのは危険です」
「危険、危険、そればっかですね…」
「本当に危ないんですよ」
「フランクみたいに死ぬことになる?」

その声は余りに悲痛だった。

「ホーン…」

恐怖する彼の前で、それでも平気で愛想笑いでも浮かべて見え透いた言い訳をできるような、私はそういう人で無しの非情な人間ではなかった。辛うじて。

貰い泣き、と言うのだろうか。

「もう外に出せないなら、殺せよ」

青白く血色の悪い顔。

生気の無い虚ろな目。

恐怖の残像に震える手。

掠れて力の無い声。

爪を剥がれた指。

脱臼を繰り返された肩。

折られて固定されている肘。

痣の残る首。

腫れた身体のあちこち。

変色した身体のあちこち。

酷い。非道だ。人間の道を外れている。私は彼に刻まれている歴とした恐怖の証拠を漸く直視した。

私たちは何をしてきたのか。

私は何をしたのか。

『神』を理解したかった。

『神』に触れたかった。

私は自分の罪を朧げに自覚し、かつて平然と犯した罪への罰を思った。

ヨル

「ここでの生活には慣れた?」
「はい」

リュウは椅子に座っている。飲み物を出すと「ありがとうございます」と言った。そして彼の綺麗な指がコップを触る。

「試験は受けるの?」
「はい。実践を3クラス受ける予定です」
「え……」

それだと、卒業してしまえる。

「できれば次は水で卒業して、それから働きたいって思ってて」

僕は圧倒された。

「リュウは、きっと適格者になるんだね」

コップから指を離してから、黙ったリュウは肯定も否定もしなかった。

良平

「早かったね」

リビングに現れた京平は俺の言葉に顰めて答えた。

「綜悟さんと何かあった方が良かった?」

京平が綜悟さんを好きなことは知っている。それがどの程度のものかは京平自身にも測り兼ねているらしい。俺はもう彼らと距離を取っているから、綜悟さんが京平をどう思って相手しているのかは更に分からない。

どう転んでも良くない傾向だ。だから俺は応援しない。

朝来が現れるまでの無二の例外。

あの例外たちは俺たちの存在をいとも容易く吹き消してしまえる。あらゆる拒絶を嘲笑って踏み躙る。

責任までは感じないけれど、その契機が自分だということは憶えている。

「京が望むならね」

紫煙を纏って俺を睨んだ。

京平は、間違えたのだ。

「俺だってあの家は嫌いだよ。吐き気がする」
「綜悟さんは三木の嫡男だろう」
「…分かんねえ」

誰より分かっている癖に。

「進路のこと、いつか言われるよ」

分かって、間違えたのだ。

「覚悟してなきゃ、行かないよ。あんな場所」

ブレザーをハンガーに掛けてから京平は部屋に行った。姿勢悪く歩いきながら廊下に通じている扉を静かに閉めた。

後ろ姿は自己嫌悪しているようにも見える。

夕食は済ませてきたらしいから俺は食器をシンクに運んで汚れを流した。それから丁寧に洗っていく。

冷たい水は心地好い。

「言いそびれたなあ…」

俺の呟きに、しかし思いがけず返答があった。

「何を?」
「ん、いたの?」
「何か言いたそうだったなって思って」

自分のことより俺の心配かよ。

京平は椅子を引いて座った。テーブルに肘を付いて顎を乗せているけれど、視線は緩慢に俺を捉えている。

「今お前にキスしたい」

京平は笑って「いいよ」と答えた。

「脂臭いかも、」

そう言いながらも項を支えて口付けた。軽く触れただけのものだった。

「これくらいじゃ匂いなんてしないだろ」

俺は水を止めてスポンジを握って軽く絞った。目の前では自分が使っただけの少しの食器と調理器具が清潔に水を弾いている。

「そう? 女は嫌がるよ」
「その人が潔癖だったんだろう」
「ああ、まあな。そうかも」

京平はフライパンを受け取ると火にかけた。乾燥したのを見計らって火を止める。

「それが原因で別れたわけ?」

その問いには答えなかった。

俺たちの間に秘密なんて無いから追及する必要もない。

「で、何?」

京平は再び椅子に座ると斜めに居る俺を見る。

「朝来と別れたいんだけど、」
「は?」
「お前、俺の振りして言ってくれない?」
「本気?」

俺は笑った。

「お前にこの手の嘘は言わない」

京平は綜悟さんの話をした時よりもきつく俺を睨んだ。鋭い眼光は、しかし同じ顔をした俺には大した効力を示さないことも分かっているらしく、長くは続かなかった。

「正直、別れたらいいとは思ったけど。でも俺にとっての綜悟さんみたいに、良にとっての例外なのかと思ってた」

全く同じこと、俺も考えた。

「綜悟さんは俺たちを支配できることを知ってる。知っててああ振る舞ってる。けど朝来は何も知らない。知ったら幻滅して必ず厭な顔をする」

朝来に軽蔑されるのは嫌だ。

きっと死にたくなる。

「朝来は俺たちを支配しないよ」

京平が優しく言ったから俺も感情を抑えて息を吐いた。京平が笑ったのは俺が自嘲して口角を引き攣らせたからだ。

端から見たら同じなのだろう。

「父さん今日も帰って来ないね。これで3日目じゃない?」
「……ん、ああ。そうだな」
「朝来は“そういうこと”は何も知らない」
「それは、俺たちしか知らないよ」
「何も知らない人間と理解し合うなんて無理だ。けれど言ったら見捨てられる」

見捨てられるのは嫌だ。

「…まあ、別れるなら言ってやるよ」

京平は俺の傍に立って頭の上に手を乗せた。撫でるでも叩くでもなく。

「あと誰か女貸して」

京平はきょとんとしてからふっと笑った。

「冴とヤってから別れろよ」
「サービスしてくれる女がいい」
「してくれるよ、あいつも」
「させたくねえんだよ」

純愛のような関係になりたかった。

「じゃあ好きなの選べば」

京平はごとりと携帯電話をテーブルに置いた。通話とメールでしか使われない京平の携帯電話は傷一つ無い。

その時に受信したメールに、俺は適当に返信して会う約束を取り付けた。

「この子にする」

京平は「趣味悪いね」と言ったけれど、俺はその子の顔もよく分かっていなかった。それに元々趣味が悪いのは京平の方なのだ。

はあ、と溜め息が出た。

強いて言えば安堵の溜め息だった気がする。

「いつもみたいには言わないけど、まあ適当に別れるから」
「ああ、よろしく」

なるべく曖昧に伝えてくれ。

「冴が泣くとこ見なくていいの?」

泣かないよ、朝来は。

「泣かしたら殺す」

三木の家や父がしたみたいに、俺はお前を殺してしまうと思う。朝来を『冴』と呼ぶお前に嫉妬してしまう俺が、赦すわけがない。

俺は俺たちの為に死ぬ。

お前は俺たちの為に殺す。

けれど俺は俺たちの中に眠る鉄則を裏切ってでも朝来を護ってやりたい。

半ば本気で言った。

京平は真顔でそれを受け流して、今度は脂の臭いのする深い口付けをした。咎めるように深く。
前の記事へ 次の記事へ
カレンダー
<< 2010年11月 >>
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
アーカイブ