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オットー ルフォルツァント/偏向フレンドシップ

ピノが下級生と食事をしているのを見て、この人の本質はここにある、と僕は思った。

微笑の影にサディスティック。

美貌の艶はバイオレンス。



【偏向フレンドシップ】



「家族以外とキスしたことある?」

ピノが言った。

僕には彼の暇潰しがよく分からない。ピノは天才だから努力の形もその成果も規格外だ。僕達がチョコレートを一粒いただく間に、ピノは逆立ちで階段を昇っている。

「ありません」、と恥じらいながら答えるほかなかった。

ピノと同室になって良かったなと思うことは、ピノが規格外の天才で一緒にいると優越感を覚えることと、ピノが破天荒な優等生で一緒にいると新しいことをたくさん覚えられることだ。十年かけても得られない経験とユーモアを、この人はたった一月で僕に与えた。

ピノの顔に浮かんだ不謹慎な微笑に、僕は顰めて悦服した。
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ノイウェンス ハウゼン/死刑囚

首を絞められる夢を見た。

僕は泥沼に半身を埋めていて手を伸ばすと熱い彼の手が支えてくれる。けれども彼のもう一方の手は無情に冷酷に容赦無く僕の首を絞めていた。



【死刑囚】



先生が僕の腹を撫でる。その手つきに僕の胸は高鳴るから僕の心臓は痛い。何時間も一緒に居るのに、その間僕の心臓はずっと痛い。

好きだから、これまで触って貰えなかった時間にもずっと想像してしまっていた先生の手だから仕方がない。想いが通じる前より増して僕の心は先生に囚われているのだから仕方がない。

ここには僕と先生の二人だけしか居ない。

僕は独りで世界を彷徨って先生の手を探し続けてきた。

それがこの手。

先生の熱いこの手。

愛撫して、嬲って、昂らせて、解き放って。それは世界で唯一僕を孤独から救うもの。愛なんか無くていい。僕が先生を好きなのだから、それだけで二人の人間が愛し合うのに必要な感情を満たすに違いない。

腹を撫でていた先生の手が徐々に迫り上がって胸に届いた。

拍動が伝わってしまう。

それは何故だか困る。

先生は何時も何も言わずにいるから僕には分からないけれど、僕のこの拍動を先生は嫌がる気がする。先生に嫌われたくない。

心臓が痛い。

心臓が止まってくれたらいいのに。ほんの1時間だけ、それだけでも僕の心臓はとても安らぐだろう。

心臓が痛い。

先生の心臓も痛いのだろうか。

触れてみた。先生の胸に触れると確かに脈を感じる。熱い肌から伝わるそれはゆっくり力強く脈打っていて僕はとても安心した。

「せんせ」
「何だ」
「心臓が痛い」
「……、病気か」

馬鹿。

恋煩いとは言うけれど。

「先生の心臓は規則正しくて安心する」
「そうでなければ病気だろう」
「病気じゃないよ」
「ああ、なんだ。緊張してるのか」

当たり。

「好き、ですから」

僕はあっさりそれを認めた。先生を好きなことは隠すことではないし、そうでなくても僕は先生に逆らえない。

緊張しているかと尋ねられれば、こう答えるより他にない。

『好きだからです』

先生は突然手の動きを止めた。普段血色の悪い僕の頬はあり得ないくらい真っ赤に染まっていたから、それをそれこそ病気かと疑ったのかもしれない。

「顔が赤いな」
「はい」
「照れてるのか」
「はい。いま凄く恥ずかしいですから」

無視して聞かなかったことにして立ち去りたいような内容の質問でも先生が相手なら僕は自白剤を飲まされたかのように本音を隠さずつらつらと答えてしまう。それで呆れられても嘘で嫌われるよりは良い。

「聞かせて。ノイ」

先生は胸をひと撫でしてそこに耳を当てた。

心臓が痛い。

心臓が痛いよ、先生。

「せんせ、やだ」
「何故?」
「心臓が痛い」
「……、病気じゃないよな?」
「病気みたいなものだよ」

こんなの、おかしい。

先生は楽しそうだし元気そうだし仕事が落ち着いたらしく生活も整っていて笑顔が多くなった。僕が想うようには先生は僕を想っていないと考えるのも無理はないだろう。

先生は僕の胸に耳を押し当てたままその手で僕の腕を掴んだ。

僕は本能で身じろいだ。

心臓は痛いし先生は怖いし緊張しているから身体が震えている。このまま先生に触れられていたら心臓がどうにかなってしまう。

「おい。動くな」

無理。

身体が勝手に動くんだ。

「糞、おい。なんで逃げるんだ」

理由なんて無い。

「先生が、迫るから」
「迫られるのが嫌なんですか」
「え。ええと」

先生は真剣な顔をしていた。

そんなことないのに。嬉しいのに。僕の身体はその余りの喜びを避けてしまう。

「ノイ」

心臓が痛い。

僕はこのまま先生に殺されてさまうのではないかと思うくらいだった。そのくらい心臓が痛い。痛い。痛いよ、先生。僕は丸で先生への恋心に囚われた囚人だ。

そして、このまま絞め殺される。
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フランツ マイヤー/欺罔

午後7時、辺りはまだ明るい。

寮に届け物があったから仕事が終わってから寄ることにした。定期試験が近いので試験の準備さえ終えてしまえば授業の方はひと段落がついて、生徒達も自習に勤しんでいるのか放課後に時間を取られることもない。

最近はよく眠れる。

授業とか研究とか生徒達のことよりも、寮に行けばノイに会えるかもしれない、私にはその期待の方が確かにあった。

寮の扉を開くとノイはそこに居た。

内心の願望がノイに届いたようで嬉しい反面、丸で若い学生のように運命らしきものを感じた自分を恥じもした。

「せんせ、」

ノイが先に声を掛けてくれた。

「こんな時間に外出ですか」

これから校舎へ向かうというのは些か不自然だ。ノイの私服と思われる服装から判断すると私用で外出しようとしているらしいことが分かる。

私用ってなんだ。

ノイは私から逃げるように目を逸らした。

怪しい。

何か、あったな。

「待ちなさい」

ノイの針金のような腕を掴んだ。私の指が彼の腕周りを優に一周してしまえることが恐ろしい。

「どこへ行くのかな」

私は努めて笑顔で穏やか優しげに冷静に丁寧に柔らかに嫋やかに尋ねた積もりなのだけれど、ノイは私の手を振り払おうともがく。

細い腕は掴んでおくには丁度よかった。

簡単に手放す筈がない。

「暴れるな。縛り上げて欲しいの?」
「外に。行くだけです」
「散歩か。私も一緒に行きますよ」
「……」

ノイは私の目から逃げるように俯いてから小さな声で「はい」と答えた。私と居るのが嫌みたいに身体を少し遠ざけたから思わずノイを引き寄せた。

「絶対に、逃げるなよ」

ノイはそれには答えなかった。

ノイを扉の外に待たせて寮での用事を済ませると、思った通りと言えばその通り、期待を裏切られたと言えばそれもまた真実で、私はノイを縛っておかなかったことを後悔した。ノイは居なかった。

宿舎の裏に回ってみる。

居ない。

校舎の方へ歩いてみる。

居ない。

居ない。居ない。

寮に戻ってみる。

居ない。

やはり外か?

居ない。居ない。居ない居ない居ない。居ない居ない居ない居ない居ない居ない居ない。居ない居ない居ない居ない居ない居ない居ない居ない居ない居ない居ない。

なんでだ。

なんでだ!!

「せんせ、ごめん」

振り返るとノイがいた。

「……、どこに居たの?」
「ごめんなさい」
「来なさい」
「せんせ、ぼくは、」

なんだ。

なんて言い訳する積もりだ。

ノイは何時も私から逃げる。ノイは何処へでも逃げる。ノイはこのぐちゃぐちゃな世界を自由にくるくると動いて私の目の届かないところで泣いたり笑ったりしている。私が望む程にはノイは私を求めない。

沸点を越えた自覚はあった。

私は思い切りノイを叩いていた。

「来なさい」

ふらついたノイの腕を掴んで、そのまま倉庫へ引き摺って行く。ノイは「先生」「ごめんなさい」と小さな声で言うだけで身体では抵抗しなかった。

細い腕がその肩から外れてくれたら私も思い留まるのだろうか。

ノイが喚いて反抗すれば私の沸騰性の感情を鎮めることができるのだろうか。

倉庫は寄宿舎の敷地のうち、校舎寄りにある。かつては生徒を反省させる独房としての役割があったと噂があるくらいそれはひと気がなく陰気で薄暗い場所にある。

「ノイ、」

お前は酷いじゃないか。

嘘を吐いた。

「せんせ」

ノイが私を呼んだ。

「なんで居なくなったんだ。約束したのに。なんで逃げるんだ!」

ノイは「ごめんなさい」と言った。

私はノイをまた叩いた。

ああ、駄目だ。暴力は。

分かっているよ。お前が怯えていることも世の中には暴力で解決し得る問題の方が少ないことも。分かっているよ。言葉で伝えなければならないことも。

苦しい。

世界ががやがやと五月蝿いんだよ。外野の人間は何時でも好き勝手に野次を飛ばす。

なんて伝えれば良い?

何から言葉にすれば良い?

「先生」
「なんですか」

ノイは私をじっと見た。

「好き」

ノイの声は掠れて低い男の声だった。

私はこれだけノイに執心して乱暴してまで自分だけのものにしようとして独占したがっていたのに、驚くべきことにこの時初めて自分が男を好きになったことを自覚した。

愛撫したり舐めたり、それはノイに対する執着ではあったけれど愛だとは思っていなかった。

「ノイ。私が好き?」

ノイは微塵も躊躇しなかった。

「うん。今も、思ってる」

そうか。

分かったよ。

不器用な言葉でも話すことに不得手でもノイが私に言いたいことを素直に言うのは彼が私を好きだからだ。愛しているからだ。

では、私はどうだろう。

これまで恋人と呼んできた女達と同じようにノイのことを想っているだろうか。男のノイを好きになることがどういうことなのか理解しているだろうか。ノイが苦しんだり痛んだりしているのを愉しんで見ている私にノイを愛することができるだろうか。この煩雑な世界はノイを愛することを許すだろうか。

私はノイを見てみる。

痩身、蒼白、陰鬱、病的、健康を失った異様な容姿。

これは、私が招いたことだ。

ノイの愛を私が歪めた。

ノイの愛は、もしかしたら、或いは恐らく、或いは殆ど間違いなく、真実ではない偽りの愛かもしれない。

だからと言って私が彼に愛していないと言えるのだろうか。

“あれ”はただ虐げて愉悦していただけの行為だったから愛はないと今更言えるのだろうか。

許されない。

私にその資格は無い。

「もう、乱暴はしたくない。お前を苦しませたくない」

私が言うとノイは微かに頷いた。

「結婚、できないからさ。せめてもっと“よく”したいと思ってるんだ」
「うん」
「ノイ……」

私はノイを抱き締めた。

尖った骨が身体のあちこちを突き刺したけれど私は一層腕に力を込めた。ノイが「苦しい」と言うまで、私はノイを強く抱き締めていた。


【欺罔】
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アル クロフト/孤独の産声

頬が痛い。

転んだ時の痛みは直ぐに忘れてしまうのに、人に叩かれた時の痛みは鋭く肌に刺さって何時までもじくじくと痛むものらしい。残像が見える。針金のように細い腕が降り下ろされるのが今もまだ見えている。

近付けば拒否される。

しかし、何も叩かなくてもいいじゃないか。

あんな幽霊のような同室者のことは忘れた方がいいって分かっているのに、どうして私はそうできないのだろうか。

これから部屋に戻るのに。

どんな顔で就寝の挨拶をすればよいのだろうか。ノイウェンスは謝罪するのだろうか。あの砂を噛むような血の謝罪をまた何度でもされるのだろうか。

それではどちらが悪いのか分からない。

悪いのは誰?

私は悪くない。

食堂で叩かれた時、私は咄嗟に耳を済ましていた。

『アルを叩いた』
『ノイウェンスがアルを叩いた』

私にはその声が聞こえていた。

周囲の人間がノイウェンスを批難して私を擁護する声を聞いて心底安心した。ノイウェンスが貶められ自身が護られるのを喜んでしまう私は最低なのだろうか。叩かれて拒否されて歩み寄られることはなく冷たい目で見られて罵倒と謝罪を繰り返されて、そして、そして。

そして。

あの、微笑みを。

「もう帰った方がいいですよ」

寮長は言った。手には温かい紅茶を持っている。

「泊めて下さい」
「本当に今日は珍しいですね。この時間なら、きっとみんなもう寝ていますよ」

だから大丈夫だと言うのだろうか。

「アルなら大丈夫って、寮長も思いますか」

ノイウェンスと同室になった時、寮長は「何かあったら、ここでなんでも話して下さい」と言った。みんなは「アルなら大丈夫」と口々に言った。

一言の挨拶をするのに何月かかったか誰も知らないだろう。

寮長だって知らないだろう。

やっと、初めて、食事に誘って、やっと、それから。なんだ、こんな簡単なことだったのか、って思えたのに。初めて。私はただ、ノイウェンスと話したいだけ、そう思ったのに。

ノイウェンスに叩かれた。

頬には爪の痕まで残っている。

ノイウェンスは酷い。

「私はそれ程、出来た人間じゃないのに」

当然過去には何人もの同室者がいただろうけれど、ノイウェンスに叩かれた人間はきっと私が初めてではないか。きっと私は寮長を裏切った。私は期待外れの使えない優等生だった。

私はノイウェンスを憎んでいる。

身勝手でエゴで我儘で注目されたがりで悲劇の物語の住人振って病弱振って人間嫌い振って不幸で不健康で不健全で針金の様に細く薄く窶れて可哀想な幽霊のように白く小さな子供みたいに気を引きたがるノイウェンスが面倒で煩わしくて堪らなく憎い。

私だって、不幸だ。

「人は、みんな同じじゃないんですよ」

寮長は言った。

「そんなことは、知っています」

そんなことは知っている。

同じならここまで憎めない。

同じならノイウェンスが私を叩くことはなかっただろう。

同じならピノだけが讃えられることはないだろう。

同じなら。

同じだったら。

私とピノが同じだったら。

「私は、自分は多くの人に愛されていると思っていたんですよ。でもね、今日、そうじゃないって気付いたんです」
「うん」
「私が多くの人に愛されようとしてきたことは、実は、とんでもなく愚かでのろまなことだったんです。誰も私を愛さない。誰も私を愛してない」

言いながら私は泣いていた。

涙がほろほろ流れて頬を濡らす。

悪いのはノイウェンスだと思っていた。悪いのはノイウェンスだと思いたかった。

違った。

間違っていた。

悪いのは、私だった。

「うん」

寮長は私にハンカチを渡して、優しく抱き寄せた。

「私は、きっと、ピノに、なりたかったんだ」
「ピノが好きなの?」
「好きじゃない」

寮長はふふっと笑った。

「紅茶を飲んで。身体が温まります」

寮長は私を離して紅茶を寄越した。寮長の淹れる紅茶は透明感があってすっきりした味がする。

「ノイウェンスは、私のことを嫌ってる」

寮長は意外そうに「そんなことないよ」と言って、更に続けた。

「ノイウェンスは、きっと、ピノのことが好きなんですよ」
「誰だって、好きですよ」
「君は?」
「寮長は?」

寮長は笑顔で「ピノを好きだし、アルのことも好きです」と言った。それは聖母の愛みたいな輝きがある言い方だった。百合の精霊が降りて寮長を輝かせる慈しみの声。

私はまた涙をこぼした。

寮長は私を見ている。寮長は私に話している。寮長は私に触れている。この惨めで愚鈍な私を。

「私はノイウェンスのこともピノのことも好きだと思っていたんです。でも今日、分かったんです。私が好きで大事に大事にしてきたのは、私自身のことだけだったんです。そんなことだから、誰も私を見なかった。そんなことよりみんなはピノとお喋りしたがってた」

違ったんだ。

私が望んだこととは全く違ったんだ。

結局、私は、叩かれたって、誰にも、相手にされない。

私の頬の痛みを誰も知らない。

私にできた傷が膿むのに誰も気付かない。

誰も。

誰も。

いや違う。この寮長を除けば、誰も、知らない。

「アル」

寮長はそう言って引っ掻き傷のある私の頬を包み込むように触れた。その傷と今日の私の感傷との関係は寮長には話していなかったので少し驚いた。

「痛いですか」

痛いのは、心。

「痛くないですよ」

痕だって直ぐに消えるだろう。

「それは良かった。でもね、アル。私には君が痛くて痛くて泣いているように見える。私には見えないところに、沢山の傷があるんじゃないのかな」
「そうかも」
「多くのひとに愛されたいのは私も同じだよ。でも大切なのはそうじゃなくて、確かに誰かに愛されていることなんだよね」
「そうかも」
「私は君を愛しているよ、アル」

寮長はそう言っている時もずっと私の頬に触れていた。私の身体を引き寄せて、それでも頬に触れていた。

「つらかったね」

それまでお上品に泣いていた私のギリギリの理性はその身を隠して、私は醜く嗚咽した。身体の中のくすんだ感情を荒く削り出して洗い流される気がした。

私はピノになりたかった。あの正義の人になりたかった。

知って欲しかった。

見て欲しかった。

ピノが最悪の岩頭に立って地獄を見下ろしたことを私は知っている。ピノは極めて悪者だった。でもそれが気付くと正義に変わって、そして音もなく消えていた。

ピノの耐えたことは私には耐えられない。ピノは確かに特別だった。

だけど。

分かっているのだけれど。

ピノが正義のヒーローであったように、私もヒーローになりたかった。

拙く醜悪な願望が初めて露顕しただけでそれは常に私の中にあっただろう。みんなはそれを知っていたのだ。

好かれないのは当然のこと。

愛されないのは当然のこと。

寂しい。

温かい。

なんで。

どうやって。

何故この人は私の欲しい言葉を見抜いてしまえるんだろう。

「大丈夫だよ。心配はいらない」

悔しい。

私は醜く嗚咽して泣いて泣いて泣きながら、赤ん坊みたいに安心して寝た。


【孤独の産声】
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ピノ ザハト/遠くで聞こえる平手打ち

ちやほやされるのは気分が良い。甘い酒の風呂に浸って歌でも歌っているような心地良さだ。

俺に群がる少年達。彼らは憐れで愛おしい。

中でも俺のことを最も崇拝しているのがウィリアム・クロウだ。

ウィルと呼ばれる彼がいつも俺の隣か前に座っている。ウィルは俺に群がる少年達のリーダー役らしい。

ここにノイが加わってくれたら良いのに。ノイは俺を羨望の目で見たりしない。彼の視線を奪うのは、いつも違う人間だ。そこに俺は居ない。

声が聞こえた気がした。

『君が好き。それもとことん好きなんだ』

嗚呼、しかし君は俺を見ない。

「触るな!」

その悲鳴に近い叫び声に食堂中の人間の視線が集まった。ノイが同室者を平手打ちして、大きな声を上げたからだ。水を打ったように静かな食堂からノイは走り去って行った。


【遠くで聞こえる平手打ち】


俺を囲む何人かの少年達が小さな声で話している。

「ノイウェンス・ハウゼンだ」
「アルを叩いた」
「またあのノイウェンス・ハウゼンだ」

ノイとその同室者のやり取りを盗み見ていた俺はおかげで堂々と彼らを見ることができたが、ノイを追い駆けることはできなかった。愛しい少年達がそれを許さない。

「ああいうの、ちょっと怖いですよね」

ウィルが言うと、皆が口々に同意した。

不愉快な同調だ。

『怖い』とは、恐怖とは、もっとずっと恐ろしいものだ。恐怖は必ず圧倒的に抑圧的に人の心を踏み躙る。

恐怖を感じた時、言葉なんて忘れてしまう。

痛みや苦しみそのものが恐怖の本質ではないからだ。失神から目覚めた時、俺の身体は痙攣するように震えた。言葉はなく、ただ獣みたいに叫んだ。恐怖したからだ。痛みに失神して、目覚めて恐怖した。

「苦しんでいる人に、冷たいことを言ってはいけないよ」

俺が言うとウィルは言葉に詰まった。

「大丈夫、君は、悪くない」

ウィルの頭を撫でながら言ってやると、彼は泣きそうな顔をした。少年達は甘ったれた世界で温くやっているから愛おしいのだ。この嬉しそうな恍惚とした表情を見ると堪らなく気分が良くなる。

何も知らない少年達。

俺が言えばなんでも受け入れる。

「ごめんなさい」

ウィルはそれだけ言って俯いた。俺の言葉のせいで仲間に白い目で見られて俺の言葉のおかげで仲間の輪に戻っただけで彼らの中が歪んで行く。

俺はウィルに特別優しくする。

彼らの関係は小さな社会だ。そこには俺も参加していて手を加えることもできる。

俺は預言者のように厳しく神の子のように慈悲深く笑った。

「今の言葉は、ウィルが苦しんでいる時に必ず返ってくるよ。良い行いをしたね。とても素晴らしい」

少年達は聖なる原体験を得た罪人のように純真な目を潤ませながら頷いた。

ぽつり、ぽつり、ぽつり。

神の雫が俺の渇いた心に沁みると痛みさえ忘れていたその裂け目がじくりと湿って凝結していた血を溶かす。

ノイの泣き声が聞こえた気がした。

せんせえ、たすけて。

せんせえ、おねがい、ゆるして。

嗚呼、そして君は俺を見ない。
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ノイウェンス ハウゼン/孤立した僕と同室者

人の温かさを知ってしまった。


【孤立した僕と同室者】


世界が僕を嵐の中に閉じ込めていたから聞こえなかっただけだった。冷たい言葉の雨に耳を塞いでいたから、自分の身は守っていたようでも、大切な人の呼び声まで遠ざけてしまっていたのだ。

「おかえりなさい」
「あ、ただいま」

僕の出迎えに、同室者のアルはぎこちなく返答する。

「最近早いんだね」
「アルも早いですよね」
「うん。あ、もしまだなら、一緒にご飯食べに行く?」

そんな、怯えた草食動物みたいな顔をしなくても、僕は君を食べたりしないのに。

「同室者だからって、僕と食べる義務がある訳ではありませんよ」

アルはピノとは違う。彼は底の無い優しさを僕に与える人ではない。始まりがいつだったかは覚えていないけれど、その日以来アルは何かの責任を果たすように僕に話し掛けてくれる。

アルは眉尻を下げた。

「勿論、義務じゃない。私は君と食べたいんだよ」

それ以外には、ないよ、と笑いながら続けた。寂しそうな笑顔だった。

「そう」

ありがとう。

上辺だけの言葉でも嬉しいよ。

僕とアルは着替えてから食堂に向かった。ピークを過ぎた食堂は席を自由に確保できるので、複数人で食べようとする生徒で賑やかだ。目立つのは寄宿舎でも有名な学年の監督生とか期末に優等賞を受けたことのある人とか。

ピノもよく人の目を集めている。

社交的な人はピノに話し掛けて一緒に食事までとっている。僕の知らない人とピノが楽しそうに話している。

アルはそんな彼らを横目に見ていた。

そうだ、アルだって、僕なんかと居るよりピノと近付きたいんじゃないのか。

意識してピノ達から離れて座っていた僕は、アルに申し訳ない気持ちになった。ピノには及びも着かない僕ではアルだって詰まらないし楽しくないし恥ずかしい思いをするだろう。

「御馳走様でした。僕、先に帰ってます」

ごゆっくり、と席を立った僕に、アルは慌てた様子で声を掛けた。

「何故」

何故って、そんなの僕にも分からないよ。

「食欲ないから」
「食べなくても、良いじゃないか。一人で残されたら私は惨めだよ」

惨め。あなたが?

「惨め」

惨めっていうのは、僕のことだ。

マイヤー先生から離れると途端に僕は惨めになる。ピノにもアルにも嫌われてしまうんだ。僕は世界でたった一人になって孤独の中で老いて行く。

アルは違う。

友達が居るし愛されている。

僕は一人になったら、死ぬしかない。

生きているだけ迷惑だ。

それを惨めと呼ぶのではないか。

「違う」

アルは惨めじゃない。

アルの世界にはたくさんの人が居て楽しそうで明るくて明日がある。僕とは違う。

「ごめんなさい」

ごめんなさい。ごめんなさい。

こんなことを言う資格が僕にはないのに。アルを責める資格はないのに。

僕は生きるべきではない。

生きるべきではない。

隣に座っていたアルは僕の腕を掴んだ。マイヤー先生とは違う感触だったから酷く恐ろしい気持ちになった。

「離せ!」

僕はアルの腕を振り払った。その拍子にアルの顔に手が当たってしまった。アルが頬を押さえて、僕は見ていられずに逃げ出した。

最低だ。

もう嫌だ。

死んだ方が良い。

食堂を出る時、何故かトマトソースの匂いが鼻を掠めて、無性に食べたい衝動に駆られた。

僕は全てが最低だ。
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グレイブン サヨルフ/鼠とライオン

寮の部屋に勝手に入ることができるのは寮の管理人の特権だ。子供達が変なことに手を出さない様に見張る為なのだから、それを咎められたことはない。

「よお」

ドアを開けるとジャックが居た。私が見回っているのに気付いていたらしく堂々と椅子に座って待ち構えていた。

「掃除、しますよ」

ジャックは笑顔で「どうぞ」と言った。

「ほんと、真面目だよなあ」
「普通ですよ」
「いや。真面目だろ、 先生は」

『先生』、と言った。

ジャックを見ると持て余した脚をゆらゆら動かしている。嫌味で言っている顔でもない。機嫌が良いのとも違うし、どちらかと言うと落ち込んだ風に見える。

「ありがとう」

他に言うべき言葉が見付からなかった。

ジャックはポケットを探ると煙草を取り出した。流れる様な動きでそれに火を点けると一口吸い込んだ。

「止めるって言ってませんでしたっけ」

煙草を取り上げようと近寄ると、ジャックは私の手をさっと躱した。煙が一筋、その軌道を描いてからじんわり滲んでいく。

ジャックの煙草は大人しく没収されるのが常なので、私は煙が消えてしまうまで呆然としながら黙って眺めた。大袈裟に表現すれば信頼していたものに裏切られた気持ちだ。

「先生も吸う?」
「いいえ、けっこうです」
「じゃああげねえ」

ジャックはまた一口吸い込んだ。

「身体に悪いですよ」
「口元が寂しいんだよ。誰かいい女でも紹介してくれんの?」

ジャックの口から白煙が流れ出た。それは悪魔か怪物の様で気味が悪くて恐ろしい。やがて燻った独特の臭いが鼻をついた。

「馬鹿なことを言わないでください」
「そう? 俺って馬鹿?」
「卒業まで、あと1年じゃないですか」
「1年経てば何しても良くなる?」

良くない表現をしたな、と思った。ジャックが嫌がりそうな軽々しいアドバイスだった。ジャックは忌々しげに私を睨んでいた。

1年経てば、どうなる?

卒業まで何に耐え、その暁に何から解放されるというのだ?

私は学院に居る間に耐えていた。名状し難い抑圧から今か今かと解放される日を待っていた。閉鎖された寄宿舎の中は安全だったけれど退屈で息苦しくて私にとっては囚人を捕らえる檻に思えた。

卒業まで待って、それから?

私は解放されただろうか。

望んだ自由を得たのだろうか。

「すみません」
「謝るなよ」

私は、ここが大嫌いだった。人の価値を値踏みして大人の振りした人生経験の無い未熟な子供が支配する動物の檻で、私は小さく薄汚い鼠でしかなかった。ライオンや牛の争いを、踏み潰されないように逃げ回って生き長らえていた。

卒業して、大人に成りたかった。

人の価値を認め合う立派な大人に。

「すみません。言って後悔することを言うべきではありませんでした」

私は結局、道義や正義を覚えなかった。

ジャックと同じだ。

「先生って、ほんと真面目」

褒められた心地がしなかった。人生の全ての悪行を曝された気さえした。

副流煙は私の肺を優しく撫でた。


【鼠とライオン】

フォルテ

ジャックは酷く窶れて戻ってきた。何処で何をしていたのか聞きたかったけどできなかった。

「いい加減、授業出た方が良いよ」
「ん、そうだな」

ジャックが素直に頷いたことが、僕には悲しかった。

ジャック

もう駄目だ。生きることへの希望は欠片も残されていない。きっと世界は俺を赦さない。

生きていたくない。

この先はゆっくり堕ちて行くだけだ。

俺はピノを苦しめた。そのピノに赦されない俺が楽しく生きて良い筈がない。クレアに善い人間の振りをして近付くなんて最低だ。

動くのも嫌だ。

自分のことを考えると涙が出て来る。

泣いても何も変わらないのに勝手に滲む涙は俺には相応しくない。俺が多くの人間の様に真っ当に生きているのならまだしも、自堕落に這いつくばって他人に生かされているだけの俺が丸で普通の人間の様に苦しい振りをするなんて赦されない。

生産されたものを消費するだけの生き方をしている。

死んだ方が良い。

何処へも行きたくない。

目の前が暗闇で覆われているのは、俺が自分自身で招いた悪に押し潰されているからだ。頭の天辺から爪先まで重くどろどろとした悪が纏わり付いている。

死んだ方が良い。

生まれてこなければ良かった。

すみません。すみません。すみません。

ピノに会って謝罪したい。詰られて踏み躙られてそのまま消えたい。ピノに話し掛けるのも烏滸がましいけれど、謝らなければ耐えられない。

生きてすみません。

普通の人間の様に苦しむ権利なんてないのに。さっさと死んだ方が良いのに。社会にとって害悪でしかないのに。

嗚々、俺、どうして生きてるんだろう。

どうして生まれて来たんだろう。

苦しい。

息をするのも止めたい。

胸が痛い。

頭が痛い。

ピノはまだ俺を恨んでいるだろうか。作り笑いを続けているだろうか。俺が彼の為にできることは限られているし、なんでもした積もりでも、結局彼は俺が爪を剥がなかった時点で俺を赦す気がなくなったに違いない。

死んだ方が良い。

すみません。

死んだ方が良い。

死んだ方が良い。

レクイエム/ピノ

中庭で歌われているのは、神へ捧げる聖なる賛美歌だ。身体中に疼痛があって俺が教室に倒れている時、その歌はいつも俺を踏み付けた。


【Introit et Kyrie】


世界中が死者で充たされている。だから歌う、死者のために。だから歌う、死に行く我々のために。


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Requiem aeternam dona eis,
Domine,
et lux perpetua luceat eis.
Te decet hymnus,
Deus, in Sion,
et tibi reddetur votum in Jerusalem;
Exaudi orationem meam,
ad te omnis caro veniet.
Kyrie eleison.
Christe eleison.
Kyrie eleison.

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助けて!

誰かが俺を助け出すのだと思っていた。それは弟か、友人か、教師か、或いは神か。きっと俺を助け出してくれるのだと信じていた
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クレシエル

ジャックは時々居なくなる。

「外泊しているんですか?」

フォルテは俺の問いに首を傾げた。その動作が余りに白々しくて笑ってしまう。

「寮内にはいると思うよ」

どうせならもっと上手くやればいいのに。

俺は兄と父の嘘を間近で見てきた。彼らは人の心を読んで自分の振る舞いを決めている。だから言葉も動作も計算され尽くしている。

真実は散らばっている。

嘘は尤もらしく笑っている。

多くの人と同じように俺も嘘の方に惹かれた。父もそうだった。兄もそうだった。姉は違ったけれどサラも嘘の方を愛した。

俺は真実と嘘の区別には興味がない。大切なのは、彼らの心だと思う。

「ちょっと寂しいね」
「ジャックに会いたい?」
「うん」
「…そうか」

あなたの方が、余程ジャックを求めているのに。

「ジャックは、いつもフォルテに会いたがっていたよ」

俺の声にフォルテは口角をひくりと持ち上げた。馬鹿にしたような表情だった。俺ではなく、自分自身を嗤ったのだと思う。

「だと嬉しいな」

なんて哀しい人だろう。

ジャックは人に頼るのが上手で色々な人と関係を持っている。寮長も後輩もどうかしてジャックの助けになりたいと思っている。

でもフォルテは次元が違う。

どうして気付かないの?

「本当だよ。誰もフォルテの代わりにはなれないよ」

どうして泣きそうなの?

「ありがとう」

フォルテは笑った。その顔は穏やかだったけれど、俺には酷く哀しく映った。

リリスレイ マープレシーボ/堕落

部屋ではジャックがベッドの上で蹲っていた。同室者はジャックの部屋に行っているから、僕たちは今この部屋に二人きりだ。

けれどジャックは何かから逃げるように小さくなって怯えている。

「ジャック?」

髪に触れるとひんやりとしていた。

「……、」

ジャックは泣いていた。あの日と同じように身体を震わせて。子どもみたいに。純粋なもののように。

「最近はずっと楽しそうだったよね。駄目だよ、忘れたら」

幸せなんて、似合わないのに。

「ごめん。もう…」

もう一度髪を梳く。僕の体温が少しでも移ったように思えて笑ってしまった。

そうだ。一緒になろう。

二人で溶けてなくなろう。

不幸で情けなくて惰弱なのがジャックなのだから、強がって吼えたって噛みつくところまではしないだろう。今みたいに。

そして堕ちる。

厳格であるが故に堕落する。戒めんが為に堕落する。

「ジャックが忘れなければいいんだよ。僕はいつでもここへ来るから」

だから一緒になろう。

一緒に堕ちよう。

そのまま溶け合ってなくなろう。

ノイウェンス

また寝ている。

「……」

先生はよく準備室で寝ている。眠りは浅いらしく、小さな物音でも直ぐに起きてしまう。

僕は足音を潜めて近寄った。

細身だけれど長身の身体をぐったりと横たえている間、先生は世界を拒絶するように眠る。先生の世界には暗闇だけ。

疲れなんて取れない、形だけの睡眠。

腰を下ろそうと椅子を先生の傍に移動させると、くっきりとした瞳が瞼の下から覗いた。

かつて僕を威圧した眼。

今、僕に優しい目。

「ノイ?」

先生は肘を付いて上体を擡げる。まだ頭がはっきりしないのか黙って僕をそのまま見ている。

「すみません。起こして、」
「ああ、いいよ」
「夜、寝てないの?」
「…大丈夫。寝てるよ」

先生はふわりと笑った。

「疲れてるように見えるよ」
「そう? じゃあお前が癒して」

起き上がって広げられた先生の腕に吸い寄せられた。すぐ傍まで近寄ると、先生にゆっくり抱き寄せられる。

僕に乱暴することしかなかったその腕を意識してしまうのは仕方ない。優しくされても忘れられるものではない。

愛されたかった。

いや、先生は僕を愛していたのかもしれない。愛したから貶めた。

その形が僕には受け入れ難かっただけで。

先生の脚を跨ぐようにしてソファに膝で立つと、整髪料の匂いがした。あの頃はそれが大人の証だと何故か思った。

長く逞しい腕よりも。

腰に回る腕は、今は在り来りの愛を僕に伝える。時間が取れずに最近はスポーツができないと言っていた、力無い腕。

眠れない所為だろうか。

それとも気持ちが変わったのか。

「導入剤もらったら?」
「ん?」
「入眠導入剤。睡眠薬だよ」
「不眠症じゃないから。心配するな」

先生はその話題を終わらせたいらしく、「髪伸びたな」と言って僕の髪を梳いた。

下手糞。

頭は良い癖に自分の事には不器用。

「…ピノにも言われた」

でも僕は先生を責めたり咎めたりできない。見え透いた先生の嘘にでも罠にでも甘んじて陥落する。

僕は先生を拒否する術を知らない。

それはきっとあの頃から。

「髪、綺麗だな」
「真っ直ぐだけど」
「それが良いんじゃないか」
「…ありがとう。それもピノが言ってたよ」

ピノも『真っ直ぐでさらさらなのは、ノイの心と一緒みたいで好き』と言っていた。

僕は少しカールしている髪の方が愛嬌があって良い気がする。自分が可愛く思われたいという訳ではないけれど。

「まだピノと仲良いのか」

先生の固められた髪は僕を冷たく突き放す。常に清潔に整えられたその髪は、先生が生徒と一線を引いて距離を保つ為の一つの道具だと思う。

『ピノの話をするな』

微かな呟きだった。けれど確かに僕の心をざわめかせた。

あの頃みたいに。

先生はピノが嫌いらしい。

「仲良いって程には、仲良くないよ。昔も今も」
「でもお前はピノの話が好きだろう」
「そうですか?」
「授業もピノと受けてる」

そういうところは、見てるんだ。

「分からないけど。僕は先生が好きです」

先生しか与えてくれない感情が沢山ある。先生にしか感じない感情が沢山ある。

求める。惨めに、卑しく。

与える。浅ましく、純粋に。

それを恋と人は言うらしい。綺麗に彩られた思い出や心躍るような感情の揺らめき。切なくも甘い引力。

それを欲望と僕は呼ぶ。

「……」

先生は僕を見る眼を鋭く光らせてから強く抱き直した。

「好きだから、」

好きだから、苦しい。

「座っていいですよ」

不意に先生は笑った。怒っているようだった眼は優しく細められている。

横に座ろうとすると先生は僕の腰を離さないで、「私の上にどうぞ」と言った。

ほとんど同じ体格の先生の膝に座るというのは、ひどく気が引ける。

「流石に、ちょっと…」

あの頃とは違う。

「ノイは軽いから、大丈夫」
「そういうことではなくて、」
「座って」
「なんで、」

こだわるべきところではない。

「好きなら座って」

先生は僕の臍辺りを見詰めながら言った。

「……」

命令でも罰でもない行為を拒否する理由はない。そもそも、その術を知らない。

僕は力を抜いて先生の脚に座った。首に腕を回して体重を掛ける。

「私はまたお前に酷い仕打ちをしそうだ」

それが愛なら僕は赦してしまう。

「そんなの嫌だよ」

そう言ってはみたけれど、その無情な仕打ちをされた過去も含めて僕は先生を特別だと思っているのだから、先生を嫌いになったりはできないと思う。

二度と繰り返されないことを祈る。

「ああ。私も嫌だ」

先生の優しい目の中に僕が映る。

先生の世界から煩わしいものが全て消えて、最後に僕と二人だけになったらいいのに。

僕は先生に口付けた。

アル クロフト

私の同室者は近頃何か良いことがあったらしい。

「おかえりなさい」

こんなことはこの半年に数える程しかなかったのに、丸で普通の同室者のようにノイウェンスは振る舞う。

「ああ。何、まだ制服なんて珍しいね」

彼はほんの僅か破顔した。

「今帰ってきたところで」

神々しいくらい白い肌は見ようによっては病的だ。細いし。ほとんど笑わないし。

今は違ってきたけれど。

「じゃあ、食事もまだ?」
「はい」

2人して狭い部屋で着替え始めることになった。

私はノイウェンスをちらちらと横目に見るけれど向こうは淡々と着替えるだけで聊か気まずい。それに彼の身体は肋骨やその他のたくさんの骨が浮いていて痛々しい。肩も、肘も、背骨も。

「……」

前期は私が帰る時間には彼は既に着替えていて、こうして鉢合わせることは一度もなかった。

はあ、と溜め息が漏れた。

「あなたは、」

ノイウェンスの低いけれど澄んだ声が響く。訛りのない上品で綺麗な発音、或は態とらしく紳士的を装う調子で。

「うん」

声が低いのは、背が高いからかもしれない。

「食事は、」
「ん? あ、ああ。まだだよ」

気まずい。やり難い。

「……」

スラックスとジャケットをハンガーで吊すと、ノイウェンスも丁度着替え終わったところらしい。目が合った。

「あのさ、」

そのつもりは全くなかったけれど。

「はい」

先輩として、そうしなければならない気がしただけで。

「食事、一緒にどうですか」

黙ってこちらを見るノイウェンスの瞳は鋭く光ったから、私は情けない邪推をしながら返答を待った。名前も憶えられていないかもしれないとか、やはり嫌われていたのだろうかとか、そうでなくても食事に誘うのに半年も掛かって先輩として情けないと思われたかもしれないとか。

「いいんですか?」

ノイウェンスは真顔で尋ねた。

「…君の都合が良ければ」

同室として挨拶をしてからこれまでの半年間、私は彼が無駄に話すのを聞いたことがなかった。彼がただ食事をするのさえ見たことがなかった。それは本当に、一度として。

ノイウェンスは優しげに笑って言った。

「いま支度します」

私はベッドに腰掛けた。力が抜けたと言っても良い。

私は彼の怜悧さと爽やかさを併せ持つあの貴重な笑顔を思い出しながら、やはり彼は幽霊ではなく、もっと神に近いものだろうか、と真面目に考えた。

マイヤー

ノイは私が普段レポートの採点や報告書をつくる椅子に座っている。古い木製のそれは重厚で、背は私とそう変わらないくらい高くても酷く痩せている彼には聊か大きく感じられる。

避けられている。

勿論そんなことを思うのは初めてではない。

自分のしたことに自覚もあるから傷付くようなことは無いけれど、それを許容していた筈の彼らに裏切られた気分になるのも事実だ。ノイだから特にそうなのかもしれない。

肉のない身体は強さや感情の高まりを感じさせない。

ただ在る、物のように。

「なぜ避けるんだ」

ノイはペンのキャップを開け閉めしている。表情もなくカチカチと鳴らすから傍で聞く私を苛々させる。

「避けてない」
「馬鹿を言うな」
「…ただ少し、怖かっただけだよ」

怖かった?

「私が?」

ノイはキャップを閉めるとそのペンで机を撫でた。彼の細くて白い病的な指が揺らめく。

机に座るのは行儀が悪いが、ノイを斜めに間近く見下ろせるその位置に腰掛けてもこちらを見ようともしない彼にとっては構わないことだろう。

「……、結婚」
「はい?」
「僕じゃ先生とは結婚できない」
「……」

何を今更、とは言えなかった。

ノイが怖いと言う。目も合わせずに私とは結婚できないと言う。嘘も本当もない戯れを、怖いと言う。

それでは上がる体温も差し延べられた手も分かり合えたと思えたあの瞬間も恐怖でしかなかったというのか。今この時間も彼には恐怖となるのか。

ならばあの言葉は、嘘だったのか。

「先生は他の生徒とも仲がいいよね」
「…どういう意味だ」
「先生は怖くないの?」
「何が」

ノイは手を止めた。

「……」

手に入れたと思ったのに、自分のものになったのだと思ったのに、ノイは顔を歪めて離れようとする。

拒絶しながら引き留めるのはあの頃と全く同じだ。拒絶しながら引き留める。気を引きながら拒絶する。進んでいない。成長していない。

結局、何も手に入れていなかった。

籠に閉じ込めて飼い殺すつもりだったのに私のそれはあの頃から今までずっと空のままだったらしい。感情だけが重く沈んで何かが居るように錯覚していた。私の感情はそれ程、確かに分かる程の大きな塊になっていたのだ。

それをノイは怖いと言うのだろうか。

触れてもない、私の心を。

「ノイ、私が嫌いならそう言いなさい。ここへももう来るな。私は子どもじゃない。君たちとは違う」

近くにいると君をまた束縛したくなる。離れた心と心の距離を思い知らされるから嫌がっても泣いても許さないで縛り付けたくなる。

この狂気は、愛と呼ぶには純粋過ぎる。

「……」

捕まえたら決して離さない。

学生時代の好きとか嫌いとかいう感情は忘れてしまったけれど、独占欲と嫉妬に塗れたこれを恋と呼ばずに何と呼ぼうか。自分だけのものにして閉じ込めることを結婚以外の方法で実現できるなら疾うにしている。

君が怯えていたのは知っているし君が泣いているのを笑って見ていた自分も憶えている。

けれど怖いと言われたのは初めてだ。

籠に入りもしないで怖かったとどうして言うのだ。捕まえたら離したりはしないけれど、ノイは一度も私の手に落ちなかった。

だからノイと別れてからは忘れようとした。いっそ無かったことにしたかったくらいに。

狂気からも恋心からも目を逸らした。

私と結婚してくれるのではないのか。そう言って笑ってくれた時にどれだけ嬉しかったか分からないのか。本当にあれは全て嘘だったのか。恐怖から逃れる為の虚言だったのか。

だったらどうして、戻って来た。

「君を諦める為にどれだけ待ったと思ってるんだ。忘れていたとでも思ったのか」

忘れたくてもできなかった。

遠くにノイの姿を捉える度に薄汚い感情が湧いた。

そしてぐつぐつと煮え立つ。

「……」

ノイの細い腕が私の身体に向かった瞬間、私はほとんど本能と反射でそれを強く捕まえた。目が合っても睨まれているのか単に凝視されているのかの区別もつかない。

コントロールできない。

掴んだその腕は冷たくて生きていない蝋人形のように思えた。

違う。ノイは私と結婚するんだ。

「ふざけるな! 何故私を避ける!? 抱き締めた時には結婚しようと言っていたのに、どうして…」

卑怯で残忍なのは、君の方だ。

「先生、」
「……なんだ」
「僕は先生が好きでした」
「……」
「先生だけが僕を迎えに来てくれた。醜く泣いてもそれで捨てたりはしなかった。僕の世界は先生と二人だけのもので、だから僕は先生に愛されたくて仕方なかった」

世界に二人だけ?

「そんな筈、ない」

そうではないから狂わされる。

「先生はいつも冷たくて、僕は一人にさせられる度に自分が惨めで生まれる価値もなかったもののように思えた。愛されたくて、でも誰も僕を愛してはくれなかった」
「……」
「ピノだけは僕にも優しかったけれど、ピノの世界には誰もいないから、残りの全てに愛を平等に優しく振り分けているだけだから、やっぱり僕は一人だった。先生と僕の二人の世界に、僕だけ一人でいたんだよ」
「……」
「愛されたくても愛されなかったあの頃の気持ちを、無視すること、できません」

愛していたよ。

私の世界はごちゃごちゃと煩雑で、いつもノイは静かにその中へ埋没していた。それが許せなくて乱暴にノイを引き摺り出すけれど冷たくしたことなんて一度もない。熱すぎるから感情が沸騰して彼に手を出してしまっていたのだ。

「……随分と、衝撃的な告白だね」

私は笑ってしまった。

笑うしかなかった。

ノイの腕を掴んでいた手から力が抜けて彼を縛り付ける力も抱き寄せる力もなくずるずると離れた。ノイの目は久しぶりに真っ直ぐ私を見ていて、そういえば昔はこの目で見られるのが好きだったことを思い出す。

「せんせ、」

ノイの世界には私だけが映っている。

そう、確かに思った。

「叩いたりしてごめんね。愛していたよ。君だけが私の余裕を奪う。君だけを閉じ込めてしまえればと思っていた。愛していたよ。乱暴なことをしても伝わらないよね。ちゃんと気持ちに向き合って言葉にしていれば良かった」

笑う私を見るとノイはその場にへたり込んだ。立てた膝を細い腕で抱えて弱々しく座っている。

「やっぱり卑怯だ…」
「え?」
「ただもう残忍ではないみたい」
「……」
「卑怯で純粋」
「その言葉、」
「今だって嫌いだとは思ってないよ」
「……」
「僕だけを見て僕だけを愛して欲しいって思っています」
「……」
「きっと先生には煩わしいものが多いんですよね。世界に二人だけならよかったのに」
「……」
「怖かったって言いましたけど、やっぱりそれとは少し違うかもしれません」
「……」
「怖い予感が、していたんです」

そうか。

「それなら良かった」

君のことが漸く少し分かった気がする。

「よくないよ」

ノイは笑った。その声は低くて彼がもう無抵抗で小さな子どもではないことを知った。必死に藻掻いて生きてきたに違いない。誰にも縋れずにたった一人で、生きる自分の価値をも否定しながら自虐して拒食して、けれどその中にある微かな光を探して。

殴ったりしてごめんね。

諦めなければ良かった。無様に求めて彼を愛すれば良かった。

「すまない」

床に座り込んだらノイと目が合った。長い前髪に隠れた切れ長の綺麗な目は初めて見た訳でもないのに鮮やかに焼き付く。

「憶えていて。僕は先生が好きだったけど叩かれるのは嫌いだった」

狭い準備室に二人だけの世界。

「絶対に忘れない」

ノイの目には私しか映っていないし、私の目にはノイしか映っていない。

「それならよかった」

ノイが笑うのを初めて見た気がした。

ノイウェンス ハウゼン/決壊

化学室にいると昔の記憶が蘇る。

扉を2つ抜けた先にある第2化学準備室。マイヤー先生はいつもそこで仕事をしていた。コーヒーを片手に課題を見たり論文を読んだりする先生は当時から嫌いではなかった。怖くないし、痛くしないし。

今もきっとすぐそこにいる。

大きな白衣、清潔なシャツとタイ、長い手足、鋭い目、薄く笑う唇、鮮やかに赤い舌、身体に染み渡る声。

『ノイ、』

「ノイウェンス」

突然かけられた声に振り返るとピノがいた。その姿は僕の背中から入る夕日に染められて芸術的に思えた。

「、何」
「私は覚えていますよ」
「…何を」
「あの時のあれが君だってことにも気付いていました」
「……何?」
「これからマイヤー先生に会うんですか?」

ピノは何かに怒っているようだった。

「いや、別に」

会おうとしていたけれど。

教室を出ようと立ち上がると「ちょっと来て」と呼ばれた。僕が渋っていると手を取って無理に連れて行く。僕の分からないところで僕に怒って僕を連れて行く。

「黙っていてすみません」

その声にさえ怒りを孕ませて。
僕には何に対する謝罪なのか少しも分からない。

「ちょっと…」
「ここで、一度あなたに会ってます」
「え?」
「退学する前、」

ピノが退学する前、化学準備室から一番近いトイレで、僕は。

「よく分からないよ」

トイレの前まで来ると自分の手が震えていることに気付いた。恐怖したのでも驚愕したのでもまして歓喜したのでもない。ただピノを振り払うだけの力が出ないくらい小刻みに震えているのが自分でも分かった。

今度は僕が夕日に照らされる。

「まだあんなことを続けているんですか」
「知らない」
「君はもう子どもじゃない」
「分かってるよ」
「自分で断らないとマイヤー先生はいつまでだって、」
「うるさい!」

どうして彼が怒っているのだろうか。逆光に潜む野生的な眼が僕を捕捉する。

「……」

どうして僕は怒っているのだろうか。

「…、君には関係ない」

責められるべきは誰?

あの頃は一人で堪えるしかなくて誰にも打ち明けずに最低な気持ちを味わった。しかし逃げようと思えばいつでもできたのにそうしなかったのも僕自身。

心の底では先生を受け入れていたのかもしれない。

彼を嫌悪しただけではない真実。

嫌な感情は全て忘れてマイヤー先生と新しい関係を築いていく。そう決めたから先生の腕の中でまた泣いて、そして笑った。都合が悪いから蓋をしたのではなくて必要がないからほんの少し美化しただけだ。

ピノでさえ齎さなかった感情の為に、僕は笑う。

マイヤー先生も僕も悪くない。

「どうしてここで一人で泣いていたんですか?」
「……」
「マイヤー先生はあなたを傷付けたのではありませんか?」
「なんのことか分からない」
「分かってるんですよね?」
「……」
「僕はあなたから服を奪って泣かせたまま置いていったりはしない」

乾いた音が響いた。

自由だった僕の手が彼の頬を叩いた。自由をこんなことの為に行使する自分の矮小さに、かつてのマイヤー先生の理不尽な暴力を思い出して言いようのない悲しさが込み上げる。

「ごめん、」

ピノは握った手をそれでも放さなかった。

「あなたは悪くない。マイヤー先生も悪くない。ただ少し、間違えちゃっただけですよ」
「……」

それが致命的な間違いでも、そう言ってくれる?

「マイヤー先生に、何か嫌なことされていたんじゃありませんか?」
「……」

それを歓迎した瞬間があったとしても、軽蔑しない?

「ノイ、」

『ノイ、』

「せんせ…っ、ごめん、先生、」

その名前が酷く汚れたものでも、また呼んでくれる?

僕を迎えに来てくれるのはマイヤー先生だけだった。殴られても蹴られても優しく撫でてくれたら途端に安心できた。名前を呼んで、閉じ込めて、僕の全てを曝け出しても笑ってくれた。

「怖いこと、ないから。ゆっくり呼吸してごらん?」
「せんせえっ、ごめんなさい、」

でも先生の笑顔は、残忍だった。

「大丈夫ですよ」

僕を包むピノの身体は言葉とは裏腹に乱暴だけれど、その熱はじわじわと染みて確実に伝わってくる。心まで容易に解かす哀切なその温度は、少しもぶれずに人に届く。

卑怯でも残忍でもない体温。

「ごめんなさい、死ぬから、許して、」

生きる価値のない僕が煩わしてごめんなさい。迷惑ばかりでごめんなさい。我が儘に無駄に生きてごめんなさい。

ピノには知られたくなかった。

「大丈夫。また一緒に授業を受けられるよ。いまノイが頑張ってくれてるの分かるから俺も嬉しい」

下品で劣等で貧しい僕の本性。

「ごめん。ごめん、ピノ…」

胸が締め付けられたら痛い。鮮烈に蘇る言葉は凶器だ。繰り返される行為に僕は何を思った?

この感情はなんだ。

この感情はなんだ。

「ノイ、大丈夫。つらいね、でも大丈夫だよ」

白衣、タイ、長い手足、鋭い目、笑う唇、舌、声。それらが僕に何をしたのか、きっと永遠に忘れたりしない。蘇って苦しめて、僕は吐く。

「放して、吐き気がっ」

個室の便器に流れ出たものは臭くて汚い。それがさっきまでは僕の体内にあった。

直ぐに流して口を漱いだ。

「大丈夫?」
「ごめん、急に」
「俺はいいよ。お前大丈夫なの? 風邪?」
「…ごめん、汚いから、」

ピノを避けても彼は離れてくれなかった。

嗤わない。卑しめない。汚い僕を見下しもせず雑菌だらけの雑巾を押し付けもせず、只管不安気に僕を見る。

「服の替えあるか? 汚れたの襟と袖のところだけだから、洗えばちゃんと綺麗になるよ」

違う。

「違う、ごめん、」
「大丈夫。人に言ったりしねえから」
「違う。みんな知ってるよ」
「は?」
「僕が毎日吐いてるの、みんな知ってるんだ…」
「……」

醜い僕を見てくれるのはマイヤー先生だけ?

「ごめん…」

そうやってまた抱き締めてくれるから、僕は分からなくなる。

「大丈夫。そんなの一生続かないから」

決して僕の行為を否定しないで、けれどゆったり安心させるように、医師もジョシュもしなかったやり方で受け入れた。

「…、ごめんっ」

僕は泣いた。

本当は分かっていたんだ。マイヤー先生の行為を少しだけ喜んだことのある自分を。吐き気なんてないのに無理に喉に手を突っ込んで嘔吐している自分を。食べたくて仕方ないのに拒食する自分を。作り笑いで好きだと言って先生に取り入ろうとする自分を。

毎日助けを求めてた。

毎日、毎晩、毎朝、毎秒。

この感情は何?

「ほら、大丈夫だったろ?」

僕は泣いた。排水溝に涙も鼻水も吸い込まれていった。いつの間にか真っ暗な世界にこのトイレだけが清潔に明るくて、あの頃に感じていた薄暗さなんてピノ一人の存在で打ち消せるのだと知った。

グレイブン サヨルフ/理性と、希望で

「またサボりですか」

清掃をしていたらジャックがいた。彼は面白くもなさそうにいびつに笑うと手にしていた煙草の火を擦り消す。

「よお」

吸い殻を彼の手から取ってごみ袋に捨てる。

「身体に悪いですよ」
「もう吸わねえよ」
「前にも言ってましたけど」
「そう?」
「……」

どうしてそんな嘘を吐くのか私には分からない。

モップを床に這わせるとジャックが近付いて来た。気怠そうにゆったりと、そして壁に寄り掛かってそのままずるずると座り込む。

「寮長って、真面目だな」
「……当然でしょう」
「どうしてそんなに真面目に生きてられんの」
「……」
「真っ当な人生の終着点って何?」
「……」
「なんで真面目な奴って真面目なの」

ジャックを見ると目が合った。視線だけで殴り付けられたような感触がしてまた床を見た。

「理性と、希望で」

私の答えにジャックは笑った。

全てを無下にするようなその笑い方に不快感を覚える。息と喉だけで作られる渇いた響きのそれはジャックが乱暴をする兆候だということも知っている。

「じゃあ俺には無理だ」

私は清掃を中断した。清掃用具を持ってその場を去ろうとしたけれどジャックに足を掛けられて蹌踉めいてバケツの水を床に零した。

「……」

気にせず進もうとするとジャックが後から付いてきた。

「床、汚したぜ?」
「止めてください」
「いーのかよ、寮長が寮を汚して?」
「後で掃除します」

ジャックに前に回られる。

「イケナイ寮長だなあ」

ただ前に立って行く手を塞がれたことよりも彼が残忍な笑みを浮かべていることの方が余程私の足を竦ませる。関わりたくないけれど、そうも行かないらしい。

「……」

胸倉を掴まれてジャックの息がかかる。

「言うことあるんじゃねえの?」

私は寄宿舎で色んな生徒を見てきた。話すことはほとんどないけれど彼らがどんな風にここで生活しているかはよく分かる。それは私もかつてここで10年以上を過ごしたからだ。

ジャックのことは、分からない。

「手を離しなさい」

私が言い切る前に清掃用具が蹴り倒されて派手な音を立てた。バケツの水は床に撒かれて集めたごみも散らばった。

「他に言い残すことは?」

顎を掴まれ反射的に閉じた目を開くこともできずにこの荒んだ子どもと寮長としてどう正しく接するべきかが頭の中を巡っていた。答えは出てこず自分の未熟さが嫌になる。

「……ないよ」

ジョシュ

あんな風に彼が考えるのは、俺にとっては、彼が病んでいるからという他に理解のしようがない。けれどただその一言に込めるのは悲観や諦めではなく希望であって欲しいと思う。

治るものだと信じているから。

掲示板にあったマイヤー先生からの呼び出しの紙は引き剥がして丸めて捨てた。ウェンスの目に入る前に。

「せんせ…っ」

ノックをする前に聞こえたそれは色を含んでいて虫酸が走る。

ウェンスが一人でノートを届けた時にもこんなことが繰り広げられていたのだとしたら、様を見ろ、と思った。込み上げる不快をウェンスも同様に感じただろう。好きな人の、少なくともある程度関係を持った人の軽はずみな情事。

好意がその逆に変化するのは容易いことだ。

「猥褻教諭が」

そう言った口元はしかし緩んでいた。

フォルテ

「授業、出ろよ」
「ああ」
「卒業できるのか?」

狭い部屋の蛍光灯の下で黙々と本を読むジャックは蛍雪には程遠い。

「お前は卒業できんの」
「できるよ」
「だろうな、」
「……」

姿勢をそのままにこちらを見たその青い目からは感情が読み取れない。ただ直線的に、刺さるように向けられている。

「意味ねえこと聞くなよ」

嘲りもしないで俺を蔑む。

ジャックは以前からこうだったか。いつからこうも頽廃的な態度だったか。彼は何に反抗しているのか。

俺には分からない。

彼は読んでいた本を投げ出すとベッドの中へ深く沈んだ。周囲の気圧まで下がっていくように思え、俺の心もその中心に引き擦り込まれていく。孤独というよりは失望が似合う。

「暖かい格好をしろよ」
「ぁあ?」
「最近、寒いから」
「…お前もな」

俺の言葉に反応する。

俺の想いに反応しない。

「そろそろクレアが帰ってくる」
「……」
「きっと楽しい話しができるな」

学習室へ行こうとしたら本当にクレアが帰ってきた。上品なノックの後に現れた彼は初対面の時と変わりない淀みない笑顔を浮かべる。

「どこかへ行くの?」
「いや。着替えが向こうにあるから」
「そっか」

タイを緩められた喉元から通るクレアの声はまだ子どもで、その彼が楽しそうに笑うと俺も否応なしに安堵させられる。

ジャックとは丸で違う。

「食事は?」
「食べてきちゃったー、あ、やっぱりいたんだ」

ベッドに転がるジャックを発見したのか一段と声が弾んだ。

「ガキの癖に帰りがおせぇ」
「ね、ジャック。ジャックは音楽、ピアノで履修したの?」
「……」
「聞いたんだよ、カルメン弾いたんでしょう?」

『意味のないことを聞くな』とは言わないのか。

「リストが言ったのか」

ジャックの声は呆れてはいるけれど心底嫌がってはいない。詮索が嫌いな彼が許してしまえるのはクレアが純朴だからだ。クレアが美しいものだからだ。

2人のところへ行くとジャックは起き上がっていた。

「僕が聞き出した。ねえ今度弾いてみせてよ」
「もう弾けねえよ」
「下手でもいいよ」

誘惑するようなクレアに靡く。いつだって。

「下手なんて言わせねえから」

溺れた魚。落ちる鳥。折れた剣。破れた城。晴れない空。明けない夜。或は忘れない人。

不毛で不幸で不埒な君が、俺にはまだ耐え難い。

ジャックは感情の篭った目で笑った。

ジョシュ ノートン/決壊

「……」

ウェンスはぎりぎりまで寮に帰らない。教室で自習したり図書館で読書したり好きに動いて学校が締まるまで残っているから探そうとすると苦労する。どの学年のクラスもどの教科の教室もトイレも廊下も屋上も彼を隠してしまう。

それでも諦めたくはない。

彼は同室者とずっと一緒にいるのに耐えられない。それは俺に対しても同じで、不意に姿を消すのは人と接することが苦痛になるからだ。

それでも諦めたくはない。

「ウェンス」
「……」
「さっきピノに言ってた用事って何?」
「……」
「また不安になってる?」
「違うよ。大丈夫」
「ならいいけど」
「……やっぱり大丈夫じゃない」
「え?」

思わず声が漏れた。

教室にはまだ何人も生徒が残っていて、聞いてはみたけれどそういう状況で彼が弱音を吐くとは思わなかった。人目を恐れるウェンスは病的な自身を誰にでも曝す訳ではない。

「死にたい」

ウェンスの青白い肌と生気のない瞳がその言葉を担保するようで薄ら寒い。

「……」
「辛い。死にたい」
「…ウェンス…」
「死んだら笑える気がする。全部忘れて楽になれる気がする」
「違うよ」
「死にたい。もう嫌だ」
「違う、ウェンスは頑張ってきたじゃないか」
「飛び下りたら死ねる? 首吊ったら死ねる?」
「……」
「でも迷惑かけるね。でも死にたい。死んで消えてしまいたい」
「駄目だよ。俺が許さない」
「ジョシュに僕の気持ちは分からない。ジョシュと僕は違う。僕は死にたい。君には迷惑かからないようにするから」
「死んだら悲しいからだよ」
「嘘だ」
「悲しいよ」
「本当は僕のこと面倒な人間だと思ってるんだろ」
「ウェンス、君が生きてきたことを俺は知ってる。君の孤独や努力は俺には理解しきれないかもしれないけど、俺は君がちゃんと生きてきたこと知ってるよ」
「よく分からないよ。僕は死にたい」
「分かるだろ? 本当は俺の気持ち、分かってるんだろ…?」
「僕なんて死ねばいいって思ってる」
「違う」
「……」
「大丈夫。ウェンスは悪くない」
「死にたい。死んで詫びるよ」
「それは君の本心じゃない」
「本心だよ」
「違う。君は生きる為に頑張ってきたんだ。簡単に死ぬな」
「でも死にたいんだよ。自殺すら一人前にできない僕だけど」
「ウェンス。君は何も悪いことをしてない。俺と同じように生きる権利がある」
「ないよ」
「あるさ」
「……」
「今日はもう帰ろう」
「……」

笑ってみせるとウェンスは「ごめんなさい」と謝った。その姿があまりに弱々しくて俺は悲しくなった。

教室には2人きりになっていた。

「ごめん。また甘えた」

ウェンスを見ると泣きそうな顔をしていた。けれど決して泣かない顔。疾うに決壊していてもおかしくないけれど、寝不足で栄養不足のその顔が悲しげに歪むところをを何度も見ながら彼が泣くのを見たことはない。

「もっと甘えてよ」

不安定の波が収まったのかウェンスは曖昧に頷いてから立ち上がった。

折れてしまいそうだ。

俺は無為に笑いそうになるのを堪えて彼をエスコートした。腰に触れると痩せているのがよく分かる。抱いてみればきっと彼の不健全な生への渇望を思い知らされて、今よりもっと悲しくなるに違いない。

昨日あんなことを言ったから俺が突き放すと思ったのだろうか。

今日ウェンスが死にたいとまた言い始めたのは彼が生きることに興味を持った証であって、同時に俺への疑心暗鬼が生じている証でもある。

もう、疲れた筈なのに。

ウェンスが素直に甘えてくるから、一線を軽々しく越えたマイヤー先生よりもウェンスが憧れ続けたピノよりもずっと自分の方がウェンスを支えているのだと実感できて、それが俺の自惚れだとしても嬉しいことに違いはなかった。

振り向いたウェンスの、頬に触れる。

「ジョシュ…?」
「うん」

髪に触れる。

「何」
「ウェンス、」
「……何」

首筋に触れる。

「死んだら駄目だよ」

触れたい。まだ足りない。

ウェンスはそれには返答せず先に寮へ行ってしまった。薄暗い廊下を、それでもしっかりした足取りで歩んでいた。

心にも触れられたらいいのに。そう思った。
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