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ダリア

俺は一人で死ぬ運命にあったけれどチーフだけは傍にいた。あの時にそうして目を合わせてしまってからが間違いなんだろう。

俺が愛着を持ったことも、彼が愛情を注いだことも。間違い。

「俺がお前を裏切ると思うか」

俺は自嘲した。裏切れる訳がないから。裏切りたくて裏切られたくて仕方がなかった頃にもそれらはどちらも許されなかった。父の遊び心とチーフの気まぐれな愛によって。

チーフは黙って煙草を燻らせると、いつもの疲弊と無気力を綯い交ぜにした表情で気味の悪い笑みを浮かべた。

チーフはこういう時に自虐する。

「ああ、思うよ」
「だったら裏切ってやる。お前よりハルヤを選んで、逃げ出して、」

言い切る前にチーフは俺を床に押し倒した。銜えていた煙草を投げ捨てると両手で顔を、というより側頭部の髪を鷲掴む。

「……その前に、殺してやる」

俺は笑って頷いた。

名前をくれた。愛をくれた。仕事をくれた。チーフの不器用な愛情は、それでも俺には愛に違いなかった。

ミツル

俺も途中何度かここを出たけどハルヤが帰ってきたのは夕方になってからだった。手には書類の束を抱えている。

「よ」
「まだいらしたんですか」
「悪い?」

ハルヤはひとつなぎになっている奥にある部屋に直行する。通りすがりに「悪くはありません」と言ったが、それは俺に気を遣ったというわけではなく社交辞令丸出しの事務的なやり取りだった。

奥にある部屋の扉は壊れていて開きっぱなしだ。空調機の唸る音の中に書類をいじる音が混じって届く。

奥の部屋を覗き見るとハルヤはあまりにいい姿勢で仕事をしているから笑ってしまった。

「俺のできる仕事ある?」

俺の声にハルヤはゆったり振り返ると、すみませんと言いながらも「いいえ」とはっきり断った。振り返った時と同じようにゆったり前に向き直ると仕事を続ける。

後ろ姿はリュウのように細い。

「お前って笑うの?」

口をついて出た疑問はまるで、俺がハルヤに笑って欲しいと思っているように聞こえるから後悔した。ハルヤが冷静にはいと首肯するからなおさらだ。

リュウに振られてハルヤに振られて苦笑する。

「ねえ、ハルヤが仕事終わるまでここいるから」
「……」
「無視か」
「すみません、」
「どうぞ。仕事続けて」
「……」

一瞬動きを止めたけど、結局ハルヤはこちらを見向きもせずに仕事を再開した。

リュウよりは人間らしい反応をするのだなあと思った。

ハルヤ

チーフがあまりに饒舌で呆気に取られる。

「ノるかと思ったんだけどな」
「相手を選べ、阿呆」
「ハルヤはお前たちにとってはそれ程魅力的じゃないのか?」
「…そうじゃなくて、」

ダリアさんは「猫好きの人間の前で猫を虐待するな」と力無く続けた。チーフはそれに笑うだけだ。

「あの、私はこれで失礼しても宜しいですか」

なるべく自然体で言ったつもりだったけれど、顔を上げたダリアさんとチーフと目が合って嫌な汗が出た。そこに批難の色は微塵も含まれないのに威圧される。

『自分で選んで進めるから逃げ道なんだよ。残された最後の道がそれであってはいけない』

チーフのことは少しも分からない。

「…、すみません」
「なんで謝るんだよ」

透かさずダリアさんに指摘されるが、謝る以外の返答は浮かばなかった。チーフを見ると嬉々としていた先程までと打って変わった雰囲気になっていて戸惑う。

何も言わなければ良かった。

「……もう、帰れ」
「もう興味失せたのかよ」
「興味はある」
「何それ。珍しいな」
「お前、大切にしてるだろ」
「何を」
「ハルヤを」
「……」
「節操無しの癖に、」

チーフはローテーブルの上に組んであった脚を床に下ろすとダリアさんを深く睨み上げた。その闇を宿すような瞳と低い声に私は竦む。

背筋が凍る。

「殺してやろうか。一途なお前は気持ち悪い」

チーフは惰弱に立ち上がりゆったりとダリアさんに近付き襟元を掴んで囁くように言った。初めて会った時に私を蹂躙したやり方とは全く違う。それは吐息に近く艶美ですらあった。

「お前よりましだ」

チーフの首に手を掛けたダリアさんの声音はむしろチーフのそれよりも殺意を孕んで聞こえる。

私は直視できずに視線を反らしたけれど不気味にチーフが笑ったのが分かった。それはきっと人を引き付け畏れさせる人工的な微笑。

「冗談だよ」

ダリア

「それで俺を呼んだのか」
「この間はお前も盛り上がってただろう?」
「この間?」
「お前は女より少年が好きだってことだよ」
「……」
「ハルヤは美しいからお前もイイんじゃないか?」
「…下世話だな。お前らしくない」

うんざりしてみせるとチーフは歯牙にもかけず笑う。「これはお前への思い遣りだよ」と。

往々にしてチーフは厄介だ。

「これはダリア」
「はじめまして、ハルヤです」
「知ってるよ」

ここに入る許可を出したのは俺だ。

ハルヤは表情を変えずに深々とお辞儀をしたが俺はそうするタイミングを失ってハルヤの精彩な赤い髪を眺めていた。こいつは何を考えてチーフの下らない遊びに付き合っているのだろうか。

「お前ってチーフに無条件で従うわけじゃないんだろ?」
「…どういう意味ですか」
「付き合い切れないって言ってもいいんじゃねえのって」
「……」

そこでチーフにハルヤを邪険にするなと言われた。

全世界を邪険にする人間に言われたくはないと心で思って溜め息を吐く。ハルヤは無表情で俺たちのやり取りを聞くだけだ。

美しいというより欠陥がない。

ハルヤがここへ来る直前、チーフは投げ遣りな姿勢と投げ遣りな態度で柴のペットを預かることになったと言った。

『手を出すなよ?』

どの口が言うんだろうな。

「邪険になんてしてねえよ。ハルヤは大切な人間だからな」
「大切?」
「……いつか返すんだろ?」
「そういう意味か」
「……で、この間はできなかったから今日は一緒にヤろうって?」
「ああ、面白い仕事もないだろう」

ハルヤを見遣ると漸く表情を崩していた。自分がどういう目で見られていたのか理解したらしい。

「言っただろ。俺はサディストじゃねえんだよ」

ハルヤ

初めてここへ来た時にチーフは鬱々とした雰囲気のまま私を嬲った。ペットのいるべき場所じゃないと罵倒し、そして最後に優しく笑った。

『犬に飼われるなんて可哀相に』

どうしてチーフに惹かれるのかは分からない。

「揃ったか」
「はい」
「……へえ…」

チーフは「いいね」と上機嫌に呟いて書類を床に投げた。ばざばさと音を立てたそれはチーフにとっては紙としての価値しかないのだろう。私がそそくさと拾い集めるのを一切気に留めない様子で銜えていた煙草を灰皿に押し付け新たに火を点けた。

「では、私はこれで」

整っていない書類を雑に抱え、執着を感じさせないように素早くドアへ向かう。するとチーフは「なあ」と言って引き留めた。

動揺を気付かれないよう、注意を払う。

「なんですか」
「トレーニングはしてるのか」
「いいえ、私は」
「……」
「参加した方が宜しいですか」
「必要ない」
「……」
「仲良くしてる人間はいるのか」
「……いいえ、特には」
「ダリアは分かるか?」
「はい」
「じゃあダリアと付き合え」
「……え、はい?」

くつりと嘲り「お前はダリアのタイプじゃないか」と尋ねられる。

「ダリアさんのことはあまり存じ上げませんから」
「今呼ぶから、仲良くやれよ」
「……」

重い動作で無線を取り、チーフはダリアさんを呼び寄せた。

私のタイプはあなたです。

ロト

ルーセンにとって侵入し付け入ることは余りに容易い。

「パブロフに随分な置き土産をしてきたそうですね」

どのようにパブロフから逃れてきたのかは私には想像もできない。

ルーセンは心にもない言葉を巧みに操り、自身の持つあらゆるものを利用して他人を支配する。飴と鞭なんて生易しいものではない。それは甘い毒。

「あなたはなんでも知っているんですね。参ったなあ」
「…参っているのは私です……」

ルーセンの声で褒められると身体が痺れるように思えた。批難したいのにできない。

「私は警察もパブロフも好きではありませんから」
「私も?」
「ルカは特別です。ルカの特別も、特別です」
「…ありがとうございます」

ルーセンには情熱がある。道徳や誠意の欠片も持ち合わせない男なのに、この情熱だけは真実だと分かる。

今でも自分以外の誰かにルカを支配させたくはないし、パブロフに脅迫紛いなことをされても二度とは屈しない決意がある。しかしルーセンが相手となると話は別だ。この男は私の店の上客であって、かつてルカを救った男なのだ。

弱点のひとつも見当たらない。

「選択肢など始めから幾つも用意されてはいません。手段は選ばない。ルカは必ず取り戻す」
「……」
「あなたには協力して戴きます」

獲物を捕らえる補食者の目だ。

「ええ、ルカのためなら」

私の同意は意味のあるものではなかったと思う。笑って見せたけれどそれだって意味を為さないだろう。

「言いませんでしたか?俺には嘘が分かる」
「嘘だなんて。協力しますよ」

見せたのは極上の笑み。私の心に容易に侵入し、付け入る。

「あなたは私の為に協力するんだ」

じくりと心に何かが広がった。そうして、この悪魔の甘い毒は神経毒だなと、侵された心のどこかで思った。

グリーン

ロージー「あらあ、久しぶりね!」

その声に振り返るとルーセンがいた。無愛想も声も所作の柔らかさも相変わらずだった。

「ルーセン!」
「ああ、お久しぶりです」
「久しぶりって…、戻ってきてたの?」
「はい、昨日着いたばかりですが。人を探していまして」
「誰?女?」

ルーセンは格好だけ笑って「子どもです」と答えた。

ルーセンが伝説の首狩りだってことは彼がここから消えてから知った。店主であるガボット夫妻も知らないと思う。親しくしていた人が殺しをも厭わない半ば非合法な仕事をする男だったら、普通は笑ってなんていられないのだろうか。

「子ども?認知してあげるの?」
「はは、そういう子どもじゃありません」
「ふーん」
ロージー「はい、どうぞ」
「いただきます」
「おっ、いいなあ。ロージー、俺にも何かちょうだい」
ロージー「さっきから食べっぱなしじゃないの」
「減るんだもん、仕方ないよ」
ロージー「うちの旦那みたいになるわよ?」

ロージーは店内を忙しなく歩いて次々と料理や食器を運ぶが、客とのやり取りも欠かさない。ロージーの注意を引くためにここに通う人も少なからずいるだろう。ルーセンは愛想なしで陰気でどこか冴えないから、彼もロージー目当ての客なのだろうとどこかで思っていた。

思い込みとは斯くも恐ろしいかな。

「よければどうぞ」
「はは。ロージーと話したかっただけだよ」
「……」

ルーセンは一瞬動きを止めて俺を見た。

「野暮だね、野暮」

セネカ

裏方に徹して、一般的にはそれこそが表の仕事なのだけれど、とにかく痛みや汚いこととは関わらないはずのホーンが嗜虐趣味の男による拷問染みた質問攻めにどれだけ抵抗できたのかということは想像するに難くない。

侵入したのはロトではないらしい。

報告を受けて訪ねた時には何食わぬ顔で横たわっていて、私は正直ほっとした。

「具合はいかがですか」
「大丈夫です」
「よかった…」

報告によると関節を色々とされたらしい。

「ルカという人間の居場所を探していました。私たちのところにいることには確信を持ってるみたいでしたが、」

『ルカ』。

「ルカはセシカのことかもしれませんね」
「え?」

ホーンは口籠もった。平気な振りをしていても不自然に揺れる視線と握り締められた掌が物語るのは、どうしたって恐怖なのだった。

ホーンはセシカのことを知らない。

セシカは、セシカもルカもどちらの名前も正しい。ルカは元の戸籍で、セシカは私たちが与えたものだ。

「貴方はふつうの人間です。そういう貴方を敢えて狙ったのなら、赦せませんね」

ホーンはぎこちなく表情筋をも緩めて「ありがとうございます」と言った。

「なぜ教えてくれないんです?」
「その方が安全だからです」
「知らなくても安全じゃなかった…!」

ホーンの目には涙が浮かんでいた。

「警備を充実させます。部屋も変えましょう」

侵入した男はプロだ。かつてセシカが逃げるのを助けた人間かもしれない。

「もう二度と御免です。セシカって誰なんですか。『神』ってどういう意味ですか。貴方たちは何をしているんですか。あの少年を監禁し続けて、どうするんですか。私はセシカが好きでした。にこにこ笑っていて可愛かったからです。でも彼は『もう幸せじゃない』って言ったんです。フランクは何をしてたんですか。姉は、それを知ってたんですか…」

それらはホーンの心からの叫びだったに違いない。

涙は溢れて落ちていた。

「ここから外に出て、不幸を憶えたんですよ」

ホーンはそれからは何も言わずにただ泣いていた。

私は笑っていた。

ホーン

どこからどう侵入したのか、その男は易々と私の寝室に忍び込んだ。そして「ルカを返せ」と言うのだった。

部屋は今でも確かに密室で抵抗する気力も奪われる。

「一応お伺いしますけど、どうやってこの部屋へ? その様子だと拷問用の部屋は一通り見てきたんですか?」

私は恐怖した。

その眼光に。

「埒が明かない」

そう呟いたかと思うと男は音もなく距離を詰め私を床に押さえ付けた。腕と脚を何かで縛られ、その機械的な作業と無機質な表情にはしかし有無を言わさぬ熱がある。

同じ無表情なのにクラリッツとは違う。

容赦ない痛みに流石に呻いた。

「…っ随分と、情熱的ですね」
「余裕そうだったから拷問を受ける訓練でもしてあるのかと思ったが、」

拷問を受ける訓練?

「…ッ、」

私の身体を不気味に撫でると、それそのものが媚薬のような声にぞくりとする。

「震えているよ。可愛いね」

快楽とは真逆の感情で。

ぞくり。

「気持ち悪くて鳥肌が立ってんだよ」
「そう」

僕の肩は歪められ、軋む音が聞こえるのではないかと思った。侵入よりも逃走を防ぐことに重点を置いたこの建物は、自分たちを餌にした大きな鼠捕りなのだと漸く気付く。

「……っ!!」
「じゃあ、このまま暴力的な拷問をするより、セックスでもした方が君には苦痛?」
「どっちも、御免だ」
「我が儘はいけないよ」

優しく口元を大きな手が覆うと、今度は正真正銘、骨の折れる嫌な音がした。

「っ、あ゙あ゙あ゙ぁぁぁぁー!!」

ロト

あまりにも乱暴だったので警備数人で取り押さえようとしたけれど、やはりそれは無駄だった。私の執務室の中にまで簡単に物騒な物音が聞こえた。

「強盗じゃないんですけどね」

不気味に短時間で私の執務室に侵入を果たしたルーセンはその体躯に似合わず穏やかに話す。優しく、と形容するしかない笑顔は知性さえ感じさせる。

執務室のすぐ外にいるはずの警備員は少しの物音も立てずにいるから未だ起き上がれないでいるらしい。

「うちの者が大変ご無礼を…、申し訳ありません」
「はは、お久しぶりですね」
「はい。ここ数年はいらしてませんでしたよね」
「まあ、そちらには私の行動なんて筒抜けなのかもしれませんけどね」
「……何かお探しですか?」
「ええ」

ルーセンは口元だけに笑顔を残しながらやや首を傾げて「ご存知ではありませんか」と返した。

「……何をお探しでしょうか」
「ルカ」
「……」
「まさかあなたが連れていったなんてことはありませんよね」
「……いいえ、まさか」

一瞬にしてこの男は残虐な悪魔だと思い出させるような目で私に詰め寄り、その淡泊な顔を寄せて言う。

「俺は嘘が分かる。俺は善人じゃない」

耳元で甘く囁かれるのは悪魔の言葉。容易に人の心を侵して堕とす。

「分かるだろう?」

彼の大きい手が動かされたのを感じて本格的に恐怖した。

「私は商売人です。例え恋人にだってタダで商売道具は渡せません」

ルーセン

部屋は埃が沈んで黴臭く、それがなければちょっと買い物に出ているとでもいうような雰囲気で、時間の流れに取り残されたように静かだった。

出て行ったのかと思った。

ルカ

こんな時に助けて欲しいと思うのは、俺が弱くなった証拠なんだろうな。昔はそういうことはロトに対してさえ一度としてなかったのだから。

鎖の擦れる音は誰かの泣き声みたいに弱く鳴った。

クラリッツ

私はその場を離れられずにいた。静かに話題を探すホーンの声だけは部屋に響いて、他の音は必要以上に装飾された壁や柔らかな絨毯が吸収しているらしい。

ホーンの心拍まで聞こえた気がした。

「笑わないセシカは、セシカでしょうか」

苦しげに笑ってから「どうでしょう」と返す彼の表情は少しも軽快ではない。

「貴方たちは、何をしたんですか?」

何を?

「……知る必要はありません」

数々の残虐な行為のこと?

「必要はないかもしれませんけど、知りたいんです」
「セネカ様に伺ってみては?」
「教えてくれません」
「心配することはありません。必要がないから言わないんですよ」

ホーンは椅子の上で片膝を抱えた。

「…フランクがいなければ、私に価値はありませんか」

ホーンはフランクの義弟らしい。ホーンはずっとお姉さんと2人で生活していたけれど、そのお姉さんの結婚相手がフランクだった。

フランクはパブロフでは重要な仕事を担っていた。

ホーンは何も知らない。パブロフがただの研究機関だとは思っていないらしいけれど、詳しいことは何も知らない。

知らない方がいい。

「いいえ。貴方が大切だから、言わないのです。分かってください」

ホーンは目を伏せている。

私は彼に近寄って膝を付いた。

「…やっぱり危ないことをしているんですね」

ホーンは陰欝に言った。表情も声音も暗い。姉が嫁いだ人間が犯罪を犯していたのだからそうもなるだろう。

フランクは、だから死んだ。

柔らかな絨毯が紅い血のように見えた。

ホーン

「彼は本当にセシカ?」
「恐らくは」
「なぜか昔の彼を思い出せないんですよね…」

クラリッツは脚を組み直した。

「セシカには変わりありません」

セシカは変わったのだろうか。彼が『神』でなくなっているとしたら、私たちが捕らえる意味はあるのだろうか。

私は彼が『神』である由縁を知らない。けれどそうでなければ説明のできないことは知っている。

私は自嘲した。

幸せ?

セシカの幸せなど考えたこともなかった。『神』に幸せも不幸も必要ないからだ。彼は私たちに幸福や歓喜や苦悩や生命を与える存在であって、そのようなものを受け取る側の人間ではない。

そうではなくなったという意味だろうか。

人間らしく痛むのか。

「幸せだから笑ったことはありますか」
「はい」

クラリッツは無表情のまま短く答えた。

「…意外ですね」

失礼だろうとは思ったけれど、私は素直にそう言った。クラリッツを見ると特に怒ってもいなかった。

「セシカといる時には、そのように笑っていた気がします」
「そうですか…」

少し黙ってから「彼でなければ意味がありませんから」と小さく零した。

誰にとってもそうだっただろう。

クラリッツには以前とは違うセシカを受け入れるだけの器がない。好きだったからだ。本当にセシカが好きだったから。

私は、少なくとも私より先に彼が死ななければいいとは思っていた。

「そうですね」

私もそう思う。

彼でなければ意味がない。

ルカ

雁字搦めに拘束されて、もうすっかり忘れていたその最低な感覚に辟易する。手足が動かない。身体が締め付けられる。しかし不自由だけが嫌なのではない。

避けようのない視線が嫌いだ。

彼らの目に映ることに耐えられない。

下っ端らしい人が数名と、丁寧にノックしてから現れた2人は俺を取り囲むように並んで立っている。

見知った顔もあった。

クラリッツとホーンだ。

あの頃にも居た。

彼らは見ていて上下関係が手に取るように分かるから嘔吐が出る。人間に上下を作りやがる。

「お久しぶり」
「どーも」

ホーンの挨拶に答えただけだったが、彼にくすっと笑われた。

「律儀ですね」

黙れ。

「あんたが前に俺に言ったんだけどさ、今それ分かった。なんとなく」
「はい?」
「幸せだったからだよ」
「何が、ですか?」

ホーンは首を傾げた。

「『なんで笑えるんですか?』って。言っただろ」
「……、」

クラリッツは眉間に深く皺を刻んでいる。

「今は幸せじゃねえから笑えない」
「幸せ…」
「ああ」

ホーンはいつでも傍観者然として何があっても素知らぬ顔を崩さなかった。事実、ホーンは傍観者でしかなかった。

今は困惑を隠さずにいる。分かりやすく視線を外されるから滑稽にさえ思える。

「どうして幸せではないの」

それを聞いた時、俺はその日初めて笑った。もちろん失笑だけれど。

「マゾじゃねえから」

ホーン

クラリッツは恍惚として戻ってきた。

彼にとってその至福が束の間の喜びだとは思いもしなかった。セシカを探すことだけをここ数年間続けてきたのだから、それが達成されて喜ばないわけがないと思っていた。

「変わりはありませんでしたか」

私が尋ねると渋い表情で視線を揺らした。そうしてたっぷり逡巡するように黙った後に今まで見たことのない敵意のある表情を向けられた。

「違っていたら、いけませんか」

冷徹な怒りをそこに見た。

彫刻のように均整のとれた美しい容姿と女性のように艶めかしい色気を持つクラリッツに憧れもする。私にも可愛い恋人がいたこともあるし酷いコンプレックスを感じたことはないけれど、どうしても自分と比べてしまうのは仕方ないだろう。

いつも堂々とした彼を羨む。

この見目麗しい無類に無敵のサディストは、しかしセシカにだけは昔から弱かった。

「変わっていたということですか?」
「…いいえ」

即答できなかったことに自覚もあるらしく、クラリッツはすっと目を逸らした。

「……会いに行ってきます。自分の目で確かめます」
「私も行きます」
「では、ご一緒に」

クラリッツは愛想を微塵も見せずに立って頭を下げた。

私はずっとパブロフで働いていたわけではない。義兄であるフランクが働いていたから14歳で工場をクビになった時にお情けで雇って貰えたのだ。

その後も国家公安系機関や軍需産業系企業に出向していることの方が多かった。

パブロフが何をしているのか、薄々は分かっていたけれど。

分かっていて、沈黙した。

出向していて4年振りにパブロフに戻るとクラリッツという端整な男がいて、その見たことのない美しさに茫然とした記憶は今でもある。

当人にも自覚があるらしい。

羨まれるべき美貌。

しかしクラリッツはセシカのこととなると自身の持つあらゆる優れたものを擲ってしまう。

彼の美しさやサディスティックな愛情表現はセシカが望むものではなかった。セシカはどんなものでも愛するから。

だから捨てたのだ。

寸分の躊躇もせずに。

ノックするクラリッツの指先は震えていた。

クラリッツ

セシカにだけは何をされてもどれ程酷いことをされても快楽になる。麻薬以上の効果と依存作用で私を侵す。

「セシカ、セシカ。ねえ、」

どうしてだろう。

どうして笑ってくれないの?

セシカはいつも最高の笑顔で私を見てくれていた。天使のようだと称される私よりもずっと純度の高い誠惶さで輝いていた。それは決して痛みにも不愉快にも歪まない。

しかし今ここにあるのはその瞳の灰色のような色のない冷めた目線だった。

「離せ」
「憶えていませんか?」

忘れていることは有り得ない。

「離せ」

有り得なくても口で言って欲しい。忘れていないと、記憶に深く刻まれているとはっきり言って欲しい。

「セシカ…」

セシカは私の拘束から逃れようと腕に力を込めて震わせている。表情は変わらず凍てついていて、研究所の職員が実験をする時を思い出させる。

「離せ、糞野郎」

前より低くなった声で、呪いの言葉のように吐き出された。私の身体に重苦しく纏わり付く。

どうして。どうして。

「それならまた憶えてください。私はクラリッツです。憶えてください、また、」

また、あの頃のように。

笑っていただけますか?

「離せ、」

両腕を掴んだまま後ろから抱き抱えるようにして脚の動きも封じてしまうと、ルカは少しずつ脱力していった。吐き出される言葉からも力がなくなっていく。

私は再会が嬉しくて仕方がないのにルカは俺を心底から拒否している。

「セシカ…」

それでもいい。

また離れて消息を絶たれるよりはいい。

ルカの冷たい罵声を聞きながら、しかしながらあの頃の麻薬とも媚薬とも言い難い効能が切れてしまっていることを悟った。

ロト

ルーセンがこの街に戻ってきたことはすぐに分かった。経営する人間として取引先の身辺はいつも気にかけているし、嫌でも入ってくる情報もある。

「どう致しますか」
「…うん、どうしようか」

私の言葉にルーラは困ったように笑った。口角を持ち上げているけれど、目が伏せられていてこの状況を楽しんでいる様子では勿論ない。

部下を困らせるのは良くないなと、そう思って「向こうも本気だからどうも、やり難いよね」と続けた。

「食事のお約束でもお取りしましょうか」

ルーラはスケジュールを確認して言った。

「でもこれって商売じゃないんだよね。買えるものでも代わりがあるものでもないからね」
「…はい」

手を止めて私を見る。

真面目な奴だ。

「ルーセンを探して、駄目ならパブロフとも話す。パブロフは今でも私がルカを逃がす手助けをしたと思っているようだし、何かあれば向こうから申し出があるでしょう」

パブロフはまだ闇の中にいる。

「かしこまりました」

部下はこの世界にありがちな上辺だけの礼節でお辞儀した。

そういう私は笑みさえ浮かべた。

私は人として生きる為に人としての道を外した。人が望むことをそのまま商売にして、金になることを探し続けた。

ルカにはもっと他に道があった。普通の子どもとして育てられる道もあったに違いない。人間を超越した存在になり人間に満たない扱いを受けることになったのは、彼がパブロフへ行った時にはもう分かっていた。

分かっていたのに止めなかった。

ルカは何にだってなれた。

パブロフに責はない。私が悪い。

ルカはどうしているのだろうか。ルカに相応しい明るい場所で笑っているのだろうか。

そうだったらなんて幸福。

最後に見たのは5年以上前だけれど必ず一目でそうだと気付く。クラリッツがそうであったように、私だって人混みの中にルカを探し続けてきたのだ。

満ち足りたままのルカでいてくれたら。

なんて幸福。

朝来

会議室で一人仕事をする。単純な事務処理だから助かった。役員室に通じるドアは開いたままだけれど良平から見えない位置にいるからそこまで気は張らなくて済む。

会議室は窓からの音をよく拾うから、隣り合っているけれど役員室や資料室からの音はほとんど入らない。

『しつこくて面倒な女は嫌い』

私が付き合った何人目かの男は酷くサディスティックで独占欲の強いひとだった。1人目も似たような感じだったけれど、私の我が儘を許してくれたという点ではずっとましだ。

良平は付き合っても私に何か要求したりしない。それを不安に思うような付き合い方しかしてこなかったのだから私はやはり最低なのだと思う。

伸びをして身体を解すとそれなりに仕事が進んでいたことに気付いた。

「どう?疲れたよね」

良平は音もなく会議室に入っていて、休んでいるところを見られたから大して疲れていないのにと思っても私の「平気」という言葉は受け入れてもらえなかった。

「いつでも帰って大丈夫だよ。遠慮しないでね」
「これは終わらせたいから」
「そっか。ありがとう」
「……仕事何時までやるの?」
「うーん、のんびりやるつもり」
「そう」
「大丈夫だよ。好きでやってることだから」

一緒に帰りたかったのだけど良平は違う解釈をしたらしかった。それだけ多くの人に労われているのだろうけれど、彼女として意識されていないのかと思うと訂正する気力も湧かない。

良平は私が無言で仕事を再開するのを暫く眺めてから退室した。

「最低ね」

誰が?

緒方

真井先輩には欠点なんてないと思う。何かに秀でているのかと言われるとそうではないのだけど、それでも何かに劣っているのかと言われるとそうでもない。

年季の入った天秤みたいな絶妙なバランス。

「……」
「……お手伝い。今日はちょっと、いつもと違うんだけど」
高橋「彼女?」
「うん、まあ、」
「はじめまして、3年の朝来と言います。何かお手伝いをしたいなと思ってお邪魔させていただきました。本当に邪魔になるようでしたらすぐに帰りますので」
「…ていう感じです」
高橋「はじめましてー」
緒方「こんにちは」
「綜介くんにするみたいに、雑用やってもらうから」

真井先輩は朝来先輩にちらりと確認するような目配せをした。朝来先輩はほとんど表情を変えずに「よろしくお願いします」と言って頭を下げる。

「早速で申し訳ないんだけど、これいいかな」

高橋先輩はぺらぺらと書類をめくりながら当然のように朝来先輩を手招きして、途中でやって来た神保くんが戸惑うのも気にしてなかった。

「……」

すれ違い様に朝来先輩は神保くんに軽い会釈をして、こちらも当然のように仕事に手を付けようとしている。

高橋先輩は始めから真井先輩に興味がなかったのかもしれない。

惹かれない人なんていないと思わせる程に真井先輩は完璧だった。生徒会役員になって高橋先輩のような人もいるのだと分かったけれど、それでも真井先輩を蔑む人はきっといない。華やかに毅然としてそれに相応しい容姿、慎み深く努力家でそこに垣間見られる知性、何よりそれらを振り翳さない人間性。

幻想に近かったのだろうけれど。
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