※夢枕版 陰陽師
※妄想設定
※晴明に片想いする博雅
「やっぱり月は見えないな」
博雅は窓枠に切り取られた景色を見上げながら言った。止んだ雨が未だ霧のように漂って辺りを霞ませる夜である。窓が開かれているため博雅の服や頭髪までしっとりと水気を含んでいる。
晴明は口元に笑みを浮かべて博雅の言葉を黙って聞いている。そして音もなく酒を一口飲んだ。
「いくつに成ってもお前とこんな風に会えたら良いな」
博雅は誰に言うともなくそう呟いた。
開いた窓から冷えた風が吹き込んで博雅は身震いした。もう11月も終わる頃である。サッシに手を掛けると外気よりも冷たく思える。
「寒いか、晴明」
博雅は気遣うように晴明に振り返った。そう言う博雅の方が指先も可成り冷たいのだが、当人は気にしていないようである。
「冬は寒いものだ」
晴明は血を舐めたように赤い唇に再び酒を運んで答えた。確かに鼻先を赤くする博雅よりは、寒いと思っていないらしく見える。
博雅は晴明をじっと見てから再び夜空を見上げた。
「秋も終わって、もう冬だなあ」
「そうだな」
「先生方がまたお前の噂話をしてたよ」
「ほう」
「お前は愛人との関係をどうにかするのが上手いとか言っていた」
「ほう」
晴明が笑っているのを見た博雅は顔を顰めた。
「褒められてるのに。嬉しくないのか」
晴明は酒を飲む手を止めて博雅を見た。切れ長の目が迷いなく博雅を真っ直ぐに見ている。
「『アレ』は褒め言葉とは違う」
「だったらなんだ」
「呪だよ」
晴明の目は妖狐のように細められた。
博雅には晴明のする『呪』の話しがよく分からない。それは薄ぼんやりと理解できることもあるが、しかしその次の瞬間には何処かへ消えてしまう幻影のように不確かな理解でしかない。
「お前は素直じゃない」
呆れたように博雅が言っても、晴明は素知らぬ顔でまた酒を呑むだけだ。
「晴明」
博雅の声が突然真剣味を帯びた。晴明は「なんだ」と答える替わりに視線を寄越す。
「時々は素直になれよ」
博雅の声には迷いも飾り気もない。いつも実直で他人にも自らにも偽るところのない博雅らしい声音だ。真っ直ぐで泰然として聞く者に安心感を覚えさせるその声には、それ故に博雅の思いに反して責めるような語気を含むこともある。
晴明は言葉にできない後ろめたさを感じた。
「お前のように?」
晴明は苦し紛れに茶化してそう答えた。
博雅は晴明がいつものように話しを逸らしたのだと気付いてむっとした。最近では博雅は自らの気持ちを隠さなくなった。しかし晴明が博雅の気持ちに答えようとしない理由もよく理解している。
「誰か来るの?」
博雅は窓を閉めながら進展の見えない話しを終わらせて机に無造作に置かれたワインに目をやった。
「ああ、これ」
「良いワインに見えるけど」
「うん。お前と飲もうと取っておいたものだからなあ」
「それで。誰か来るのか」
博雅はある少女のことを思い浮かべた。
いつも男物の服を着ている少年のような少女だ。外見が丸で少年だったので彼女を初めて見た時博雅はすっかり彼女を男だと思い込んで世の中には美しい男が居るものだなと驚嘆した。
後に彼女が女であることを知る。
晴明の口から聞いたのだから間違いない。
知らない方が良かった、と博雅は思っている。彼女は完璧に晴明の好みだからだ。晴明はあの女に惚れたんだ、とふと思ったりする。
彼女は名前を露子と言っていた。
身上確かなご令嬢なのに飾り気がなく雑草が伸び放題になっている晴明の家の庭を「好きだわ」と言って散策していた。博雅の知らない草木や虫の名前もよく知っていて晴明も嬉しそうに彼女と話していた。
露子様が来るのか。
自然と博雅の表情は固くなった。
「来ると言えば来る。来ると言っていたからな」
晴明は何か思い出すように曖昧に答えた。勿体振った物言いはいつものことだけれど博雅にはいつものことでは済まされない。
「ならば俺は帰る」
「は?」
「お前はその酒を、その人と飲め」
「何か用事でもあるのか」
博雅は少し考えてから「あると言えばある」と答えた。
「そうだったのか。では日を改めてまた呑もう」
晴明の提案に博雅は言葉を詰まらせた。
「いつにする」
晴明は素知らぬ顔で言葉を続けている。
「本当は今日が良かったが、仕方ない。お前が駄目なら仕方ないな」
博雅は胸が苦しくなった。きっといつものアレを言われるのだと分かったからだ。博雅は晴明のその自覚があるのかないのか分からないところを恨めしく思うこともあるがその一言で舞い上がる程嬉しくなる自分の単純さを知ってもいた。
「博雅が居なければ詰まらないからなあ。あのお方にはお帰り戴くことにするよ」
晴明はそう言って酒を一口飲んだ。
赤い口元は平静と変わりなく微かに微笑している。
「詰まらないな。今日はお前と一緒に見たいものがあったんだよ。素晴らしいものだからお前と一緒にと思っていたんだけど」
晴明は確認するように博雅を見た。
博雅はこういう時に確信する。
季節が巡るように、人が生まれて死ぬように、自らの感情も自然の摂理なのだ。
博雅は晴明に惚れていた。
「嘘だ」
「は?」
「さっきのは嘘だ。悪かった」
博雅は心底申し訳なさそうに言って頭を下げた。
晴明は博雅の下げられた頭を眺めてくすりと笑った。博雅の謝罪の意図は分かるような気もしたが本当のところは分からなくても答えを知る必要はないだろうと思った。
晴明は博雅の実直なところを尊敬もし羨みもしている。
「いいさ。それより行こう」
「何処へ」
「良いところだ」
「え」
「なんだ。行かないのか」
「そうは言ってない」
「ならば行こう」
「おう」
「行こう」
「行こう」
そういうことになった。
博雅は複雑な心境だったが、楽しげな晴明の表情を見てそんなものは何処かへ行った。博雅は晴明に惚れていたからだ。
【摂理】