※15歳未満は閲覧しないでください
※DV(家庭内暴力)の表現があります
※DVを肯定するように感じられる表現があります
家具や食器が散乱する部屋。そこにはこれまでの生活が僅かに垣間見えるだけで後は丸で別世界の場所のように思えた。
1年間の同棲が幻になった。
365日以上を費やして二人で作り上げてきた均衡が完全に失われた。
二人で座ったソファは、カバーが破れている。二人で選んだまだ新しいテレビ台は、飾りに置いたフィギュアがぐちゃぐちゃに倒れている。間接照明のランプは、形が歪んでもう使えそうにない。食器は割れ、カーテンは外れ、トースターには蓋がなく、テレビの液晶にはヒビが入っている。
俺はそれを見て思った。
許そう、って思った。
優希は余りに優しい人間だったから、俺が約束をすっぽかしても、悪口を言っても、優希の恥辱を煽っても、きっとなんでも許されるという自信があった。
『月森が、悪いと思うんだ』
しかし昨夜の優希はそう静かに言った。
長い、長い、万里の長城並みに終わりの見えなかった沈黙の果て。夜の底に沈む船から聞こえる嘆きの歌。
なんで急に?
わからない。
文句を言うのは俺の専売特許だったのに、今は同情を示すように笑って頷くことしかできない。たぶんそれはとても軽薄で不愉快で薄情な笑いに見えたに違いない。
俺はせめて静かに息を吸って吐こうと思った。
俺は同情されるのが好きだ。
10歳の時に転んで怪我をした。手を突いてしっかり転んだのに腕に大きな傷ができて、早く塞がるようにと縫うことになった。その傷痕は今でも残っている。
『痛いの?』
俺が問い詰めると母は悲しげに頭を撫でてくれた。
なんて快感だろう、と思った。
俺は友達でも恋人でも近くに置く時は俺に同情してくれる人間ばかりを選んできたし、その点で優希はほとんど完璧に理想的だった。俺に同情してなんでも許して甘やかす、そんな人間だった。
何度も浮気した。ドタキャンやデートの金を出させるのは日常。逆にこっちは急に呼び出したりちょっとした買い物を頼んだりした。男友達に優希とのセックスを言いふらして、ヤってる時の動画も撮った。気にしてるのを知ってて優希のコンプレックスを馬鹿にした時は優希も流石に顔を引き攣らせたけど、それでも反論の一つもしなかった。
俺は好きにしゃべって笑ってた。
優希は俺に従うだけ。
でも昨夜の優希は違った。
「だから私と別れてください」と言った。
なんて説得力だろう。
日本中の人間に俺と優希とのことを話せばその内のかなり大多数の人間が優希を支持するに違いない。俺を支持するのは、例えば、それは、思い付かない。
優希は不気味に抑揚を抑えた声音で何度でも繰り返した。
「私と別れてください」
ふざけるな。
ふざけるな!!
俺は優希の頬を平手打ちした。殴って蹴って慰めのセックスをすればその話しはお終いになり、朝には優希が温かい朝食を用意している。優希は自分の体を庇って丸くなった。
そうだろう?
そうだと言えよ。
空はもう白んでいるのに、この部屋は汚くて散らかっていて朝食のいい香りも漂っていない。
優希が居ない。
優希が俺から離れた?
「優希?」
俺はふと気付いてリビングを見回したが、優希は居ない。キッチンにも居ない。ベッドルームにも居ない。風呂場にもトイレにも居ない。俺はさっき優希を殴ったと思ったけれど、優希はどこにも居ない。
消えた。
違う。
そんなことある訳ない。
俺が殴ったら優希は目を閉じてまた「別れてください」と言ったんだ。だから俺は優希を外に追い出した。
それで優希は居ないんだ。
なんて傲慢だろう。
出て行く訳がないと思っていた。直ぐに戻って来ると思っていた。どうしてそんな理屈の無いことを考えられたのか分からない。優希はもうボロボロの体で、痣を作ったまま仕事に出ては帰ってまた俺の相手をしていた。
優希は俺を捨てたんだ。
こんなことは初めてだ。優希が俺を捨てて出て行くなんて許せない。部屋は散らかっているし朝食の用意もない。
「優希」「優希」「優希」
名前を呼ぶと顔が浮かんだ。優希が優しく笑う時の顔と、俺が殴る時にする泣き顔と、昨夜俺に別れてくださいと言った時の顔。笑顔だけが優希の本物なら良かったのだけれど、きっと笑顔の優希だけは偽物だ。
出て行くなんて。
出て行くなんて。
散らかった部屋には色んな物があふれていると思ったけれど、ここには優希が居なかった。優希が必要だった。
許そう。
許すよ。
だから戻って来て欲しい。
俺は上着を羽織って外に出た。
優希の行きそうな場所。近所にある公園に行ってみたけど全くひと気がなくて絶望的な気持ちになった。公園にある全てのベンチを回ってみたけど、やはり優希は居ない。駅前に行くと人は多いけど、優希はどこにも居ない。
俺が酷いことをしてきたからだ。当然の報いだ。
優希。ここへ、来いよ。
「月森?」
その声は、優しく俺の体に積もった。
「優希!」
俺は優希を力づくで抱き締めた。優希は驚いて手に持っていた荷物を落とした。コンビニ袋。耳元で俺を呼ぶ声を、俺は何度でも噛み締めたかったけれど、人通りが全く無い訳ではないそこを優希は嫌がった。
「場所を変えよう?」
「てめえ、探したぞ! 勝手に出て行くな! 俺はお前と別れる気なんてねぇんだよ!」
優希は何も答えなかった。
俺は優希の腕を掴んで歩いた。優希は途中で「今直ぐ出て行く積もりじゃない」とか「こんなの良くない」とか言ったけど、俺は構わず歩いた。
部屋に戻ってもそこが綺麗に片付いて元通りになっている訳もなく、腹が立って苛立って我慢できないくらいの気持ちだったけれど、俺は優希を一度だけ平手打ちして優希を許した。
「許してやるから、もう出て行くな」
これで全てが終わる、とその時は本気で考えた。
「私の気持ちは変わりません。もう月森とは暮らしたくない」
優希の声は静かで確かで高慢だと思った。
「なんでそんなこと言うんだ! わかんねぇよ! わかんねぇ……」
ひでぇよ。
なんで俺を捨てるんだ。
優希は俺に歩み寄って、「理由はある」と呟くみたいに話し始めた。怯えも怒りもないその声の言うことなら信じようと俺は思った。
「最近よく会ってる女性がいるよね。もし彼女ともっと親しくなりたいなら、私と一緒には居ない方がいい。ここから出て行くなら私が出て行くべきだとは思ってたから、別れようって言ったの」
それが優希の言い分だった。
「あの女とは、別になんでもない」
いつもの浮気だ。
「なんでもないって雰囲気じゃなかったよ。私とは違った」
そりゃ違うだろ。
「だからなんだよ」
どうでもいい女と優希では比べる対象にもならねぇ。
「あんな風に優しく笑う月森は、久しぶりに見た。彼女とは仲がいいんだって一目で分かった。私とは違ったし、凄く良いと思った」
なんだと?!
「優しくしたら付き合うのか?! 俺が他人に優しくしたらお前は家を出て行くのか?!」
「違う!」
「そう言ってんだろてめぇが!」
「あの女性と月森が恋人同士に見えたからだよ! 私と君とでは到底そうは見えない!」
クソ!
クソ! クソクソクソ!
「そんなの、俺が糞野郎だからだよ!」
優希は特別なんだ。感情が溢れて行き場が見付からない。優希は俺だけのものにしたい。でも優希は俺を好きではない。だから従わせてきた。
でも、優希はもう俺に従わない。
ひでぇじゃんか。
「俺がいらなくなったのか? 誰か好きな奴がいんのか? 出て行くなよ。俺の側に居てくれ。もう殴らねぇからさ、優希。恋人同士に見えなくても、俺はお前だけを欲しいと思うんだ。可笑しいだろ。可笑しいだろ、俺」
優希に手を伸ばすと、優希は体を強張らせた。殴られると思ったからだろう。
「優希。抱かせてくれ」
なんて柔らかい髪だろう。なんて温かい体だろう。なんて小さなひとだろう。
ああ、優希は痩せたな。
この弱くて切なくて大切なひとを殴って蹴って従わせるなんて残酷なことをしていた自分自身が恐ろしくなった。物で殴って骨折させたこともあったし、真冬に長時間ベランダに閉じ込めたこともあった。
俺は糞野郎だ。屑だ。
ごめん。
許してくれるか。
優希は俺の頭を撫でた。
「嫌なのは暴力じゃない。孤独が怖いんだよ」
優希は思い出したように「あ」と言った。
「コンビニでシュークリームを買ったんだ。月森と食べようと思って二つ」
それで外に出てたのか。
馬鹿じゃねぇの。
俺は立っていられなくて、座り込んだ。そしてその姿勢で優希に縋って泣いた。優希は俺が泣いている間中ずっと俺を撫でてくれていた。
朝には朝食の良い香りが漂う。おはよう、と挨拶すると笑顔で迎えてくれる。休日には部屋で抱き合ったり、時には遠出してみる。朝から新宿御苑の芝生に寝転んだり、銀座でケーキを食べたりする。
俺はあれから優希を殴っていない。
殴るような切っ掛けがない。以前はどうして毎日優希に怒りを抱いていたのか、今では思い出せない。
「なんか、甘いもんでも買いに行かねぇ?」
俺が言うと優希は笑って頷いた。その笑顔を絶対に失いたくないと思った。
曰く、“雨降って地固まる”。