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垢を脱ぐ

※BL
※41歳と35歳




昨夜、恋人と指輪を交換した。男同士なので実際に結婚することはないが結婚指輪のつもりで買った。

この感動を言葉にすることは困難だ。年のせいで脆くなった涙腺がこの感動に耐えられるわけもなく。俺はほとんど一晩中しくしくと泣いていたし、いまからだって思い出して泣けるほどだ。

蓮斗(れんと)と二人で選んだ指輪。その一つがいま俺の薬指にはめられている。輝くプラチナは飾り気も少なく派手さはない。しかしこの輝きが永遠に続きそうな安心感がある。この幸せが永遠に続きそうな安心感がある。

この指輪、本当は今夜予約している店で互いに交換する予定だった。予定が狂ったのは蓮斗のせいだ。

仕事帰りに受け取った指輪は美しい純白の紙袋に入れられていた。いかにも幸福そうな外装に、それを見た蓮斗が我慢できずに開けてしまった。蓮斗は指輪をはめるよう俺にせがんで、それが叶うととても喜んだ。

蓮斗の笑顔は宗教画を思わせた。

幸福が人の姿を借りて俺の元を訪れているのだと思った。

俺はその幸福に触れることができるしその幸福は俺の言葉に応えて笑う。

ああ、また泣かせやがって。

俺は涙をぬぐった。くそ、ムカつくほど幸せだ。なんなんだあいつは。出会った頃はクソビッチだったくせに。浮気もされた。バカだし。仕事を選ばないし。若い頃に稼いだとかでいまは無職で自堕落な生活を送っているくせに、かといって家事もしない。なんなんだ。

俺は指輪を外した。

指輪の内側には刻印がある。俺の名前が彫ってある。

蓮斗が俺の名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。

俺は自分の矮小さに嫌気がさした。あいつは俺のことをそこそこ好きな程度だとしても、いつも俺に優しいし素直な愛情をむけてくれる。それに何度も救われた。

俺がまた泣きそうになっているところで蓮斗が起きてきた。

「おはよう」

蓮斗は極上の笑顔で挨拶を述べた。目線が俺の手元の指輪にあったので俺は憮然とした表情を取り繕った。無駄だとしても。

蓮斗はくすりと笑って自らの指輪をはめた手をひらひらと振って見せてたずねた。

「なに、嬉しさをかみしめて泣いてたの?」
「べつに」
「またまた〜。前から涙もろいけど、年とってさらに涙腺弱ったよね〜」

俺が睨むと蓮斗は洗面所に避難した。

確かに俺は年を取ったけど、蓮斗だってもう35歳になるのだ。なんなんだあいつ。今夜行く店は人気だから休日はなかなか予約が取れない。個室を予約できたから、そこで指輪交換する予定だったのに。

俺がこのことをどれだけ楽しみにして特別に感じていたかなんて知りもしないのだろう。

結婚はとうに諦めている。そのことで父親には距離を取られている。

俺は思い出した。

同棲を始めて暫くしてから互いの家族に挨拶に行った。その際、俺の家族は俺と蓮斗とのことを、心からは受け入れてくれなかった。俺が蓮斗の家族と会ったときは、優しく受け入れてもらえただけに、とても申し訳なく思った。

『ごめん。ああいう父親で。来なきゃよかったな』

俺がそう言うと蓮斗は笑った。

『まあいいじゃん。なに言われたって、俺たち二人が幸せなら』

蓮斗はそういう男だ。

そういうセリフはどこで教わったんだろう。これまでに付き合ってきた男とか? 水商売のテクニック?

俺が思い詰めた表情でダイニングテーブルの席についていると、蓮斗が水を入れたコップを手に戻って来た。

「そんなに怒らないでよ。昨日はごめん。段取り台無しにして」
「べつに怒ってないよ」
「そう。ねえ、じゃあさ、政幸を怒らせるようなこと言ってもいい?」
「は?」

何を言っているんだ?

「指輪のことで」

さっそく指輪を失くしたのかと思ったが、蓮斗の指にはまだ指輪があった。

「大事なことじゃないんだけど」
「なに?」

俺は蓮斗を睨んで言葉を待った。

「この名前のところ、これだと貸し物件、テナント募集中って感じしない?」

蓮斗は指輪を外して楽しそうな声音でそう言った。

俺はその言葉の意味がわからずに暫く指輪を眺めながら蓮斗の言葉を反すうしていた。貸し物件。 テナント募集中。

“For Rent”

俺はようやくその言葉の意味を理解した。

それは明らかなミスだった。

『蓮斗』はローマ字表記なら“Rento”とすべきところ、最後の“o”がないために、貸し物件という意味の英語になってしまっていた。

俺は返す言葉もなく愕然とした。

なんて失態だ。こいつのこと散々にけなしておいて、俺はなんてことを。店でつづりを確認されたが全く気づかなかった。

「あ、ごめん。それ。間違えた。店持って行って直そう」

俺が必死にそう提案すると蓮斗は優しげに笑って言った。

「俺はこのままがいいな」
「いや、よりによってこんな」
「政幸が俺の家主でいいじゃん」
「いや……」
「それに、こういう秘密って好き。だからさ、二人が分かってればいいんじゃない?」

蓮斗を見ると、後光が差しているように見えた。こいつはそういう男だった。俺にないものをたくさん持っている。

俺は泣いていた。

「なんでそんなに優しいの。俺って小さい。怒ってごめん」

指輪なんてどこで渡したっていいじゃないか。怒るようなことじゃない。

蓮斗はバカだけど俺を責めるようなことは言わない。からかって楽しむくらいの意地悪はするが、そこに怒りや憎しみはない。それはずっと前からわかっていたことだ。

俺って情けない。

俺って全然懲りない。

蓮斗は優しい。

蓮斗は俺を優しくする。

蓮斗はこうやってひっくり返す。俺のこいつへの評価を。バカだし家事も手伝わないし働く気ないみたいだし。でもそんな不名誉はなんでもないんだ。

「俺ね、政幸のそういうとこ好きだよ」
「は?」
「だからさ、この指輪して、あと百年でも二百年でも俺の家主でいてね」

俺は蓮斗を見た。俺は泣いていた。

「バカ。そんなに生きないよ」

俺が言うと蓮斗は俺の隣に立って俺を抱きしめた。

「そっか。でも、きっとあっという間だよ」

そうかもな。こいつなら、二百年でもあっという間だろうな。




曰く、“垢を脱ぐ”。
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青菜に塩

※BL
※テキトーな男と優等生マゾ




俺は嫉妬されるのが好きだ。嫉妬され、独占欲をぶつけられるのが好きだ。嫉妬され、その人なしには欲望を満たせないのだと思い知らされるのが好きだ。

「なあ、今日うち来る?」

恋人である野口が俺に体を寄せてそう言った。

ああ、どうしようかな。

俺は少し考えてから、「行く」と答えた。

付き合ってはいても、俺と野口の間には壁がある。心理的な障壁。俺たちが決定的に訣別せずに済む、ぎりぎりの壁。あと1ミリでも分厚かったら駄目だっただろう、ぎりぎりの壁。この壁は、近付いて、歩み寄って、手と手で触れ合える距離に立っても越えられない。

それはふとした時に気付かされる。

野口から漂う香水の香り。シルバーの指輪。まだらの茶髪。藍色のピアス。高級そうな腕時計。ウォークマンには流行歌。度なしの黒縁眼鏡。全て俺には縁がなかったもの。

俺には野口が分からない。

野口は丸で宇宙人。

野口は神秘に満ちている。それを神様だと言うのなら、俺は初めて神様を理解できる気がする。野口は神様に属しているのかもしれない。

野口にも、俺のことは分からないだろう。

野口は嫉妬しない。

嫉妬を知らない。

俺は嫉妬されるのが好きなのに。

俺にはこの壁を越えられない。野口が地球外生命体である限り、俺は本当に望むことを言ってもらえない気がする。巨大な砂の壁。分厚い鋼鉄の壁。何層にも重ねられたアクリルガラス。果てしない分子の海。宇宙の向こう側とこちら側。

仕方ないだろう。この壁を越えられないと思えてならないのは、野口のせいだ。

野口は女を口説かずにはいられない性分だ。好きでもない人間を褒めて口説くというのは俺には到底理解できないが、野口に褒められた女は幸福そうに笑うから、何かの慈善事業なのかもしれない。

慈善事業ね。ああ、お前って素晴らしいよ。

俺はその素晴らしい野口と、野口の家に向かって歩いていた。野口の家は、高校から歩いて40分程で着く。バスを使えばもっと早い。

「あのさ、あのー、前の、兄貴と連絡先交換してたやつさ」

野口は言葉を濁しながら話しを切り出した。

「あれどうなった?」
「どうって?」
「だからさ、あれからどうかなって。連絡とか取ってんの?」

息を吐くように女を褒める男が、普段は俺に対して微塵も嫉妬心を見せない男が、唯一心を揺らす存在、それが野口の兄貴である章人さんだった。

野口は自信に満ち溢れている人間という訳ではないが、劣等感も持ち合わせていない。つくづく深みがなくて軽薄な人間だと思うけれど、章人さんに関してだけは、得体の知れない暗い感情を垣間見せることがある。

野口の世界は薄く張られた水の中をミジンコが泳いでいるようなものだ。

上がったり、下がったり。

誰かを出し抜いたと思って見返せば、そこにはほんの1ミリメートルの差さえない。みんな流れに身を任せるミジンコ同士。だから優劣をつけられないし、誰かを特別に思うこともないのだろう。

俺にはそんな世界耐えられない。

俺の世界には薄氷が張っている。その下に落ちれば、深海5千メートルまで落ちる世界。強者と弱者が居る世界。そうでなければ楽しくない。

「連絡取ってるよ。今日も家に居るって聞いてるけど」

俺は答えながら満面の笑みを浮かべた。

「はあ?」
「ん? 章人さんいないの?」
「知らない」

野口はむっとした顔付きで答えた。

色気がないよな。目を釣り上げて、口を尖らせて、「私だけを見て」って言ってくれたらそれだけで良いのに。

あと少し。あと少しだけ。それで俺は骨抜きにされてやるのに。

それからずっと野口は黙って歩いていた。

俺みたいな人間と野口みたいな人間が並んで歩いているのは異様な光景だ。野口の友人は俺のことを馬鹿にするし、俺は大抵の野口の友人を馬鹿だと思っている。

ああ、でも、それってぞくぞくする。

俺は黙って野口に付いて歩いた。

野口の家に着くと、章人さんがいた。章人さんは俺に「いらっしゃい」と言って、野口のことを無視した。野口と章人さんの関係は余りうまくいっていない。それはきっと俺が現れる以前からそのようだ。

野口は何でもないことのように部屋へ向かった。

「飲み物取って来るよ」

部屋に着くと、野口はそう言って、いつものように俺を残して部屋を出た。

俺は何となく携帯電話を見ると、章人さんからメッセージが届いていることに気付いた。「もしかして風邪?」と表示された画面を見て、俺は思わず感動した。

学校から一緒に歩いてここまで来た野口は、おそらく気付いていないことだが、俺は風邪気味だった。だからここに来るかどうかも迷ったのだが、野口の笑顔に弱い俺は誘われるままに来てしまった。今日だけは、馬鹿は風邪を引かないという迷信を信じよう。

俺が章人さんに返信しようとすると、タイミング良く、あるいはタイミング悪く野口が戻ってきた。

「なんか連絡? 誰から?」
「章人さん」
「は? まあいいや。あったかいものなくて、水でいい?」

野口が飲み物を取りに行って水を持って帰ってきたことは一度もない。章人さんと何かあったのだろうか。

「いいよ」

俺が頷くと野口は恥ずかしそうに笑った。

野口はコップが二つ乗ったお盆をテーブルに置くと、俺の直ぐ隣に座ったので、膝と膝がくっ付いた。

「どうぞ」
「ありがとう」

野口は破顔した。俺が水を飲むのを嬉しそうに見ている。

なんなんだ、こいつは。

ああ、いま、見えるよ。巨大で分厚くて近寄り難い強化ガラスの壁が。手を伸ばすと冷たい壁が指に触れる。力を込めても痛いだけ。

嫉妬しろよ。

束縛しろよ。

俺以外の男と親密そうにするなとか、お兄さんと連絡取るなとか、なんとか。そういうことは言えないのか?

「はじめ」と野口が言った時、最初自分の名前を呼ばれたのだと気付かなかった。どうしてそんなに嬉しそうなんだ。俺との間にあるこの壁が、野口には見えないらしい。

野口は俺のことをじっと見つめている。

目が合って暫くすると、にっこり笑って「あのさ」と続けた。

「二人で温泉とか行かない?」
「温泉?」
「二人でゆっくりしたくない?」

野口は俺の返事を待たずに、俺にキスをした。余りに唐突だったが、野口は俺のことを心底好きだとでも言うような顔をしたから、俺は野口に体を預けた。

「都内にもあんだって。テレビでやってた」
「野口も行ったことないところ?」
「そう。ハジメテ。はじめは?」
「俺も、ないな」
「マジ? じゃあ絶対に一緒に行こう!」

野口は幸せそうに笑って更に深いキスをしようとしてきた。俺にはそれがとても嬉しかった。

野口は壁を越えて来る。透明にでもなれるのか。ワープでもできるのか。余りに一瞬の出来事なので俺にはその理屈は分からない。たぶん野口が宇宙人だからだろう。

野口は宇宙人だ。地球人には到底理解不能な存在。

分厚い強化ガラスに触れて冷えていた指先を優しく握って温めてくれる。

くそ。

でもごめん。

俺は野口に手をついて抵抗した。これ以上接触すると風邪が移ると思ったからだ。

もう手遅れかもしれないが。

「悪い」
「なんで?」
「理由はあるけど。言いたくない」
「なんで? なんでなんで?」
「お前が鈍感だから」

お前が俺の風邪に気付くことに期待はしていないけれど。章人さんが気付いてくれたので俺は調子に乗っていた。

「それどういう意味?」
「俺達の関係にとっては重要なことではない。俺はお前のことが好きだし、お前のすることが嫌な訳ではない」
「俺のこと好き?」
「うん。そうだな」

野口は俺の首に手を回して、強めの力でキスしようとしたが、俺はそれより強い力で抵抗して、近付くことを許さなかった。

野口は先程までの元気が嘘のように項垂れて俺から離れた。その姿をとても愛おしいと思った。

あの言葉、こういう姿のことを言うんだろうな。




曰く、“青菜に塩”。
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青柿が熟柿弔う/その後

※BL
※ヤリチンと付き合い始めたけどエッチはしたくないっていうだけの文章




「好きだから、セフレじゃなくて俺の彼氏になってくんない?」と言われて、俺は「いいよ」と答えた。

答えたのはついさっき。俺はそのことをさっそく後悔している。

四方は俺に熱い視線を向けている。ライトセーバー級の熱い視線。ライトセーバーが熱いのかどうか知らないけど。とにかくすごい目ヂカラで見てくんだもん。

四方の彼氏になったとはいえ、俺は居心地が悪くなって目を逸らした。だってその目はあれだろ。ヤりたいんだろ。突っ込みたいんだろ。だいたい俺達のこの体勢が、ちょっと怖い。

俺は四方の部屋のベッドに寝かされて、四方に押し倒されていた。

「え、ちょっと。マジで?」

俺の言葉に、四方はにやっと笑った。

こわいこわい。

でも俺の頭の中、怖がっている自分の隣には、四方ってカッコいい、とか考えている自分もいる。ふつう、こういう時には、冷静で頭が良い自分と、感情的で素直な自分が葛藤するものだけど、俺の中の俺はというと、二人ともただの馬鹿だった。

どうしようもねーよ。

俺って真性の馬鹿。

無言のまま四方の顔が近付いてきて、頬にキスされた。頬から首筋にかけて何度もキスされた。

今まで色んな女にこうやって迫って口説き落としてきたんだろうな、とか思うのは、四方に嫉妬しているからだろう。それが彼氏としての嫉妬ではなく、男としての嫉妬であるのは言うまでもない。

だってこいつ、上手いんだもん。

他の男がどうやって女とセックスしているかなんて考えたこともなかった。飲み会でそういう話しになれば、性欲が強いか弱いかぐらいのことは判明する。前戯と合体で30分かからないとかいうやつもいたし、前戯に1時間以上かけるやつもいた。でもそれだけ。細かいことまで話すやつはいないし、誰もそんなことには興味がない。

落ちの無い話しと笑えない話しはしないのが男同士の暗黙の了解だ。

でも今は事情が違う。

俺は、キスされて、触られて、舐められる立場になって、初めて他の男はどうしているのかということを切実に考えた。そしてこれまでの自分のセックスを省みた。

俺って下手だったんだ。

なんかこれ、すげー悲しい。

四方は手が早いし調子いいことばっか言うのに、何故かセックスからは愛情を感じる。

愛なんて無いクセに。

流石にじゃれてるでは済まされないところにまで手が伸びたので、俺は四方を制止することにした。

「ちょっとタイム」
「なに?」

何、じゃねーよ。

「今日はちょっと、できない」
「は? なんで?」

なんで、って。

理由はない。でも何かしらの理由を言わないと確実にヤられてしまうと俺は確信していた。四方の目はマジだし、だいたい手が止まっていない。

「腹の調子がちょっと」
「そうなの? 大丈夫?」
「あ、まあ。でも、だから今日はちょっと」

女みたいで嫌だけど、やむを得ない。体調不良なら理由としては十分だろう。

四方は「そっか」と言いながらキスを再開した。

待て。待て待て。

「四方、おい!」
「なに?」

何、じゃねーよ!

「お前、あの、もしかして、レイプものとか好きなやつ? ヤバい性癖とかある系?」
「ヤバい性癖?」

レイプのところをさらっとスルーされて寒気がした。そういえば今までもこいつ、俺が嫌とか言っても無理やり事を進めようとしてきた気がする。

これってそういうこと?

そもそも体格差があるせいで、ちょっとの抵抗では四方の動きを止められない。かと言って本気で抵抗するのは四方に悪い気がする。でもこのままではヤられる。どうにかしてこの状況から抜け出したい。

「あるだろ、なんか、SMプレイとか、複数ものとか、そういう……」

SMがヤバいかどうかはこの際どうでもいい。俺はそっちじゃない、ということが伝わればいい。

すると、四方の手が止まった。そして黙ったまま浮かせていた腰を俺の太腿辺りに下ろして座った。

なんだよ。なんか言えよ。

四方を止めることに成功したのか?

俺は畳み掛けるように話し続けた。

「なんか、こんなタイミングで悪いけど、女とヤる時もそういうの確認しときたい主義で。ヤりたいこととか、ヤって欲しくないこととか、あるだろ、いろいろ」

嘘だ。風俗以外でそんな確認したことない。

そんなことはヤりながら「これは好き?」って聞けばいい。「嫌だ」と言われたらやめるだけ。

四方は真面目な顔で俺を見下ろしている。正確には、俺の腹の辺りに視線がある。

ちょっと怖い。

「あの、ごめん。なんか、俺、……」

余りに沈黙が長いので俺はそう言いつつ上半身を起こした。

すると、四方は俺に抱き着いた。いつもより四方の体温が高い気がする。本気でヤる気だったんだとわかって申し訳なくなった。俺ってそんなに色気あるかな、なんつって冗談を言える雰囲気でもない。

「治は、俺としたくないの?」

その声は、雪原の奥深くから聞こえてくる動物の鳴き声のような、哀しい声だった。

求められている、と思った。

俺は四方の気持ちがよくわかったし、同じ男として応えてやりたいとも思った。でも俺の体は、それにもかかわらず、四方のことを拒否していた。

「ごめん、ほんとに、体調が悪いんだよ」

ごめん。

今までずっと女と恋愛関係にあったんだから仕方ないだろ。家庭教師のお姉さんに色々教えてもらうAVとかで抜いてきたし、男とこんなことになるなんて考えもしなかった。今日の俺に千の可能性があったとして、四方と付き合うのはきっと可能性順で七百番以降だっただろう。

四方はカッコいいし同じ男として憧れる。お前みたいな男に生まれたかったよ。俺がお前なら女を嫌いにはならなかった。

そしてお前とベッドの上で抱き合うこともなかっただろう。

望むものが手に入るなら、望まないものを手にする必要はない。

ああ、四方に抱く憧憬と嫉妬とか、同世代の女に抱く憎悪に近い嫌悪とか、そういう煩わしいもの全て捨ててしまいたい。可愛いと思う女の子と付き合って結婚して働いて稼いで友達と飲んで老いていく、それだけの人生じゃいけないのか。

お前は俺に向かって言う。好きとかなんとか。今時小学生や中学生ぐらいしか喜ばないようなそんなしょうもない言葉一つで俺の感情はかき回される。

わかっている。四方にとってそれが女とヤる為の道具でしかないってことぐらい。

なんでこんなに苦しいんだ。

あー、クソ。

醜い憎悪。詰まらない嫉妬。体の欲求。女に対する恐怖。愛に対する疑問。俺の中にはまだまだあるよ。四方と関わるとそれが増殖していく。

暫く黙っていた四方が体を離したと思ったら、俺のことを押し倒した。

そして、俺の名前を呼びながら頬を撫でて、キスをした。

俺は抵抗しなかった。

できる訳がない。

「なあ。これはレイプ? 好きなのに、なんでダメなの?」

また言った。好きとかなんとか。

睨みつける積りで顔を四方の方に向けたら、四方も俺を睨んでいた。四方の目付きの方がずっと鋭かったので、俺は喉元まで出かかっていた言葉を飲み込んだ。

死ねとか言ったら間違いなく返り討ちに遭う、そういう目。

こういうところ、ほんとに不平等だと思う。

なんでこんな気持ちにならないといけないんだ。すげー好きな相手ならともかく、よく知りもしない男と付き合うことになって、体調不良を言い訳にセックスを拒否して、そして今みたいに睨まれる。

俺だって、言いたくなかったよ、レイプなんて言葉。男としてちょっとでも好意のあるやつに、触ろうとして、レイプなんて言われたら傷つくよな。口にしていい言葉じゃなかった。

なんなんだよ、クソ。

好きとか言いやがって。

そのクセ、目的は一つだけ。

四方がセックスしたがるせいだ。好きならまずはデートとかすればいいんだよ。好きとか言う前からセックスしたがっていたお前が、今更好きとか言ったって嘘みたいじゃないか。

前に言ってたもんな、ビッチは嫌いって。だったら処女みたいな今の俺の対応はさぞ魅力的なんだろうな。それを口説くのが好きなんだろ。

俺は心の中で悪態をつきながら、ふと思った。

それが本音?

「お前が好きとか言っても信じらんねー」

俺は余裕そうに笑って言う積りだったけど、声は震えていたし顔も引きつっていた。カッコ悪い。どーせ俺は四方とは違う。

「じゃあ、どうしたら信じる? 1年セックスしないで付き合ったら信じる? お前のケツを舐めたら信じる? 這いつくばってなんでも言うこと聞いたら信じる?」
「は?」
「なんで? なんでだよ!」

四方は怒鳴った。

正直怖い。

「おーこわ。デカい声出すなよ。じゃあもうそんなに俺に突っ込みたいならさっさとヤれば? 俺のこと好きとか言わなくていいよ。そのかわり、いつも女にするみたいに上手く優しくヤってくれる?」

そのテクニックを教えてくれよ。

ただ横に寝ていただけで、どうしてこんなに好きにさせられるんだ。

ああ、クソ。

そうだよな。それがこの気持ちの正体。

なんで好きになったんだ。好きって言われたからか。でも嫌いじゃなかった。ずっと、四方が髪を切った時から、きっと、好きだった。

俺は涙目になって四方を見た。

四方も泣いていた。

なんでお前まで泣くんだ?

「そんなこと言うなら、お前こそ、女にするみたいに俺に優しくしろよ。女にするみたいに笑えよ」
「は?」
「俺にはできない。お前は女じゃないし、俺は他の誰よりも一番お前が好きだから。治と出会うってわかってたら、今みたいな人生にはしなかったけど。でも、時間は戻らない」
「好きだからってこんなにしつこくするか?」
「は? 好きじゃなければ好きとか言わねぇだろ」
「俺に突っ込みたいだけじゃねーの?」
「ぶっ殺すぞ。治を喜ばせたいだけだし、急に最後まではしねぇよ」

言われてみればそうかもしれない。

マジか。

「あのさ、正直に言っていい?」

俺が聞くと、四方は俺の目を真っ直ぐ見詰めたまま頷いた。

「あの、俺はさ、男とヤったことないから、たぶん、すぐそういう気になれないんだと思う。このままお前が続けたら、まあ、そしたらイクだろうけど、俺はお前のを抜いてやれるか、ちょっと自信がない」

要するに、そういうこと。

そういうことだったんだ。

俺は四方のちんこを触れない気がする。でも付き合って触れ合う機会が増えれば、抵抗感もなくなるはずだ。

「体調不良は?」

四方は不気味に俺を見詰めたまま尋ねた。

「悪い。それ嘘」

俺の答えを聞いた四方は、怒ったりせず、にっこり笑った。

「なんだ、良かった。大丈夫。治は何もしなくていいよ。今日はただ気持ちよくなればいいから」
「は?」
「治、好き。治も俺のことを好きになってくれて嬉しい」

は?

好きとか一言も言ってねえ!

それからの四方の勢いは、何かの野生動物のようだった。俺は腰が抜けるといういうことを初めて体験することになった。

全てが終わって、俺は半泣きになっていた。

「お前、女より男の方が好きなの?」

俺が尋ねると、四方は笑った。

「ババアよりは男の方が好き。でも男より若くて可愛い女の方が好き」
「うわ、最低」

最低だ。

聞かなきゃ良かった。

俺は、「あ、そう」と言った。俺の不機嫌そうな声は我が儘な若い女みたいだったけど、それを四方が好きだと言うならまあいっかと思った。

横向きに寝転んで床に散らばった服を眺めていると、後ろから四方の腕が伸びて、俺の体はすっかり抱き締められてしまった。そして後ろから四方が耳元に口を寄せたのがわかった。

「でも、一番好きなのは治だよ」

なんか、そんなことを言われる気はしていた。

俺は真っ赤な顔を見られないように、体を丸めた。
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青柿が熟柿弔う

※BL、大学生同士
※母親に嫌われた子供
※R15、15歳未満の方は読まないでください




治といると素の自分でいられる。飾らない自分、自分のことを好きな自分。俺は父親似の失敗作じゃないし、ババァに罵倒されることもない。

俺は治の体に腕を回して頬ずりした。

ああ、いい匂いがする。風呂に入ったからか。でも、いっつもいい匂いがするから、俺と治は匂いの相性がいいのかもな。だから体の相性も、とか言ったら治はキレんだろうけど。

「オニィさん。帰って来たんじゃね?」

治がそう言って俺の腕に触れた。

音に敏感な治がいつも先に気付く。玄関の鍵が開けられる前に、車のエンジンとタイヤの音で、硬質な革靴がアスファルトを攻撃する音で、あいつの不気味なハミングで。

「四方。寝てる?」

寝てない。起きてる。治に抱き付いて背中の匂いを堪能してる。はぁ、マジでいい匂い。

「起きてる。帰んの?」

俺が聞いても治は黙ったままもぞもぞ動いた。

治は兄貴を避けている。初めてうちに来た時に、俺のセフレだと思われて絡まれたことが割とキツかったらしく、トラウマになっているようだ。俺と兄貴はけっこう仲良いから、俺としては微妙だ。あの日の兄貴は機嫌が悪くてテンションがおかしかったから、まあ治の気持ちも分かるけど。

だから治は兄貴と顔を合わせないように必死。

「今から帰るのめんどくさい」

治は身動きせずに答えた。

多分だけどね、こういうこと言う治は、引き止めて欲しいんだと思う。治自身はそれを女みたいって言って嫌うけど。それの何が悪いって言うんだ?

俺だって女の好き嫌いくらいはある。傲慢で香水臭くて自分が人類のヒエラルキーのてっぺんだと思っていて四つん這いにさせた男の背中に足を乗せてハイヒールの汚れを落として笑いながら手鏡を覗くような、そんな女は大嫌いだ。でも一人になるのが嫌でベッドの上で我が儘を言う女は可愛いと思う。

治は可愛い。

「お前ってさあ……」
「あ?」
「俺と居るのつまんない?」
「なに、急に」

だってそうだろ。

つまんなそうな顔。

なんとも思ってなかったこいつのこと、今は割と気にしてる。そういう気持ちをもっと別の名前で呼ぶには、まだ俺には覚悟が足りない。

「お前のこの背中、けっこう好き」
「きもちわる」

治は心底嫌そうな声でそう言って、身震いした。本当に嫌なのかも。

こいつは、俺に憧れていて俺に成りたいとか言う癖に、俺のことを気持ち悪がる。大学でも俺に熱い視線を寄越す癖に、一緒に居るとそっけない。今の俺は、それをなんなんだって切り捨てることができない。

このぐちゃぐちゃに絡まった感情をほどいたら、一本の糸になるだろうか。

その糸が辿り着く場所は?

それはきっと、おそろしい。

でも知りたい。

「なぁ、治はどんな女が好き?」

俺は質問しながら治の体に回した腕に力を入れないように気をつけた。それはたぶん成功している。

治は直ぐには答えなかった。

答えを待つ間、俺は願った。

たとえば答えが、色白で華奢で守ってあげたくなるようなオンナノコ、とかならいい。バスト100以上、ウエスト60以下の超美女、とか。料理が上手で文句は言わなくていつも笑顔で童顔で優しくて嫌煙家じゃなくて俺にべた惚れしている子、とか。そんなのならいいって思った。

だってそんなマンガに出てくるようなヒロインは存在しないし、そんな理想はないのと同じだ。同じような理想を持った多くの男は平凡な女と結婚して子作りしてそれを幸せとか呼んで満足してんだろ。

暫くして、治は鼻で笑った。

「どんな男が好きか、って聞かねえの?」

俺はそれを聞いて我慢できなくなった。仕方ねぇだろ。この匂いを嗅ぐことを許され、背中に頬ずりすることを許され、体に触れることを許され、それでこんな思わせ振りなことを言われて平気なわけない。

絡まっていた感情をハサミで切り刻まれたんだ。

お前のせいだ。

お前はこの感情のゴールなんか知りたくないんだろ。こんなぐちゃぐちゃに絡まった糸は丁寧にほぐす価値ねぇって言いたいんだろ。

ひどくないか?

俺は治の上に乗って治の顔を上に向かせてキスした。

「なに急に」

慌てた治もかわいいな。処女っぽいリアクションが演技じゃないことを祈るよ。

俺はもう一度キスしようと顔を近付けたけど、治の手に阻まれた。

「ちょっと待って」
「……」
「なにこれ」

なにってなんだよ。童貞か?

「いいじゃん」
「は、え。よくない。なに言ってんの」
「兄貴が嫌ならホテル行くけど」
「セックスするってこと?」
「まあ、そう」

また顔を近付けたら、今度は嫌がられなかった。ディープをしたらちゃんと応えてくれたから、こいつは何回もこういうことヤってんだってわかって逆にムカついた。

処女じゃねぇじゃん。

そうか。キスなら兄貴ともやったのかもな。それ以上のことも。

大学デビューのくせに。

当たり前か。こいつ女好きだし。

クソビッチが。ムカつく。

「いや待って。俺とヤりたいの?」
「うん」

俺は答えつつ治のシャツの下に手を入れて体を触ってみる。膝で下を刺激するとちゃんと反応した。なんだかんだ言ってもちんこを立たせたら勝ちだと思っている俺は、さらに手でそこを刺激した。

「待て待て! ムリ!! さすがにムリ!!」
「何言ってんの。ムリじゃねぇだろ」

ゆっくりヤればいいし。最後までできなくてもいい。友達以上の関係になりたいだけだ。

「四方は女が嫌いなんだろ! だからって俺を使うなよ!」

余りに治が抵抗したから、俺は手を止めた。

「は?」
「わかるんだよ。俺も女は好きじゃない」

そんなこと聞いたことねえよ。お前は女好きだろ。今まで何人もの女を褒めてセックスしてきたんだろ。

「じゃあお前は童貞なの?」

治は言葉を詰まらせた。

「はいはい、わかった。大丈夫。ムリなことはさせねぇから」
「話し聞けよ!」
「聞いてる」
「聞いてないだろ!」
「じゃあお前は? さっきの質問の答えは?」
「は?」
「好きな男のタイプは? 俺、とか言ってくれんの? ああいうこと言ったのは、俺がセックスの対象だから? お前は女が嫌いだからって男ともヤるの? なんでうちに来るの? 期待させて、何もさせないのはひでぇよな? お前は今までそういう女に何もしないで家に帰してきた?」

治は眉間に皺を寄せた。

治は何も答える様子がないので、また体に指を這わせたら、やっと口を開いた。

「四方がタイプだよ」

は?

治は顔を真っ赤にしている。肌が白いからよく目立つ。

「お前、男も好きなの?」
「違う」
「ああ、そう」

そうだった。こいつ、俺が理想とか言ってたことがあったんだった。憧れてるとか。

じゃあ、どうすりゃいいの?

俺は、真っ赤な顔で震えている治をどうこうする気になれなくて、横に寝転んだ。

「女が嫌いってマジ?」

俺が聞くと治は「うん」と頷いた。

「女が嫌いなやつは合コン行かないだろ」
「てか、同い年の女が嫌い。セックスはいいんだけど、それ以外の時間ずっと一緒にいると落ち着かない」

最悪だな、それ。

「俺は別に平気だけどな。いいじゃん、女が楽しそうに集まってんのとか。そういうの眺めんの好きだけど」
「うそだろ?」

治がうんざりした顔をしたので俺は笑った。

「じゃあ、どんな女ならいいんだよ」
「大人な女」

なにそれ。キモい。

「脚が細くて目尻に皺があるババアでも?」

冗談で言ったのに、治は「嫌いじゃない」と答えた。

最悪だ。どうかしている。

「俺とお前は全然違う。お前の趣味は救いがないし最悪。女が嫌いなんじゃなくてマザコンなだけだろ」

治はぼーっと天井を見上げながら、「じゃあ」と言った。

「じゃあお前は、どんな女ならいいの?」
「可愛い女。偉そうなババアは死ぬほどムカつく。考えるだけでぶん殴りたくなる」

たとえば、あの女とか。

俺と兄貴を馬鹿にするあいつ。

「四方」
「あ?」
「気付いてねぇの?」
「は?」
「お前こそ、マザコンこじらせてんじゃねぇの?」
「は? ぶっ殺すぞ」

マザコン?

俺が?

お前みたいに女に母性求めてねぇし。同い年の女が嫌いで年上が好きとかいう救えないマザコンと俺は違う。

治は黙った。

「治ってストレートで大学入ってる?」
「え、ああ。そうだけど」
「じゃあ俺のこと好きなのも当然だな。俺、一浪してるからイッコ年上。だからお前は俺に惚れたんだろ。マザコンらしくてウケる」
「え、一浪してんの?」
「うん」

治は、笑った。

「年上だから好きになっただけなんだ。四方はそれでいいの?」

その笑顔は、自然で、平和で、構い倒したくなるような感じで、やわらかくて、桃を握りつぶして溢れ出てきた果汁みたいな甘ったるい芳香と濃度があって、俺はそれが溢れ落ちないように口に入れてしまおうと思った。

「え。は!?」

治は目を見開いて俺の胸に手を突いて思い切り押した。

でも俺には治のささやかな抵抗ぐらいどうってことなかった。

だって、早く食べなきゃ。

治の口を舐め回して、舌を突っ込んだ。舌を絡めて歯列をなぞって唾を飲み込んだ。手は治のズボンに突っ込んでちんこを掴んで強引に扱いた。

「ん……!」

おかしいな。

マズい。桃の味なんかしない。

でも、すっごくいい。

治が口元に手をかざしてキスを止めた。俺はその手を掴んで口から引き離した。もう一度顔を近付けると、今度は逆の手で口を塞がれたので、キスを諦めてちんこを扱き続けることにした。

「マジで死ね!」
「なんで? 死因は?」

治は我慢できなくなったのか、口を守っていた手でちんこを扱く俺の手を掴んだ。もちろん俺は、ちんこを諦めてキスするだけだ。口から顎を伝って耳の中まで舐めあげると、けっきょく治のちんこは元気になっていく。

「やめて。マジで…」
「恥ずかしいの? かわいい」
「やなんだよ……」

やばい。そそる。

なんかくる。

早く食べなきゃ。

「やじゃないだろ。喜んでるように見えるけど」

返事がないから顔を離して治を見たら、泣いていた。

見覚えがある。あの日、初めて治がうちに来た日、兄貴に押し倒されていた治、あの日の治だ。泣いていた。悔しそうに、つらそうに。

「え、ごめん、そんなに嫌だった?」

手を解放してやり、体を浮かして治から離れると、治はベッドから崩れ落ちるようにして床に座り込んだ。

「ほんとごめん」

俺は一体。何をしたんだ?

「ごめん……」

呟いたのは、治だった。

「四方は俺とヤりたいの?」

俺は答えに詰まったけど、ここで嘘をつくのも違うと思った。言い訳が思い付かなかったっていうのもある。

「まあ、そうかな」
「セフレにしたいの?」
「それは、なんか違うけど」
「じゃあ女が嫌いだから?」
「いや、それさ。さっきから俺にはよくわかんねぇんだけど。お前が女嫌いっていうのは、まあ、わかったよ。マザコンって言って悪かったけど、実際俺にはそう聞こえたんだからしょうがねぇじゃん。でも、俺は女が嫌いじゃねぇし、マザコンでもない。絶対違う」
「お母さんを好きになりたいのに好きになれなくて、現実逃避してんじゃないの?」
「は?」
「俺の趣味が最悪なら、四方の趣味も最悪だよ」

好きになりたいのに好きになれない?

それはあり得る。それならあり得る。

幼心に何度も考えた。なぜ母親は自分を嫌うのか。答えはわからなかった。だから俺も嫌うことにしたんだ。

母親世代のババアが死ぬほど嫌いで手近な女をセフレにしてきた。だってあいつらはいつかババアになって俺を罵倒するに違いないから。本気で好きになるのはいつも男。治とそうなる予感はあった。

治のことを馬鹿にしたのは同族嫌悪から。

同世代の女が嫌いで男に憧れる治。なんとなくだけど、過去になんかあったんだろう。女に欲情するのに心は男に持っていかれるらしい。それで俺なんかに引っ掛けられた。

たぶんどっちも趣味が悪い。

向こうの方が趣味が悪いとか言い合っても仕方ない。意味がない。あした腐るみかんが今日腐ったみかんを見下すようなもんだろ。けっきょくどっちも腐るんだ。もしくは昨日まではどっちも新しかった。

「糸がほどけた気がする」

固くてほどけなくなってた結び目を治がハサミで切ってくれた。一本の糸ではなくなったけど、おかげで糸の先がようやく見えた。

「なに?」

治が振り返って俺を見上げた。

「好きだからだろ」

おそろしくなんかない。目を背けたくなるようなコンプレックスを抱えているのかもしれないけど、未来はある。悪趣味だけど最悪じゃない。救いはある。

糸の先には「好き」って感情があるだけだった。

馬鹿だったんだろ。

俺もお前も、ただの馬鹿。

「は?」

俺は「だから」と言って治の横に座った。警戒した治は俺からちょっと距離をとった。

「好きだからヤりたいんだよ。だからセフレじゃなくて、俺の彼氏になってくんない?」

治は目を丸くして、顔を真っ赤にさせた。

それはやっぱり桃みたいだった。

治は困ったように眉尻を下げて、「それならいいよ」と言って笑った。




曰く、“青柿が熟柿弔う”。
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仰いで天に愧じず俯して地に愧じず

※ストレートカップル




『お兄ちゃん、なんで彼女紹介してくれないの?』

かつて妹はそう言った。

俺はその問いに答えられなかった。

先日、妹に彼氏ができた。彼の名前は上林くん。妹とは大学の同級生だそうだ。妹のGPS信号を目で追って、時々にやりと笑う、そういう男。

上林くんが妹を好きなことは一目瞭然で、俺にもその感情を隠すことなく堂々としている。堂々と、妹に恋をしている。

溜め息が漏れた。

俺とは違う。

こんな俺を知れば妹も上林くんも幻滅するだろう。

こんな俺を知れば、英里も。

英里は暫く前にうにに来て以来一度もうちに来ない。うちに来ないし連絡さえ寄越さない。だから俺はそれから一度も英里に会っていない。

俺はスマートフォンを見た。無意識だ。

上林くんみたいにGPSを使って英里を監視しようとは思わないけど英里が今何処に居るのかはとても気になる。

迷った俺は英里と連絡を取ってみることにした。

英里が病気で倒れている、という可能性だってあるから。英里の家族はもちろんのこと英里の勤めている会社にも知り合いがいないので英里に直接連絡をして確かめるしかない。

それにしては、送った言葉は「あした会える?」だった。

俺はそれから風呂に入って酒を飲んでニュースを見ながらダラダラしていた。

明日は休みだ。仕事はないし友人との約束もない。

さて、英里からの返事は?

スマートフォンはうんともすんとも言わずテーブルに横たわっている。

俺は英里の顔を思い出してみた。英里の笑顔は妹のようには綺麗ではないけど何とも言えない魅力がある。

英里と連絡先を交換した時、英里が俺を好きになってくれるとは思いもしなかった。あの日久しぶりに会った英里はすっかり大人だったけれど、出会った頃の面影が残っていたから安心した覚えがある。

その時、スマートフォンが鳴った。英里からの電話だった。電話越しに英里は、これからうちに来てもいいかと尋ねた。

「もちろん。俺はいつでも待ってるよ」

そう答えると英里は小さい声で「うん」と言った。

英里はいつも荷物が少ない。出掛ける時は小さいカバンに財布とハンカチと携帯と絆創膏と手帳と少しの化粧品だけを入れている。俺は英里のその小さいカバンが好きだ。そして英里がうちに泊まる時に『お泊まりセット』を用意してくるところが俺はもっと好きだ。

久しぶりに会った英里は小さいカバンを肩に掛けて手にはお泊まりセットを持っていた。

「なんか、久しぶりだよね」

英里がそう言って笑ったので、俺は強がって「そう?」と答えた。

「仕事?」
「ううん、さっきまで佐季と居た」

佐季さんは英里の大学時代の友達だ。英里と仲が良いらしく、しょっちゅう二人で会っている。俺がいなければ英里は佐季さんと結婚していたんじゃないか、とさえ思う。佐季さんは2年程前に結婚したので、その心配はなくなった。

俺が部屋の中へ進むと英里も後から付いて来た。

「佐季さん元気?」
「いや、うん。相変わらずかな。和沙と……」
「俺と、何?」
「じゃなくて、離婚したんだって」
「え、離婚? いつ?」
「今年の夏から別居してて、おととい離婚届出したの。てか、今佐季うちに居て。それで最近、和沙と会えなかったんだけど」

寝耳に水だ。

つい2日前のことじゃないか。

「大丈夫なの?」

英里は笑って「たぶんね」と答えた。

「今佐季さんと住んでるってこと?」
「え、うん。そうなるかな。同棲」

英里が楽しそうに言ったので俺は少しむっとした。

佐季さんのことは心配だけど、佐季さんのことよりずっと英里に興味があるし心配だし好きだし執着しているから当たり前だ。

「同棲?」
「そんな深刻な顔しないでよ。まさか嫉妬?」

その『まさか』だよ。

理由はある。ずっと前に英里は『他人と暮らすなんて簡単にはできない。恋人とだって同棲したくない』と話していたことがあるからだ。

しているじゃないか、同棲。

俺も泣きついて一人は寂しいとか言えば同棲させてもらえるのか?

「暫く佐季さんと暮らすの?」

英里は首を傾げて笑った。

「暮らすっていうか。あれって、甘えたいんじゃないのかなって思うんだよね。愛してるって言ってくれた人に、裏切られて、お金で縁を切られたんだよ。そんなことを、『よくあること』とか言いたくないからさ。だから佐季が大丈夫って言うまでは、甘やかす予定かな」

俺は浅はかな自分を恥じた。

英里はそういうひとだ。傷付いた人間を放っておけないひと。

佐季さんは傷付いたところを普段は他人に見せたりしないひとだから、英里のところに転がり込んできたのは余程のことなんだ。それを英里が突き放して見放す筈がない。

「ごめん。ねえ、英里」
「ん?」
「たぶん、知ってると思うけど。英里のこと、好きです。言ったことあったよね?」

英里はにこにこ笑ったまま、「え?」と言った。

英里が俺を好きだと言ってくれた時、俺は却って怖くなった。

余りに嬉しくて英里の言葉を嘘だとか冗談だとか考えようとしても俺の感情はそれを嘘だとは認めなかった。俺には英里の嘘を見抜けないと、その日知ってしまった。

「知ってるけど」

英里は目を伏せてそう言った。

英里が照れた顔を隠すように俯くのを見て俺は世界で一番英里のことを好きだろうと思った。

英里と二人だけの時はこんなにも英里を独占したいと思うのに、一歩外に出るとそれが変わってしまう。妹に英里を紹介できないのは英里の所為なのか俺の所為なのかわからなくなる。

英里が年下だったら。

或いは、同い年だったら。

何度もそういうタイミングはあった。プロポーズしていたかもしれない、そういうタイミングが。

こんな俺のことを好きだと言ってくれる?

胸が潰されるような疼痛を耐えるために俺は煙草に手を伸ばした。

「ちょっと、煙草」

英里は不思議そうに俺を見て小さく頷いた。

なんでこんな風になっちゃったんだ。お互い好きなら結婚なんかしなくたって同棲したってしなくたってお互いだけを一番愛しているならそれだけでいいじゃないかとか英里が何も言わないならいいじゃないかとか二人だけがこの愛を知っていればいいじゃないかとか、馬鹿なことを考えて自分を誤魔化して。

本当は違うのに。

煙を吐くとそれは俺の視界を遮るように宙を揺れた。

俺は英里が好きだ。英里もそのことを知っている。英里は俺のことをちょっとは好きだと思う。そうでなければ同じベッドで寝てくれないだろう。

俺は英里が好きだ。

俺は英里が好きだ!!

そうか、分かった。

今頃になって酒が回った訳はないだろうけど俺は根拠のない自信に背中を押されて煙草の火を消した。振り返ると英里がテレビのリモコンを操作しているのが見えた。

もう誰になんて言われてても構わない。

分かったのだから。

「英里!!」

俺が大きな声で呼び掛けると英里は驚いた顔を俺に向けた。目を見開いて少し口も開いている。俺はバルコニーから部屋に戻って一直線に英里の元へ向かった。英里は戸惑った様子で椅子から立ち上がって俺と向き合った。

「好きです」

分かった。分かってしまった。

「英里は、俺のこと、好き?」

俺の質問に、英里は顔を赤くして頷いた。俺はそんな英里を力一杯抱き締めた。

英里に愛を伝えて、こうして愛を返してもらえる人間は、世界で俺しか居ないらしい。顔を赤くした英里を力一杯抱き締められるのも俺だけらしい。

上林くんが言っていた。

『愛してるって伝えられる立場だから言ってるだけです。ちょっと前までは迷惑じゃないかとか拒否されるんじゃないかとか考えてたんですよ、俺。だから、俺の気持ちは大丈夫だって認められたみたいな感じで、嬉しいです』

俺の気持ちは大丈夫。

俺の気持ちは、大丈夫。

なんて言われてもどう思われてもいい。英里が好きって言ってくれたらなんだっていい。

英里、英里。好き。すごく好き。

もう隠さない。家族に紹介しよう。友人にも自慢しよう。

こんなに好きになった人が俺の腕の中に居る奇跡を信じよう。世間に指差されても天地に責められても構わない。

俺の気持ちは、大丈夫。




曰く、“仰いで天に愧じず俯して地に愧じず”。
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相手のない喧嘩はできない

※BL
※元不良と大学デビュー男
※男に乱暴される描写があります




理由は、眠かったから。俺は心の中で言い訳をしながら、自分のしでかしたことに呆然としていた。

「お客様、大丈夫ですか?」

そう言われて漸く正気を取り戻した。

「あ、すみません」
「お飲み物、お取り換えしますね」
「あ、すみません」

自分でも自分のことが嫌いになる。こういう日は殊更。躓いて落としたコーラが床の上でシュワシュワと二酸化炭素を放出しているのを見て、この二酸化炭素の責任を取って死にたい、と静かに願った。

「大丈夫?」

声を掛けられたので顔を上げると、そこには四方がいた。大学の同級生だ。

俺は顔に浮かぶ絶望の色を、より濃くした。

「あ。お前」
「俺のこと分かる?」
「知ってるよ。中野と飯食ってた、四方だろ」

四方は嬉しそうに笑った。それがまた憎い。

「大丈夫?」
「ああ……」

四方のことは知っている。ちょっと前まで黒髪をだらしなく伸ばしていたのを、ダサい、と思いながら見ていたから。

その四方に見られた。

目撃された。

四方は今その黒髪を短くしている。少し前に突然短く切った。俺はそれを、正直カッコいいと思った。整った顔立ちと、大人っぽい黒髪と、ピアスをした小振りな耳と、少し焼けた肌と、男らしい体付き、それらは全て俺の理想だった。

それからは四方のことをよく目で追うようになった。

だってムカつくんだよ。あの四方がカッコいい訳ない。ダサくて冴えないのが四方なんだ。

ああ、だけど、でも。

最悪だ。馬鹿にしていた四方に、こんなところを見られるなんて。

「お客様、こちら、新しいお飲み物になります」
「すみません」

屈辱だ。こんな時に四方に会うなんて。

「じゃあ」

俺は四方の顔も見ずにそう言ってその場を離れた。トレイには新しいコーラが載っている。その親切を、俺は恨んだ。

四方が居ると知っていたら、新しい飲み物なんて断って、さっさと帰っていたのに。間違いない。こんな恥ずかしいところを見られるなんて。顔は赤いし、心臓は早鐘を打っている。

自覚はある。

俺は、人から自分がどう見られているのか、それが気になる性質なんだ。

俺は2階に上がるとソファ席に座った。テーブルを挟んで二人用の席だが、人が少ないので一人用のカウンター席には座らなかった。居酒屋でもファーストフードでも、席が狭いのが好きではないからだ。女の子と体がくっ付く、という理由を除いては。

別に、コーラなんか飲まなくて良かったのに。

俺はコーラには手を付けず、何処かへ飛んで行った眠気を探す為、目を閉じた。

その頃、俺の目に浮かんだ嫌悪の色を、四方が目を細めて楽しんでいたことを俺は知らない。

近くでした物音に顔を上げると、極めて自然に、つまり当然のように四方が正面の椅子に腰掛けていた。そして不気味に笑っている。四方のトレイにはハンバーガーとチキンナゲットとホットコーヒーが載っている。

こいつ、急に人のテーブルについて長居する気満々かよ。

なんでそこに座ったの?

言葉には出さなかったが、俺は四方へ敵意ある目を向けた。

「なんで。ダメ?」

四方は笑ってそう言った。

なんでその顔を俺に向けるのか、そのカッコいい顔で微笑んで俺を見るのか、なんでこんな時間にこんな場所で会ってしまったのか。たぶんその理由を懇切丁寧に説明されたって、俺は四方の同席を許したくない気分だった。

分かってる。自覚はある。

俺は自分でも情け無くなるくらい人から好かれたい人間だ。八方美人。人の好意を無下にできない。

俺は四方に直接文句を言うのを諦めて、違う方法で追い出すことを考えた。

「お前さ、時々『もえちゃん』って呼ばれてるけど、あれって本名なの?」
「は?」
「は? 呼ばれてるだろ」

四方の態度は急変した。俺を鋭く睨んでいる。

ざまー見ろ。

俺はとっくに分かっていた。その名前で呼ばれるのを、四方が徹底的に拒否していることを。中野だって、誰だって、四方に面と向かって『もえちゃん』とは呼び掛けない。

「本名じゃない。次それ言ったら殺すぞ」

四方が低い声でそう言った。

俺は頬をひくつかせて笑った。

四方の言葉はどすが利いていてそれなりに怖かったので、俺はさっさと目を逸らして気を紛らわせた。四方を怖いと思うなんて、情け無い。満タンのまま手付かずだったコーラを飲んでみると、もう炭酸が抜けかけていた。

「なあ、これから俺んち来る?」

は?

四方はハンバーガーに大きな口で噛み付きながら可笑しな質問をした。可笑しいというのは、つまり、俺達の関係に対して余りに不釣り合いに親しげな質問だったからだ。だって今俺に『死ね』って言ったんだぞ、こいつ。

「行かねえよ」
「なんで?」
「眠いから」
「じゃあ俺んちで寝れば?」
「ハァ?」
「終電何時?」
「だから行かねえって」

なんだこいつ。

女を家に連れ込もうとするチャラ男みたいなことを言いやがる。

「こんな時間にコーラって。お前それ時間潰しだろ。俺んち来たらいいじゃん」

俺は驚いた。鋭いのは目付きだけではないらしい。たぶん俺の知り合いが今ここに居ても、四方と同じことを考えて、しかもこんな提案をするやつは一人もいないだろう。

言い訳が思い付かなかった。

「お前んち、コーラは出んの?」

俺がそう言うと、四方は笑って「幾らでも用意してやる」と答えた。それで俺は逃げ道を失って、四方の家に行くことになってしまった。

四方の家は、電車で二駅先の駅近くにあった。途中のコンビニでコーラと酒とつまみを買う辺り、友達を呼び慣れているらしい。意外だ。

家族は寝ているのだろうか。それとも、けっこう広い家だけど、一人暮らしなのか。

分からない。

四方の家庭の事情を詮索するのも憚られるので、俺は素知らぬ振りをした。気を遣った訳ではない。かかわりたくなかっただけだ。かかわろうとしていると、四方に思われたくなかっただけだ。

「好きなとこ座って。飲み物とかも好きなの飲んでいいよ。俺、風呂洗ってくる」

四方はそう言って俺を一人にした。

微妙に緊張して眠気が飛んでいる俺は、部屋を見回して、本棚のものを勝手に手に取ったりしていた。あいつが悪い。強引に人を家に呼んだ癖に放っておくからだ。

セックスでも放置プレイは大概嫌がられる。終わってから女に割と本気で文句を言われることがある。

いや、しかし、すげー綺麗な部屋だな。

全然物が散らかっていない。最初から誰かを連れ込む気だったのだろうか。そういう宛てがあったのだろうか。

だったら、なんで俺なんかを?

分からない。

余りに綺麗に片付いているので、俺は引き出しの中まで勝手に物色することにした。

適当に開けた最初の引き出しに、コンドームが入っているのを見付けた時は、さすがに自分で自分のしたことに引いた。だって引き出しにはコンドームの箱が軽く10箱くらいは詰め込まれている。ラインナップが豊富で、お菓子のバラエティパックみたいな有様だ。

もう少しライトなものを見付けたかった。

「何見てんの?」

あ。

ドアのところに、腕まくりしてコップを持った四方が立っていた。

「ヒマだったから」
「眠かったんじゃないの?」
「もう直ぐ眠くなる」

四方は、声を上げて笑った。ちょっと裏返ったその声は絶妙に下品で人を不快にさせる。

でも怒っている様子はないので、俺は少し安心した。

「好きなのある?」

コップをテーブルに置いた四方は、俺の直ぐ横に来て、引き出しの中を漁った。自分でも全ては把握していないらしく、取り上げた箱のパッケージを読んだりしている。

触れた肩が気になって俺はそっと四方と距離を置いた。けっこう筋肉質な四方の腕は、逞しくて、憧れる。だからムカつく。

「いらねー」
「は? ほらこれとか」

四方の手にある箱には、『潤って気持ちイイ!人生が変わるコンドーム』と書いてある。たった0.02ミリの塩化ビニルにそんな効果が期待できるとは思わないが、避妊しなかったことで人生が変わった人間も知っているので、強ち誇大広告でもないのかもしれない。

つーかね、なんで今キレたの?

キレやすい現代っ子かよ。カルシウム足りてねーのか。自分の目がけっこう鋭い自覚あんのかよ。怖いんだよクソが。

「なんなの、お前」
「好きなのあるかって聞いただけだろ。話し聞いてた?」

なんで俺が責められてんの。

俺にコンドームの善し悪しは分からないので、好きかどうかも分からない。

「ゴムなんかそんな選ばないし、好き嫌いとかねーわ。俺もう寝るから風呂借りていい?」

四方は俺を睨んだ。

殴り掛かってくる訳でもないし、シカトすれば怖くないことに気付いた俺は、そっと目を逸らしてこの場から逃げることにした。案の定、四方は不機嫌な声で風呂場が何処にあるかを教えること以外には特に何もしなかった。

殆んど話したこともなかった男の家で風呂に入る俺。クレンジングオイルが置いてあったから、お母さんかお姉さんも一緒に暮らしているらしい。湯が張ってあったので浸からせてもらった俺は、クレンジングオイルの持ち主に対してちょっと悪いな、とその時だけ思った。

いい湯だな。

なんだろうな、この状況。

俺、けっこうリラックスしている自分に気付く。

ショックだ。

「タオル借りまーす」

悪態つきまくっている手前、人並みに気まずさを感じてもいる俺は、タオルを借りるのに一応断っておくことにした。たぶん四方は部屋にいるので聞こえていないだろうが。

と、思っていた俺。

ガチャっと音がした方を振り向くと、知らない男が立っていたので心臓が止まるくらい驚いた。

え、え?

誰?

「誰?」

そう尋ねたのは、向こうだった。当たり前か。

「すみません。俺、四方の、大学の……」
「ああ。あいつの」

男はそう言って納得してくれたようだが、依然として俺のことをじっと見てくる。おそらくだけど四方の家族だけあって、なんだか不気味だ。

「すみません、もう出るんで」
「あいつとヤったの?」

はい?

男はこの場から立ち去るどころか、俺に一歩近付いて来た。タオル一枚を除けば全裸の俺は当然警戒してその男と向き合った。

「それとも、これから?」

薄ら笑いを浮かべた男は、やはり四方にそっくりだった。

たぶん兄貴かなんかだろう。

しかし俺、考えることを拒否していたのだけれども、この男が言う『ヤった』というのは、つまり、セックスのことだろうか。きっとそうだろう。ほんと嫌になるな、こいつらは。

「ああ、その反応。まだヤってないね。あいつ、これから口説くつもりだったのかな?」

知らねーよ。

男は更に一歩迫って来た。

マジか。

身の危険を感じた俺は着替えを手に取ってから、早足で男の横を通り過ぎて脱衣所から出ることにした。この男の前で悠長に着替える余裕と度胸はさすがになかった。

「行っちゃうの?」

そう言われて腕を掴まれた後、俺は床に押し倒されていた。目の前にはあの男。たぶん四方の兄貴。ふふっと笑う声の下品さが四方とそっくりだ。

ヤバいやつだ、こいつ。

倒れた拍子に投げ出した着替えが近くに散乱して、状況をより惨めにさせている。

四方を呼ぶ?

でも、この男の言っていたことを考えると、四方も俺を押し倒そうとしていたのではないだろうか。あのクレンジングオイル、単に女をよく連れ込むから置いてあるだけだったんじゃないだろうか。

この家に安全は無い。

ジーザス、なんて家だ。

四方は何処だ。この兄貴にヤられるのだろうか、俺は。ああでも、俺は四方にもヤられそうになっているらしいから。

もういいや。

大学で顔を合わせる四方より、この兄貴にヤられる方がマシかもしれない。こいつとヤったら直ぐに帰ればいいんだ。

大丈夫。たぶん。

世の中、男としかセックスしない男もいるんだから。1回ヤられるくらい、どうってことない。

うん、大丈夫。

俺は泣きそうな顔で、マウントポジションで不気味に笑う下品で不快な男を見上げた。

「優しくしてくださいよ」

情け無い。俺はそう言った。

ガチャ、っと音がした。音のしたドアの方を見ると、予想通り、そこには四方が居た。なんてタイミングで現れるんだ。まあよく考えたら、この家で四方の兄貴らしい男とセックスして、俺を招いた四方がそれに気付かない訳がなかった。錯乱って恐ろしい。

「何ヤってんの?」

四方が低い声でそう呟いた。

「野暮だろ」

そう言って笑った男は、本人と比べて見ても四方にそっくりだった。ムカつくところは瓜二つ、顔立ちも同系統だ。

「野暮じゃない。四方、助けて」
「助けてとか言ってるけど」

俺の精一杯のヘルプを、四方は他人事みたいに言った。助ける気、ねーのな。

泣きたい。

でも、四方が居るという安心感が、不本意にも俺の涙腺を引き締めている。

「どけよ!」
「待て、待て。落ち着けよ」
「ハァ?!」

俺が男を押し退けようともがくと、何故か男の方に正義があるかのように押さえ込まれた。暴れる俺を、こいつが宥めているみたいだ。間違ってないけど、間違ってる。

クソ、なんでだよ。

なんでだよ。

四方と話している時にも思った。この男もそうだ。俺では相手にならない。俺が怒ってももがいても、向こうが上手く躱すから相手にされないんだ。

「どけよ……」

最悪のタイミングで、俺は泣いた。

我が儘が通らなくて泣き出す女みたいだった。押し倒されているし。まさにそんな感じだ。すげー惨め。四方が助けないのが悪い。孤独感が俺の背骨を尾てい骨から徐々に舐め上げているみたいに、這うような、得体の知れない不安感に襲われた。

「え、マジかよ。泣いちゃった?」

男がそう言って声に出して笑った。

クソ。クソ野郎。

いま包丁を持ってたらな、お前を5回は刺してるぜ。金属バットを持ってたらな、お前が立ち上がれなくなるまで叩いてるぜ。俺が泣くのをもう笑えないように。

クソ……。

俺はまた四方を見てみた。

どんな顔で俺を見てんだろうなって思ったから。たぶん笑ってるか、何も感じていない無表情かだろうな。

しかし、四方は俺と目が合うより先に動いていた。殆んど飛びつくみたいに、俺の上で笑う男に向かって。

殴り合いの喧嘩は嫌いだ。痛々しくて、恐ろしい。

四方と四方の兄貴らしき男は、掴み合って、蹴り合って、殴り合って、突き飛ばし合って、最後は鼻血を流した男が脱衣所から出て行って収まった。勝負が付いたというよりは、自分の鼻血に興が醒めた、という感じだった。

脱衣所に散乱する物を、俺は何故か拾った。倒れたラックを直して、散らばったタオルを畳んで、歯ブラシと歯磨き粉を洗面台に並べて。

四方は俺を助けたのか?

分からない。

俺はやっと見付けた自分の服を見て、ああ、これが欲しくて片付けたんだ、と思った。

「いてぇ」

四方が言ったのは、たったそれだけ。あんな風に殴られて突き飛ばされたら痛いだろうさ。殴り合いの喧嘩なんかしたことがない俺は、そんな四方の姿にさえ憧れを抱いてしまうのだから、これはもう馬鹿だ。

髪を染めて、話し方を真似て、女の子と遊んで、バイトして。それでも俺は『彼ら』とは違った。

人種が違う。

人生が違う。

俺は薄々気付いていた。四方は俺が思っていたような人間ではないことを。四方はダサくない。カッコいい。

黒髪を、ただ短く整えただけでカッコいい。

四方は喧嘩ができる。

四方は女を家に連れ込む。或いは男をも。

俺は、四方みたいに成りたかったんだ。憧れていた。大学に入学すればそう成れると信じていた。風呂場にクレンジングオイルがあって、トイレに生理用品がある男に成りたかった。

俺は拾った服を着ることにした。

「四方って俺のこと好きなの?」
「は?」
「バイってやつだろ。好きじゃなくても俺とヤりたくて連れ込んだの?」

俺はパンツを履きながら言った。ヤケクソだ。

四方は意外にも笑わないで答えた。

「ヤらしてくれんの?」

マジかよ。衝撃的過ぎる。四方にそんな目で見られてたなんて考えたくもなかった。たぶん俺はマックでコーラを落としたあの時になんかしら違う世界にワープしたんだ。パラレルワールド。違う世界線。

「マジかよ……」

それ以外に何か言える筈もなかった。

「てかお前は? 俺とヤりたいって思う?」
「思わねーよ。ビッチかよ」
「俺はビッチ嫌いだよ。病気持ってそうでちんこ痒くなる」

てめーこそ病気持ってそうだよな。

でもあんなにコンドームがある潔癖症なら病気なんかもらわないか。

「ねえ、名前なんていうの?」
「は?」

え、お前、俺の名前知らないの?

俺は四方を睨んだけれど、たぶん向こうは気付いていない。あの男がやったみたいに殴りでもしない限り、俺には、四方を怒らせることもできないらしい。

「いや、下の名前」
「は?」
「下の名前教えてよ」

俺は四方が用意してくれた部屋着のズボンに足を通した。

名前ぐらい、教えてやるけどさ。

「おさむ。さんずいに台形の台って書くやつ」
「あぁ、『治』。良い名前じゃん。なんで誰も呼ばねーの」
「田村の方が呼びやすいから? 分かんねーけど。中野は治って呼んでるけど」

四方は「そう言えばそうだな」と言って笑った。その笑顔は今まで見たどの笑顔よりも自然で、却って寒気を覚えた。たぶんだけど、いつもこうやって女の子から名前を聞いているんだろうなと思った。

「なんか疲れた。もう寝る」

俺がそう言うと、四方は「いいよ」と言ってすんなり部屋まで連れて来てくれた。

なんかする積もりじゃなかったのか、と思った俺は、何かが起こるかもしれないと期待していたのかもしれない。四方が俺を抱くというのは、それはちょっと想像つかないけど。少なくとも、こいつは俺のことを前から知っていて、近付きたくて、それで今日ここまで誘ったのではないか、それくらいの期待はしても意識過剰ではない筈だ。

でもなあ。

それさえおそらく、勘違いだ。

「ベッド使っていいよ」と言われて寝ていたら、急に横に潜り込んできた四方に抱き着かれたって、俺はもう驚かなかった。

俺は四方の体を肘で押した。

それを四方は嫌がるでもなく、むしろ抱き締めて、そして耳元で何度かキスした。

「四方、起きてんの?」
「んー?」
「俺とヤんないの?」

四方は笑って「眠いんでしょ?」と言った。それは恋人同士のやり取りみたいで、経験の少ない俺はどこかで楽しんだ。

もう四方を怒る気力なんてなかったし、怒ったとしても相手にされないだろう。

俺と四方では喧嘩にもならない。



曰く、“相手のない喧嘩はできない”。
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相手変われど主変わらず

※好きな女の子を天使とか言う男
※病みかけのアプローチ




一目惚れほど信用できないものはない。断言してもいい。ただし、一目惚れした女が、自分が惚れるべき要素を兼ね備えている、ということは稀にある。

「野球のチケットがあるんだけど、観に行かない?」

俺は目の前に座っている村井に言ったが、村井が野球に興味のないことはリサーチ済みである。そして、村井の隣に座る遠藤は、野球が好きであることもまたリサーチ済みである。

「どこの試合?」

そう言ったのは、やはり遠藤だった。

「巨人中日。今度の水曜のナイトゲーム」
「ドームの試合だ。いいな〜」

遠藤は羨ましそうにそう言った。

そうだろう。勝てば首位がひっくり返るかもしれない試合だ。巨人ファンの遠藤が気にならないはずがない。

余程羨ましかったのか、それとも自覚してやっているのか、遠藤は甘えた声で言った。恍惚の嘆息である。それは遺伝子レベルで俺の心をくすぐるように仕組まれている。

こういう女らしさを嫌う男が時々居るが、彼らは誰にでもそういう声を出す女の貞操を嫌っているだけだ、というのが俺の見解である。独占欲が損なわれるから男のプライドが傷付く、ということは俺にも十分理解できる。もし自分にだけ甘えた声を出されたら、彼らだって容易に籠絡されるだろう。

俺には、遠藤がこういう声を出すことさえ想定通りだ。だからむしろ嬉しくて笑いを堪えられない。

俺はにっこり笑って村井を見た。

「来る? 2枚だけあるから、色んな人を誘う訳にもいかなくて」

村井は「うーん」と唸った。

当然だ。村井はボールとファウルの違いさえ分からないのだから。

困った顔をした村井は遠藤を見た。

「遠藤行ったら? 遠藤じゃダメ?」
「え、なんで? 村井くん、行かないの?」

遠藤の驚いた顔、可憐だ。

「ありがたいんだけど、その日はちょっと予定あって」

興味がないとは言わなかった村井の断り文句は大人だった。講義に出る以外は引きこもりの村井には、月に1回の予定さえないことがざらなのに。こんな断り方をするとは感心だ。野球好きな遠藤に遠慮したらしい。俺はちょっと村井を見返した。

「いやー…」

遠藤は、もちろんここで餌に食い付くほど卑しい女ではない。何かを食べたいとか、何処かへ行きたいとかいう要望は、自分からは滅多にしない。グループ内でもそういうキャラクターで通っている。

俺は遠藤と初めて会った時に殆んど直感で遠藤を好きだと思ったけれど、遠藤の内面を知ってからさらに好きになったのだ。

俺はちょっと考える振りをした。そして言った。

「俺も、遠藤みたいな可愛い女の子が来てくれたら嬉しい」
「そういう…」

遠藤は批難がましく俺を見たけど、俺は素知らぬ振りして笑顔を見せた。

「どうする?」
「じゃあ、行かせてもらおうかな」
「オッケー。じゃあ水曜の講義終わったら連絡ちょうだい」

遠藤は想定通り、ゆったり笑って頷いた。垂れ目の目尻が下がるので、とことん善人そうな表情になる。俺はその顔がとても好きだ。

俺はそれからもまめに教室や食堂で遠藤と居る時間を作り、夜遅くなった時にも紳士的に見送り、偶然を装って二人きりになることを繰り返した。これまでこの手を使って、上手くいかなかったことは無い。

二人にだけわかる話題を作ること、それが親密になる為の第一歩だ。

半年ほどはそうやって距離を縮めて、俺は今日も遠藤を付けていた。

家庭教師のバイトがある日だ。中学生に2時間教えて、夜は大学に戻って図書館で勉強する。ここ2か月ほどはそのスケジュールだ。今日もそうだろうと思っていた。

遠藤は白っぽいスカートに燕脂色のセーターとデニムのジャケットを着ている。それは遠藤の淑やかさと穢れなき清廉さを体現するようで素晴らしく遠藤に似合っていた。俺は遠藤の姿を写真に何枚も納めて、彼女がバイトを終えるまでの間それを眺めて悦に入った。

マンションから出てきた遠藤はいつものように携帯をチェックしながら駅に向かった。

遠藤はどんな風に教えるのだろうか。

先生、って呼んでみたい。

俺は自分が中学生の時に遠藤が家に来てくれるという妄想を楽しみながら後を付けた。しかしその日、遠藤は大学に戻らなかった。

ここは何処だ?

大学の最寄り駅を通り過ぎ、見知らぬ駅で降りた。遠藤の足取りには迷いがない。住宅街を進んで、遠藤はマンションの中へ入っていった。高級そうな外観だが、それほど広い間取りのあるマンションには見えない。例えば、一人か二人で住むような、そういうところなのではないか。

新しいバイト先?

こんな時間から?

そうだ、もう20時を回っている。

エントランスの先はオートロックで、遠藤が何階の部屋へ向かったのか、分からなかった。ポストを見ても特にヒントは無い。表札の付いている部屋は半分も無かった。

いつから?

分からない。火曜日に後を付けたのは3週間振りだから。それとも、バイトではない用事があって、ここへ来たとか。

いつから?

分からない。知らない。俺の知らない遠藤なんか、知る訳がない。分からない。思い当たらない。

俺は目の前にあった公園で、マンションのエントランスが見える場所を探してベンチに腰掛けた。天気が悪くて今にも雨が降り出しそうで、そこは凍えるように寒かった。風が吹くと枯葉が舞って、俺をこの場所から追い出そうとしているみたいだ。

遠藤の女友達?

うちの大学のやつじゃない。

高校からの友達?

それはあり得る。同じ高校を卒業した村井なら知っているかもしれない。今でも連絡を取っている友達がいると言っていたし。それくらい普通だ。

こんな時間に訪ねるのだから、かなり仲が良いらしい。夕食はまだだから手作りの料理を振る舞うのか、ご馳走になるのか。

その後は?

俺は何時まで待つ?

待っていられる?

道路側に面しているバルコニーから光が漏れて、男が一人出て来て煙草に火を点けた。室内を禁煙にしているらしい。ホタル族というやつだ。嫌煙家の彼女か家族でもいるのだろうか。この寒い中、可哀想に。

俺の手はバッグを探った。煙草を吸おうとしていた。俺はその欲求に従った。

遠藤に会いたい。

もっと早くちゃんと告白すれば良かった。

でも、それでは遠藤が手に入らない。リサーチして、遠藤に好かれる男になって、それから初めて告白するのでなければならない。本当の、ただの俺では興味を持ってもらえないから。

それで遠藤は幸せなのか?

そんなの俺には分からない!

俺はまた煙草を出して火を点けた。軽くなったソフトケースはカバンにしまわず、ポケットに入れた。足元を見ると煙草の吸い殻が落ちている。たぶん俺が捨てて足で火を消したのだろう。よく覚えていないけど。

一日に3本までと決めていた煙草。夜になると無性に吸いたくなるのは、高校の頃の悪い仲間の所為だ。癖が体に染み付いて、夜とストレスが煙草と関連付けられている。

短くなった煙草を挟む指は次を求める。あの頃みたいに。

俺は新しい生活を始めたのに。

好きになる女は徹底的に調べているのに。

遠藤なら、大丈夫だと思ったのに。

遠藤に会いたい。遠藤に親しい男友達がいる訳じゃなく、高校時代の女友達と楽しい夕食を食べているだけだから、きっとそうだから、俺は明日にでも、或いはもっと早く、遠藤に気持ちを伝えて、それで恋人同士になろう。

バルコニーの男を見上げると、居なくなっていた。

当たり前か。寒いもんな。

あの男、背が高くて、体格も良さそうだった。女にモテそうだ。カーテンの隙間から漏れる光の先には遠藤がいて、あの男に「煙草なんて吸わずに、早くこっちに戻って」なんて呼び掛けているのかも。

そんな筈ない!

でも、根拠は無い。

指が震えて上手くライターを使えない。動揺しているからだ。俺の知らない遠藤と、自分の薄っぺらさに。

或いは本当に凍えているのかも。

空になった煙草ケースを捻って、ゴミ入れに投げてみた。ゴミ入れの1メートル近く手前に虚しく落下したそれは、大した音も立てなかった。中身のない煙草ケースは、俺にそっくりだと思った。

必要とされたくて、必要とされるものが何かを調べて、それを用意して、提供して。でも提供するものが無くなると、捨てられる。

ニコチンのない煙草。

煙草の入っていない煙草ケース。

すかすかで中身が無い。

ああ、もう、泣きそうだ。遠藤の所為だ。遠藤が俺のことを好きになってくれないから。遠藤が俺の知らない交友関係を持つから。遠藤の所為だ、遠藤の。

「ポイ捨てはダメだよ」

そう言われて顔を上げると、天使みたいに可愛い女の子が居て、俺を見ていた。

遠藤だ。

俺が何も答えられずにいると、その女の子は落ちている吸い殻を拾い始めた。

それは、俺が吸った煙草。

「ごめん」

その言葉がしっかり遠藤に聞こえたかどうかは分からない。でも遠藤は俺を見ると笑って一つ頷いた。その笑顔は余りに綺麗で、宗教画に描かれる聖女のようだった。近付き難く神聖で輝いていた。

別れを告げられるのだろうか?

確かに、遠藤と俺とでは釣り合わない。

遠藤は立ち上がるとゴミ入れに向かった。落ちている煙草ケースまで拾って、吸い殻と捻れたケースをゴミ入れにぱらぱらと捨てた。その仕草はとても優し気で、そうか、その優しさが俺みたいな人間にも分け与えられているのだ、と急に腑に落ちた。

「遠藤、おれ……」

遠藤は「うん」と優しく頷いた。

「遠藤、なんで、こんなとこに居るの?」

自分の捨てた吸い殻を片付けてもらっておいて、俺は、遠藤の交友関係を明らかにすることを一番気に掛けているらしい。自分でも情けないが、紛れもない本心だった。

遠藤はくすっと笑った。

「寒いから、中に入る?」
「遠藤の家?」
「違うけど、ここは寒いから」

俺は遠藤を見上げた。遠藤は相変わらず穏やかに笑っていて、垂れた目と長い睫毛が可憐だった。俺はこの天使みたいな女の子のことが知りたくて、カバンを持って立ち上がった。

遠藤は先程のマンションに入ると、エントランスで702号室を呼び出した。すると応答もなく自動ドアが開いた。

俺は横目で702号室のポストに表札がないことを確認した。

誰の部屋なんだ。

エレベーターで7階まで上がって、702号室の前に立つと、遠藤は一度俺を振り返った。覚悟はできたか、とでも聞かれているようで、俺にとってそのドアは地獄の門のように禍々しく見えた。

ドアを開いて、部屋の中に居たのは、男だった。

「あの。亜沙子、そちらは……」
「ただいま。こちらは、同じ大学の、上林君」

男は俺をじっと見た。敵意とまではいかないまでも、不審がるような、探るような目をしている。しかし、おそらく、その男の姿より俺は遥かに不審な姿をしているだろう、という自覚ぐらいはある。

「なんで連れて来たの?」
「外は寒いから」
「俺、どっか行ってた方がいい?」
「行かなくていい。いいよね?」

遠藤は俺に同意を求めたが、なんて答えるべきか分からなかったので、曖昧に笑うしかなかった。

「あ、そう。じゃあ……、とりあえず煙草吸わせて」

男はそう言うと許可の言葉を待たずにテーブルにある煙草とライターを手にして、バルコニーのある大きな窓に向かって行った。

俺は気付いた。

この男は、公園から見上げたあの男だ。

背が高くて、体格が良くて、モテそうな。

男はバルコニーから外を見下ろしながら、煙草にホタルの光を灯している。ここはあの男のテリトリーなんだとはっきり分かる。そしてふと振り返って、俺と目を合わせた。

俺は途端に悲しくなった。我慢していたものが込み上げたのかもしれないし、降って湧いたのかもしれないし、ずっとあったものを初めて認識したのかもしれない。

遠藤は、あの男に笑い掛けていた!

そして遠藤は、あの男に「亜沙子」と呼ばせている!

「ごめん。帰る」

俺が言うと遠藤は「えっ」と驚いた。その変な声が面白くて、普段の俺なら笑ってそれを楽しんだけれど、今の俺にはそんな余裕がある筈もなかった。

「待ってお兄ちゃん捕まえて!!」

俺が廊下を抜けて靴を履こうとした時、遠藤は聞いたことのない大きな声でそう叫んだ。

遠藤の叫び声。

それはおっとりした調子が抜け切れていなくて、なんだか可愛いと思った。

遠藤、なんでそんなに可愛いんだ。大好きだ。穏やかで、緩やかで、垂れ目の奥は優しさで満ちている。柔らかい腕、しっとりした太もも、茶色がかった瞳、桃色の爪、笑うと天使のように可憐な遠藤。どうして俺のことを好きだと言ってくれないのだろう?

俺は靴を履き終える前に、馬鹿みたいに強い力で腕を掴まれた。

もちろん、あの男が掴んだ。

「ごめん。まだ帰らないでもらえる?」

ここは地獄だ。そうでなければなんだと言うのか。男は俺の腕を掴んで離さず、解放する積もりは微塵もないらしい。差し詰め彼は、地獄に堕ちた罪人を見張る閻魔だろうか。

「お兄ちゃん、ありがとう」
「いいけど。部屋ん中に煙草持って来ちゃったよ」
「ごめん」
「いいけど」

男は火の点いた煙草を手に持っていた。火も消さずに俺を追いかけて来たらしい。有り難くもない話しだ。

「ほら、上林君、上がって」
「すみません、もう付き纏わないんで。帰ります」

だって、俺は邪魔者だろう。

「上林君、亜沙子のこと好きなの?」

なんだって?

「亜沙子は上林君のこと好き?」

この男は、何を言っているのだろうか。

唐突に質問をした男を俺は見上げた。男の方は俺の腕を掴んだまま、もう片方の手で煙草を吸っている。その煙を一瞬でも羨んだ暢気な自分を、俺は心の中で罵った。

買わなければ煙草も無い。

はあ。

何故、遠藤はこんな男の部屋を訪ねているのだろうか。

全く分からない。

分かりたくない。

「まあ、好きですよ。遠藤、俺、遠藤のこと好きだよ」

言葉にすると安っぽくなるのは、俺がそれだけ薄っぺらいからだ。俺に人間としての深みが無いからだ。だからいつもあれこれ工夫して、誤魔化して、粗末な自分でもそれらしく見えるように装って欺いてきた。

それが、どうだ。

台無しだ!

台無し、何が?

俺にも分からないよ、そんなの。

情け無い片想いは終わってしまった。

遠藤への気持ちを認めれば、俺はここから離れられると思っていたのに、地獄を支配する閻魔はそれを許さなかった。遠藤の反応を確かめる気力も勇気もなかった俺は、取り敢えず靴紐を結び続けることにした。

「亜沙子、いいのか。上林君、帰っちゃうよ」
「良くない」

俺は遠藤が俺を引き留める言葉を聞いて、手を止めた。現金だとは思うけど、好きな女の子に「帰って欲しくない」なんて言われて、そのまま帰る男なんていない。

暫くしてから、男が俺の腕を離した。

代わりに遠藤が俺を掴んだ。

「上林君、さっきの……」
「さっきの?」
「さっきの、本当?」
「本当だよ。もう付き纏わない」
「そっちじゃなくて」

分かっているよ。

「ごめん。遠藤のこと好きだよ」

今となっては虚しい言葉だ。たったこれだけの言葉にどんな想いを込めて伝えようかと夢見ていたのに、言えば言うだけ遠藤に嫌われそうで、今は怖い。

男と比べると触るだけみたいに弱々しい遠藤の手は、俺のことを本気で引き留める積もりが無いのだ、とさえ思えてしまう。俺はそれだけ今の状況に絶望していた。

「上林君、私も好き」

はい?

なんだって?

「あの、だから、私と、付き合う?」

なんだって?

俺は後ろを振り返った。遠藤は真っ赤な顔で俺を見ている。

これは夢だろうか?

「え?」

俺は無意識のうちに男を目で追っていた。あの男がいるのに、俺が遠藤に好かれる訳がない。

遠藤も俺の目線を追って男を見た。

遠藤の顔はさらに真っ赤になった。

「上林君が私のことを好きで、私も上林君のことが好きだから」

だから?

俺のことを見る遠藤の目は、くりっと大きくて、のんびり垂れていて、とろんと潤んでいて、俺のことが本当に好きだとでも言うように煌めいて、とても現実のこととは思えない。

もし現実なら、今直ぐ遠藤を抱き締めたいのだけれど。

俺はまた男の方を見た。

煙草を片付けたらしい男は、腕を組んで壁に凭れながら気怠げに俺達の様子を眺めている。犯人が分かり切った推理小説の結末を確かめるような非常に詰まらなそうな表情をしている。

「だって。あの人は……?」

遠藤とあの男は、付き合っているのではないのか。

「えっ、なんで。お兄ちゃん?」

遠藤は垂れ目を一杯まで見開いた。その目を豊かな睫毛の並んだ瞼が何度も往復する。天使みたいに可憐で、その姿を録画して何度も繰り返し見たいと思った。

はあ、溜め息が出る。

お兄ちゃん?

そんなことは知っている。遠藤があの男のことを何度も「お兄ちゃん」と呼んでいたから。

「遠藤は、あの人と付き合っているんじゃないの?」
「違うよ!」

俺は猜疑の目で遠藤を見た。

「じゃあ、あの人の前で俺が遠藤のことを亜沙子って呼んでキスして抱き締めてもいいの?」
「へっ? えっと、それは意味が違うし。お兄ちゃんの前で、そんなのダメじゃん。でも好きだし、お兄ちゃんはお兄ちゃんだし」

何言ってるの?

「じゃあ今から二人きりになれる場所に行く? それからならしてもいいの?」

遠藤は燃えるように顔を赤くして、頷いた。

その姿は余りに可憐だった。

余りに可憐で、愛らしくて、彼女こそ世界で一番魅力的な女の子だと確信した。これで100回目くらいの確信だけど。

遠藤は思わず手で触れたくなるような不思議な引力を持っている。俺は遠藤の軌道上を回る衛星みたいなものかもしれない。ビッグバン並みの爆発でもない限り、彼女からは離れられない。

ああ、もう。

遠藤、本当にごめん。

俺は遠藤を抱き締めた。あの男の前では嫌だと言われたばかりだけれど、俺にはその衝動を抑えることなどできなかった。できる筈がなかった。

私は普通の女の子です、って顔をした天使は、驚くぐらい温かかった。

この女の子は人間だ。間違いない。

俺は遠藤と同じ時代に同じ国に同じ人類として生まれられたことを心から感謝した。母と、神様みたいな存在に。

「こんな変な男でごめん」

俺がそう言うと遠藤は俺を見上げて首を傾げた。

「変じゃないよ。好き」

遠藤の口にする「好き」という言葉は、戦争をさえ終結させる兵器のようだった。そこには物理的な質量を確かに感じた。

その破壊力たるや、人を殺しうる。

「変だよ。今日だって遠藤の後を付けて、ここまで来たんだ。他にも、まあ、色々あるし。遠藤の趣味を調べたりして。野球なんか、本当は観戦するの初めてだし」
「なんでそんなことするの?」
「好きになってもらう為だよ」
「そんなことしなくても好きになったよ」

遠藤は腕の中で優しく笑った。

俺は、しかし、笑えなかった。

「そう? そんなの分からないよ。今までずっとそうやって来たし、どっちみちもう変えられない。たぶんまた後を付けたり調べたりする。好かれたいし、好きだからやっちゃうんだ」

丸でストーカーみたいに。

変えられない。

変われない。

別れた女は皆それを嫌がった。けれど、それでも止められなかった。女が変わっても同じことの繰り返し。俺はきっとまた繰り返す。

「大丈夫よ」

大丈夫だろうか。

今まで大丈夫だったことが無いから俺には分からない。

俺は遠藤を見詰めたかったけど、遠藤のことが好き過ぎて、眩しくて、恥ずかしくて、できなかった。物陰からなら幾らでも見ていられるのに。隠し撮りした遠藤なら、何時間でも見ていられるのに。

「ごめん。ありがとう」

仕方ないから、他にしようがないから、俺は遠藤を抱き締める腕に力を込めた。

遠藤、ごめん。俺は遠藤のことを手に入れたいんだ。

本当、ごめんね。

「上林君。大丈夫だよ。誤解させたね、ごめんね。私もね、ちょっと変なの。後を付けられるのもGPSを付けられるのも大丈夫だよ。上林君は、上林君の好きなように私を好きになっていいんだよ。私を振り向かせる為にやってたんじゃなくて、好きでやってたんだね。だったら、大丈夫だよ。私は大丈夫」

本当に?

俺は遠藤を見た。

遠藤は垂れ目を細くして破顔した。

なんてことだ。

俺のことを、受け入れてくれた!

遠藤を好きになって良かった。相手が変わっても俺は変われないと分かっていたから。変わった振りをしても、いつかはボロが出るから。




曰く、“相手変われど主変わらず”。
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開いた口も塞がれぬ

※BL
※恋するバカと地味系優等生




俺の隣を歩く仁志をチラッと見てみる。

この同級生は平日は学校紹介パンフに載っている空想上の理想的生徒みたいにキッチリ規則通りに制服を着こなして、土曜日の今日でさえ私服なのにそこはかとなく真面目さが伝わってくる見た目をしている。

真面目ってゆーか、なんていうか。

親なら、自分の子どもがこんなにカタく育ったら嬉しいんだろうな、とは思う。だっていかにも将来は安全だ。遊び半分で大麻とか吸わないだろうし高校を中退してホストとか風俗のキャッチとかしなさそうだし警察に補導されたことすらなさそうだし。

親を泣かせたことなんてなさそうだ。

親に泣かされたことくらいはあるかもしれないが。

理想の息子。

でも俺は仁志の親ではなく彼氏である。

仁志と知り合う前の俺だったら、こんな男と二人きりで放課後を過ごすなんて考えもしなかった。

だってすげーつまんなそう。

ノリ悪そう。

仁志だって俺のことほんとは嫌いだと思う。前にそんなことを言われたし、俺みたいな軽薄そうなやつは嫌いとかなんとか。それに仁志はときどき『けーべつ』の目線を俺に寄越す。

実際、仁志はおカタい。

校則とか全然破んない。

見た目を裏切らない真面目っぷりだ。

でも仁志に告白されて、俺も好きとか言っちゃって、付き合うことになって、初めてのデートで喧嘩して、仲直りして、そしてなんだかんだで俺達はまだ付き合っている。

『俺の見た目が悪いのが、嫌か?』

初めてのデートで仁志が言った。俺はもちろん、そんなのどうでもいいって答えた、と思う。

何しろ、俺は仁志にべた惚れなのだ。

俺は女を選ぶときには本能に従うことにしている。会って話して触れ合って、イイとかワルいとか本能が感じることに従う。

仁志は俺の本能にバッチリ引っかかった。

仁志のド天然で超平和な中身を気に入っちゃった俺としては、見た目なんてどうでもいいってデカい声で主張したい。でもこうして街をぶらぶらしてっとね、ちょっと、周りの目も気になる年頃なの。ちょっとだけ、もうちょっとだけ、いい感じの服を着て欲しいっていうのは我が儘なのか?

あーでもなあー。

女に好みの服とか音楽とか押し付けられるのを嫌がるやつってけっこういるし。俺はそういうの大丈夫だけど。俺のやろうとしていることはそういう個人の押し付けと同じだ。

もし仁志にめんどくさい男だと思われて、うっとうしがられたら切ない。

俺はもう一度仁志をチラッと見た。

「どうした?」

仁志はクールに聞いてきた。

たとえば仁志が髪型を気にしてチャラチャラして女ナンパして酒飲んで「ダルーい」とか言ったとしたらどうだろう。ビックリだ。たぶん俺の本能は仁志から離れる。

「ねぇ、俺んち来る?」

俺が甘えるように言うと仁志は少し迷ってから「いいよ」と答えた。

仁志が駅でなんか買い物をする間、俺は街を歩く人を眺めていた。そして考えていた。俺と仁志はずっと同じ学校にいたはずなのになんで今になって出会ったのかとか、もっと早ければ付き合った女の数は10分の1で済んだんじゃないかとか、仁志が好きだと思う女ってどんなのだろうかとか。

若者の悩みは尽きない。

俺はけっきょく、仁志の一番である自信がないんだ。

顔を上げると仁志がいた。

「悪い、待たせて」
「べつに」

なんかふてくされた女みたいなことを言ってしまって俺はちょっと落ち込んだ。

でもいいんだ。

なんせ今日はうち、誰もいないんだから。

実は少ない脳みそで朝からたくらんでいた。家で仁志と二人きり、ちょっとエッチな雰囲気作りをしたいなと。二人の関係を一歩でも二歩でも進めて絆を深めたい。

仁志がうちに来るのは初めてではない。学校帰りにちょいちょい来たりしている。だから二人きりっていうのもこれが初めてではもちろんない。

でも俺の気持ちは全然違った。

今日は気合いがすごい。

俺は決勝戦前のスポーツ選手並みの気合いと闘志を心に秘めて、仁志を家の中にエスコートした。

「なんだ、お前か」

ビックリした。そこには、兄貴がいた。

なぜだ。

「お邪魔します。僕は野口くんと同じ学校に通っている、仁志肇と申します」

すかさず挨拶した仁志はさすがだった。このカタさ、今までうちに連れて来たことのないこのカタさ、兄貴はそれを感動の目で見つめた。

「仁志くん? はじめまして。遼太郎と友達なの? こんな素敵な友達いたっけ?」

最後は俺を見て聞いた。

『素敵な友達』

兄貴はガチでこの言葉を使った。普段の俺ならそれをぷっと笑っただろうけど、今日は違った。

俺の連れて来たやつらはこれまでだれ一人として家族に歓迎されたことがない。類は友を呼ぶらしく俺にそっくりで礼儀知らずでバカばっかりだったから。でも仁志は兄貴に笑顔で挨拶を返された。

兄貴が笑ってる。

仁志も笑ってる。

ビックリだ。

正直なところ、俺は家族との仲が微妙に険悪である。俺がバカだから。でも連れて来る友達まで嫌われるのは、それだけ俺が嫌われてるからだと思ってた。俺が嫌われてる分の余りがあいつらにもいってるんだって。

でも兄貴はいま笑ってる。

「いえ、素敵じゃないですよ。悪い人間です。すみません、最近仲良くさせていただいています」

仁志は遠慮してそう言ったけど、俺はそんな返事のひとつにも感動した。たぶん兄貴も感動してる。こんなカタくて、最高にイイ、『素敵な友達』が俺にいるなんて。

兄貴はにこにこ笑って自己紹介した。

「俺はこいつの兄の、章人です。こいつの友達じゃ迷惑かけてるでしょう。ごめんね」
「そんなことありません。僕から遼太郎くんに近付いたんです」
「そうなの?」
「はい」

ビックリした。

けっこう危ういことをさらりと言った、と思う。

なんか仁志って俺たちが付き合ってることもこんな風にさらっと言ってしまいそうだ。そうしたらどうなるんだろう。仁志はそういうこと考えないのかな。俺もそういうことは気にしない方だけど家族だけは別だ。

俺は仁志をチラッと見てみた。

仁志は見たことないような爽やかな笑顔を浮かべている。

初めて見る。こんな顔もできるんだな、と驚く俺。地味な見た目が華やかになってけっこうかわいい。こんな風にふわっと笑う仁志のことなら蛍路たちも気に入るかも。

それに加えて俺は仁志の言った『遼太郎くん』という言葉の響きにドキドキしていた。名前を呼ばれたのは初めてだった。

絆を深める計画は案外うまくいってるんじゃねーの?

「玄関先でごめんね。ま、あがって」
「あの、これ、詰まらないものですが」

あ、それは。

家の中へ案内されて仁志が差し出したのは、菓子箱だった。駅で仁志が買ってたやつ。兄貴がいると知ってた訳じゃないだろうけど用意がよすぎてちょっとこわい。絶対そんなはずないのに仁志ってこういうの慣れてんのかなとか思っちゃう。

つまり、恋人の家族に挨拶するということに。

「君って…」

兄貴は目を丸くして何か言いかけたけど口にはしなかった。

それから兄貴は仁志とおまけの俺をリビングに案内してコーヒーなんか淹れ始めた。二人きりの予定がとんだ誤算だ。

ちなみに兄貴が俺にコーヒーを淹れるなんてことは、もちろん普段ではあり得ない。

始めこそ俺の連れて来た仁志が家族に受け入れられていることが嬉しかった俺だけど、兄貴はすっかり仁志を気に入ってしまったし仁志も外交モードなのか愛想よく相手したりして面白くない。

エッチな雰囲気にはなりそうにない。

「仁志、もう部屋行かない?」

二人が盛り上がってる会話のちょっとした隙間を狙って、でも兄貴に言えずに俺は仁志にそう言った。

「なんで? 肇くんを独り占めしたいの?」

せっかく仁志に言ったのに。なんでか返事は兄貴がした。仁志も俺の肩をもってくれるつもりはないらしく兄貴のわざとらしい言い方にただくすっと笑った。

昔から俺が欲しいと思っても手に入れられなかったズルさ。兄貴は何かたくらんでるのかもしれない。

俺は兄貴には勝てない。

兄貴ってストレートだよな?

最近まともに話してないしよくわかんねーや。

「仁志は俺のダチなんだから兄貴遠慮しろよ。独り占めしたいっつったらどうなの? 悪いこと?」

こんなのつまんねー。

なんで好きなやつを家に連れてきてこんな嫌な気分になんなきゃいけないの?

「お前、気持ち悪いな」

兄貴がつぶやいた。

「すみません、遼太郎くんとは以前から約束していたんです。いま僕の方が約束を破っているんです。ごめん、遼太郎。部屋にお邪魔してもいい?」

ビックリなんだけど仁志はカッコいい。見た目からは想像できない。仁志は俺が泣きそうになることを平気な顔して言う。それがほんとにカッコいい。

なんなの?

慣れてんの?

「そうだったんだ。俺こそ引きとめて悪かったね」

兄貴はにっこり笑った。

そしてつけ加えた。

「連絡先交換しない? あとでこいつから聞いていい?」
「はい」

仁志の返答はすぐだった。なんでだよ。兄貴と二人で何話すの? せめて俺をとおして連絡とれよ。なんでだよ。兄貴もなんでだよ。くそー、なんかすげームカつく。

俺は仁志と部屋に引っ込んでからもふてくされてた。たぶん駅でほっとかれたときよりずっと機嫌がわるい。

「仁志ってさー」
「なんだ」
「俺の名前知ってたんだな」
「ああ。知ってた」

しかも笑わないし。

「兄貴と気が合った?」
「は?」
「楽しそうだったし。引き離してわるかったな」
「何言ってるんだ。俺はお前と過ごすためにここに来たんだ。ご家族には挨拶したいと思っていたから、丁度良かった。挨拶しちゃいけなかったのか?」

カタい。

ガチガチだ。

「結婚でもするみたいだな」

俺は半笑いで言った。すげー態度わるいと思うけど顔と口が勝手にやったことだから謝らねー。笑顔のやつにも態度がわるいって言葉を使っていいなら仁志だって十分態度がわるかった。だって俺はこんなに傷付いた。

仁志が何も言わないので俺は仁志をチラッと見た。

仁志は真顔だった。

なんだよくそー。歩み寄る気はないのかよ?

俺は仁志を半分睨みながら聞くことにした。

「いっこ聞いていい?」
「なんだ」
「仁志って彼女の家に挨拶とかけっこうするほう?」

「俺で何人目?」とまでは聞けなかった。

仁志は視線を下げて少し考えた。

「質問の意味がわからないから答えられない」
「は!?」
「俺からもひとつ、聞きたいことがある」
「お前が答えないなら俺も答えねー!」
「それが答えだと言うならそれでかまわない」

俺は答えてやる気なんてちっともなかった。たとえ10億円欲しいかって聞かれても、意味がわかんねーってつっぱねるつもりだった。

俺は闘志を燃やして仁志を睨んだ。

この闘志、ほんとは仁志とエッチなことをしたいとたくらんだときの使い回しだけど、いやだからこそエネルギー源は豊富にある。ちょっとのことじゃビクともしないはずだ。

仁志は俺を見た。真っ直ぐな目で。

あ。この目、あの時と一緒だ。

俺は仁志に告白した時のことを思い出した。好きなひとに好きと言ったら『俺も』って言い返してもらえる幸せを。仁志はいつでも真面目だし俺を裏切ることは絶対ないと信じられる信頼できる目をしてる。

くそー、決意が鈍る。

早く言えよ。

俺の思いが通じたわけはないけど仁志は口を開いた。

「俺のことを名前で呼ぶのは嫌なのか?」
「んなわけねーだろ!」

むしろ呼びたい。

今日初めて『遼太郎』って呼ばれたらそれがすげー心地よくて、俺も仁志をそんな気持ちにさせたくて『肇』って呼びたいってずっと思ってた。いつどんなタイミングで呼ぶか、仁志は驚いてくれるか、喜んでくれるか、そんなことが頭をぐるぐる巡ってた。

「肇……」

俺はそう言ってたぶんだけど顔を真っ赤にして仁志を見返した。

そして気付いてしまった。

俺の決意は、なんてもろいんだ。これじゃバカ過ぎて兄貴に嫌われるのもわかる。わかりたくないけどわかってしまう。自分で自分にビックリだ。

仁志も驚いた顔をしてた。

口を開けてぼーっとしてる。

俺は仁志の質問になんか『答えねー』ってすげーはっきり言ったのに、それ以上にすげー前のめりで答えてしまった。ほんとバカ。

これって、あれだ。

俺だって知ってる。

あきれてビックリ、口を閉じるのも忘れるくらいのやつ。



曰く、“開いた口も塞がれぬ”。
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愛想も小想も尽き果てる

※BL
※年下派遣社員と年上正社員
※暴行(DV)を肯定する文章があります




佐伯さんがこんな顔をするんだってことを、いったいどれだけの人が知っているのだろうか。佐伯さんの、この、胸を引き裂かれたような悲痛な表情を、どれだけの人が知っているのだろうか。

たぶん『あいつ』は、嫌ってほど知っているに違いない。佐伯さんをいたぶって傷付けたという、その男なら。

「佐伯さん、よかったんですか?」

あなたのことを好きな、俺みたいな男の家に泊まったりして、よかったんですか?

あなたの恋人は、とても怒るに違いない。あなたが何度も何度も会社を休むことになった元凶の男は、今日あなたを手放したとしても、明日はきっと力ずくであなたのことを取り戻そうとする。

佐伯さんは無気力に「うん」と頷いた。

ああ、そうか。違うんだ。

佐伯さんがあいつから離れたいのではなく、俺が佐伯さんを手に入れたいだけだ。佐伯さんはきっと殴られても踏み付けられても、離れたいほど嫌ではないから今までそいつと付き合ってきた。

佐伯さん、よかったんですか?

佐伯さんは、俺の質問に、違う解釈をしたらしい。彼の頷きが何に対してのものなのか、俺にはわからない。

佐伯さん、よかったんですか?

俺みたいな部外者にプライベートを知られて、よかったんですか?

とかね。

「佐伯さん、風呂、入ってください。あの、痛くなければ」

痛くない訳がない。

会社でいつも長袖だったのは、この所為じゃないか。

「寝ぼけてぶつけた」と言っていた、あの時の顔の傷も、割れた爪も、欠けた歯も、切れた目元も、いつも長袖で隠されていた腕中の痣も、すべてこの所為じゃないか。佐伯さんが巧妙だったんじゃない。俺が鈍感だったんだ。

佐伯さんは俺をゆっくり見た。

「じゃあ、借りようかな」

俺は思わず佐伯さんから目を逸らした。

糞、なんで。こんな時に佐伯さんを色っぽいとか思うんだろうか。誘われた、なんて最低な思い違いをするんだろうか。

「廊下出て、右側のドアです。タオルと着替え、適当に用意しますね」
「ねえ」

佐伯さんは、囁くように呼び止めた。

それは甘美な響きがした。

佐伯さんは、着替えを探す口実でこの場を離れようとした、俺のこの薄汚い下心を見抜いたのだろうか。佐伯さんは鋭いし観察力に優れているし、あり得ない話しではない。

「三波さんは、俺のことが好きなんだよね」

確かめるような言い方は、俺の心を激しく揺さぶる。

「そうですよ」
「俺、お風呂に入って大丈夫かな?」

佐伯さんは口元だけでそっと笑った。

「そんなの、佐伯さんが考えてください」

俺ははっきり自分の気持ちを伝える勇気がなくて、ごまかした。

あなたのことを、性的に魅力的だと感じているなんて、言える訳がない。はっきり言って、風呂に入った後の佐伯さんに欲情しない確証はない。それでも今は、優しい振りでもして、佐伯さんをちょっとでも長くこの部屋に留まらせようとしている。

卑怯で、最低だ。

「本当に俺のこと好きなの?」
「はい」
「会社にいる時と、俺、だいぶ違うよね。それでもいいの? いつ好きになったの?」

佐伯さんは、まだ笑っている。その表情は艶っぽいけど、不気味だ。

「俺にもわかりません。でも佐伯さんのタメ口は、けっこう好きですよ」

会社でいつも礼儀正しい佐伯さんのタメ口は、俺の心をくすぐるには十分だった。あの日、給湯室でのやり取りが致命傷になったのだ。そう、恋心が執着に変わるには、十分だった。

佐伯さんのことが好きだから、俺はきっと、佐伯さんが俺だけに笑いかけている今の状況だけでも、十分楽しい。

この独占欲を、佐伯さんにぶち撒けたい。

そして受け入れてもらいたい。

俺は自分のどうしようもない感情の行き場に気付いてしまった。佐伯さんが女性と話していると苛々する理由、佐伯さんが飲み会で酔っていると苛々する理由、佐伯さんが魅力的に笑えば笑うだけ苛々する理由、それら全部、佐伯さんが俺のことを受け入れてくれたら解決する。

「じゃあ俺と付き合う?」

佐伯さんはそう言って俺の目をじっと目詰めた。

俺はまた、目を逸らした。

なんてことを言うんだ!

俺の内心は、ぐちゃぐちゃに掻き回されて、一気に沸騰した。好意が熱くなり過ぎて、怒りにも似た感情を覚えた。

「誰にでもそんなこと言うんですか? 今の彼氏もそんな風に誘ったんですか? それとも俺のことおちょくってます?」

俺が年下だから?

俺が派遣社員だから?

どんな理由でも許せる気がしない。

佐伯さんは目を丸くして声に出して笑った。その無邪気さがさらに俺の怒りを煽る。煮え滾った感情は、俺の中にある小さな器から容易に溢れて爆発しそうなのに、佐伯さんは全くわかってない。わかってくれない。

「なんか意外。三波さんって、思ってたよりロマンチストだね。勢いで俺を抱きたいとか思わないの? それとも傷だらけの体じゃ勃たないとか?」
「好きだからですよ!」
「え?」
「佐伯さんを自分だけのものにしたいんですよ! 心も体も全部欲しいんですよ!」

傷のある体が嫌な訳ではない。

知らない男に付けられた傷や痣を見たくないだけだ。だから、さっきから目も合わせられない。男にいたぶられた佐伯さんを、想像してしまうからだ。

俺は佐伯さんの彼氏の気持ちが少しわかる。佐伯さんを殴って、わからせてやりたい、というその気持ち。

それがロマンチストなのか?

それは、俺のロマンをわかってくた、ということだろうか。

きっと違う。

きっと違う!

わかってくれよ!

俺の感情は単純なんだ。佐伯さんが好きなだけ。たったそれだけ。それだけのことなのに、佐伯さんにはちゃんと伝わらない。

わかって欲しいのに!

好きだってことを!

わかって、俺を、受け入れて、それからならどんなふしだらなことだって楽しめるから、今はただ、わかってくれよ。

ああ、だってこんなに好きだから。

こんなの駄目だ。

一緒に居るだけで十分だった一分前の自分はもう消えてしまった。

俺は悔しくて泣きそうだった。

相手にされていないから、だから佐伯さんはあんなことを言ったのだ。俺のこと、全く本気で取り合ってない。

「ひとつ、訂正していい?」

佐伯さんは尋ねた。

「はい」

何を訂正すると言うのだろう。訂正して欲しいことはたくさんあった気がするけれど、どれもきっと違うだろう。

俺は佐伯さんの手元を見て言葉を待った。

「彼氏、もう別れてる」
「あ、そうなんですか」
「それだけ? 反応薄いね」

佐伯さんは少し残念そうに首を傾げた。

だって、そんなの、俺は求めてない。彼氏がいるとかいないとか、そんなことは本質的にはどうでもいいんだ。俺の欲望を満たすには、全然足りない。

「俺、佐伯さんのこと好きです。言ったじゃないですか。全部欲しいんですよ。佐伯さんの心まで全部。心も体も全部を俺に捧げてくれないんなら、俺は佐伯さんに裸で誘惑されたって、きっと抱きたいとは思わない」

佐伯さんは言葉を失って、黙って俺のことを眺めていた。

俺はそのことを確かめて、直ぐに目を逸らした。

体の中がめちゃくちゃだ。

でも頭はそんなに狂ってない。

「だから、どうするかは佐伯さんが決めていいんですけど、俺、無理矢理何かしたりはしませんよ。風呂、入ってください。ベッドも使ってください。明日の朝にはなんか飯も作りますよ。仕事休んでもいいし、仕事行ってもいいし。この家いくらでも好きに使ってください」

何も得られないなら、それはそれでいいと思う。

佐伯さんが家に居着いて、なんとなく二人で過ごすっていうのもけっこう魅力的だ。佐伯さんが誘惑してくれなくたっていい。全部が手に入らないなら、そういう曖昧だけど愛着を感じる関係も悪くない。

そうじゃない?

俺、間違ってる?

それをロマンって呼んだらいけない?

「佐伯さん、疲れてません? ゆっくり休んでください。そういうことが、けっこう大事なんですよ」

俺はそう言って寝室に向かった。佐伯さんが着られる部屋着を探す為だ。

引き出しの中から比較的綺麗な服を引っ張り出して、ふと下着のことを考えた。流石にいくら綺麗に見えても、他人のパンツは履きたくない。特に親しくもなければなおのこと。

コンビニで買って来るか。

財布をポケットに突っ込んで、ジャケットを着て、出掛けようとした時、腕を掴まれた。それはけっこう強い力だったので、俺は驚いて声を上げてしまった。

「うわ、ビックリした。なんですか、佐伯さん」

腕を掴んだのは当然、佐伯さんだった。

「なんで? 出て行くの?」

あなたのパンツを買いに行く為。

そんな単純な理由なのに、俺は驚いた所為で咄嗟に言葉が出ず、佐伯さんに掴まれた腕の感触を楽しんだ。佐伯さんが、ちゃんとここに居るんだってわかる、重みのある感触だった。

「三波さんが居なきゃ意味ないじゃん。俺を一人にすんの? 見張っててよ。俺が『あいつ』のとこに行かないように、見張って、この部屋に縛り付けてよ」

佐伯さんはそう言って、俺に縋った。

妄想かと思うくらい、それは俺の願望そのものだった。

「いいんですか?」

縛り付けて、ふらふら出て行かないように。見張って、俺だけを望むように。強制して、従わせて、俺なしでは生きられないくらい、俺という人間に縛り付けて、束縛したい。

それを、佐伯さんが許すはずがない。

「俺のこと好きなら当然だ」
「でも佐伯さんは彼氏のことが好きなんですよね?」
「もう好きじゃない」
「そんなこと言ったって、信じられません」
「じゃあ信じられるように、俺のこと好きにしたらいい」
「え?」

佐伯さんは、鋭い目付きで俺を睨んだ。

でも彼の頬は赤く染まっている。

「引いた? 俺ってそういうのが好きなんだ。束縛されて好きなようにされるのが好きなんだ。三波さんと付き合ったら、俺、三波さん以外の男との交友関係はみんな捨ててもいい。もしそれだけ、俺が満足できるだけ、三波さんが俺を求めてくれんならね」

そうか。

そうか、そうなんだ。

そんな都合のいいことが、あっていいのだろうか。好きな人が、俺以外の男を見ないと言ってくれる、なんてことが。

「それ本気ですか?」
「うん」

佐伯さんの目に嘘はない。

俺は、佐伯さんと向き合って、その肩を掴んだ。細くて、骨張って、筋肉がついた、ずっと触れたいと願っていた体。

それが俺だけのものになる?

俺は佐伯さんの体をまさぐった。

佐伯さんは少しも嫌がらなかった。

「佐伯さん、本当に? 全部くれるんですか? 俺に、全部くれるんですか?」

佐伯さんは「うん」と頷いた。

ああ、なんで、こんなに、急に、愛しいとか思うんだろう。佐伯さんを憎んでいたのに、あんなに怒りに震えたのに、今はそんなこと思い出すのも難しい。

閉じ込めたい。縛り付けたい。

「彼氏のこと、元彼のこと、ちゃんと嫌いなんですよね?」

そうじゃなければ、馬鹿みたいだ。今度、俺から離れて違う男のところへ行くとしたら、俺はきっと普通じゃいられなくなる。

「もちろん、そうだよ。愛想も小想も尽き果てたんだ」




曰く、“愛想も小想も尽き果てる”。
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相碁井目

※美形策士




葉狩は悪の化身だと友人は言った。

彼の言葉は悪の蜜。彼の口は悪の花。彼の指は悪の標。彼の瞳は悪の呼び水。あらゆる悪の愉悦で惑わし、あらゆる悪を僕とし、彼にかかれば法の番人でさえも垂涎して膝を折り喜んで彼に魂を抜かれると言う。

バカじゃん、とその時の私は一笑に付した。




【相碁井目】




葉狩と知り合ったのは、ある夏の日だった。暑くて堪らず、私はコンビニで買ったCCレモンで喉を潤していた。

「あれ、重里じゃん」

そう声を掛けられた私は、その時まだ彼の名前も知らなかった。

「何してんの?」

葉狩に言われた私は、彼が誰だかもわからず、きっと同じ学校の誰かに違いないとだけ思って、持ち前の八方美人でもって笑顔を見せた。

「暑くて。休んでました」

年上かもしれない、と思った私は、敬語を使う余裕さえあった。

「確かに今日はあちーよな。これからどっか行くの?」
「特に何もないですねー」

葉狩はそれを聞いてにっこり笑った。

たぶんあの時、私が忙しいと言ってその場を立ち去っても、何処かで彼には掴まる運命にあったのだと思う。友人に言わせると、それは避け難い『巧妙なる奇遇』によって。

私も今は、友人の言葉を信じる。

葉狩は悪の化身。

あらゆる悪の術が彼の手中にある。

「じゃあ、一泊目は長野で、二泊目は金沢ね」

なんでこうなった?

葉狩はニコニコ笑っている。そして私と旅行に行く計画を立てている。彼が余りにも当然みたいな顔で宿泊先を決めたから、私は文句も言えないでいる。

金沢は私の故郷であり、葉狩は両親に挨拶する積もりでいるらしい。

たぶん私はそれを断れない。

葉狩はにっこり笑って私を見た。

「風呂入る?」
「え?」
「俺ちょっと買い物してくるから、その間に入ってな」

葉狩はそう言ってベランダに出た。おそらくタバコを吸う為だ。

お風呂に入るってことは、泊まって行けよってことだよね。いつも流されてつい泊まっちゃうけど、私はその辺のことが分からない。分からないっていうのは、つまり、友達とは言え男の家に簡単に泊まっていいのか、ということが分からない。

これが女友達なら?

何も問題はない。勿論、そうだ。

だったら葉狩も同じかな?

私は、この部屋に2着常備されてしまっているパンツと、葉狩が貸してくれる部屋着を持って洗面所に行った。

なんでこんなことになるのだろうか。

お風呂にはお湯が張ってあるし、シャンプーとコンディショナーは私の好きな香りだし、洗顔と泡立て用のスポンジがあって、鏡は綺麗に磨いてある。私の望みを一歩も二歩も先を進んで叶えてくれる。

私は葉狩に抵抗できない。

今日は帰る、って言って部屋を出るだけのことなのに、葉狩がそれを許さない。

あの悪の化身が許さない。

葉狩は私とは違い過ぎる。私には使えない言葉を話す。私にはできないことをする。私には予測できないことを言う。私には止められないことをする。私の持っていないものを沢山持っている。

この違いは、たぶん、あれだ。

言いたくないんだけれども。

恋愛経験の差だ。




曰く、“相碁井目”。
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過ちては則ち改むるに憚ること勿れ

※美容整形に対する否定的表現があります
※ヘテロカップル




私の告白は、桧山には受け入れ難いものだった。

確かに世間にとっての『整形』は芸能人や海外に特有の文化だし、見た目が「気にくわない」という理由で顔や身体にメスを入れて改造するということを倫理的にどうかと言う人もいる。恋人の前で裸になる時、圧倒的な自信とともに罪悪感を覚えもする。

でもそれが何?

私は整形手術を受けたことがある。それも3回、やった。

「もう俺の前に顔を出すなよ。クソムカつくし嘔吐が出る」

桧山は吐き捨てるように言った。とても穢れたものを見るような目で。

告白する前なら違ったな、と思う。

「そんなに悪いこと?」

以前は我が儘を言っても可愛いやつだと甘えさせてくれたのに、今は冷たい目で一瞥くれるだけ。

ほんと、酷い男。

「お前は自分の劣等感を誤魔化しただけで嫌なことから逃げたんだろ。そういうの棚に上げて悪びれもせずによく言うよ。『悪いこと』っつうのは、そういう俺に対する『誤魔化し』のことだろ」

桧山は正しい。

人間は見た目じゃない。中身だよ、って子供の頃に道徳の授業で習ったし映画やドラマでもよくあるテーマだ。

でもね、そんな理屈と理想を言われても納得できないよ。

桧山は美人は嫌いだと言った。それはきっとそうなのだろう。桧山は私の容姿を褒めたことがない。

でもそんなのはエゴだ。

好きだと思ったのに。

今は憎い。

「ヤスはいいよね。生まれた時から綺麗だから。私は自分の顔がコンプレックスで仕方なかったの。そのせいで恋愛もできなかった」

好きだと言ったら面白がられる。

好きだと言われるときは罰ゲーム。

桧山みたいな人間を私は知っている。求めなくても相手の方から寄って来て笑うだけで喜ばれる。詰まらないことを話しても真面目だと褒められ、落ちのない話しをしても真剣に耳を傾けてもらえる。

悪意には際限がない。

拡散して増長して膨らんでいく。

その標的になったことのある人間ならば知っている。

好意には限りがある。

そのことを桧山は知らない。

褒められて喜ばれて歓待されて受け入れられて見守られて助けられて羨望されて愛されて、丸で無尽蔵の好意を欲しいままにしてきただろうから言えるんだ、そんなことが。

私は自分の顔が大嫌いだった。

好きな人に好きだと伝えることさえ困難だった。

好きな人に好きになってもらえるとは思いもしなかった。

この、醜い、醜かった、顔のせいで。

「平気で嘘つく内面に問題があるんだろ」

桧山は心底憎しみを込めて言った。

整形の何がいけないのか、桧山にはきっとわかっていない。その本質はむしろ整形をした私の方が理解している。でも仕方ない。桧山は生まれつき美しくできていて私は違ったのだからそれが覆ることは永遠にあり得ない。

私はこのままコンプレックスに押し潰され続ける人生を歩むよりも整形をしてでも新しい道に進もうと決めたのだ。

それだけ。

嘘をつくことが人間にとって最も悪いことなら女はみんな悪人だ。

「桧山はなんで美人が嫌いなの?」

桧山が面食いで美人が大好きだったら私だってこんな気持ちにならなかった。こんな惨めで行き場のない気持ちには。

桧山はズルい。自分にはコンプレックスがないから自分より劣った者を好きになれるのだ。慈悲深い御心で。

と、そう思いたい。

桧山は私にまた一瞥くれて、溜め息をついた。

「ムカつくんだよ。プライド高くて無能な女は。だからまず美人は好きになんねえ」
「じゃあ私は?」
「お前の“元の顔”を見たら感想教えてやるよ」

きっと昔の顔を見たら嫌いになる。

桧山は冷たい目で私の顔をじっと見た。見透かされるみたいで怖くなる。整形のことを桧山が言いふらすとは思わないけど、整形手術を受けたという事実を知られただけでも私は十分臆病になる。

私は臆病なのかな。

自信がついて自由になっても、私はずっと怯えてる。

私は自分が正しい道を選んだことを疑わないけど桧山と比べて白か黒かと聞かれたら私はきっと黒だと答える。例え銃を突きつけられていなくても。

じゃあ正しい道はなんだった?

醜い顔で生きること?

そんなことできなかった。そんなこと誰も許さなかった。

見た目が大事なの。それは人間だけじゃない。ライオンが豊かな鬣に平伏すように、孔雀が美麗な羽に惹かれるように、人間だって美しく健やかな者を好きになる。私には見た目の欠点を補うだけのものがなかったし、バカだけど可愛いって言われる女になりたかった。私の人生がそれを証明した。

顔が良ければいいんでしょう?

私の顔が好きなんでしょう?

ねえ、そう言ってよ。

「桧山は私の顔以外の何が好きなの?」

桧山は冷たく「好き“だった”って言えよ」と言った。怒っている声だ。私が不細工な女を馬鹿にした時に、厳しく批難した声だ。

気持ちは戻らないの?

私は何も言わずに桧山を見返した。

たぶん何も言えなかっただけ。

「あのなあ、少なくとも顔なんか二の次だろ。俺はお前のストイックさが好き“だった”。だから顔とか体も好きになるんだろ。でもそんな嘘つきだって知ってたら好きにならなかったな」

そんなの嘘だ。

じゃあ、答えてくれる?

『整形してない私でも好きになってくれた?』

この醜い顔が心まで蝕むことがなかったら。

『“私のこと”を好きになってくれた?』

私は桧山を見た。縋るような目で見た。溺れる者は藁をも掴むと言うけれど、私にとって桧山は鉄の鎖のように思われた。それを掴むことができたら、私はきっと助かるに違いない。

「教えてやろうか」、と桧山は言った。

私は何も言わずに目だけで答えた。

今はなんでも聞いてみたい。

私の選んだ人生の道について知りたい。

「去年、初めて会った時、お前遅刻してきただろう」

それは、確かに、そうだった。初めて会ったのは知り合いと沖縄にダイビングに行った時で、桧山と話したのは同じ船に乗り合わせたのがきっかけだった。みんな都内に住んでいることが分かり、泊まったホテルも近かったので一緒に食事して翌日も一緒に海に潜った。

あの日、私は遅刻をして、船の出発を遅らせてしまった。

「そうだったかな。懐かしい」

桧山は、今思えば最高にカッコイイけど、当時はそうは思わなかった。海は好きだけど、それより自分のスッピンの美しさを自慢する為にダイビングしていた気がする。

自分だけの世界。

自己愛まみれの私の世界。

今はその中心に桧山がいるのだと思う。そうじゃなければこんなに胸が痛むはずがない。

桧山は少し笑った。

もし永久凍土に住む人が日本の春を目の当たりにしたら、この私の気持ちを知っただろう。全ての氷を溶かして朗らかな陽気を運び、体の芯まで和ませてくれるもの。

桧山の笑顔は春の風。

「あの時のお前の申し訳なさそうな情けない顔が、俺は好きだった」

そんなの、初めて聞いた。

そんなの。

「情けなくて不細工なツラが、かわいいなと思ったんだよ」と桧山は言った。悔しそうな、何かが喉奥に詰まって声にならないような、堪らない声音だった。

ごめんなさい。

ごめんなさい。

涙が溢れて、溢れて、止まらなくなった。

聞かなくても分かる。

今、分かった。

桧山は、整形していない私でも好きになってくれた。人に好かれたくて情けなくてみっともない私でも好きになってくれた。

でももう戻れない。

戻れっこない。

ごめんなさい。ごめんなさい。

人間は見た目だけじゃない。中身を見ずに見た目ばかりに目がいっていたのは私の方。

私は桧山のどこが好きだろう?

率直で嘘がないところ。賢くて道徳的で信頼できるところ。最後には優しくしてくれるところ。人の長所をよく見付けるところ。

尊敬してた。

好きだった。

見た目じゃなくて、心の中が、好きだった。

「桧山、ごめん。私、間違ってた」



曰く、“過ちては則ち改むるに憚ること勿れ”。
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雨降って地固まる

※15歳未満は閲覧しないでください
※DV(家庭内暴力)の表現があります
※DVを肯定するように感じられる表現があります




家具や食器が散乱する部屋。そこにはこれまでの生活が僅かに垣間見えるだけで後は丸で別世界の場所のように思えた。

1年間の同棲が幻になった。

365日以上を費やして二人で作り上げてきた均衡が完全に失われた。

二人で座ったソファは、カバーが破れている。二人で選んだまだ新しいテレビ台は、飾りに置いたフィギュアがぐちゃぐちゃに倒れている。間接照明のランプは、形が歪んでもう使えそうにない。食器は割れ、カーテンは外れ、トースターには蓋がなく、テレビの液晶にはヒビが入っている。

俺はそれを見て思った。

許そう、って思った。

優希は余りに優しい人間だったから、俺が約束をすっぽかしても、悪口を言っても、優希の恥辱を煽っても、きっとなんでも許されるという自信があった。

『月森が、悪いと思うんだ』

しかし昨夜の優希はそう静かに言った。

長い、長い、万里の長城並みに終わりの見えなかった沈黙の果て。夜の底に沈む船から聞こえる嘆きの歌。

なんで急に?

わからない。

文句を言うのは俺の専売特許だったのに、今は同情を示すように笑って頷くことしかできない。たぶんそれはとても軽薄で不愉快で薄情な笑いに見えたに違いない。

俺はせめて静かに息を吸って吐こうと思った。

俺は同情されるのが好きだ。

10歳の時に転んで怪我をした。手を突いてしっかり転んだのに腕に大きな傷ができて、早く塞がるようにと縫うことになった。その傷痕は今でも残っている。

『痛いの?』

俺が問い詰めると母は悲しげに頭を撫でてくれた。

なんて快感だろう、と思った。

俺は友達でも恋人でも近くに置く時は俺に同情してくれる人間ばかりを選んできたし、その点で優希はほとんど完璧に理想的だった。俺に同情してなんでも許して甘やかす、そんな人間だった。

何度も浮気した。ドタキャンやデートの金を出させるのは日常。逆にこっちは急に呼び出したりちょっとした買い物を頼んだりした。男友達に優希とのセックスを言いふらして、ヤってる時の動画も撮った。気にしてるのを知ってて優希のコンプレックスを馬鹿にした時は優希も流石に顔を引き攣らせたけど、それでも反論の一つもしなかった。

俺は好きにしゃべって笑ってた。

優希は俺に従うだけ。

でも昨夜の優希は違った。

「だから私と別れてください」と言った。

なんて説得力だろう。

日本中の人間に俺と優希とのことを話せばその内のかなり大多数の人間が優希を支持するに違いない。俺を支持するのは、例えば、それは、思い付かない。

優希は不気味に抑揚を抑えた声音で何度でも繰り返した。

「私と別れてください」

ふざけるな。

ふざけるな!!

俺は優希の頬を平手打ちした。殴って蹴って慰めのセックスをすればその話しはお終いになり、朝には優希が温かい朝食を用意している。優希は自分の体を庇って丸くなった。

そうだろう?

そうだと言えよ。

空はもう白んでいるのに、この部屋は汚くて散らかっていて朝食のいい香りも漂っていない。

優希が居ない。

優希が俺から離れた?

「優希?」

俺はふと気付いてリビングを見回したが、優希は居ない。キッチンにも居ない。ベッドルームにも居ない。風呂場にもトイレにも居ない。俺はさっき優希を殴ったと思ったけれど、優希はどこにも居ない。

消えた。

違う。

そんなことある訳ない。

俺が殴ったら優希は目を閉じてまた「別れてください」と言ったんだ。だから俺は優希を外に追い出した。

それで優希は居ないんだ。

なんて傲慢だろう。

出て行く訳がないと思っていた。直ぐに戻って来ると思っていた。どうしてそんな理屈の無いことを考えられたのか分からない。優希はもうボロボロの体で、痣を作ったまま仕事に出ては帰ってまた俺の相手をしていた。

優希は俺を捨てたんだ。

こんなことは初めてだ。優希が俺を捨てて出て行くなんて許せない。部屋は散らかっているし朝食の用意もない。

「優希」「優希」「優希」

名前を呼ぶと顔が浮かんだ。優希が優しく笑う時の顔と、俺が殴る時にする泣き顔と、昨夜俺に別れてくださいと言った時の顔。笑顔だけが優希の本物なら良かったのだけれど、きっと笑顔の優希だけは偽物だ。

出て行くなんて。

出て行くなんて。

散らかった部屋には色んな物があふれていると思ったけれど、ここには優希が居なかった。優希が必要だった。

許そう。

許すよ。

だから戻って来て欲しい。

俺は上着を羽織って外に出た。

優希の行きそうな場所。近所にある公園に行ってみたけど全くひと気がなくて絶望的な気持ちになった。公園にある全てのベンチを回ってみたけど、やはり優希は居ない。駅前に行くと人は多いけど、優希はどこにも居ない。

俺が酷いことをしてきたからだ。当然の報いだ。

優希。ここへ、来いよ。

「月森?」

その声は、優しく俺の体に積もった。

「優希!」

俺は優希を力づくで抱き締めた。優希は驚いて手に持っていた荷物を落とした。コンビニ袋。耳元で俺を呼ぶ声を、俺は何度でも噛み締めたかったけれど、人通りが全く無い訳ではないそこを優希は嫌がった。

「場所を変えよう?」
「てめえ、探したぞ! 勝手に出て行くな! 俺はお前と別れる気なんてねぇんだよ!」

優希は何も答えなかった。

俺は優希の腕を掴んで歩いた。優希は途中で「今直ぐ出て行く積もりじゃない」とか「こんなの良くない」とか言ったけど、俺は構わず歩いた。

部屋に戻ってもそこが綺麗に片付いて元通りになっている訳もなく、腹が立って苛立って我慢できないくらいの気持ちだったけれど、俺は優希を一度だけ平手打ちして優希を許した。

「許してやるから、もう出て行くな」

これで全てが終わる、とその時は本気で考えた。

「私の気持ちは変わりません。もう月森とは暮らしたくない」

優希の声は静かで確かで高慢だと思った。

「なんでそんなこと言うんだ! わかんねぇよ! わかんねぇ……」

ひでぇよ。

なんで俺を捨てるんだ。

優希は俺に歩み寄って、「理由はある」と呟くみたいに話し始めた。怯えも怒りもないその声の言うことなら信じようと俺は思った。

「最近よく会ってる女性がいるよね。もし彼女ともっと親しくなりたいなら、私と一緒には居ない方がいい。ここから出て行くなら私が出て行くべきだとは思ってたから、別れようって言ったの」

それが優希の言い分だった。

「あの女とは、別になんでもない」

いつもの浮気だ。

「なんでもないって雰囲気じゃなかったよ。私とは違った」

そりゃ違うだろ。

「だからなんだよ」

どうでもいい女と優希では比べる対象にもならねぇ。

「あんな風に優しく笑う月森は、久しぶりに見た。彼女とは仲がいいんだって一目で分かった。私とは違ったし、凄く良いと思った」

なんだと?!

「優しくしたら付き合うのか?! 俺が他人に優しくしたらお前は家を出て行くのか?!」
「違う!」
「そう言ってんだろてめぇが!」
「あの女性と月森が恋人同士に見えたからだよ! 私と君とでは到底そうは見えない!」

クソ!

クソ! クソクソクソ!

「そんなの、俺が糞野郎だからだよ!」

優希は特別なんだ。感情が溢れて行き場が見付からない。優希は俺だけのものにしたい。でも優希は俺を好きではない。だから従わせてきた。

でも、優希はもう俺に従わない。

ひでぇじゃんか。

「俺がいらなくなったのか? 誰か好きな奴がいんのか? 出て行くなよ。俺の側に居てくれ。もう殴らねぇからさ、優希。恋人同士に見えなくても、俺はお前だけを欲しいと思うんだ。可笑しいだろ。可笑しいだろ、俺」

優希に手を伸ばすと、優希は体を強張らせた。殴られると思ったからだろう。

「優希。抱かせてくれ」

なんて柔らかい髪だろう。なんて温かい体だろう。なんて小さなひとだろう。

ああ、優希は痩せたな。

この弱くて切なくて大切なひとを殴って蹴って従わせるなんて残酷なことをしていた自分自身が恐ろしくなった。物で殴って骨折させたこともあったし、真冬に長時間ベランダに閉じ込めたこともあった。

俺は糞野郎だ。屑だ。

ごめん。

許してくれるか。

優希は俺の頭を撫でた。

「嫌なのは暴力じゃない。孤独が怖いんだよ」

優希は思い出したように「あ」と言った。

「コンビニでシュークリームを買ったんだ。月森と食べようと思って二つ」

それで外に出てたのか。

馬鹿じゃねぇの。

俺は立っていられなくて、座り込んだ。そしてその姿勢で優希に縋って泣いた。優希は俺が泣いている間中ずっと俺を撫でてくれていた。

朝には朝食の良い香りが漂う。おはよう、と挨拶すると笑顔で迎えてくれる。休日には部屋で抱き合ったり、時には遠出してみる。朝から新宿御苑の芝生に寝転んだり、銀座でケーキを食べたりする。

俺はあれから優希を殴っていない。

殴るような切っ掛けがない。以前はどうして毎日優希に怒りを抱いていたのか、今では思い出せない。

「なんか、甘いもんでも買いに行かねぇ?」

俺が言うと優希は笑って頷いた。その笑顔を絶対に失いたくないと思った。



曰く、“雨降って地固まる”。
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雨は天から涙は目から

瀬川って直ぐ泣くよね、と初めて耳にした時から、俺は瀬川が実際に泣くところを見たことがない。

瀬川って直ぐ泣くよね、って言ったのは誰だ?

高橋と大久保と。あー、あと誰だっけ?

「弓は一人暮らししないの?」

瀬川は慣れた手付きでホットケーキを切りながら言った。居酒屋で僅か2品目でホットケーキを注文する女は瀬川ぐらいじゃねえの、と俺はちょっと面白くそれを眺める。しかもホットケーキの次は手羽先が来る予定だ。

瀬川は大学を卒業してから割と直ぐに一人暮らしを始めた。お姉さんに甘えっぱなしの瀬川が一人暮らしするのはちょっと意外だった。

「一人暮らしね。転勤したらすると思ってたけど、ずっと東京勤務だからなあ」

俺の答えに瀬川は「ふうん」と曖昧な相槌を打った。人に質問しておいて答えをちゃんと聞かないのは相変わらずだ。

大学を卒業してから殆ど会うこともなかったけど、瀬川からメルアド変更のメッセージが来てから話しが弾み、こうして会うことになったので、実際にこんなにじっくり話すのは3年振りか。

瀬川は見た目は可愛いので俺もこうして会えるのは嬉しい。あわよくば、とも考えていることは、気付かれているかもしれない。

「この間さ、すっごい雪降ったよね」

瀬川はそう言って俺を見た。

きれーな目。青っぽいグレーの瞳。

「確かに。金曜日は午後2時くらいには帰っていいって言われたなあ。お前んとこは?」

瀬川は驚いた顔で「途中で帰ったの?」と尋ねた。こちらの質問への答えは、詰まり「いいえ」ってことか。

「台風とか雪とか、社員帰せなくなったら会社も責任取れないだろーしな。そういうことたまにあるよ」
「そっかあ」
「瀬川は。帰れたの?」

瀬川は「帰れたよ」と素っ気なく言った。

「店長が『僕んち泊まる?』とか言うから、帰った」

またお前は、なんつーことを。

しかし店長もセクハラの負い目があって引き留めなかったか。やるか、やられるか、殺伐とした職場だな。

「店長って。お前、なんか同僚にも迫られてるんじゃなかったか」

俺はそう言ってから、これは本人からではなく人づてに聞いたことだったことに気付いた。たしか大学時代の女友達がそんなことを言っていた。ムカついたから憶えてたんだ。カッコわりー。

瀬川は「あっ」と呟いて手を打った。

「仕事変えたの。言ってなかったね。コンビニって変な人多いしね。お姉ちゃんも辞めた方がいいってずっと言ってたし、私も夜シフトとか嫌だったし。今はケータイ売ってる」

瀬川は正社員じゃないんだ、って思ったら、言葉が出なかった。

だって俺、フリーターのこと馬鹿にしてる。

「今は夜勤ないし、ちょっとだけどボーナスも出るんだよ。契約社員なんだけどね」

契約社員。やっぱり。

一生その仕事できんの? ババアになってもミニスカートの制服着てケータイ売るの?

俺には分かんねえよ。

「コンビニ、変な奴いたの?」

時間掛けて考えて漸く出た言葉がそれだった。普段から馬鹿にしてるから、なんか話したらそれが伝わるんじゃないかって思ったら、どうしてもその話題に触れ難かった。

でも良かった。瀬川は特に気に留めずにホットケーキを食べているっぽい。

「まあ世の中変な奴ばっかだよねー」
「そう?」
「雪の時、職場の近くで雪になんか掛けて食べてる人いてびっくりしたもん。変な人いるなーって」

きっと子供のことじゃないんだろうな。

それは俺でも驚くよ。

「職場どこ?」
「田町」

おお、俺の職場と近い。

「どこ住んでるんだっけ?」
「田端。別にどこでも良かったんだけど、三鷹より田町に近かったから」

それが瀬川にとって不本意なことなのか、そうでもないのか、俺には分からなかった。瀬川は特に辛そうとか面倒くさそうとかいう風でもなくて、食堂で内容見ずにAランチ注文したらメンチカツだった、みたいなテンションだ。

瀬川ってそういうところがある。

心配してやったら、ケロっとして忘れていたり。へらへら笑ってるから放っておいたら骨折してたり。

職場が近いことが分かったし、まあいっか。

瀬川がどう思ってるかは考えても絶対に理解できない。

「田端もけっこう雪降ったの?」
「降ったよー。雪かき用のシャベル買っちゃった。それで雪かきしまくった」

瀬川は笑って言った。

無邪気なその姿は見ておきたかった。

俺って瀬川が好きなのか?

不明だ。

「雪かき疲れなかった?」
「疲れた。でもなんか楽しくてさー」
「それはいいことだろう。周りは助かっただろうね」
「どうかな。雪かきしてたら『大変じゃない? 手伝おうか?』って言われて、途中休んじゃったよ」

誰だ、それは。

それは今突っ込んでいいのか?

「良かったじゃん。近所の人?」

瀬川は首を傾げて「知らない」と答えた。その仕草はとても可愛いと思ったけど、瀬川の無防備さを恨みもした。

瀬川は見た目でまず人生がイージーモードだ。助けて欲しそうな顔、助けてやってもいいかと思わせる顔、無垢で素直な顔、幼くて無知で悪さを知らない顔。

だいたい初めて瀬川と会った時、瀬川は教室から下駄箱までの僅かな距離で男に鞄を運ばせていた。思い返すと酷い状況だ。中身の無さそうな瀬川の学生鞄は、きっとノート数冊分の重さしかなかっただろう。それを下駄箱で瀬川に返した男は、やや緊張した面持ちで「オレ、1組の長浜っていうんだ。メアド教えてよ」と言ったのだった。

今思えば、俺は瀬川をたった一目見た時から既に心を奪われていたのかもしれない。鞄を持って、優しくしてやりたかったのは俺も同じだ。

いつもそうだ。

俺は瀬川を助けたくて、よく目で追っていた。

「雪、綺麗だったね」

瀬川はそう言って最後のホットケーキの欠片を口に入れた。

「うん。あんなに沢山降るのを見ると、圧倒されるよね」

俺は会社で誰かが言っていた言葉を無難に返した。それを聞いた時は、雪が綺麗だっていうのは世間知らずで幼稚な意見に思えたけれど、瀬川にはその方がいいだろうと思った。

「彼氏がさ、居たんだけど」

瀬川は俺の話しを聞いていなかった。

なんて答えても良かったのかと思うと、簡単な返答にも躊躇する自分のことが女々しく思えて情けない。

「あ、そうなの」

はあ、情けない。

「雪が綺麗だねって言ったら、そうかなって言うんだよ。真っ白で綺麗って言ったら、空気中の汚れが付いてて汚いって言うんだよ。久しぶりに積もって楽しいって言ったら、経済活動ができなくて困るって言うんだよ」

瀬川は淡々と続けた。

「わかんないんだけど、悲しくなって泣いちゃった」

瀬川はホットケーキの皿を下げてもらい、手羽先を一つ摘まんで囓った。

「私はそれで外に出て、雪かきしてたの。手が冷たくて感覚なくなったとき、『手伝おうか?』って言われて、それで私は彼氏と別れた」

え?

瀬川のロジックが分からない。

「それでメアド変えて、弓といまお酒飲んでる」

塞翁が馬って解釈でいいのかな。俺は瀬川が彼氏と別れたちょうどいいタイミングで再開できて嬉しいけどね、瀬川にとっては違うんだろうな。

「大変だったね」

俺が御座成りに返事をすると、瀬川は手羽先を食べる手を止めて俺を見た。

瀬川の顔はやっぱり綺麗だった。

「瀬川、いま彼氏いないの?」

俺が尋ねると瀬川は「いないよ」と答えて目を伏せた。目の周りの化粧が思いのほか濃いことに気付く。長い睫毛は所謂つけまつげかもしれない。

「雪のとき別れて、そのまま」

なんかこれってビッグチャンス?

「そうなんだ。嬉しい」

俺は瀬川の反応を窺い見た。瀬川はまた手羽先を囓り始めたので俺の誘いに乗る積もりはないのかもしれない。

俺は諦めなかった。

「でも瀬川可愛いからまた直ぐ彼氏できちゃうね」

俺の言葉を無視して瀬川は無言で手羽先を囓っている。

「瀬川。俺、瀬川のことずっと好きだったよ」

ずっとかどうかは分からない。

でもいま好きだと思うから、大した嘘ではないだろう。

「この手羽先、美味しいね」

瀬川はそう言って笑った。今まで殆んど笑わなかった瀬川が笑うのは卑怯だと思う。その少し恥ずかしそうな笑みは、俺の言葉に対してだとは思えないんだよな。

俺の話し、聞いてなかったに違いない。

それから暫く俺達は食事を楽しんだ。瀬川は時々自分勝手に話しては食事を口にして美味しいね、と言うのだった。

店を出ると外はもう暗かった。

「もう一軒行こうよ」

俺が言うと瀬川はちょっと嫌な顔をした。

「久しぶりに会ったからさ、せっかくじゃん。瀬川は田端でしょ。山手線なら電車はまだまだあるよね」

強引でもいい。

もうこんな機会はないだろうから身を引く方が馬鹿だ。

「カラオケと居酒屋どっちがいい?」

俺は瀬川の肩を抱き寄せて言った。瀬川は嫌がらないでされるがままでいたから、俺は自分のいいように解釈することにした。

それとなく、瀬川を誘導してみる。

それとなく。

それとなく。

なんて、無理だった。

「俺、瀬川のこと好きだよ。ねえ、このままだと俺、ホテルに入っちゃいそうなんだけど。嫌ならちゃんと言ってよ。冗談はやめてって笑ってよ」

俺は初体験を控えた中学生みたいな野暮なことを言った。

セックスするのに言葉で確認を取る奴なんていない。多少無理矢理にでもやってしまえばいいんだ。それでもできなかった時が、ダメだった時だと思えばいい。だいたい酒飲んで2軒目に行く時に、それらしいサインってものがある。良いサイン、悪いサイン。

でも俺には今の瀬川が何を考えているのか全く分からなかった。良いサインなのか、悪いサインなのか、丸で分からなかった。

瀬川からの返事は無い。

俺は決意した。これは良いってことだ。良いサイン。

言葉で聞いたのは野暮だった。女ってそうだよな。言わなくても分かるでしょ、ってアレ。

俺は歩き続けた。

いよいよホテルの目の前まで来てから瀬川は急に立ち止まった。

「取り敢えず入ろう。本当に嫌なら、俺、それ以上は何もしないよ」

我ながら無茶苦茶だと思う。

でも身体が熱くて止まんねえ。

俺は瀬川の体を強引に引き寄せてホテルの中へ入った。

ごめん、瀬川。

瀬川はホテルの前で立ち止まったこと以外には目立った抵抗はしなかった。だからと言うのも卑怯だとは思うけど、服を脱がせて風呂場に連れ込むと興奮して瀬川のことなんて考えてられなかった。

もういいじゃん。

やっちゃえば既成事実ってやつだろう。

俺は手に石鹸を付けて瀬川の体を弄って、自分の体もちょっと洗った。

始めは「せがわ」「すげえ、いいからだ」って話し掛けていたけど、瀬川からの返事は無いし、自分でも驚くくらい興奮して余り記憶もない。流れでベッドに入って、あっという間にやってしまった。

「瀬川。シャワー、先いいよ」

俺がそう言っても瀬川は動こうとしなかった。寝てるのかと思って覗き見ると、瀬川は目を開けてぼーっとしてた。

「瀬川?」

俺は瀬川の肩に手を置いて、ちょっと罪悪感を感じた。

なんか話してくれ、そう思ったのが伝わったのか、瀬川は口を開いた。

「これって、今日だけなの?」

え?

中途半端なことを言わない方が良いだろうと思って、俺は瀬川の次の言葉を待った。

「私、男の人の『好き』って言葉がよくわかんない。女の子の言う『カワイイ』と同じ? 弓の言う『好き』って、『カワイイ』っていう意味なの?」
「俺のは、」

俺が答えようとしたら、瀬川は身じろぎして立ち上がった。スレンダーな体の前だけをフェイスタオルで隠して、風呂場に行ったらしい。

なんか言った方が良い。

でも恋愛に関して口下手な俺には瀬川に上手く好きだと伝えられる気がしない。

俺は瀬川を追って風呂場に入った。

瀬川は一度だけ俺をちらっと見てから、驚いた様子も見せず、直ぐに目を逸らして再びシャワーを体に掛けた。白い泡が流れてつるつるの瀬川の体が露わになった。

「どうぞ」

そう言って瀬川は俺の横から風呂場を後にしようとした。

「待てよ!」

酷くないか、それ。

「お湯、張ろうぜ。それで少しあったまろう。瀬川を急かす積もりでここに来たんじゃないよ。分かるだろ」

俺の提案に瀬川は同意も否定もしなかった。

つるつるの背中だけが見える。

「おい。無視すんなよ」

なんでか俺は怒っていた。瀬川って誰とでもセックスするんじゃねえの、ってちょっと思ったからかもしれないし、人の話しを全然聞かない態度にムカついたからかもしれない。

俺は瀬川に抱き付いた。

「俺の好きは、今日だけじゃないよ」

それだけ言うので精一杯だ。

瀬川の前に回って、瀬川の顔を見ると、瀬川は泣いていた。

なんで?

「なんで。泣くの」

瀬川は荒っぽい手付きで涙を拭った。

「もう帰りたい」

俺は放心状態で瀬川を手放した。泣くようなことを言った積もりはなかった。ちょっと怒ったけど、泣く程じゃないと思う。出来るだけ嫌がることはしなかったしさせなかった。

訳が分からない。

瀬川が部屋から出て行く音が聞こえた。

え、なんで?

本当に?

女ってマジでめんどくさい。

訳が分からない。

まあいっか。後でメールしよう。そしてまた今度会おうって誘ってみよう。俺は悪くない。

瀬川って直ぐ泣くんだな。高橋の言う通りだ。

俺は独りくしゃみした。



曰く、“雨は天から涙は目から”。
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阿弥陀の光も銭次第

長嶺倫太郎の長所を挙げるならば容姿が優れていることである。そしてそれは詰まる所、容姿が優れていること以外には凡そ褒められるべき長所が見当たらないことでもあるのが彼の哀しき短所である。

長嶺はそれを知らない。

長嶺は自身の容姿に対する客観的評価を知らない。彼から容姿の優れていることを除くことは彼を単なる平凡な男にしてしまうのだけれど、それについて長嶺は全く異論なく受け入れているらしい。

馬鹿なんだ。

女の子からの熱い視線に気付きもしない。

話し掛けられても緊張するだけ。

長嶺は自身の卓絶した容姿の美しさを棚に上げて、美女が好きではないと言う。長嶺は美女を避けて生きてきた。

私はそんな男と付き合っている。

顔だけの男。

美女が苦手な男に認められる程醜いのかと思うと、私は嬉しくて堪らない。

私と彼には唯一とも言える共通点がある。私は、美しいものが嫌いだ、ということ。

美しいものは怖い。

長嶺の女の趣味が悪いことは、彼が私と付き合ったことで証明されたようだけれど、私が美しいものを嫌うことは、彼と私が付き合ったことで反証されてしまった。

でも、本当なんだよね。

長嶺の顔を見るのが嫌だから、私は詰まらない顔をして横を向く。

長嶺は私の容姿を褒めないし、私もまた長嶺の容姿を褒めたことがない。

長嶺は容姿以外に於いては並べて平凡。とにかく平凡。成績は普通。性格も普通。運動能力も普通で、平凡な家庭に育ち、特異な趣味もなく、友人関係は良好で平和的、とにかく日本人の平均を割出すと長嶺倫太郎が出来上がると考えて差し支えない。

長嶺はその詰まらない中身を見た目の華やかさで包んで隠している。

私にとってはその見た目だけが長嶺の残念なところだ。もし長嶺の容姿が平凡だったなら、私は彼にプロポーズしていたに違いない。

私は長嶺とは違う。

私の成績は上々、性格は歪んでいる、運動能力は良い方、家庭の事情は複雑、趣味は詰将棋、友人関係は希薄で一時的で閉鎖的、同性の同い年とは全く話しが合わないので学校では寡黙だと思われている。

平凡の振りをして、平凡を羨んでいる。

私達はお互いに違う学校に通っているので、長嶺の学校での評判は知らない。

ちょっと悪いくらいだと嬉しいのだけれど、なんとなく長嶺が多くの人に愛されていることを知って、なんとも表現し難い感情を抱いた。

美しいものは怖い。

人に好かれるものは、怖い。

私の方の評判について、長嶺は何か知っているらしいけれど、私はその内容まで知りたいとは思わなかった。

たぶん碌なことじゃない。

だから長嶺が私を好きになることは、なんだか現実味がない。

私達がめでたくカップルとなったことを長嶺のクラスメイトは盛大に祝ったという。本人はそれが何故かを知らない。

知ろうとしないんだろうな。

私は長嶺を見てそう思った。

長嶺は美女を避けることで、これまで彼女ができたことがないらしい。それどころか、中学生の時には男に興味があり、ファーストキスの相手は男だったと言うのだ。

私は長嶺の見た目の美しさを呪う気持ちと、その反面、長嶺の見た目と中身とのギャップのおかげで女との初めてを奪われずにいたことに感謝もしていた。

平凡な男は私を嫌う。

私が好きになる人は、みんな私のことを敬遠して遠ざけた。私の醜さを見抜いたからだ。

平凡で、それでいて醜いものを好きになる長嶺は私の理想だ。

「友達がね、美緒ちゃんに会いたいって言ってたよ」

長嶺が言った。

「何故?」
「え」

なんで彼氏の友達に挨拶しなきゃいけないの。許可を取らなきゃいけないの。

私は少しキツく言った。

「俺が、美緒ちゃんのこと褒めたからじゃないかな」

長嶺は自信なさげにそう答えた。

嘘じゃないんだろうな。

長嶺が私と付き合っていることを自慢するような男なら私は幻滅した。でも長嶺はそんなことはしない。

長嶺はただ恋人ができたことに舞い上がって、その彼女を大切にしようと意気込んで、自分も恋人に見合う男に成ろうと努めて、緊張しながら時々照れて、彼は本当に掛け値無しに平凡で平凡な平凡過ぎる程平凡でしかない男なんだ。

長嶺は余りに平凡で、それ故に衒ったところがなく、当たり前で在り来たりな幸福論を持ち、純粋で濁りがない。

綺麗な顔。

綺麗な心。

私はその長嶺に惚れてしまった。

これは殆どミスだ。

私は美しいものが嫌いだった。それで綺麗じゃないものを眺めて、自分のものにしたいと思うようになった。

長嶺を見てみる。

「あの。かわいい、って、言っちゃったから。ごめん」

長嶺は目を伏せて俯き加減にそう言った。顔が赤い。緊張のあまり少し笑っている。

成る程。長嶺は綺麗。

私は、結局、世間の多くの人間と同じように、美しい人に憧れて近付いたんだ。それで長嶺を好きになった。

憎んでさえいたと思ったのに。

美しい人間というのは、大概そのことを自覚している。長嶺は美的感覚がおかしくて、それで自分のことを分かっていないのだろう。

私はそんなことを真剣に考えた。

長嶺の美的感覚が狂っているおかげで、私が長嶺と居られるのなら、それは喜ぶべきことだ。

かわいい、って。

そう言えば、いま長嶺は私を『かわいい』と表現した。

長嶺のそれが私の容姿に対する単なる評価ではないことを、私は知っている。

初対面の時に「かわいいね」って言われていたら、私はきっと彼に惚れなかった。いま彼が同じことを言っても全く別のことだと思える。

長嶺の美的感覚は、おかしい。

長嶺には醜いものが『かわいく』見えていて、それを愛しんでいる。でも長嶺の美的感覚は普通じゃない。

それって、つまり、どういうことだろう。

醜いものが、可愛い。

長嶺も鏡を見ている筈だ。毎日、何度も。それで自覚がないならどっか美的感覚が狂ってでもしないと辻褄が合わない。

それって、つまり、長嶺にとっての醜いものは狂った美的感覚に基づいているわけで、世間が美しいと思うものを長嶺は醜いと思いながらも愛しんでいて。

あれ?

「謝らなくても、いいけど」

私が答えると、長嶺はまた「ごめんね」と言った。

「美緒ちゃんの友達に、確かにね、俺も会うのはこわいな」
「そう」
「美緒ちゃんのこと考えてなかった。こんなこと慣れてなくて、それで、緊張して」

長嶺は捨て犬みたいな顔をした。

私はそれを見て、美しいものも悪くないな、と思ってしまった。

「別に、いいけど。ただね、私はかわいいなんて言われたくないの。特にね、そんな風に、世間話のひとつみたいに言われるのは、耐え難い屈辱よ」

醜いって言って欲しい。

ブスだって罵って欲しい。

「そんなこと、ないのに」

長嶺は不満げに言った。

知ってるよ。

でもそれがなんだって言うの?

「私はそんなもの嫌いだもの。綺麗なものとか美しいものとか大嫌いなのよ。言っておくけどね、私は長嶺のその綺麗な顔も好きじゃないのよ。その顔にじっと見られると、嫌な気持ちになるの」

長嶺は狼狽えた。

「ごめん、俺、そんなこと考えたことなくて。美緒ちゃんのことも、そんな風に、ただかわいいって思ってるんじゃないよ。でも好きだから。見ちゃうよ」
「長嶺はさ、美人が怖いだけじゃん」
「え」

私は殆ど長嶺を睨んでいた。

「それで私を選んだのね」

長嶺は否定しなかった。

珍しく顰められた長嶺の眉間には見慣れない皺があった。

「私は綺麗なものが嫌いなの。私ね、長嶺は私のこと綺麗じゃないと思ってるかもしれないけど、私って凄く美人なのよ。こんなこと言いたくなかった。でも長嶺は何もわかってないんだもの」
「美緒ちゃん」
「長嶺は考えたことなくてもね、みんな思ってるのよ」
「俺も思ってるよ」

長嶺は少し怒ったように話した。

「わかってないのは美緒ちゃんも同じだろう。俺は確かに美緒ちゃんの顔を飛び切り綺麗だとは思ってない。でも好きなんだよ。俺と美緒ちゃんの顔、凄く似てるって気付いてないの?」
「え?」
「俺は自分の顔だけが好きなんだよ。あとはね、実は、余り区別できないんだ」

長嶺の言葉は、理解できなかった。

『自分の顔だけが好き』?

私はとんでもない誤解をしていた。

長嶺は醜いものが嫌いなわけではなく、醜いものが分からないんだ。美女を避けてたんじゃなくて、追われるから逃げてたんだ。

そうやって言われてみれば、私達って似てるのかも。

「長嶺の顔が綺麗だから、私のと似てんのかな」

長嶺は少し首を傾げた。

「どういう意味?」

あんたにさ、『どういう意味』って聞かれることの方が驚きだよ。今のところ長嶺の意味分からないところの方が私より上回っていると思うからね。

でも、一応言っておくわ。

長嶺って鈍くて冴えない平凡な男なんだもの。

「長嶺が私を好きだって言ってくれるなら、それが私の大嫌いな自分の顔のことだとしても、嬉しい。っていう意味」

だってそうじゃない?

「あ。そういうこと」

長嶺は顔を真っ赤に染めた。

「私の顔って、お金で買ったのよ。美人な方が人生が良くなるって、私の父が、買ったのよ」

美しい私の父は綺麗なものだけを愛した。だから私のことも深く愛してくれた。父は私の母を、というよりは美しい母の遺伝子をお金で買った。美しいものは損をしない、と父は私に言ったけれど、私はそれで美しいものが嫌いになった。

でもそれで長嶺が私に興味を持ってくれたなら、それは私の人生観がチャラになるくらい幸せな出来事だ。

美人で良かった。

私が美人だから長嶺が振り向いてくれたんだ。

私は過去を振り返ってみた。

私は美しいものが嫌いだし自分の顔も大嫌いだけれど、私は自分の容姿の為に人生で損をしたことがない。自分を不幸だと思ったことは一度としてない。

ああ、美人で良かったんだわ。

私は初めて人間のクズだからだと思っていた父の容姿への執着に感謝した。

そして、父はこうも言った。

金で買えないものはない。


曰く、“阿弥陀の光も銭次第”。
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あの声でとかげ食らうか時鳥/落書き

いつの間にやらシリーズ化した野口を描いてしまった。
野口は伊達眼鏡をかけてるけれど、デートの時には裸眼が多そう。
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雨垂石を穿つ

博道は異次元級のバカだ。中学時代のバカな友達ってのは誰にでもいると思うんだけど、博道みたいな異次元の世界からこんにちはしたようなレベルのバカとはそうそう出会えないと思う。

異次元世界から持ってきた空気が博道の周りにはもやもや漂っている。博道はそこに浮かぶ何か不可思議な生物なのだ。

「すげー冷める」

博道がそう言うと、しかし周りの人間は少し緊張して博道を見た。博道に嫌われるということは博道の周りにある愉快な異次元世界に居られないことを意味する。

博道はとんでもないバカなのに、人の心を好き勝手に魅了する。

私も魅了された一人だ。

「なに、ムリって」

博道はご立腹だった。

「楽しいことしようって話してる時に、そういうこと言うのって、なんか、すげー冷めるわ」

博道は私を見た。子供がそうするように不機嫌がそのまま表情に現れている。

私はそれに目線で答える。

はいはい、わかってるよ、っていう意思表示。

「帰ろう。葛城」

博道は本当に沢山の人から好かれるんだけどさ、何かあると私のところへ来るから、贔屓されて特別に可愛がられているように見えるらしい私はなんだかんだで彼が人から好かれるのに比例して嫌われてくんだな。

誤解なのに。

私、葛城みなみ、彼と出会ってからというもの、現在までに実に多数の人間に恨まれています。

今みたいにね。

博道の世界から現実に弾き出された彼らは恨めしげに私を見ていた。

博道を追い駆けると、彼の方もやはり恨めしげに愚痴った。

「サイアク。すげームカつく」

博道の世界には結局博道だけなんだな、と思う。

私はそのことを思い知って悲しくなった。博道のぶっ飛んだ行動に付いて行けるのは世界中を探しても何人かしかいない。博道に惹かれる多くの人達と同様に私はその一人でありたかった。

博道に好かれる女の子は大変だ。

だけどとても羨ましい。

「博道、あんまり我儘言ってると嫌われるんじゃないの」

何したって嫌われないんじゃないかなって思うんだけど、これくらい言わないと調子に乗ってとんでもないことが起こるから、私はいつでも仕方なくそう言う。

博道は詰まらないものを見るような目で私を見た。

「なんかさ、今ので決定的に冷めた」

わかってる。

私じゃ博道の期待にはとても答えられない。

でもさ、なんでだろう。やっぱりどうしても好きなんだよね。博道を知った時から今まで報われたことなんて一度も無いのに、好きになっちゃったんだよね。気になって気になって、それで、ああ、好きなんだって気付いてから、この想いがどうにかなるって思えたことなんて無いんだけど、好きなんだよ。

博道の眼中にさえ入ってないんだろうって分かってても、止まらない。

好きだ。

丁寧に、何度でも、繰り返して伝えたら分かって貰えるかも。

だってそんな諺あったじゃん。

『お前もいいとこあんね』

それだけで良いんだけど、それだけでも恥かしいくらいの高望みなんだよね。分かってる。

博道は私には興味がない。

私は詰まらない人間だ。

博道が異次元世界を漂いたい時に私は彼を現実の海へ突き落としてしまう。私はそれなのに博道がいつか私を好いてくれるんじゃないかって根拠のない幻惑に酔っている。

だって好きなんだよ。

止まんないの。

好かれたいのに、嫌われることばっかしてんの。分かってる。

「なに、お前。泣いてんの」

博道の引き攣った声に振り返ると同時に、私の目からは涙が溢れた。鼻の奥がつんとして、ああもう我慢できないって思った。

「泣いちゃいけないの?」

こんなに悲しい時に、海に沈んだ博道から冷たい目で見られて、それでも我慢してたんだけどね。

いつも、『届け』って願ってた。

私の想いが、博道に。

でも私のしょぼい想いなんて博道の周りの異次元世界には近付くことさえ許されなくて弱く弱く消えて行くだけだ。私の涙みたいに博道には永遠に理解されることなく乾いて落ちる。可哀想だな、私の恋心って。

「博道にそんな態度取られたら、なんか、可哀想になっちゃったんだよね。博道のことが好きで博道の近くに居たいって思ってるのに、博道って冷たいこと言うんだって思ったら、悲しくなっちゃったんだよね」

野生の勘が働いているのか博道は私と一定の距離を保っている。

「博道を愉しませるのに必死でさ、それってすごい悲しいよ」

私が、それだ。

ピエロみたいに踊って戯けて、プレゼントは工夫を凝らしたバルーンアートでさ、博道の笑顔を見れば嬉しくなって、でもいつかは「つまんねー」って言われて、お別れの挨拶の時にもピエロなら笑ってろよって呆れられるんだ。

でも私は博道の奴隷じゃない。

だからって嫌われたい訳はないんだけど、やってることは同じだよね。

「そう説明されても、なんでお前が泣くのか分かんねーんだけど」

博道は私の涙を不可解そうに目で追っている。

「分かんないだろうね」

だって博道には好きで好きで堪んないってことないじゃん。いつも誰かに好かれる方で、いつも誰かを振り回す方じゃん。

博道は不服なのかちょっと眉根を顰めた。

「お前さ、俺がなんか悪いことしたって言いてえの」

『悪いこと』?

「そうじゃない。でもさ、誰だって理解されたくて、でもされなくて。理解したくて、でもできなくて。それでも好きだから、博道のこと裏切りたくないって思ってんの。でも博道はそんなこと分からないまんま、冷めたとか言うじゃん。そういうの、残酷だよ」

傷付いてんのは私だけじゃない。

私は自分が誰のことを話しているのか曖昧なまま、けれど真実と思うことだけを話そうと思った。

博道は私に一歩近付いた。

「それって、お前も俺のこと全部は理解してねーってことだけど」
「当たり前でしょう」

100パーセントなんて有り得ない。

「お前さあ、お前って、俺のことどう思ってんの」

え?

なんで?

なんで今そんなこと言うの。

「残酷とか悲しいとか、お前に関係あんの。意味分かんねー」

意味は分からないと思う。博道が一度だって何かを、誰かの気持ちを理解しながら行動した試しは無いのだから、それが私のことでも同じだろう。博道の世界には博道しかいないし、博道の行動が誰かの小さな感情論で妨げられることもない。

「そういうのがさ……」

そういうところがさ、私には時々とても、泣きたくなるくらい、悲しいよ。

博道は私の方へまた一歩近付いた。

「あんね、だから聞いてみてんの。お前って俺のこと嫌いだよな」
「好きだよ」

だからなんだ。

私は好きな人に好意を伝えた女子とは思えないような目付きで博道を見上げた。

「は。お前って、宇宙一分かりにくい女だな」
「なにが」
「俺、お前にいま『嫌い』って言われるつもりで聞いたんだよ。『嫌い』って言われたら言おうと思ってたんだけど、でも、いま、お前……」
「うん。好きって言っちゃった」

博道はまた一歩私に近付いた。

手が届きそうな距離。

「ほんと分かりにくい」
「悪かったね」
「お前さ、なんで俺がお前を色んなとこに連れ回してるか分かってる?」
「何それ。連れ回されたことなんて無いけど」

たぶん。

「好きだからだよ」

はい?

誰が、誰を?

「最初は、お前から好きだって気持ちがくんのが嬉しかったよ。でも最近は嫌われてるって気がしてきて、さっきのでやっぱり嫌われてんなあって思ったところでさ。お前、泣くし」

私は混乱していた。

この男は、この博道という名前の人間みたいな宇宙人は、なんてことを言っているんだろう。『好き』とか言ったと思うんだけど。

ドキドキ、ドキドキ。

「……」

ダメだ。言葉が出ない。

「お前が嫌がったって、泣いたって、俺はお前と二人で居たいからそんなん関係ねーんだけど、悲しいってはっきり言われっとね、やっぱり、俺でも傷付くんだわ」
「うそ」

博道が傷付く?

そんなの、私は知らない。

博道は声を出さずに笑った。

「俺もおんなじことをお前に言いたいんだけどね。やめとくか」
「さっき『好き』って言った?」
「うん。好き」
「なんか嘘っぽい」
「ほんと酷いね、葛城は」

確かに、酷いことを言った。でも博道が優しく笑って私の近くに居るから、現実感がなくて、頭もうまくまわんないんだよ。困ったね。ほんと困った。

ドキドキ、ドキドキ。

「お前からはいつも『好きだ』って声が届いてたよ。すげー嬉しかった。最近はちょっと違ったから勘違いだったのかなーって思ったりしたけど、なんだ、やっぱ、俺のこと好きだったの」
「うん」
「なんで泣いてんの」
「分かんない」
「もう一回、好きって言ってよ」

呂律がさ、よくまわんなくなってんだけど。でも言おう。ちゃんと言おう。

私は真っ赤な顔をそうと気付かれないように俯けて言った。

「好きです。ずっと好きでした」

衝撃を感じた。

博道が私を抱き締めてるんだって分かったら、心臓が爆発しそうなくらい脈打ってた。

「ありがと。俺もだよ」

これは、あれだ。

異次元の空気。

私はいまきっと異次元世界に立ってる。

ふわふわする。くらくらする。

博道は毎日こんな空気を吸ってるのかな。だったらあんな風にバカになっても仕方ないかも。私もいま、たぶんすごくバカだ。頭がまわんなくて心臓だけに血が回ってる。

ドキドキ、ドキドキ。

あ。

届いてたんだ、私の想いが。

好きが、博道に。

これって、あれだ。あの諺のとおりだ。



曰く、“雨垂石を穿つ”。
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虻蜂取らず

彼女は遠くへ行ってしまった。触れてはいけない場所。あの柔らかい肌に一度だけでも触れてみたかった。

そしてできることなら、俺だけのものに。

「それって、けっきょく初恋のまま失恋し損ねたってことだね」

中野ははにかんで言った。

中野と共演することが決まった時、初対面で挨拶をした時、初めて食事をした時、この男は次々と印象を変えていった。中野と俺が似ているのだと気付いてからは、中野に対する気持ちは明らかに好意へと変わった。

「失恋?」

確かに、凛とは『失恋』する程の仲ではなかった。

「恋をしたら、心のスイッチを押すんだよ」
「スイッチ?」
「スイッチを入れるのは相手だけど、切る時は自分でね」
「俺にもスイッチあんの?」

中野は緩く笑った。

「あるよ。見える」
「見えんのかよ」

俺が言うと中野は声に出して笑った。

中野と暫く飲んでいると、約束の時間より1時間近く遅れて宗谷が来た。宗谷は中野を慕っていて二人で買い物にも行くらしいが、俺は彼を好きではないしそれを宗谷もわかっていると思う。

「ごめん、遅れて」
「仕事?」
「ヤナに怒られてた」

『ヤナ』は宗谷のマネージャーだ。ヤナと呼ばれている梁川さんは名前を献(ささぐ)と言い、その名前のとおり宗谷にその身を捧げている。

怒られたという理由を聞くべきなのか、そう考えていると中野はドリンクメニューを宗谷に手渡して言った。

「ピアス増やした?」
「それ、それで怒られた」

うんざりした宗谷に負けないくらい、きっと俺もうんざりした顔をしているだろう。宗谷は年が若いこともあって言動が幼稚で、その所為で事務所に怒られることが多い。多分事務所だって注意するのにうんざりしているのだろう。それでも一応は中野が面倒を見ているからか今のところファンを泣かせるようなことはしていないらしい。

こいつの生活や仕事に興味はないけれど、中野がそれに気付いたことが俺にとっては意味がある。

この不愉快さ、これは嫉妬だ。

「中野クンはピアスしないね」

形だけメニューを眺めてからビールを注文した宗谷は、性格に似合わずお手拭きで手を丁寧に拭いながら中野の耳朶辺りに視線を定めた。

「イメージがね、あるから」
「そうねー」

宗谷は残念そうに唸った。

「それに痛そうだから」
「それ。僕としては、むしろ、どんだけ痛いのか気になんのよ。ならない?」

宗谷は楽しそうに言った。それには中野も俺も顔を顰める。

気に、なんねえよ。

「お前マゾなの」

俺が聞くと宗谷は真剣に悩んでいる風に腕を組んだ。

「相手によるよ」

ああ、それは。余りに真面目な回答だ。こういうクソ真面目で実直なところが宗谷の売りなのだけれど、俺には単なる馬鹿が浅はかな言動をしているだけにしか思えない。だからその宗谷に付き合ってやっている中野は仏か菩薩なのだ。

「やらしーね、それ」

中野が笑って言った。

確かに宗谷の言い方は卑猥だったから淫行罪で逮捕されて服役して償って欲しいところだったけれど、中野がそう言うと、そんな言い方をすると、却ってその方が背徳を覚える。

『やらしー』

黙ってしまった。

なんて言えばいいんだ、こんな時。

思えば宗谷も黙り込んでいる。

「ごめん。子どもっぽかったね。変なこと言ってごめん」

中野が申し訳なさそうに謝ったので、俺も宗谷も慌てて否定した。中野にそんな思いをさせるなんてことは俺も宗谷も望んでいない。

中野は所在無く笑った。

中野と付き合う女はこいつが笑ったり泣いたり照れたりするのを間近で見られるのだと改めて思った。きっと俺には見せてくれないところもあるだろう。

「いやー、中野クンって、面白いね」

宗谷がちょっと複雑な顔で言った。これには俺も無言で同意した。

「中野って、彼女いるんだっけ」

俺が尋ねると中野は特に気にした風でもなく首を横に振った。

「仕事があるから、やっぱり」

俺は中野に同意する気持ちを込めて頷いた。俺が凛を諦めたのは、それはやはり仕事があったからだ。仕事について中野と同じ姿勢でいることは嬉しい。

「なんで。中野クンなら彼女いたって大丈夫でしょ」

宗谷が軽薄な声で言った。

だからお前は売れないんだ。

お前は分かっていない。



曰く、“虻蜂取らず”。
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危ない橋を渡る

危ない橋を渡らなければ捕まえられない連中だから、保坂だってそれを承知でスパイしたものだと思っていた。

知っていることは少ない。

知ろうとするということは相手を求めるということだ。それはとても危ういバランスの上に成り立っている。

保坂は、潜入の度を超えて同化してしまった。

誰も保坂に同情しなかったし、俺だって保坂のような意思の弱い人間が大義名分を翳すのは大嫌いだった。可愛い恋人が憐れだ。我々保安官が憐れだ。

憐れな男だ。

危険を冒して自らの安全を賭して正義を全うする全ての人間に対する冒涜だ。ミイラ取りがミイラに、などと週刊誌が嘲るのが目に浮かぶ。

俺の手は震えていた。

抑えようのない憤りのために。

保坂のことで内通を受けた時、俺は少しも疑わなかった。仕事だから疎ましいとか嫌悪とかいう感情もないし、淡々と必要な情報を集めて疑いを晴らすことばかり考えていた。

保坂は馬鹿だ。

下らない連中に与して、自ら自分を貶めたのだ。

スパイするのには勇気と度胸が要る。いつ殺されても文句を言えないし死ぬより辛い拷問を受ける覚悟もなくてはならない。仲間は仲間ではなくなり、身近な人間は全て敵に変わる。心を許せる人はなく、眠りに着く度に命が摩耗してゆく。

悪夢が友だった。

少なくとも、俺は。

保坂は苦痛を手放して安らぎを得た。悪魔の子守唄を耳にして、欺瞞に満たされたベッドに身体を預けた。

そんなことは、危ない橋とは言わない。

危ない橋を渡る中で、俺達は絶対に正義を侵さない。だから保安官でいられるのだ。いくつかの違法行為と引き換えに社会の悪を打ち殺すのが仕事だからだ。

保坂を取り戻すのは簡単だった。

俺はただ悪夢と友となる。



曰く、“危ない橋を渡る”。
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痘痕も笑窪

俺の彼女である小金井凛は所謂“オタク”だった。

見た目は最高に可愛いし、趣味が合うから恋人にした訳ではないし彼女がオタクだろうが腐女子だろうが構わない。

ただ不満があるとすればそんな彼女の趣味を全く理解してあげられない自分自身に対してだ。喜びや面白みを分かち合えないのは恋人として少し物足りない。

「あと18分ね」

今が正にそんな時。

それは今まで非常に良い雰囲気でイチャイチャしていていざ服を脱がそうとした時だった。

『あと18分』

あと18分でなんなのかと言えば、あと18分で凛の好きなアイドルが出演するテレビ番組が始まるのだ。

俺と愛し合うよりテレビが良いらしい。

そもそも俺はテレビを殆ど見ない。何が良いんだろうと真剣に考えてみて諦める。

分かる気がしない。

俺は少し考えてから身を引いた。文字通り彼女に寄り添わせていた身体を引いて彼女から少し離した。心の距離も開いたかもしれない。

番組が始まると凛は全神経を集中させるアスリートの様にテレビを見始めた。

ちょっと妬ける。

友人に言えばドン引きするレベルのことなのだが今ではそれも“ちょっと妬ける”程度になってしまった。ポンキッキーズに見入っている子供みたいなものだと思うことにしている。

まあ、アイドルを好きになる時期って誰にでもあるんじゃねえの。

番組が終わり俺は用意していた「楽しかったね」という言葉を言おうした。間に合わせの共感でも無いよりはましだろう。

「録画みていい?」

思ってもみなかった凛の言葉を聞いても俺は動じた様子もなく「いいよ」と言ってみせる。

情けねえ。

今見てたのに録画も見るのか。そんなに中野が好きか。俺よりも。

「ごめん。あとにするね」
「え、いいよ。見れば?」

心の広い男を演じながら俺は凛の「たっちゃん」という言葉に歓喜した。凛に呼ばれるとぞくぞくする。

「つづき、する?」

それは色気なんか無くて誘惑って感じじゃなくて俺のちんこはそれぐらいじゃ反応しないんだけど、でも俺の心は物凄い力で彼女のところへ引き寄せられた。

可愛い。

可愛い。

可愛い。可愛い。可愛い。

「来て」

凛に向かって腕を広げると凛はぺたぺた這って来た。ふわふわ揺れる柔らかそうな蜂蜜色の髪が彼女の顔を少し隠す絶妙な構図はグラドルにも全く負けてない。

凛は俺に抱き付くと「ごめんね」と言った。

いいよ、そんなの、とは気軽に答えなかったからなのか凛は「中野くんのことキライにならないでね」と言ってからまた謝った。

『嫌い』っつうか。

お前は中野に逢えもしないだろう。

優越感は感じても多少の嫉妬は感じてもそれであんな会ったこともない男を嫌いにまではなれない。言ってしまえば『中野』は架空の人間だ。

特別な感情を抱くなんて馬鹿みてえ。

「嫌いにはならないよ」

俺が言うと凛は嬉しそうに微笑んだ。

「たっちゃん、やさしいから好き」
「へえ。俺って優しいの?」
「やさしいよ」

そんな言葉は嬉しくもない。

「凛って結婚願望ある?」
「結婚?」
「そう。今まで誰かと結婚したいと思ったことある?」

凛の二の腕を触るとすべすべして気持ちいい。

「あったかな。昔だけど」
「保育園の時とか?」

保育園児の凛が「結婚しようね」とか言っていたらめちゃくちゃ可愛いだろうなあと妄想する。

「中学の時」

凛は躊躇う様子も見せずに言った。

「誰と?」
「高円寺くん」

誰だよ。

そいつもアイドルか?

「その時に結婚してたら俺と会えなかったよな」
「不幸中の幸いだね」

本気みたいに言うんだな。

凛はヤる気がなくなったのか俺の隣に座った。彼女が髪を手で梳かしているとつい俺も触りたくなる。

「中野とは?」
「あるよ」
「へえ」

じゃあ俺とは?

「たっちゃんって意外と中野くんのこと好きなんだね」

凛は髪の毛先を指先に絡めつつそう言い放った。趣味のことで批難するのはルール違反だと分かっているんだけど俺としては割と我慢した方だからもういいや。

「中野のこと好きなのはお前だろ」

俺が中野を好きになるかよ。

凛の友達はオタクばっかで今までそいつらと仲良く平和にやって来たんだろう。皆で“大好きな中野くん”をテレビで見てにやにやしてたんだろう。

俺は中野の顔もよく知らない。

高円寺なんて聞いたこともない。

「ごめんね」
「凛っていつからオタクなの」
「きづいたら」
「じゃあ多分俺はこれから先もオタクにはならないな」
「そうかもね」
「凛はオタク同士でいる方が楽しい?」
「そうかもね」

否定しねえのな。

「現実よりテレビの中の方がいいの?」

俺は自棄の気持ちで尋ねた。凛が俺を選んでくれたら良いなという希望的観測は勿論心に秘めている。

「あたしには、テレビも現実だよ」

突き放された。

呆れられた。

俺にはオタクの考えることは理解できない。意味不明。オタクとは脳みそが違うからだ。受容体とか神経とかどっかに必ず決定的な違いがある。

彼女はそんなオタクそのものだ。

「たっちゃん。ごめん」

でも違う。

凛は違う。

凛が俺の名前を呼ぶと世界が変わる。

全身の血が煮立って強烈な焦燥に駆られる。頭の中は一瞬で現実から引き擦り下ろされる。月面を泳ぐみたいに足取りが覚束なくなる。言葉だけでは表現し切れない甘ったるい愛に沈んでいく。

可愛い。

可愛い。

ぶん殴りたいくらい可愛い。

「ああ。だから、いいって」

情けねえ。

小金井凛はやっぱり俺にとっては最高の恋人なのだった。



曰く、“痘痕も笑窪”。
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あの声でとかげ食らうか時鳥

待望の週末だ。

水曜日に告白して翌日に返事を貰い、土曜日は予定があるとのことだったので日曜日に終にデートの約束をしたのだ。

本日は快晴。

待ちに待った日曜日である。

如何にもルーズで遅刻して来そうな野口だったが、思いの外、彼は時間通りに現れた。

「仁志。もう来てたの?」

野口はカジュアルだけれどシンプルで小綺麗な服装をしていた。細い縁の眼鏡と藍色のピアスが馬鹿で軽率な彼を知的に見せるのがなかなか面白い。

「今来たところだよ」
「そっか良かった」

野口はへらっと笑った。

「プランは特に無いんだが。飯は食ったか?」
「朝と兼ねて済ませちゃったわ。なんか食いたい?」
「いや。だったら買い物に付き合って欲しい」

野口は気軽に同意して、そんな風にデートは始まった。

本日の感想。

こいつ慣れてるな、ということ。

ちょっと休もうと入ったオシャレなカフェに野口はもう何度が来たことがある様だった。野口は俺が好きそうなコーヒーを幾つか挙げて選ばせた。

それで俺は気付いてしまった。俺は野口と友達に成りたい訳ではないということに。

これは決定的な事実だ。

野口が如何に遊び慣れているかは友達とさえ碌に遊ばない俺にでもはっきり分かる。それが友達と遊ぶのに慣れているのか女と遊ぶのに慣れているのかはよく分からないけど、その相手が男か女なのかは大いに問題になってくる。

「野口、彼女はいないのか」
「彼女?」
「大事なことだろう」
「大事っつうか。いや、彼女はいないけどさ。問題はそこじゃないっつうか、ね」
「問題?」

問題が有るのか。

何の問題が有ると言うんだ。

「怒ることないっしょ。目が怖いって」

野口は眼鏡を外して俺を見た。捨てられた子犬の目は潤んで憐れを誘う。きらきら光る瞳は彼が汚れていてもやはり純粋なものの様に輝いた。

「別に、怒ってないだろう。彼女がいなくて何が問題なのかと聞いただけだ」
「その前に、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「それはお前の言う『問題』と関係あるのか」

野口は下を向いて唸った。

「もー、突っかかんないでよ」
「突っかかってない」
「じゃあ聞きたいことあるんだけど。いい?」
「ああ」

野口は何か考えようとしたけど頭が付いて行かないのか深く考え込む様子はなく話しを切り出した。

「彼女のことなんで今になって聞いたの?」
「なんでだろうな」
「切っ掛けとかあるっしょ」

切っ掛け?

お前がデートに慣れていたからだ。

女にするみたいに、俺をエスコートしたからだ。

「言いたいことがあるのか」

俺は醜い感情を抱いていると知られないようにごまかした。野口はどうしても俺に『切っ掛け』を言わせたいらしかったけれど、俺はむしろ意地でも言いたくはなかった。

「逆に、仁志って彼女いる?」
「いない」
「いたことある?」
「それが野口にとっては大事なことなのか?」
「そうじゃなくてさ」
「なんだ」
「コレ、見てどう思う?」

音を立てて机に叩き置かれたのは野口の手だ。俺は黙ってそれを見下ろした。

「コレ、意味分かる?」

焦れたのか野口は手を俺の目の前に差し出した。手の甲を俺に向ける不自然な動作に、俺は漸く彼の言わんとすることが分かった。

「指輪……」

野口の指には指輪が嵌められていた。正確には、野口の左手の薬指にシルバーの幅が広めの指輪が嵌められていた。

「服とかアクセに興味ないのは分かってたけど、もしかしてコレの意味分かんない?」

左手の薬指に指輪。

「どういう意味だ」
「恋人います。結婚してます。婚約してます」
「そうじゃない。なんで今日それを付けて来たんだ」

彼女はいないと言ったのに。わざわざ見せ付ける様に指輪を付けるとは、どういう神経をしているのだろうか。

俺は思わず席を立っていた。

「でも言われるまで気付かなかったじゃん」
「そうだな」
「仁志って俺のことどう思ってんの?」
「どうって」
「だってこれじゃあバカみたいじゃん」
「何故そうなる」
「こういうの、『ないがしろ』って言うんじゃねーの」

お前は蔑ろの意味を知らない癖に、蔑ろの字を書けない癖に、どうして俺がお前に責められてるんだろうな。お前が俺を『蔑ろ』にしたことはあってもその逆は無い。決して。

なあ、違うか、野口。

「デートに誘ったのも、告白したのも、俺なのに、蔑ろにしているのは俺の方だって言うのか?」

野口は何に頭を悩ませているのか難しそうな顔をして、時々俺のことを見上げては視線を反らすことを繰り返している。

「そー言えば、ホワイトデー」

野口は独り言みたいに呟いた。

「なんで1日遅れたの」
「は?」
「指輪も気付かないしさ」
「なんだ、急に」
「今頃彼女いるかとか。なんか実際どーでもいいって感じじゃん」
「そんなことないだろう」
「なんか、別世界だわ」

それは、俺も思うよ。

でも、それがなんだ?

「例え別世界の人間でも、地球外の人間でも、俺はお前が好きだ」
「え」
「どの指に誰のどんな指輪を嵌めても良いが、俺以外の人間に『好き』って言ったら許さない」
「え」
「バレンタインだかクリスマスだか、俺はそんなのどうでも良い。でも新しい年に今年も宜しくって言って貰えないのは悲しい」
「必ず言うよ、おれ」

野口は身を乗り出して答えた。

俺は野口を真っ直ぐ見た。席に座り直して、野口の左手を取った。彼の薬指にある指輪を触ってみると思ったより軽い感触がした。

「俺の見た目が悪いのが、嫌か?」

俺が尋ねると野口は黙って首を振った。深海の色をしたピアスは光を受けてキラキラ輝いた。

「俺は流行りなんて分からないし、お前にとって普通じゃないと感じることも多々有るだろうな。でもそれは俺だって同じだ。野口のことを本当は宇宙人なんじゃないかってよく思うよ」

俺が冗談めかして言うと野口は少し戸惑った様子で困った様に笑った。

「なあ、その指輪は、そんなに大事なことなのか?」

俺たちにとって本当に大事なことは違うんじゃないか?

なあ、野口。

「ごめん、違った」
「大事なのは、今は互いに大切に思ってるってことだろう?」
「うん」
「何か『問題』あるか?」
「ない」

野口は破顔した。

「俺たち、同じとこもあるよ」

野口は嬉しそうに微笑みながら話し始めた。

「何処?」
「俺は宇宙人かもしれないし、お前も宇宙人かもしれないってとこ」
「なるほどな。そうかもな」
「あと、もう一つ」
「うん」
「俺以外の人間に好きって言ったら、絶対許さないから」

野口はにこにこ笑って言った。

野口は凄いなと思う。

人好きのする軽薄な笑顔の奥に秘められていたのは現実離れした残虐性だった。それは俺の本能を直に擽った。人を虜にして逃がさない強迫性の愛は完全に俺を捕捉した。そして俺はそれを歓待する。

野口は凄いなと思った。



曰く、“あの声でとかげ食らうか時鳥”。
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