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京香/三度目の移動術

“あれ”が来た、と直ぐに分かった。

揺れる視界。

平衡感覚を失って、地面が抜ける感じ。

目を閉じて身体に力を入れて衝撃に備えたところでそれは無駄だった。そこだけ重力が強くなったみたいに身体が重くなって立っていられなくなった。両肩を上から強く抑え付けられたみたいだった。

背中が痛い。

そして私は内心で期待した。

衝撃の強さが、身体の重さが、前に感じたのは確か、この世界に来た時だったからだ。ラゼルといた時にまた術にかかった時は今程は重くなかった。短い移動では身体への負担も小さいらしい。理屈は分からないけれど。

私はゆっくりと目を開いた。

私は仰向けに寝転んでいた。




【三度目の移動術】




柔らかい。ベッドの上?

そして、身の前に、赤。

違った。そうだ、違ったんだ。

「大丈夫?」

この人は。

この人は、確か、あの人だ。

「京香?」

とにかく分かったことは、私はまだ元の世界に戻っていないということだ。この赤く燃えるような髪色の男は元の世界では不自然で異彩を放ったけれど、ここでこうして見るとそう不自然でもない。

「レオン?」

レオンは私の寝るベッドの近くに木製の簡素な椅子を置いてそこに腰掛けた。その顔には安堵の笑みが浮かんでいる。

「ごめんね」

何故、謝るの?

「ここはどこ?」

レオンは事情を知っていそうだったので、私はまずそれを尋ねることにした。

頭が少しずつはっきりしてきたので辺りをよく見てみると、ここはどこかの建物の一室だった。前に居たあの街は、どの建物も基本は石造りだったけれど、この建物は石造りではないようだった。

なんていうか、近代的。

「軍の、メインベース」と、レオンは言った。母親に間違いを告白する子供みたいだった。

そうか。そうか。

元凶は彼だ。

私は多分とても酷いことをされた。

彼がどんな風に申し訳ないと謝ったって私の自由を奪って意思を踏み躙って乱暴な方法でとんでもないことをしたに違いない。あの“術”とかいう得体の知れないもので私の身体に何かしたのだ。

「具合はどう? とても強い術式に触れたから、もし体調が悪くなったら直ぐに教えて。術士じゃない人間が術式に触れるのは、本当は良くないんだけど。ごめんね」
「メインベースって何? ここはどこ?」

基地ってこと?

全然説明になってないよ。

「俺は軍人なんだ。京香を引き取る為に接触した。騙してごめん」

『引き取る』?

レオンは私を心から労わるような口調だから責める言葉を口に出せない。でも明らかに彼の言っていることはおかしいし道理がない。納得できる訳がない。

レオンに指示を出した人間がいるの?

だいたい『軍』ってどういうもの?

日本で言えば自衛隊?

私には彼の言っていることが全く理解できない。

「悪いけど、全然分からないよ。そっちの都合ばっかりで公平な説明とは思えない。引き取ったって言うけどさ、私はここに来る前は誰に保護されてたって言うの?」

引き取ったって言うからには私は元々どこかに属していたことになる。

それさえ私には分からない。

「ごめん。ちゃんと時間を作って説明したいんだけど、今はタイミングが悪いんだ。これは俺の都合じゃなくて、京香の身体の為だから、お願い、少しだけ寝て、それから時間をくれないか」

レオンの髪が、黒く濁った気がした。

あんなに鮮やかだったのに。

「眠くない」

私はレオンを睨みつけた。

13歳の私に一体どれ程の迫力があったのかは分からない。

「俺は京香の身体が心配なんだよ。じゃあ、ちょっとだけ検査させて欲しい。それで大丈夫と言われたら、それから説明するよ」
「検査?」

私はさながら宇宙人に拉致された地球人の気分だった。『検査』と言われてあっさり了承する気分にはなれないし、はっきり言って何をされるか分からないので恐ろしい。頭を切開して何かを埋め込まれるとか、電波を身体に照射されるとか、身体の一部を動物に作り変えられるとか。

想像するだけで恐ろしい。

「そんなの、どうぞって、言うわけないよ」

私は上体を起こして這うようにしてレオンから距離を取った。

レオンは悲しげに眉尻を下げた。

「だったら寝て。お願いだから」

寝ている間に何かする積もりではないか?

私は首を横に振った。

「アルは? アルに会いたい」

私の言葉に、何故だか「アル?」とレオンは不思議がった。

私を『引き取った』と言うからには、彼は私のことを知っているはずだ。きっと私の瞳が黒いからとかそんな理由だろう。だとしたら、何故智仁のことを知らないのか。

一緒に暮らしていたのに。

家族なのに。

何故?

似ていないから?

「ペットか何かならここへ連れて来られるように取り計らうよ。でも『アル』が人間なら、おそらく暫く面会はできない」
「暫く?」
「暫く、長い間」

レオンは音も立てずに立ち上がった。

危ない、と思った瞬間、レオンは私の身体を抑え付けていた。それ程強い力ではないのに抵抗を許さない圧力がある。

掴まれたところが熱くなった。

何?

なんで?

「京香、ごめん」

なんで謝るの?

こんなはずじゃなかった。

私はただの入学したての大学一年生だったし灘崎の家で穏やかに暮らしていたしいつも近くに智仁とほのかと和山さんがいて時々小言を言われたけど優しくもされて将来のことを考えることも青年らしく苦悩することもあった。

月並みだけれど、人並みだけれど、私成りにやってきた。

それが何故か“こっちの世界”に飛ばされた。

突然だった。

それでも“こっち”に来てからだって私達は一生懸命やってきたし戻る術がないと分かったら“こっち”に馴染む努力もした。智仁は働いていたし私も何かしようとしていたんだ。

形にはなっていなかったかも知れない。

でも私達には希望があった。

記憶が薄れている自覚がある。身体が若返ったのだから、脳に影響があることは覚悟していた。

好きだった歌。通学路の風景。部屋に置いてあったもの。大好きだった人達。私を呼ぶ声。温かい食事の匂い。朝焼けの鮮やかな赤。月のほの白い明かり。夏の底抜けに明るい青空。冬の吸い込まれそうに輝く空の星。藤棚の柔らかく甘い香りと控えめな藤色。

それらもいつか忘れるだろう。

私には何もない。

智仁とも離れてしまって、好きではなかったけれどもミクやバイアスやラゼルとももうきっと会えない。

私には何もない。

もう嫌だ。

これ以上、奪われるのは、嫌だ。

もう悪いことはしないから、人を傷付けないようにするから、どうかお願いだから、もう何も奪わないでください。

「やだ……」

そう言って、私の目からは涙が零れた。

「眠いだろう。少し寝たら、君は必ず目覚める。その時まで、ほんの少しだけおやすみ」

レオンは私の額に手を当てた。

身体がぼーっと熱くて私はレオンのことをじっと見詰めることしかできなかった。

額も熱い。

身体があつくて、もう、なにも、かんがえられない。

あつい。

あたたかい。

ともひと。ともひと。おねがい、また、あいたい。

「エレム・ノクト。ラムール……」

最後のその言葉は、私にはほとんど聞き取れなかった。
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京香/笑顔の咲く花畑

「怖がらないで」、なんて言って未成年の子女に近付こうとする人間には総じて裏がある。しかし「黙れ」「動くな」とか言って脅迫するバイアスみたいなロリコンよりはましなのかもしれない。

「こんにちは。なんでこんなところに居るの?」

ジェイクはにこにこ笑って話し掛けてきた。

距離を取るべきだろうか。

私はジェイクから目を離さないように注意を払ってジェイクから遠ざかった。丸で忍者の忍び足のように静かに後退ることができたので自分でも感心した。

「お兄さんは、ここで働いているんだよ。だから怖がらないで。道に迷ったの?」

ジェイクは極めて友好的に話し掛けてきた。

うん、と頷きそうになる。

「迷子じゃないのかな。誰かと一緒にいたの?」

うん、と頷きそうになる。

「ゆっくりで、いいからね。知っていることがあったらお兄さんに教えてほしいな?」

ジェイクは花が咲いたように微笑んだ。


【笑顔の咲く花畑】


あのね、と話しそうになる。

なあに、と答えてくれる気がするから。

ジェイクはあっちの世界で例えるならば、爽やかな体操のお兄さんであり、頼りになる近所のお巡りさんであり、プレゼン能力の高いやり手の営業マンであり、笑顔の絶えない穏やかなパパなのであった。

私は押しに弱い。

智仁に言われると断れないのは今でも変わらない。ジェイクは少し智仁に似ていた。

「お腹すいてない?」

すいてるよ。

「ずっとここにいたの?」

さっき来たところだよ。

ジェイクが近付いても、もう私は後退らなかった。一歩、一歩と近付いて、もう腕を伸ばせば触れられるところでジェイクは止まった。にこにこ笑うから私も釣られて笑ってしまう。それは多分、智仁と私との距離に似ていた。

「お名前を、ぼくに教えて」

ぽん、と花が咲く。

「京香」

私が答えるとジェイクはもっと笑った。

ぽん、ぽん、ぽん、とふんわり咲いた花がそこら中に浮いて甘い香りを漂わせている。桃色、黄色、藤色、白色、ジェイクを彩るそれらが私には実体みたいに感じられる。

「京香。ぼくはジェイク。かわいい名前だね」

ジェイクは満面の笑みを湛えて頷いた。

あ。

笑顔が零れる、と私は思った。

「待ち合わせをしているの。だから心配しないで」

私が言うとジェイクは「そうかあ」と言った。

「この部屋に、って言われたの。だから大丈夫。仕事、続けて下さい」
「こんなところで待ち合わせなんて、珍しいんだね」
「そうですか」
「ぼくの、知ってるひと?」

ジェイクのそれは、彼が一番知りたい確信のような気がした。

私は黙った。

「ここで働いてる人だよね。どんな人?」

私はその場から逃げたくなった。

バイアスから、私達が知り合いであることを口止めされたことはない。でもそれは誰にでも言って良いことでもないだろう。

私はジェイクから逃げるべきだ。

尻尾を巻いて逃亡するでもしなければ、私はいつかジェイクに全てを話してしまう。

ジェイクの花は、ふわりと咲くから。

「ごめんなさい」

私は何故か謝って、それで何かを解決させる積もりは勿論なかったのだけれど、扉への直線距離上にいるジェイクを避けるように遠回りして扉に向かった。走ったら追い掛けられる気がして、競歩でもしているかのように脚だけを素早く回転させた。

バイアスの顔が脳裏を掠める。

藍色の目が私が見ている。

険しい山岳の峰のように、来る者を激しく拒絶して痛め付ける美しい瞳が、私を逃がさない。

ジェイクは悪い人じゃない。優しくて穏やかで居心地の好い人だ。私はもうジェイクを信頼してしまっている。

バイアスはジェイクとは違う。

バイアスは悪辣で冷酷で残虐な人間だ。

ジェイクと居た方が良いに決まっている。ジェイクは人を傷付けない。ジェイクは他人を思い遣ることのできる人だ。ジェイクは私を小さな子供として扱ってくれる。ジェイクは私が幼稚で純粋で無垢な子供だと思っている。

ジェイクは追って来なかった。

私は扉を開いて廊下に出た。もうそこは私の知っている世界とは全く異なってしまったような気がした。

京香/暢気な門番

【暢気な門番】



暇だ。

前みたいに暢気にふらふら出歩けたら良かったけれど、今はそうもいかない。あれだけバイアスに釘を刺されて知らん顔で外に出たらなんだか悪い気がする。

術ってなんだろうな、とか考えてみる。

ひょっとして智仁は居ないのかな、とか考えてみる。

バイアスは向こうの世界でいえば何人なんだろうな、とか考えてみる。

向こうの世界。

私の世界。

私の帰属するべき場所。

夏の夕暮れに充満する匂いの切なさだとか、太宰治の書いた文章の軽妙さだとか、和山さんが優しく微笑んだ時の感動だとか、ほのかの書いた字の美しさだとか、素晴らしい人々と出会う喜びだとか。

あとね、他にも沢山あったよ。

他にも色んなことがあったんだよ。

でも改めて考えてみると、他にはって言っても全然思い出せなくなっていることに気付いてしまった。

その時ガチャガチャとドアノブを回す音が聞こえた。私はそれを聞いて憂鬱から現実に引き戻される。

「あれえ?」

ドアの向こうでは誰かがこの部屋へ入ろうとしている。声は男だ。

ガチャガチャと繰り返し聞こえる。

そう粘らなくてもドアには鍵がかかっていていくら捻っても開かない。私はこの部屋を無断で占有していたのだと知ってとても申し訳ない気持ちになったけれど、開く訳にはいかない。

「こんばんはー。誰かいます?」

沈黙。

「ひょっとして、エッチなことしてます?」
「は?」

うわ、いけない。

つい声が出てしまった。

「ぼく、誰にも言いませんから。ちょっとだけ開けてください」

それで開ける人なんているの?

当然答えは、沈黙。

「ここの備品借りるだけですから。ほんのちょっとだけ、お願いしますよー」

ちょっとって言われてもね。

「休日出勤して、こんな時間まで働いてるなら、ぼくのこともわかってください。お願いですから」

確かに言われてみれば休日の夜遅くにこの人は労働しているのだ。

私の所為で帰れないの?

「ちょっとだけ、入って直ぐに済みますから」

そこまで言われたら。

断れない。

私はドアの鍵を開けた。

開けた瞬間、ドアが開いた。

「あれれ、子供じゃん。こんばんは」

え?

「こんな時間に、どうしたの?」

なんでこの人は私に話しかけるのだろうか。備品を借りにきたとかなんとか言っていたと思ったのだけれど。

「怖がらないで。ぼくはジェイク。君に危害を加えようとしているわけではないから」

怖がっている訳ではなくて、私は困惑しているのだと思う。

そして、私は、気付いた。

やってしまった。

扉を開けてしまった。

あれ程何度も何度も開けるなと言われていたのに、いとも容易く易易と考え無しに阿呆みたいに開けてしまった。ジェイクはいかにも私に興味あり気に見詰めてくるから馬鹿なことをしてしまったと実感せずにはいられなかった。

「可愛いお嬢さん、お名前は?」

伸びてきたジェイクの手は、簡単に私を捕まえた。

京香/悲しみの青

智仁に会いたくなって衝動的に智仁の勤める役所の方へ歩いて行った。昼を過ぎた街は人通りが多くて人の孤独を埋めてくれるような気がする。或いは孤独を強調するのもこの人混みなのだけれど。

そう言えば、この道を抜けるとミクのアパートメントだ。ミクの。

そんな風に思っていると道の向こうから現れるのはミクであるのが道理なのだけれど、そこに居たのはバイアスだった。

視線を地面に定めて足早に歩く。

「おい」

その低いどすの利いた声は私に向かっているらしい。13歳の少女に向けられるべき声としてはやや恫喝的でありすぎると思うけれど、更に問題なのは、彼の手癖の悪さだろう。

私の腕はすれ違い様にバイアスに掴まれていた。

二の腕を優に一周するバイアスの掌はけっこうな強さで私の腕を圧迫している。

怖い。

はっきり言って、通報したい。

「無視するな」
「睨むからじゃん。こわいよ」

バイアスは鼻で笑った。

「睨んでいるのはお前だろう」

仰る通りです。

私ははっきりとバイアスを睨み上げていた。「私はあなたを睨んでいますよ」と伝わるように睨み上げているのだから、思いが通じたので却って安心した。

「腕掴むからじゃん。こわいよ」
「離したら逃げるような顔をしているからだ」
「逃げないよ」

私はすかさず言った。

バイアスは少し迷ったようだけれどこれ以上の言い争いは無駄だと思ったのか腕を放してくれた。

「ここで何をしているんだ。ミクは居ない筈だ」
「アルは?」

なんでミクなんだ。

私は最初から智仁だけを信じて智仁だけを求めてきた。

「私が探して来よう」
「え。いいの」
「お前は役所に入れないのにどうする積もりだったんだ」

バイアスは早速歩き始めた。

コンパスが長いから私は小走りで付いて行くしかない。

役所に着くとバイアスはまた私の腕を掴んだ。半ば引き摺るように役所の中に入り、警備員に会釈する隙も与えてはくれず、小さめの応接室に私を放り込んだ。

「ここに居ろ。絶対に外に出るな。誰かが来ても鍵を開けるな。お前は扉の向こうからの問い掛けに答える必要さえない」

なんだそれは。

「結界でもつくるの?」
「は?」
「私の住んでたところにあったの。おまじない。こっちには無いの?」
「あるが、私は使えない」

バイアスは理解し兼ねると言った風に首を傾げた。

ああ、そうだった。

忘れていた。

この世界には術式とか言う怪しいものが実際に存在していて、結界と言えばチープで古ぼけたおまじないなどではなく現実に何らかの影響を及ぼす力を持つ「実効」なのだ。

だから私はここに居る。

「わかった。大人しくここで待ってるよ」
「それでいい」

バイアスは私の頭を撫でた。

「目付きが悪い」
「睨んでるんだよ」
「そうか」

バイアスが笑った気がした。

もしかしたら彼は性癖が異常なだけで、飽くまでとても心根の優しい救世主なのかもしれない。それならばきっと私にとってこの世界ではとても大切な人だ。

え、あれ?

「痛い。痛い!」

私の頭を撫でていたバイアスの手が私の頭髪を鷲掴んだ。後方へ引っ張られると少し上を向くことになる。

「痛い!」

何度言っても同じだろうけれど、本当に痛いから仕方ない。髪が頭皮からごっそり毛根ごと抜け落ちそうな強さで引っ張られている。

バイアスはにやりと笑った。

顔を近付けられたので逃げるように膝を曲げたけれど、反対の手で身体を持たれてバイアスとぴったりくっ付いてしまった。くっ付き過ぎて碌な抵抗もできない。せいぜい罵倒するくらいしかできない。

「愛してる、って顔してた癖に」

バイアスの呼吸を唇に感じた。目を開くと目の前に紫紺の瞳があった。

う、わ。

「嫌がるのか、俺を」

なんで、襲われて、悲しまれるのか。

バイアスは顔こそ微塵も感情を表さないけれど、この手だけは違う。乱暴な感情をありのままに主張する。

「痛い」
「口付けを、京香……」

バイアスが悲しい瞳で私を見た。

ミクの目は濁って怖いから近付いてはいけないと思ったし、私の方から歩みよることは一度もなかった。でもバイアスの瞳は余りに悲しい。その哀切を私は裏切れない。

キス、した。

バイアスの顔は冷徹で表情と呼べるものがないし、言うことは悉く利己的で一方的だし、性癖は普通じゃないし、だけど、その瞳の青を見ると、私は彼を許してしまう。

私はキスした。

愛してないし、私は一刻も早くこの世界から消えたいし。

バイアスは怖いし。

でも、もしかしたら、って思うから。バイアスは孤独を感じていて、誰かに愛されたくて、どんな形であれ私に何か期待して、裏切られたらどうしようって怯えているとしたら。

そんなの、私には耐えられない。

また異世界に飛んでいっても良い。

私は目を閉じて、キスをした。


【悲しみの青】

ヘンリー ヒギンズ

言葉は魂を伝える鑑だ。

何処で生まれ、誰と育ったのか。何を学び、何を糧としているのか。言葉はそれらを教えてくれる。

私は王侯貴族や王都の言葉だけが正しく美しいとは思っていない。全ての者の言葉に魂ある限り、それこそが輝くのだ。人の生き様が言葉を躍動させる。

言葉は、だから魂を伝える鑑なのだ。

シークに特有の発音をあの少女は持っていないようだった。

彼女は一体誰なのだ。

京香/宇宙に二人

教授はにっこり笑った。紳士的で落ち着いた声はとても心地良い筈なのに、それは却って先の見えない不安定な私の未来を浮き彫りにして不気味に響いた。

「それでは、そろそろ失礼しようか」

へスターがそう言う頃にはゴアは居なくなっていた。デューリトリも何処かへ行ったので、ここには私と教授とへスターの3人しか残っていない。

「名残惜しいですね」

教授は微笑んで言った。

私は少し怖かった。

世界で私と智仁だけが異世界の人間なのだ。嘘みたいだけれど、そのことは私を果てしない孤独の渦に引き込んで行く。

宇宙に二人。

心を許せる唯一の人間は、智仁だけ。


【宇宙に二人】


教授は私の過去を全て知ったのだろうか。私がここに居るべきではないことを知ったのだろうか。智仁以外の誰とも交わるべきではないことを知ったのだろうか。

「とても楽しかったです。ありがとうございました」

私が言うと教授はにこりと笑った。

ラゼルも紳士的でにこにこしているけれど、教授はそれとは少し違う。優しいけれど何処か怖い。

私の何かを奪おうとしている気がする。

「次は一人でおいで」

教授は別れ際にそう囁いた。へスターには聞こえていなかったらしいその声は、優しく私を嬲った。
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京香/教授のご推察

教授はじっくりと私を観察した。何度か話し掛けられるのに対してしどろもどろに返答したけれど、それ程個人的な質問はなかったので安心した。

「ふむ、なかなか謎の多いお嬢様だ」

教授は楽しげに言った。

その謎は、是非とも謎のままにして欲しいものだ。

ラゼルのこともあり私は色々と質問されても平気な顔をしている自信はなくなっていた。出身地について聞かれたらここを追い出されたり警察に突き出されたりするかもしれない。

私は顔を引き締めた。

「まず君は、親しい学士がいるね」
「はい?」

いきなり核心を突かれた気がする。キリッとしていた私の顔は可成り動揺してしまっていた。

「それに」
「それに?!」

まだあるの?!

「君には仕事があるね。しかし学士ではない」

辺りが静かになった。その意味がどういうものか部外者の私には全く分からない。この世界で女の子が働くっていうのは身体を売るということなのだろうか。

この街へ来たばかりの時にもあった。

何かとんでもない誤解があったら困る。

物凄く困る。

私は教授とへスターの視線を集めた。

「素晴らしいですね。京香は確かにウォルフェレストで働いていますよ」

口火を切ったのはへスターだ。

「弟の仕事で私とも知り合ったんです」
「学士についてはどうですか、お嬢様」
「知っている人はいますが、親しくはありません」

迷ったけれど、そう答えた。

智仁は学士ではなかったはず。

「そうか、やはり貴女は謎が多いね」

教授は笑った。教授が和やかに笑ったので私たちも釣られて笑った。へスターは満足したのかそれ以上の言及はしなかった。ゴアは面白い話題を求めて私たちの方へ近付いたけれど、それ以上話が進むことはなかった。

「怖いですね」
「何がですか?」
「こうして会話すると、その人の心が読めるんですか」
「おや」

教授は片眉を上げた。

デューリトリは気付いたら居なくなっていた。

「私は人の心など読めません」

教授は私の目をじっと見た。

「貴女の過去が、見えるんですよ」

その紳士的で優しげな声は、私の心を緩やかに脅迫した。術士とかいう人間が人をワープさせてしまえる奇妙な世界の中では教授は余りに常識的だったから忘れていた。

私の正体なんて直ぐにバレてしまうんた。

隠せない。

見られたんだ。

私はこの黒い瞳が教授が過去を覗くのに邪魔になればいいなと思った。


【教授のご推察】

京香

教授と呼ばれているヘンリーはパーティーには参加していなかったらしく、私たちはデューリトリの案内で彼の屋敷へ直接向うことになった。

屋敷では一度使用人らしい女性が顔を出してから教授が現れた。教授は見た目や言葉遣いや物腰はとても紳士然としている。しかし、デューリトリに続いてゴアとへスターが挨拶すると明白に態度を変え、それはとても紳士的とは言えないものだった。

教授は貴族ではないんだろうなあと思った。なんとなく。

「珍しいお客様だ。貴族様」

教授はまずゴアに声を掛けた。

「妖精の様に可憐なお嬢様が言語学に興味があると言うのでね。邪魔であったか?」
「いいえ。どうぞ中へ」
「ああ、失礼するな」

教授はゴアの言葉にとても嫌そうに首を振った。ゴアは教授の態度は気にも留めず屋敷の中へ入っていった。

「ようこそ、略奪王」

教授は次にへスターへ声を掛けた。へスターは慣れているのか皮肉にも言い返すことなく悠々と頭を下げた。

「次は魔物ですか」

教授は最後に私を見た。しかしその視線には見せ物を見る様な興味本位の色も、見下す様な色もなかった。

「京香と申します。お会いできて光栄です。突然のご無礼をお許しください」

これ以上機嫌を損ねられると困るので、知っている限り一番丁寧で上品な挨拶を心掛けた。スカートの裾を摘まんでやや腰を落として柔らかく頭を下げる。

「ようこそ、お嬢様」

私の思い違いでなければ教授はにこやかに私を招き入れてくれた。

屋敷に入って直ぐの部屋は客間らしく、美しい刺繍の施されたソファや高価そうな絵画が目に入った。ピアノも置いてあるので、このまま音楽会でも開けそうだ。

「君は随分と社交的になったものだな」

客間に入る直前、教授がデューリトリに囁くのを聞いてしまった。それはとても棘のある言葉で、デューリトリがとても悔しそうに教授を睨むのまで見てしまった。

彼らには上下関係がありそうだ。

「さて、皆さんお揃いでなんの御用件でしょうか?」
「この娘について分かることを教えてください」

教授の問い掛けにへスターが答えた。

ゴアはデューリトリに近寄って話し掛けている。

へスターの言う『この娘』とは、間違いなく私のことだった。

「え?」

私が頬を引き攣らせてへスターに次いで教授を見ると、教授は既に観察する様な鋭い目付きで私を見据えていた。何もかもを見透かされるような冷静で怜悧な目だった。

京香

テラスから屋敷の中を眺めると、そこは私の知っている世界とは全くの別世界であることを熟と感じる。私の暮らしてきた世界はこんなところではなかったし、今だって私は“向こう側”に居るべき人間ではない。

足が竦んだ。

「京香。何をしているんだ?」

そう問い掛けられなければ、私は静かにそこから立ち去るだけだっただろう。へスターが私と窓の向こう側を繋ぐ唯一のものだ。

「ちょっと風に当たってました」

私が笑って言うと、へスターは苦笑した。そして何か考える様に俯いて金色の髪を大きな手でゆっくり撫でてから私に手を伸ばした。

「社交パーティーで一人で居るなんて、君の様に可愛らしいお嬢さんに、これ程危険なこともない」

へスターは大真面目な顔をして言ったけれど、それがジョークとしか思えなかった私は声に出して笑ってしまった。へスターが顔を顰めたので漸くいけないと思った。

「危なっかしいお嬢さんだ」

溜め息を吐く程ではないだろう。

私はそれでも反省の意を込めて申し訳ない顔をした。そういう時は大抵申し訳ないとも思っていないのだけれど、13歳の少女としてはなかなか十分だった筈だ。

「おいで」

へスターに呼ばれるまま近寄ると脇の下に手を挿し入れられた。突然の浮遊感に声を上げた時には私の目はへスターよりも高い位置にあり、華麗で洗練された美しき貴婦人たちの視線に晒されることとなった。

「私の傍を離れたら、いけないよ」

へスターは優しくそう言った。貴婦人たちと目が合っていた私には、それはとても現実的なアドバイスに思えた。

「そのお嬢様は?」
「京香と言うんです」
「京香と申します」

ホールに降りた私とへスターの元へ寄って来た人たちは早速質問を始めた。慣れた様子のへスターはにこやかに接しているけれど、私はちょっと彼らが怖いと思った。

私がいくら彼らの“レベル”を装っていてもそれは紛い物でしかない。いつ看破されてもおかしくない。

私は一歩後退した。

「なんて綺麗な…」

私の気持ちなど露知らず、婦人の一人が私をみてそう言った。“私”というより、“私の瞳”しか見ていない。

一瞬の沈黙があった。

「綺麗だろう、この瞳は」

へスターがうっとりとその女性に囁いた。彼女は目を細めて頷いた。私の瞳に反応したのかへスターの艶っぽい声に誘われたのかは分からないけれど、その人は特に感応された様だった。

「しかし、貴女もお美しいですよ。ドューリトリ嬢」

へスターに顎をなぞられると、女性は魔法が解けたみたいにはっきりとへスターを見た。

彼女の大きな瞳は薄茶色で、香りのいい紅茶を思わせる。つんと筋の通った鼻梁は勝気そうだ。桃色をした薄い唇からは完璧な発音でへスターへの慎みが述べられた。

デューリトリは妖精のように可憐な女性だった。

「実は、京香をここへ連れて来たのは、教授と会わせたかったからなんだよ」
「あの人はシークには興味を持ちませんよ」
「京香がシークだから会わせたいのではないんですよ」
「ではなぜ?」

デューリトリ嬢はやや首を傾げて尋ねた。

へスターはデューリトリの手を取って跪いた。へスターの肩に掛かるマントは中世の騎士のそれのように優美に広がった。

「卑しい私の願いを聞いてはもらえませんか。是非とも教授のお力添えを賜りたいのです」

デューリトリは暫くへスターに見惚れてからやがて頬を赤く染めて頷いた。

堪らなく可愛らしい仕草だった。

「ありがとうございます。お嬢様」

へスターは恭しくデューリトリの手に口付けた。

京香/硝子の世界と黒い闇

薄桃色のドレスには宝石があしらわれていて多くのドレスの中でも一際キラキラと輝いている。そんなドレスも着ているのが私とあっては輝きも鈍るらしく、ホールの入り口に立つへスターの方が更に華やかな輝きを放っていた。

「お待ちしておりましたわ」
「今日も素敵ですわ」
「暫くはいらっしゃるの?」
「あちらでゆっくりお話ししませんこと?」

女性たちに取り囲まれて口々に言われるのを厭な顔もせずにへスターは聞いている。ホールに入った途端に捕まったので、私はさっさと彼を置いてホールの中程へ進んでしまった。

本当に女の子が好きなんだろうなあ。

「お名前は?」
「ゼオ」
「はい?」
「煩い。通せ」

正面の入り口からは少し離れたところでそんなやり取りをする人がいた。侵入しようとする男は乱れた髪に皺だらけのだらしない服装で見るからに不審者だ。警備の人が引き止めるのも無理はない。

「ゼオ様?」

私が呼ぶとゼオが顔を上げた。

「きょうか」

ゼオは酷く疲れた顔をしていた。

「知っている人です。すみません」

まだ胡乱な目でゼオを見る警備の人に頭を下げて、私はゼオと庭園に出た。ゼオは手を引かれるままにずるずると歩いている。

「あの、すみません。失礼なことして」

警備の人はゼオを不審者だと思った様だけれど、ちゃんと調べれば全く問題のない人だと分かった筈だ。私の方こそ身元を調べられたらここに居られない身分なのに、丸で私がゼオを庇って守るようにしてしまった。身の程を弁えない甚だ無礼な行為だった。

冷んやりした外気が遮られたかと思ったら、ゼオが私に歩み寄って来ていた。

「ゼオ様、何かあったんでしょうか」

私が重ねて言ってもゼオは無言だった。

離れたところに見える光は夜空まで照らしている。それはとても華やかで煌びやかで、人々の心の中さえ明るくさせる。

しかしゼオは、闇の中に沈んで、目を凝らさなければその姿さえ見失ってしまいそうだ。

「へスター様を呼びましょうか」

恐る恐る尋ねると、ゼオは私の腕を掴んだ。

「京香」

声は掠れている。

泣いているのだろうか。それは暗くて見えない。

「はい」

私はゼオの心に届く様に、彼の心が深い闇に落ちてしまわない様に、懸命に彼の言葉に答えた。彼の問い掛けを拒否すればそのまま全てが瓦解してゆく気がする。

「京香」

私の腕を掴む手が小刻みに震えている。闇を凝縮したその黒い塊は、怯えているのだと気付いた。

「大丈夫です。私はここに居ます」

ゼオの手はずるりと落ちて、その姿はすっかり闇に溶け込んだ。ただ黒い塊が在るということしか分からない。

「ゼオ様?」

ざりざりと何かが這う砂の音がした。

黒い塊が私から離れて行く様に地面を移動している。その塊に対して繰り返しゼオの名を呼び掛ける気にはなれなかった。呆然と立ち尽くしてその音を聞く内に辺りはごく普通のパーティーの一夜になっていた。遠くからは楽しげな笑い声が聞こえるし、漏れる光は冷えた空気に弾けて屋敷全体が硝子細工みたいに見える。

寒い。

私はぶるりと身体を震わせた。

そろそろ戻らないとへスターが不審に思うかもしれない。それにここはとても寒い。

屋敷に向かって歩き出すと、ふと腕にゼオの手の感触が蘇った。

彼はあのまま死ぬのかもしれない。

そう思った。


【硝子の世界と黒い闇】

ゼオ

鏡に写る男は酷く滑稽だった。不釣り合いな豪奢なスーツ。持ち主よりも輝くアクセサリー。鏡に写って不機嫌な顔に歪んだ笑みを貼り付けているのは、それは、やはり、僕だった。

「お似合いですわ」

侍女は仕事向けの笑顔で私を褒め称す。

「ありがとう。後は自分でやるから」

侍女は頭を下げて部屋を出た。

醜い男は口の両端を持ち上げてみたけれど、それはパーティーには似つかわしくない陰鬱で不気味なものになった。

へスターの様には成れない。

「京香」

それでも僕の口から溢れるのは一人の少女の名前だった。

京香、京香、京香。

黒髪に黒い瞳の少女はきっと僕だけのものにはできない。あの可憐で愛らしい少女を放って置く訳がない。少なくともへスターは京香を見付けてしまったし絶対に手を出してくる。

誰にも会いたくない。

京香にも会いたくない。

会わせる顔がない。

へスターのことを紹介すれば必ず取られてしまうと分かっていて敢えて黙っていたような卑怯な男を愛してくれる訳がない。

京香に会いたい。

会いたい。

会いたい。

京香

私は知っている。誤解という悪魔は真実の言葉を嘘にして歪める魔法を使う。私たちはその悪魔を忘れる以外には真実を知ることができない。

「今日は何かあるのか?」
「何もない」
「しかしその服装、お前が真面な格好でいるのを見るのは久しぶりだ」

ははは、とへスターは笑った。

「へスターは京香と知り合いなんですか」
「嗚々、この綺麗な瞳がいい」

なんてこと言うんだ!

今直ぐそこで会ったばかりです!

と言う度胸もなく、私はへスターの言葉にへらっと笑った。私の横で長い脚を組むへスターにはなんとなく逆らってはいけないオーラを感じるのだ。和山さんと同じ、本能が危険だと知っている。

「京香の魅力は、それだけではありませんよ。黒い瞳は却って彼女の魅力に良くない影響さえ与えている」

ゼオは真剣な顔で言った。

そんな風に真面目に褒められたことはなかったから、本当に嬉しくなってしまう。

「ほう」

へスターは面白そうにゼオを見た。片眉を上げて意味深な表情を浮かべている。

「パーティーに出ないか」

へスターは唐突に告げた。

「嫌ですよ。貴方が出て下されば十分じゃないですか」

ゼオは忌々しげに答えた。

「ではお前の言うとおり、私が出よう。京香を連れてな」
「え」

驚いたのは私だ。そんな私にへスターは眩しいくらいの笑顔を向けて「パーティーは好きか?」と尋ねた。肩に置かれた手には最早動じない。

「何故そうなるんです」

ゼオが咎める様に言ったけれど、へスターは特に悪びれるでもなく笑うだけだ。

「爵位を還してからのパーティーはとても楽しい。京香を連れて歩くのが今から待ち遠しい」
「なんて勝手な」

ゼオの言葉に私は内心で盛大な拍手を送った。

「来るだろう?」

へスターが私を見た。

綺麗な瞳と鮮やかな黄金の髪は細工を施された宝石の様に煌めいて私の存在を掠めさせる。太陽の化身が目の前に居るのだと思った。それに私が逆らったり反発したりして良い訳がない。

私は黙って頷いた。

へスターの満足そうな笑みに、私は安心した。

京香

大きな物音がした。金属のぶつかり合う音の後、重たいものが床に落ち、ガラスの割れる音まで聞こえた。

私が不安になって辺りを伺い見るのに対しへスターは悠然としている。

顎に添えられた手をやんわり払うとへスターは慣れた手付きで再び腰に手を置いてエスコートした。流れる様な彼の身の熟しに私は確信した。間違いない、へスターは女好きだ。

「物音がしましたけど」

私が言うとへスターは白い歯を見せて笑った。

「お嬢さんも知っているんだろう。この屋敷にはゼオしかいない」
「それは知っていますけど」

へスターは腰に回している手に力を込めた。私は自然とそれに任せるままにカウチに座らされた。へスターは当然の様に隣に並んで身体を密着させている。

「私、ゼオ様に用事があって来たんです」
「じゃあ、ゼオが来るまで私の相手をしてくれる?」
「え」
「綺麗な瞳。珍しいね、こんなに綺麗な黒を見るのは初めてだ」
「あ、ありがとうございます」
「目を逸らさないで。よく見せて」

近い。

近い近い近い近い。

へスターと私の顔面距離、おおよそ8センチメートル。それは互いの吐息も感じ合える距離だ。非常に親しい間柄でのみ許されるパーソナルスペースに侵入し合う行為。

初対面の私とへスターには相応しくない。

「京香!」

そんな風に呼ばれても、私の視界はへスターに遮られているのだから、呑気に「はあい」なんて答える訳にもいかないし、今の私とへスターとの密着して見詰め合う態勢は誤解を招くこと請け合いなので、私は静かにしかし持てるだけの力を振り絞ってへスターの身体を押した。

「ゼオ、居たのか」

ははは、と爽快に笑うへスターが身体を起こすと、部屋の入り口にはゼオが立ち尽くしていた。

「お邪魔してます」

平静を装って挨拶した私の顔は、その表情に反して真っ赤になっていた。

ゼオの驚愕に震える目が怖い。

「ウォルフェレストの、設計のことで参りました」

飽くまでビジネスの為に来ました。

そんな私の主張は、へスターが私の腰に回した手が台無しにした。

京香

目の前にいる男はへスターと名乗った。

「ゼオは戸籍の上では私の弟に当たるんだよ。この屋敷も元は私のものでね」

鮮やかな黄金の髪が陽光を受けてキラキラ輝いた。

「お兄様でしたか」

成る程、言われて見れば彼らの容姿は似ている。

「さあ、お嬢さん、人間嫌いのゼオを待つことはない。どうぞお入りください」
「ありがとうございます」

大人の色気に照れながらもへスターの手に手を預ける。

「さあ、遠慮は要らない」

自然と腰に回された彼の手はやはりゼオとよく似ていて、改めて彼らはよく似た兄弟だと思った。

京香/変態説教師の接吻

【変態説教師の接吻】


ウォルターの目は普通じゃなかった。私を見下ろす彼の顔には陰ができて、その心の内が闇となって顕れたかの様だった。

ミクの目に似ている。

ただ一つのものを求めて彷徨う亡霊の目。全てを失って絶望を知った無感情の目。欲望に濡れる獣の目。人を支配して隷従させようとする独善の目。疲れ果てた老人の目。庇護を求める子供の目。

二人は瞳の色も緑っぽくて同じ系統だし、何か血縁的な繋がりでもあるのだろうか。

しかし私にはそんなことを悠長に考えている時間はなかった。

なかったけれど、だから抵抗することもできないのだから仕方ない。

「可愛い小鳥ちゃん、震えているね」

ウォルターは冷たい指先で私の頬を撫でた。

「ああ、その黒い瞳を、私だけのものにしたい」

何処かで聞いたような台詞だ。

「刳り貫いたりしないでね」

私がそう言うと、ウォルターはふっと優しげに笑った。それは神の示す慈悲の笑みであり人が禁断の実を口にして手に入れた地上の愛でもある。

「あの、」

私が身を捩らせて拘束から逃れようとした時、ドアがノックされた。

天国からのノックだと思った。

「ノックが…」

ウォルター自身だってその音は聞こえていただろうけれど、念を押して私が来客を伝えようとしたら、それはウォルターに妨げられた。口を塞がれたからだ、彼の美しい唇によって。

この男は!

女には興味など持たないような顔をして!

ちゅっと卑猥な音がした。

「……ッ!!」

そしてまたノックの音があり、今度は「ウォルター様、宜しいでしょうか」と声も聞こえた。

ウォルターは口を離して微笑んで、言った。

「どうぞ」

言うが早いかさっと身体を離すと、部屋に入って来た人にいつも通りに微笑んだ。

「ゼオ様との、お約束が取れました」

チラッと私を見た客人の目が、初対面の時のバイアスの目と酷似していて、却って姿勢を正す気さえ失せた。私はだらんと脱力して机に上半身を預けた。

話しが終わるとウォルターは私を見下ろした。

「続きをしますか?」

馬鹿野郎!

あんたは変態説教師か!

鋼の自制心をもって心で思ったことを飽くまで心に留めた私は、静かに机から降りて真っ直ぐ立った。

「それでは、ゼオ様のところに行ってきます」

ウォルターは穏やかに破顔して頷いた。

彼の端正な顔で微笑まれるとどうしても弱い私は、今日あったのことはすっかり忘れてしまおうと心に誓ってその部屋を後にした。

京香

私が事の顛末を説明すると、ウォルターは「そう。それでは苦労を掛けたね」と労った。そしてウォルター付きの綺麗な少年が深く頭を下げて部屋を出るのを見送ると、その少年に全く引けを取らない端正な顔を私の顔の至近距離に迫らせて微笑んだ。

「あの、これは」

そして押し倒された。

「あ、の。こ、れ、は?」

今、私の顔は引き攣っていると思う。目の前にあるのは肉の欲望からは程遠い、ともすると神か仏かと言われてもそのまま受け入れてしまえる容姿をしている人だから却って暴れて抵抗することもできないでいる。

ひくり、と目元が痙攣した。

「疲れた?」
「い、いえ」

そんなことよりも今のこの状況の方がどうかしてると思うんだけど。

「君が魔物なら、私のことを食べるのかい?」

はい!?

「その濡れた瞳が、曇りなく澄んだ漆黒の闇が、世界の全てを飲み込んで行くのだと聞いたことがある」
「お伽話ですよね」
「ローラン…」

ヤバい。この目、ミクと同じだ。

「貴方たちの目の方がずっと綺麗です。これは色んな色が混ざってできた濁った目です」

智仁との決定的な違いはこの目だと思う。人の内面や性格は結局どれも有り触れたものだから、それはそれぞれ大して違ってもいないけれど、この目は私とお兄ちゃんを確実に峻別する決定的な差異だ。

和山さんと私は別の人格を持っていたけれど、この目はそうではないと教えてくれた。

似ているところが有ることは、救いだ。

ウォルターはじっと私を見詰めてから目尻に口付けた。

「やはり」

ウォルターはそう小さく呟いてからもう一方の目尻にも口付けた。

「魔物も、泣くのだね」

何を言っているのだろうか、この男は。何に囚われているのだろうか、その瞳は。煌めく翡翠は黒よりもずっと繊細に光を弾くのに、ウォルターの目はそんなものを望まないとばかりに受容を拒否する。

世界の全ての色彩よりも、彼らは黒を求める。

あ、そうか。

彼らには見えていないんだ。

この美しい世界に溢れる色彩が。

見えていないんだ。

ウォルターは新月の夜にしか現れない奈落の闇に心を奪われている。私の目が智仁やほのかの青を羨望しているのと同じように、或はそれ以上に、私の黒を欲している。

簡単なことだった。

「泣くよ。誰だって、寂しい時はありますから」

ウォルターは倒れ込むようにして私に抱き付いてきた。それは心地好い重みだと思った。

京香

ユーゴは大工の棟梁なので建築現場で働く肉体労働者だ。しかし彼自身は身体も細くて穏やかに笑うからそうは見えない。

「悪いね。怖かったろう」

苦笑いしたユーゴの髪がさらりと肩から落ちた。栗色の髪は毛先が少しくるりと跳ねていてチャーミングだ。現場では一つにまとめているらしいが、下ろしていても女性的という訳でもなく、紳士的に見えて悪くないと思う。

「そうですね。少し驚きました」

ユーゴはふふふと笑った。

「あの、お渡しした設計図、何かダメだったんでしょうか」

ファルコーは相当怒っていて怒り心頭という様子だった。深い群青色の瞳はぐつぐつと煮え立っているような色を見せてユーゴを睨み据えていた。

怖かった。

驚いたなんて曖昧な表現をしなくとも、めちゃくちゃ怖かった。

「ゼオの設計は正しいよ」

ユーゴは優しげに笑んで私の頭を撫でた。その手は初めて会った時に受けた印象よりずっと大きくて傷だらけなので、どこか安心感がある。

大工の手。

私はその手に撫でられながら、お父さんみたいな手だから安心するのかもしれないと思っていた。

京香

勢いよく扉が開いた。

自身の体格の良さと腕力の強さを分かっているファルコーは、それでもそっと扉を引いた積もりだったのだろうけれど、私の目には両開きの扉から何らかの金具が飛んで行ったのが見えていた。

間違いない。怪力だ。

ファルコーはその場に仁王立ちした。ひくりと痙攣した目元がしっかりと彼の怒りを表している。普段は大きな声で話すので、「おい」と呼び掛けた小さな声は、却ってファルコーの怒りのボルテージを高く見せる。

「駄目だ」

突然侵入したファルコーを一瞥してユーゴは冷ややかに言った。

「作り直せ」
「いや駄目だ」

ファルコーの地を這うような重低音が私のお腹に響く。

ユーゴはそれをものともせずに「駄目だ」と繰り返して却下する。彼の顔には笑みさえ浮かんでいるのだから空恐ろしい。

「ゼオの設計だ。何が不満なのか私には分からないね」
「あんな設計を許すと思うか」
「『あんな設計』?」
「古臭い。建てる意味がない」
「ゼオの設計は構造的に完璧で、工事する私にとっても利用者にとっても安全にできている」
「それじゃあ意味がねえ!」

ファルコーは怒鳴り付けるのと同時にユーゴを睨み据えた。その眼光は乱反射して私まで届いた。

ゼオはウォルターの友人だ。ファルコーが出資して開発した土地に新しい建物を造るのに、ウォルターの友人であるゼオが設計を請け負ったので、私が今この場所に居る。ユーゴは実際の工事施工主で、ウォルターは建物とそのテナント計画を立てている。

ユーゴは言わば現場の人間だ。

ファルコーは深呼吸した。この部屋一体の空気が吸い込まれたと錯覚するような深呼吸だった。

「美しくなければ意味がない。新しいだけで醜い街にするつもりなのかい?」

ユーゴはにこやかに言った。

ファルコーは来た時より大きな音を立てて部屋を出て行った。

京香/智仁を束縛するもの

ドアを叩くと柔らかい木の音がした。

「お帰りなさい」

お兄ちゃんの声は優しくて、丸っきり昔の通りで、変声期の後からずっと変わらないそれに私はとても安心した。とても言葉では表しきれないくらい、心の底から穏やかなもので満たされた。

「あのさ、仕事はずっと続けてたから。お兄ちゃんはどう?」

智仁はコーヒーを入れて京香に差し出した。

「仕事より、お前の心配をしていたよ」

智仁はにっこりと微笑んだ。その表情は身に覚えのあるものだ。あの頃と同じ、“向こう側”にいた頃と同じものだった。

「ごめん、ありがとう。私は大丈夫。でも帰りが遅いのも外泊も控えようかなって思ってるから。心配掛けてごめん」

望まないものもあったし、彼らとの時間が私たちにとって良いものとは思えなかった。智仁と居ることの方がずっと大切だ。

「俺と居るとストレス溜まる?」
「え?」
「息抜きなら、した方が良いよ」

智仁は私の頭を優しく撫でた。

「お兄ちゃんこそ」

私に束縛されて欲しくない。私と居るよりも素晴らしい人生を送って欲しい。私が智仁に縋ったら彼は必ずそれに応えて強く抱き寄せてくれるに違いない。私はそれが不安だ。

自由でいてね。

いつでも私を捨ててね。

私が笑うと智仁も笑った。


【智仁を束縛するもの】

テオ

身体を売る彼らと自分は違う。

本当にそうだろうか?

彼らとの間に何か違いがあっただろうか?

目が覚めると手足が自由になっていた。頭が痛いのは昨日の無理な行為で寝不足だからだ。思い出すのは霞む視界の中で常に愉快そうに笑っていた顔。

こんな酷い頭痛は久しぶりだ。

ベッドを抜け出そうと身体を起こしたら客を起こしてしまったらしい。客は眉根を顰めて清潔で艶のある髪を撫で付けた。長くてごつごつした指はティムのそれによく似ている。金持ちには相応しくないその手が、俺は好きだと思った。

地獄を見せた手。

天国へ送った手。

「またお前を指名したい」

その低くて威厳のある声よりも、俺には彼の手の方がずっと魅力的だ。

生きる苦しみを知っている手。

生きる苦しみを乗り越えて来た手。

「アスって、いつもああいうプレイしてんの?」

俺は客から離れてベッドの縁に腰を掛けた。逞しい胸筋や上腕に捕まらないように。

「俺はセックスの最中のことは余り憶えていないんだ。特に昨日みたいな日は」

あ、そうなの。

でも確かに、ちょっと人が違うような感じではあったかもしれない。

「アスにとってはあれもセックスなんだ。殺されんのかと思ったよ、俺は」

笑ってそう言うと、向こうは冷めた目で俺を見返した。

昨日の行為は酷かった。冷たい水を張った浴槽に乱暴に沈められたり、深く呼吸をしようと喘ぐ口を冷酷に塞がれたり、従順に客を求める首を嗤いながら絞め上げられたり。失神から醒めた時に見えた客の穏やかな微笑みに、俺は死ぬことさえ覚悟した。

客には記憶がないのか。

納得だ。

客は少しも笑わないで金を差し出した。マージンを引いてもかなりの儲けだ。普通これだけもらえれば上得意になるけど、あの行為を考えると易々と受け取る訳にもいかない。

全く笑わない客。

常に嗤っていた客。

夜が明けた今になってしまえば、彼らが一人の人間だったかどうか、俺には確信がない。

「殺そうとは思っていない積もりだが、嫌なら断って構わない」

確信したこともある。この客とは何度もヤらない方が良いということだ。

死ぬと思った。死んだかと思った。

最悪の行為の後、全てが終わった後、客は俺を優しく抱いた。ごつごつした手で愛撫して静かに笑って愛の言葉を囁いて紳士的に穏健に俺のことを扱った。それは丸で俺のことを愛していて、何よりも大切に想っているかのような錯覚を覚えさせた。

どん底を這う俺を掬い上げた。

無感情な客と、愛情深い客。その不安定な波に揺られたらきっと破滅してしまう。

客は黙ったままの俺に答えを催促することもなく立ち上がると寝室を出て行った。その背中はやはり昨晩の客とは別人のように感じられる。

「ねえ」
「なんだ」

客はゆっくり振り返った。

価値ある刀剣のように鋭利で堂々とした瞳は闇の中で鈍く厳かに光る。

「指名して」
「断って構わないと言ったのに」
「殺さないなら、いいよ」
「それは勿論その積もりだが。記憶がないんだ、保証はできない」
「俺はダメだった?」

客は俺のことをじっと見た。俺は昨晩のことを思い出して緊張したけれど、客の方はただ無感情に数回瞼を上下させただけだ。

その心が全く分からない。

向こうも俺のことは全く理解できないようだけれど。

「言っただろう。余り憶えていない」

あ、そう。

ちょっと傷付くなあ、ソレ。

でも俺はなぜか笑っていた。異常な性癖を持つ男が、しかし平生は生真面目で真っ当な大人だと分かったからだ。

「そうだったね。ごめん」

客は怪訝な顔で扉に手を掛けた。

俺はやはりその手が好きだと思った。この酷い頭痛を忘れさせるくらいその手にまた愛されたいと思った。
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