“あれ”が来た、と直ぐに分かった。
揺れる視界。
平衡感覚を失って、地面が抜ける感じ。
目を閉じて身体に力を入れて衝撃に備えたところでそれは無駄だった。そこだけ重力が強くなったみたいに身体が重くなって立っていられなくなった。両肩を上から強く抑え付けられたみたいだった。
背中が痛い。
そして私は内心で期待した。
衝撃の強さが、身体の重さが、前に感じたのは確か、この世界に来た時だったからだ。ラゼルといた時にまた術にかかった時は今程は重くなかった。短い移動では身体への負担も小さいらしい。理屈は分からないけれど。
私はゆっくりと目を開いた。
私は仰向けに寝転んでいた。
【三度目の移動術】
柔らかい。ベッドの上?
そして、身の前に、赤。
違った。そうだ、違ったんだ。
「大丈夫?」
この人は。
この人は、確か、あの人だ。
「京香?」
とにかく分かったことは、私はまだ元の世界に戻っていないということだ。この赤く燃えるような髪色の男は元の世界では不自然で異彩を放ったけれど、ここでこうして見るとそう不自然でもない。
「レオン?」
レオンは私の寝るベッドの近くに木製の簡素な椅子を置いてそこに腰掛けた。その顔には安堵の笑みが浮かんでいる。
「ごめんね」
何故、謝るの?
「ここはどこ?」
レオンは事情を知っていそうだったので、私はまずそれを尋ねることにした。
頭が少しずつはっきりしてきたので辺りをよく見てみると、ここはどこかの建物の一室だった。前に居たあの街は、どの建物も基本は石造りだったけれど、この建物は石造りではないようだった。
なんていうか、近代的。
「軍の、メインベース」と、レオンは言った。母親に間違いを告白する子供みたいだった。
そうか。そうか。
元凶は彼だ。
私は多分とても酷いことをされた。
彼がどんな風に申し訳ないと謝ったって私の自由を奪って意思を踏み躙って乱暴な方法でとんでもないことをしたに違いない。あの“術”とかいう得体の知れないもので私の身体に何かしたのだ。
「具合はどう? とても強い術式に触れたから、もし体調が悪くなったら直ぐに教えて。術士じゃない人間が術式に触れるのは、本当は良くないんだけど。ごめんね」
「メインベースって何? ここはどこ?」
基地ってこと?
全然説明になってないよ。
「俺は軍人なんだ。京香を引き取る為に接触した。騙してごめん」
『引き取る』?
レオンは私を心から労わるような口調だから責める言葉を口に出せない。でも明らかに彼の言っていることはおかしいし道理がない。納得できる訳がない。
レオンに指示を出した人間がいるの?
だいたい『軍』ってどういうもの?
日本で言えば自衛隊?
私には彼の言っていることが全く理解できない。
「悪いけど、全然分からないよ。そっちの都合ばっかりで公平な説明とは思えない。引き取ったって言うけどさ、私はここに来る前は誰に保護されてたって言うの?」
引き取ったって言うからには私は元々どこかに属していたことになる。
それさえ私には分からない。
「ごめん。ちゃんと時間を作って説明したいんだけど、今はタイミングが悪いんだ。これは俺の都合じゃなくて、京香の身体の為だから、お願い、少しだけ寝て、それから時間をくれないか」
レオンの髪が、黒く濁った気がした。
あんなに鮮やかだったのに。
「眠くない」
私はレオンを睨みつけた。
13歳の私に一体どれ程の迫力があったのかは分からない。
「俺は京香の身体が心配なんだよ。じゃあ、ちょっとだけ検査させて欲しい。それで大丈夫と言われたら、それから説明するよ」
「検査?」
私はさながら宇宙人に拉致された地球人の気分だった。『検査』と言われてあっさり了承する気分にはなれないし、はっきり言って何をされるか分からないので恐ろしい。頭を切開して何かを埋め込まれるとか、電波を身体に照射されるとか、身体の一部を動物に作り変えられるとか。
想像するだけで恐ろしい。
「そんなの、どうぞって、言うわけないよ」
私は上体を起こして這うようにしてレオンから距離を取った。
レオンは悲しげに眉尻を下げた。
「だったら寝て。お願いだから」
寝ている間に何かする積もりではないか?
私は首を横に振った。
「アルは? アルに会いたい」
私の言葉に、何故だか「アル?」とレオンは不思議がった。
私を『引き取った』と言うからには、彼は私のことを知っているはずだ。きっと私の瞳が黒いからとかそんな理由だろう。だとしたら、何故智仁のことを知らないのか。
一緒に暮らしていたのに。
家族なのに。
何故?
似ていないから?
「ペットか何かならここへ連れて来られるように取り計らうよ。でも『アル』が人間なら、おそらく暫く面会はできない」
「暫く?」
「暫く、長い間」
レオンは音も立てずに立ち上がった。
危ない、と思った瞬間、レオンは私の身体を抑え付けていた。それ程強い力ではないのに抵抗を許さない圧力がある。
掴まれたところが熱くなった。
何?
なんで?
「京香、ごめん」
なんで謝るの?
こんなはずじゃなかった。
私はただの入学したての大学一年生だったし灘崎の家で穏やかに暮らしていたしいつも近くに智仁とほのかと和山さんがいて時々小言を言われたけど優しくもされて将来のことを考えることも青年らしく苦悩することもあった。
月並みだけれど、人並みだけれど、私成りにやってきた。
それが何故か“こっちの世界”に飛ばされた。
突然だった。
それでも“こっち”に来てからだって私達は一生懸命やってきたし戻る術がないと分かったら“こっち”に馴染む努力もした。智仁は働いていたし私も何かしようとしていたんだ。
形にはなっていなかったかも知れない。
でも私達には希望があった。
記憶が薄れている自覚がある。身体が若返ったのだから、脳に影響があることは覚悟していた。
好きだった歌。通学路の風景。部屋に置いてあったもの。大好きだった人達。私を呼ぶ声。温かい食事の匂い。朝焼けの鮮やかな赤。月のほの白い明かり。夏の底抜けに明るい青空。冬の吸い込まれそうに輝く空の星。藤棚の柔らかく甘い香りと控えめな藤色。
それらもいつか忘れるだろう。
私には何もない。
智仁とも離れてしまって、好きではなかったけれどもミクやバイアスやラゼルとももうきっと会えない。
私には何もない。
もう嫌だ。
これ以上、奪われるのは、嫌だ。
もう悪いことはしないから、人を傷付けないようにするから、どうかお願いだから、もう何も奪わないでください。
「やだ……」
そう言って、私の目からは涙が零れた。
「眠いだろう。少し寝たら、君は必ず目覚める。その時まで、ほんの少しだけおやすみ」
レオンは私の額に手を当てた。
身体がぼーっと熱くて私はレオンのことをじっと見詰めることしかできなかった。
額も熱い。
身体があつくて、もう、なにも、かんがえられない。
あつい。
あたたかい。
ともひと。ともひと。おねがい、また、あいたい。
「エレム・ノクト。ラムール……」
最後のその言葉は、私にはほとんど聞き取れなかった。