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緒方

「あなたは幸せになりたくないみたい」
「何、それ」

生徒会役員になんてならなければよかった。そんな風に考えたことは何度もあったけれど、今が一番その時かもしれない。

生まれかわるなら真井先輩みたいな人になりたかった。

「……」

「信用されてないのかと思ってたけど違うのね。良平の気持ちと私の気持ちが違ったらどうしようなんて、私はちょっと悲しい論理だと思う」
「それでも、俺にとってはすごく、大切な、ことだよ」
「あなたは双子だから分からないのかもしれないけど、人間の考えなんてふつうは違うものなのよ」
「え」
「お互い分からないことだらけだけれど、それ以上に分かち合えたら素敵だと思う。苦しくないわけではないけれど、分からないって伝えたり、思っていることを伝えたり、そういう努力も必要なのよ、ふつうはね」
「……」
「さっきのあれは、悪い冗談だったと思うから、それはごめんなさい」
「それは、いいけど」
「私は良平を困らせたり怒らせたりするかもしれない。けど、絶望なんてして欲しくない。そんな悲しい言葉は、」

絶望っていうか、失望よ。私の場合は。

ドア越しに聞こえる声は明瞭で、真井先輩の顔までが頭に浮かぶようだった。鍵を開けておいてと言われて待っていたけれど、当の真井先輩は彼女と痴話喧嘩。

高橋先輩ならこのドアを開けて何か言うのかな。

「彼女いないって噂、嘘じゃない」

私は大きく溜め息を吐いてから大量の見積書の束を一つ取り、漸く起動したパソコンに黙々と打ち込んだ。

良平

誘われるみたいについて行った。もしくは連れて行かれたのかもしれない。

「感想は?」
「……」

朝来の無表情の中から何かを感じられるようになったつもりだったけれど、自惚れだったらしい。

感想なんて。

「何も言ってくれないの」
「いや、ごめん。おめでとう」
「これで望み通り?」
「え」
「京平くんと私が『めでたく』うまくいって」
「……」
「ごめんなさい、」

俺はそれを喜べなかった。

「ごめんなさい、冗談だったんだけれど」

京平が俺の嫌がることをしたことは、思えば一度もなかったかもしれない。俺がどれだけ邪険にしても京平がそうすることはなかった。勝手に一方的に拒絶してもまた迎え入れてくれた。

俺の為に俺を赦し受け入れ、勉強をして同じ学校に入り、同じ髪型にして時には入れ代わり、愉快に過ごして俺を安心させ、綜悟さんを愛する。嘘は優しさに溢れ残酷な程に与え続け見返りは求めず。まるで理想的。

朝来は俺を苦しめる。

「俺は君とやり直したかった」
「知ってる」
「君のことが好きだから。君ともっとたくさんのことを一緒に経験して、喜びも感動も、君とだったらきっとすごく気分がいいんだろうなって」
「……」
「だからもっと君と同じ時間を過ごしたい」
「……」
「ねえ、どうして俺が別れるしかないって思うか分かった?」
「…同じ時間を過ごせないから?」
「絶望するからだよ」
「絶望?」
「同じように愛せないから」
「……」
「俺の愛し方と君の愛し方が1ミリでも違ってたらお互いすごく辛いと思うんだ」

俺は朝来のすべてが欲しい。どんなものでもどんなことでも朝来を知る度に近付ける気がするから。

朝来は役員室の前で俺にキスをした。

朝来

多目的教室は6部屋あって選択科目でクラスを分ける時や視聴覚設備を使いたい時に利用できる。希望の教室や時間を用紙に記入し担当教員の印があれば大概は許可される。しかし科学や地歴等には専用の教室があり行事の時に物置になること以外にはあまり使用されず、申請がないのに使っていると教師に見付かれば無条件に追い出されるというおまけ付きでどの部屋にもほとんど人はいない。グループで集まる場所にするにはリスクが大きいから。

私や京平くんはこの多目的教室をよく無断占有する。

良平は京平くんとのどこまでに嫉妬しているのだろうか。本当に良平くんに向けるような気持ちで私がいると思ってるのだろうか。

良平は身長が高いから、ただ速足なだけに見えても私が追い付くには少し駆けなければいけなかった。

私に気付いたらすぐに立ち止まったけれど。

「どうしたの?」

良平は限りなく優しく発音して、目が合っても私を見てくれている気のしない目をして言う。

「……報告しなきゃって思って」
「いいニュースだと良いんだけどね」
「どうかしら」
「……」
「京平くんと付き合うことになったの」
「……」
「感想は?」
「……」

良平は苦虫を噛み潰したようだった。

「生徒会室に向かうんでしょう?」
「…ああ、うん」
「送ってあげるわ」
「いいよ、そんなこと君が、」

その言葉に構わず歩き始めると丁度横切ったところで良平も歩き出したようだった。

「それで、感想は?」

京平

朝来の腕を掴んでいた掌にじんわりと汗が滲む。

良平のものを奪おうとしたことは一度もない。良平は俺と同じだから羨ましいとか妬ましいとかいう感情とは無縁だ。良平の持っているものは俺も持っていて、俺が手に入れたものは良平も手に入れる。

俺たちにとって特別な存在とはなんだ。

良平の笑顔とも呼べないような口角を引き攣らせるだけの表情を見て冴が2人で共有できないほとんど唯一のものなのだとやっと分かった。いや、分かっていたつもりだっただけだと分からされた。

俺たちは恋人だって共有してきた。それは精神的にも肉体的な部分においてすらも。

「りょー、……あ、生徒会は?」
「これから」
「そうか」
「うん、じゃあ」

ひらりと腕の中から冴が抜け出た。

俺は、例えば綜悟さんが良平と結婚しても綜悟さんが良平に殺されてもきっとなんとも思わない。俺の独占欲や執着は良平ただ一人で十分に満たされてしまう。良平だってそうだったんだ。俺に良平以外の特別ができたら必ず良平は死ぬし俺はその人を殺す。お互いだけがお互いの特別であって、その他のものはどんなものでも共有できた。

良平と京平という人間を共有してきた。

特別ということは共有できないということだった。

俺は俺の人生で唯一無二の存在に置いていかれ、その良平にとって初めて特別な存在となった冴の邪魔物になり、自由のあまりの自由さにまごつき仕舞いにはそれも超えて愉快な気持ちさえ湧いてくる。俺が死ねば良平も死ぬものだと思っていたけれど、そうとも限らないのかもしれない。

2人の出て行った後の教室は厭に静かで清々しい。広くて自由で笑ってしまう。

身体が軋む程強く伸びをしたらポキンと骨が鳴った。それは薄っぺらな響きだったけれど長い間ずれていた何かが噛み合ったみたいな心地好さがあった。

からりとして身体も軽い。

良いことを知った気がして俺は一人綻んだ。

朝来

好きと言う程に良平は離れていく。京平くんは嫌という程に近付いてくるのにね。

「なんで別れんの」

京平くんが真剣な顔で話していてどうしようもないくらいの違和感が込み上げた。微動だにせず私を見つめるから笑いそうになる。

京平くんは良平と似ていて全く違う。2人は違うものを無理にすり合わせようとしているようで、同じものを峻別しているようで、とにかくいつも凸凹としていると思う。進むべき道だけが凸凹で、そのくせ周囲は見渡す限り気分が悪くなるほどの真っ平。

「別れたいって深刻そうに言われて、私は引き留めるような人間じゃないの」
「好きじゃないの」
「好きよ」
「……りょーが誰と付き合っててもいいんだけどさ、冴はこれまでで一番美人なんだよ」
「ありがとう。でも何それ」
「別れたらもったいないと思うんだよ」

目にぐっと力を込めてから、弾けるように笑った。お互いに。

「あはははは!!真剣に聞くな!」
「私がどれだけ笑いを堪えたと思ってるの」
「俺の本格派演技!すごくねえ!?俺役者になれる!」

京平くんを叩いて諌めると、仕返しとばかりに頭を上から押さえ付けられる。最近はこんな風にふざけることも少なくて思わず盛り上がっていると突然ドアが開いて、ちょっと不気味に笑う良平がそこにいた。

「……」

今回ばかりは京平くんも押し黙った。

京平

良平と同じ髪型にしたのはどうしてだっけ。

「お前らってほんとそっくりだよな」
「双子だからなあ」
「そうじゃなくてさ、髪型まで一緒じゃん、お前の場合。双子って仲悪いもんかと思ってたわ」

異常なのは分かってる。

「仲良しに見えますぅ?」
「え、仲悪いの?」
「良いよ」
「なんだよ」

良平がいない世界なら生きる意味がない。

「だって兄弟じゃん。反抗期でもねえし、んな反発し合っても仕方ないだろ」
「まあねー」

嫉妬したことは一度もない。良平は俺と同じだからその必要もない。影と言うには立体的過ぎるし、そういうことを考えると俺は『予備』という言葉を思い出すのだ。

良平がストレートだったってことは、俺もそうなんだろうなあ。友人と会話しながらそんなことを思った。

「俺たちアレだから。近親相姦」

高橋

役員室を出たところで夏帆がすごい勢いでやってきた。手にはけっこうな厚みになっている書類を持っていて、それを役員室に置くとまだ涼しいのに熱そうにしていた。

「すみません、遅くなって…」
良平「それは全然いいけど、大丈夫?」
「はい!全クラス回れたので、中等部まで行ってしまって」

夏帆は申し訳なさそうにはにかんだ。

夏帆は可愛い。俺も顔は可愛いと言われたことがあるしピアノが弾けるからかビジュアル系らしいロックバンドに誘われたこともある。でも夏帆はそういうことではなく、もっと違う意味で可愛い。俺が夏帆を人知れず可愛がっていることはやはり誰も知らないのだろうけれど、こうして一緒に仕事をするのもあと半年かと思うと寂しくもある。

神保「おかげでこっちのだけでも放課後にはまとめられますね」
「はい」
「髪、ボサボサ」

俺が夏帆の髪を撫でつけると「ありがとうございます」と答えた。望んだ反応がないのは彼女が俺を意識していない証拠であって、俺を受け入れているのとは違う。

いつもは無表情だけれど彼氏彼女の前では無防備だったりするのだろうか。

2年と別れて良平と歩いていると、「柳はかわいいね」と言われた。

「あんなに健気に仕事されるとこっちもサボれなくなる」
「サボるつもりないくせに」
「まあ、なんていうか、気持ちの問題で」
「可愛い?」
「そうだね」
「特別扱いしてるようには見えないけど」
「俺は、身内はいつも特別扱いしてるよ。怜志だって特別だし、かわいい後輩は尚更だろうね」
「はは」

良平は素直で嘘がなくていい。彼が『身内』以外にどう接するかは分からないけれど、知らなくて良い気がした。

「そういうこと言うから彼女にフラれるんだよ」

口先から零れただけの言葉は良平の動きを止める。

「ごめん。悪い冗談だった」

良平

「良平」
「なに?」
「……朝、いつも早いの?」
「ふつうだと思うけど」
「噂になってるよ」
「何が?」
「……」
「え、ごめん。何?」
「いやまだ何も言ってませんけど」
「そう」
「神保は知ってる?」
神保「……少しは」
「悪い噂なら聞きたくないなあ」
「悪いってか、まあ、厄介って感じ?」
「なにそれ」

素知らぬ顔でいたけれど、喉の奥でくつりと笑った。その言い得て妙な表現を心の中で繰り返す。厄介。

「朝に、朝早く生徒会室行くと真井良平がいるって」
「……」
「うちのクラスの女の子なんて恥じらいもなく真井くん優しくてまた惚れたって騒いでたよ」
「……」

気付いていたけれど、そこまでとも思っていなかった。毎朝のように誰かが訪ねてきて、それは友達になりたかったという人から2年間の片思いを告げる人まで来るから確かに厄介なのだった。

厄介。

神保「…ちゃんと、断らないからですよ…」
「何、良平って告白されたらキープしちゃう人だったの?」
「断ってるよ」
神保「そうじゃなくて、……恋人がいるって言えばいいのに…」
「彼女いるの!?」
「……」
「それは言わない方が悪いよー」

怜志がさも楽しげに笑った。

俺は朝来とどうなるのだろうか。付き合って別れて付き合って別れて。好きだというだけなのにどうして別れてしまうのだろう。

不安だから別れるわけではない。そこには確かに距離や壁があって、それが俺には乗り越えられるものではないと絶望するから仕方ないのだ。付き合うことこそが苦しいと思うのだから。

俺はあの時から一歩足りとも進んでいない。11歳のまま止まっている。

「複雑なんだ」

俺の言葉に2人は作業を止めて顔を上げる。怜志は笑いこそしないものの、まだその顔には笑顔を湛えている。

「ごめん。その、話せることも少なくて」

神保は慌てて謝罪し怜志は黙って俺を見た。女の子たちの羨む怜志の大きな目には邪気がなく、俺は自分のしていることの不毛さを思い知った。

朝来に会おう。そしてやり直そう。

幾度目かの決意を立てて2人を見ると、タイミングよく昼休みの終了を伝えるチャイムが鳴った。

良平

俺は朝一番に役員室を開けた。

鍵のある職員室にはまだ2人しか職員がいなくて「あまり無理するなよ」とお決まりの労いを受けた。透かさず御礼に加えて「お疲れ様です」とも返したけれど、それはこの時間に登校するのは辛いと思っている先生方の心の裏返しなのかなと穿ってみてから、それはそうだろうなあと苦笑する。

俺は先生方とは仲良くない。悪くもないけれど。

歴代の生徒会長と比しても断トツで教師を頼らないヤツだと言われたこともある。

だいたい俺は大人が好きではなくて教師と馴れ合う自分を想像するのも嫌だった。あだ名で呼ぶのも呼ばれるのも冷笑もので、その点は昔から京平と見解が一致していた。

だから生徒会役員室で生徒だけでいるのは落ち着く。

早速仕事に取り掛かってから暫くした時に突然声を掛けられた。あまりに驚いて手元の書類を床に落としてしまった。

「すみません!驚いて…」

少女が2人、立っていた。中等部とも高等部とも付かない顔立ちだ。

2人が手伝おうとするのを制止して顔を上げる。

「生徒会にご用ですか」
「……」
「……ゆっくりお話した方が宜しいですか…?」

逼迫した表情に嫌な予感がする。第一こんな早朝から何を告げに来たのだろう。手早く書類を拾うと適当に机に乗せ、応接室の扉を開けた。

高等部の役員室はとても広く、普通教室2つ分はある。しかし執務机のあるスペースは3分の1以下で、あとは小綺麗な会議室といくつもの資料用の古い棚があるだけだ。会議室は小さいけれどちゃんとした壁で仕切られ扉も付いていて中の声は思うより聞こえない。ただ資料棚か執務机のある場所のどちらかを通らなければ会議室には行けず、俺たちはそこを生徒会役員用であるという意味で応接室と呼んでいた。

しかし彼女たちは応接室には入ろうとせず、その場に立ち竦むのだった。

本当に嫌な予感がする。

「優実」
「…あ、あの、」

一方に促される形で優実と呼ばれた女の子が話し始める。2年生の高村さんという子らしいが、やはり中等部か高等部かは分からなかった。

促した方の女の子は「私は失礼します」と退室する。

それで漸く分かった。なんだと安心するわけにもいかないけれど。

「あの、先輩にお聞きしたいことがあって、」
「……」
「先輩、彼女できたんですか」

衝撃のあまり作り笑顔を忘れた。

「はっきり教えてください!先輩、彼女できたって噂になってるんです」
「……」
「先輩ずっと忙しそうで。いつも誰かといるし、機会なくて、こんな時間に…」

勢いなのか女子の力なのか押しが強くてどう切り返せば良いのか全く分からなかった。

告白されたことはある。直接当事者によるか間接的な手段によるかのどちらかなら。しかしこれは、なんだろう。そもそもこれは告白なのか。単に噂の真相を知れば満足だとは思えないけれど。

混乱というよりは呆気に取られていた。

「色んな噂があってほんとのことなんて先輩に聞かなきゃ分からないし。先輩、」
「ごめんね。その、噂のことは俺はよく分からないんだ。いつのものなのか、誰とのことなのか、とか」
「……今です」
「俺には覚えがなくて、」

嘘だ。

「じゃあ、今、彼女いますか」
「いいえ」
「え」

これは本当。

「ほんとにいないんですか!?」
「うん」
「……あの、私、」
「……」
「先輩のこと好きです」

ああ、ごめんね。

生徒会長になってからこういうことが増えた。目立つのは分かるけれど、知らない人から突然告白されても俺としては困る。京平は喜んでいたけれど。

『友達に自慢できる』

彼女にそう言われた時、俺は悲しかった。

どうして俺の個人的なことを知ろうとするのだろう。俺のプライベートな写真や情報が売り買いされているのは知っている。そういう対象にされているのは俺だけではないし、あまり被害者振るのも間違っているけれど、それでも嫌なこともある。

朝来に迷惑が掛かったら、嫌だ。

「俺ね、彼女はいないけど、彼女にしたいって思ってる人はいるんだ」
「……それって…」
「でもこれは片思いだから、人にはあまり言わないでね」
「……」
「好きって言ってもらえてすごく嬉しい。けど高村さんとは付き合えない。ごめんね」

高村さんは、顔を真っ赤にして帰っていった。

良平

問題が困難である程、得られるものも大きい?俺は違うと思うな。

生徒会というのは1年中を通して、それは少しも誇張しているわけではなく、忙しいと思う。俺が人に仕事を振り分けるのが下手なのだけれど、日々刻々と予定が詰められていくスケジュール帳を見ていると自分の時間が無為に削られているようで、それは自分自身の何かを消耗しているようで滅入ることもある。

摩耗しても取り替えられるならいいのにね。

しかしそういう時は単に仕事が上手く運んでいないというだけで、問題が解決してしまえば、あるいは繁忙期を過ぎてしまえば気持ちも晴れたりする。俺は単純だ。

とは言え自由な京平を羨むことも多い。

生徒会の役員会はこの学校で唯一中等部と高等部で組織が別になっている。一貫教育という名の元にあらゆる部活動や委員会は合同になっていて、校舎も廊下を渡ってすぐに移動できるし、だからこそ生徒会は特別だと意識せざるを得ない。

意識されていることを、意識せざるを得ない。

立候補した時のことは忘れてしまったけれど、必ずしも積極的に手を挙げたわけではなかった。

「良平、ちゃんと休んでね」
「ありがとう」
「俺もう帰るけど、良平もちゃんと切り上げて帰るんだよ?」
「はは、分かってる」

分かってるけどね。

怜志とは生徒会で知り合った。俺と違って中等部の時から生徒会役員なので頼りになる。

勿論生徒会役員になって良かったこともある。色んな人と知り合えたこと。1000人を越える生徒に認めてもらえたのだという感慨。自分が学校を動かしているという自負や達成感。どれも得難い。

俺は会長用の執務机に項垂れた。

辞表を置いて帰ったらどうなるのだろうか。夏帆の本気で怒った顔が目に浮かび、くすりと笑う。それは、そんなことは、大変なことになるだけだ。

鼻先にある白紙の書類が目に入った。

ああ、これは仕方のないことだ。疲れては良いアイデアも出ない。

無理に割り切って明日はこれを朝一番に仕上げようと思った。特別であることは嫌いではない。予備でも従僕でもない自分。綜悟さんの代わりになれる自分。そう思って起き上がりゆっくり伸びをすると、仕事に追われるのも悪くないと思った。

悪くない。

五十嵐と宇津木

「始まりの人は必ずいます。君が一人目であるように、彼らが連綿とした流れのひとつの中継点であるとは限りません」
「……」
「私が呼んだのは4人だけなんですよ」
「そんなの、」
「4人です」
「……」
「押し付けられただけの正義をその役割の義務によって振り翳すロール。強いられて自らを戒律とする善悪二者択一の裁きを下すルール。そして二人の罪人。極めてシンプルな構造だと思いませんか」

「あなたは酷いことをしています」
「そうだね。でも私も膨張していった全体のひとつでしかないんですよ。君もね」
「私は違います!」
「違わないさ。君は望んで辿り着いた志願者。13人目は、君です」
「ふざけないで下さい!」
「その怒りこそが志願者フリアの証です。どうやって答えを見付けたのか聞きたいところですが、それは我慢しておきましょう」

「……あなたは、どうするつもりなんだ」
「分かりませんか」
「……」
「人間の欲望によって在るべくして生まれた罪人。人間の理性によって望まれて生まれた裁く者。人間の理想によって自然発生的に生まれた正義。私は知りたいのです、誰が勝つのか」
「……」
「罪人に味方するのは闇の売人と闇の救済人。しかし彼らは罪人を増やすだけです。裁く者を支えるのは癒す者と刻む者。しかし彼らは罪人と分かり合えません。正義を守るのは代書と傍観。しかし彼らは誰ともかかわってはならない。すべてと結びすべてを見放す放擲人、助ける為にすべてを裏切る内通者、そして13人目が、君です。そのすべてに向けられた怒りはなんの為にあるのですか?」
「……今ので少し分かりました」
「……」

「あなたの筋書きには乗りません」

五十嵐 楓

いがらし かえで

物理化学科教師

放擲人
失望
ヒューマン

成澤

慧弥とテニスをした帰り道、左藤に会った。

「あ」
「あ」

左藤はけっこう可愛い顔で女子には年上からも年下からも人気があった。3つ上のお兄さんは左藤と似ていて、左藤がお兄さんと似ていると表現すべきなのかもしれないけれど、この2人の仲が良いことは2人の人気に拍車をかけていたと思う。今もそのそっくり兄弟は仲良く連れ立って歩いていた。

左藤は中学に上がる時に退学した秀才で、俺たちの代では抜群に有名だ。

しかし慧弥はこの2人が誰か全く認識していないらしく、思わず声を出してしまった左藤と俺にはなんとも微妙な空気が流れてしまった。左藤は慧弥が転校する前に退学しているので慧弥のことは知らないだろうと思ったけれど、残念ながら左藤が反応したのは慧弥に対してらしかった。

誰に反応したのかと、探るような視線を向けられ挨拶に窮する。

「こんにちは」

口火を切ったのは慧弥だった。「知り合い?」と俺に小さく尋ねる。

「俺のことは知らないかも。小学校が同じだと思うんだけど、左藤くんだよね?」
「あ、うん。いや、思い出した! トモでしょ!」
「うわあ、ありがとう」
「トモ転入生で目立ってたから! あ、兄貴、慶明の時の友達」
「こんにちは」

簡単に挨拶をし合った。困惑が消えて笑顔になるとやはり可愛らしい。人懐っこい顔なのだ。

慧弥は営業スマイルで事務的に挨拶しただけなので左藤のことは本当に憶えていないらしいし思い出そうともしていないらしい。

「あの、芳賀くん、俺のこと分かんない…?」
「ごめん、小学校の時のことってあまり憶えていないんだ」
「……それはそうなんだけど、あの、俺、いま七中にいるんだけど」
「え」
「たぶん同じ学校っていうか確実に同じ学校っていうか」
「ほんと? ごめん」

驚いたのは俺だ。

「じゃあ、慶明から転出した2人は同じ中学に行ってたってこと?」

俺はその偶然に純粋に驚き、拓海さんは弟の友達との再開を喜び、慧弥は過去の自分を知る現在の同窓生に困惑し、左藤は慧弥が慶明からの転入生だったことに衝撃を受けていた。

公園のベンチに場所を移しゆっくり話した。

「芳賀くんが慶明にいたなんて知らなかった」
「うん、僕も七中に慶明生がいたなんて知らなかった」

拓海さんと左藤は公園に向かう道でもずっと話していた。

「僕は芳賀くんのこと知ってたのになあ。弟のことは分からないけど、芳賀くん退学しちゃって良くない噂もあったし、こんな身近にいたんだね」

拓海さんの言葉は俺も相槌を打つ。

「左藤も有名ですよ。身体が悪くて療養しに行ってるなんて噂もあったんですから」
「あはは、鷹水は丈夫だよ!」

拓海さんも含めて驚き半分嬉しさ半分で盛り上がり今度必ず遊ぼうと約束をした。元慶明生という有名人と仲良くなれたことがどこか誇らしく俺はこの奇妙な関係を歓迎したし、同じ高校を志望していると分かって左藤は慧弥を特別親しく感じたようだった。

世間は狭い。

成澤と芳賀と左藤

知彦は小6の夏前に引っ越してきた。父親の仕事の関係でアメリカにいて、向こうでは公立の学校に通っていた。アメリカの高校に進学しようと思っている。父親はオックスフォード卒だから知彦にも入ってほしいと思ってるけど、知彦はそこまで考えてない。鷹水のことは知っている。

慧弥は中1の夏明けに転校。慶明にいたことは一部の教師しか知らない。慶明より偏差値高い高校に行くつもりだけどそれを両親に言わないから慶明に戻れと言われている。

鷹水は中学から公立に進学。どこでもうまく立ち回る子。

慧弥は鷹水を知らないけど、鷹水は慧弥を知っている。むしろ成績がいいから七中では学校中が2人を知っている。慧弥が他人を気にしてないだけ。慶明でも中退した珍しい人という意味で有名。この2人が同じ中学に行ったことまでは知られていない。

七中は全学年3クラス。都心にあって中高層のビルが隣接している。

慶明は小学校から大学までのエスカレーターで偏差値もかなり高いけど、だからこそ国立大への進学率は低め。小中大で入試があって、小学校3クラス中学高校8クラスになっている。大学は医学部工学部から文学部法学部まであるユニバーシティ。

ジョシュ

教官やクラスメイトは俺が誰よりもウェンスに受け入れられた人間であると思っているけれど、実際はそんなことはない。俺はむしろ誰よりも多く拒否されたのだ。

どうしてもあと一歩を踏み出せない。

ウェンスは自分から人に近付こうとしない。それはこの寄宿舎で生活してきた10年間で例外なくそうなのだ。食事すら拒否して自分の価値を否定して。そうして俺が近付くのを時々許すのだ。

生きる価値とは、お前が生まれた時から計り知れない膨大なものだ。分かるか。

分からないよな。俺もだよ。

綺麗事だけ並べてウェンスを説教できたらいいのに。俺は疑っている。価値のないものに労力を注ぎ込むことを、ひと一人の存在を証すことを、世界に訪れる平安を、愛を。だから足踏みするんだ。

ウェンスに対する気持ちが、純粋な愛ならば、せめて、いいのに。

ノイウェンス ハウゼン/距離

恥ずかしい。

ジョシュは人との距離感覚が鋭い。僕が彼を拒絶したことがないのは、彼がある一線を越えて僕に近付こうとしないからだ。彼は薄い紙切れ一枚の厚みも感じ取ることができる。しかし、だからと自分から何も言わないのに相手に理解を求め、それが裏切られれば落胆するなんて幼稚だ。

ジョシュは僕の距離感を察するわけじゃない。彼自身の距離感で僕から離れていく。

僕は世界中に甘えているのだ。

ジョシュ

ウェンスはいつものように無表情で、いつものように抑揚なく話した。

「ジョシュは誰とでも仲良くできるじゃないか」

それがどういう意味なのか分からなくて聞き返してしまった。ウェンスは表情を崩さずに目を伏せる。それは女性的で、しかし冷徹に俺を圧倒する。あの頃を思い出させる。

「俺が軽薄だってこと?」

今浮かべている笑顔は確かに軽薄だなと内心に思いながら、返答をした。ウェンスの手元にある本が風でぺらぺらと捲れる。

「そんなこと思ってないよ」
「ありがとう」
「……」
「でも、挨拶する人が多いことと、その人の友人が多いこととは違うと思うな」
「……」
「俺は友人はウェンスだけでいいって思ってる」

ウェンスは俄かに顔を上げて俺を見た。

「僕は、……」

そしてやや言い淀んでから、「君を嫉んだつもりでは」と続けた。仄かに紅潮させて言うから、俺はようやく自分の勘違いに気付いた。ウェンスはまた目を伏せて本が捲れないよう手で抑え、その指先に少し力が込められているのが分かる。

「さっきの、だったらどういうこと?」
「……」
「俺は誰とでも仲良くできるなんて、そんなことないよ」
「でも、僕よりは、社交的だと思うよ」
「つまり?」
「……」

ウェンスは小さな声で謝ってから本を閉じた。真意はけっきょく分からない。

ウェンスに関して分かることは少しだけだ。病んでいるに相応しい病的な肌の白さは近付き難い印象を与えるのに、当人はこんなにも人を求めている。それが俺には愛しい。

本の表紙を撫でると、ウェンスは静かに席を立った。

ノイウェンス ハウゼン/距離

「お昼、それだけ?」

突然間近で声がしたからたじろいだ。曖昧に頷くと不満そうに眉を顰める。

「体調悪い?大丈夫?」
「……平気」
「ノイウェンスって少食?」
「……」

ピノのことは好きだし誤解も解けてお互いの距離は縮まった。それでもクラスの人気者どころか寄宿舎の伝説ともなっている人間を目前にすると言葉に詰まってしまう。他の多くの人のように、気軽にお喋りすることは僕にはできそうになかった。

「ウェンス」

聞き慣れた声のした方へ振り向くと不機嫌そうなジョシュがいた。

「無理すんなよ」

不機嫌そうな顔で優しい言葉を吐く。そしてジョシュは、お前も、と続けてピノを見据えた。

「事情も知らないのに、しつこくするなよ」
「僕は別に」
「ウェンスに言ってない!」
「……」
「すみません。体調が悪いのかと思ったので」

ピノは丁寧な笑顔で答え、かつて寄宿舎中を傅かせた時のことを思い出させた。そして迷いなく立ち去った。

嘘のピノは、嫌だ。

それからはあまりピノと話す機会がなくなってしまった。ジョシュが2人でいるのを、なんと言うか、妨げているらしかった。2人の間で何かあったのだろうということも感じたけれど、彼が僕の嫌がることを理由もなくする人間ではないことは知っているから、何も言えなかった。それに、ピノと話せないのは、僕から話し掛けられないからなのだ。

僕が悪い。

そうして気付かされたのは、僕はもっとピノと仲良くなりたいという、単純な気持ちだった。

成澤

動揺しない訳がない。

「へえ、おめでとう」

それしか言葉が見付からなくて、その言葉の少ないことを慧弥が喜んだことに直ぐには気付かなかった。顔を逸らすわけにはいかなくて、なるべく自然な笑顔を心掛けて慧弥を見ると彼は心底安心するように笑んでいたから漸く気付いたのだ。

慧弥はいつも俺の気持ちを分かってくれるけれど、俺には慧弥の気持ちが分からないことが多かった。

「トモって同性愛とか嫌いかと思ってたよ」
「嫌いとか、好きとか、俺ってあんまないから」

自分でもそうと分かるような薄っぺらな表情で言う。

「長続きするといいね」
「……ありがとう」

そして「相手はどういう人なのか」と尋ねようとして、止めた。聞きたくない。

慧弥は大切な友人で、傷付きやすい彼をそれでも守ってきたのだという矜持が俺にはある。俺だけが歪んだ慧弥をも愛してあげられる。孤立していた小学生の時の慧弥を、俺だけが受け入れた。

慧弥の細い腰を一瞥する。こいつは、所謂、弟役になるのだろうか。

俺には慧弥が同性愛者だという事実が上手く飲み下せていなかった。

「あのさ、仕様のないことで悪いけど、いい?」
「うん」
「おじさんとおばさんには言わない方が良いと思う」
「言わないよ」
「そう、ごめんね」
「て言うより、あの人たちには男とか女とか関係ないから。どっちにしても僕が好きになるようなひとを気に入ることなんてないと思う。トモが謝るなよ」
「そうかな」
「トモはいつも庇うよね」
「ご両親を?」
「うん。親も、一族も、そういう人たち全体を」
「誰が好きとか嫌いとか思えないんだよ、俺。みんなどこか正しいんだろう」

慧弥は整った顔を歪めて縋るような目を向ける。

「僕はトモのことが好きだよ」

瞬間、俺は理解した。

幼い言い草を口にし泣き出しそうな表情の慧弥を抱き寄せ、「俺だって慧弥がすごく大切だよ」と囁く。慧弥は暫くは黙ってされるがままだったけれど、やがて小さな声で「ありがとう」と言った。身体を離すと変わらず泣きそうな顔をしていた。

「慧弥が誰と付き合ってても俺はお前を見放さないよ。その恋人の次に近いところで支えててあげる。だから付き合っても別れても、苦しくて疲れたら俺のところにおいで」

嘘のない笑顔で慧弥を見た。

子どもが強請るみたいに両手を伸ばすから、俺はまた慧弥を抱き寄せた。

ルカ

部屋で寝転んでいると音を押し殺すような気配に嫌な予感がして窓から外に飛び降りた。俺たちの部屋は3階だったけれど雨樋を利用したら大した衝撃もなく無事に逃げられた。

ルーセンはここ暫く外出していて帰っていないので、へまをしたのはきっと俺だ。誰かに付けられていたらしい。

仏頂面が頭に浮かぶ。

ルーセンが帰ってくるまであと1週間はかかるだろうから、それまではどこかに隠れていなければならない。

少し離れたところでやっと安心して立ち止まり息を整える。

「捕まえた」

愛おしむように控えめに囁かれたその声に反して、俺の腕はとても強い力で掴まれていた。

「……、」

それはクラリッツだった。

「憶えていますか。セシカ、私です、クラリッツです」

憶えているよ。

忘れるわけがない。

クラリッツは頬を上気させて、肩を上下させて、髪を乱して、昔と何も変わらない整った顔を少し傾げて、俺の腕に爪を食い込ませる。血でも出るのではないかという握力に、このクラリッツという男のことを思い出さずにいられない。

無表情の中に見えたのは、深い愛情だ。

俺は、だから、無表情の中に拒絶を込めた。

「知らない。あんた誰」

クラリッツはそれでも破顔した。
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