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卯月/春霞

不安と恐怖は朝やって来る。

私は朝起きると堪らなく不安になる。それは漠然とした、ぼんやりとした、曖昧で居所のない不安だ。

不安に支配される朝、恐怖に支配される朝、私は牡丹さんの「おはよう」という言葉を思い浮かべて、あやめの明るい笑顔を思い出す。あやめが私を呼ぶ声が聞こえる気がするのだ。

あやめが居てくれて良かった。

高校生活にはこれまで知らなかったことがたくさんある。初めて授業の予習をしたり、大学受験を意識したカリキュラムに関心したりもした。あやめのような友達ができて、陽平君とメールでやり取りもした。

けれども、それでも、私の高校生活がきらめくことはなかった。

私の高校生活は薄暗い。

私の高校生活を唯一明るくさせるもの、それがあやめだ。

学校の存在意義が私には重苦しくて、もしあやめがいなければ私はとうに学校を辞めていたに違いない。それは牡丹さんとの約束を破ることさえ厭わないくらいだっただろう。

あやめが居てくれて本当に良かった。

学校に居る間、私は時間が刻々と過ぎていくことの当然を再認識する。

時間は過ぎる。

時間は進む。

時間は止まらないし私を置いて行ったりしない。

私は、教室の壁に掛けられた古臭い時計の秒針が止まらず動くのを見て、早く全てが終わってしまえ、と心の底から願っている。家に帰る頃には私はおばあちゃんになっていて、一人でそっと息を引き取る。そういう妄想に取り憑かれている。




【春霞】




入学してから一週間、私はまだ一度も仮入部をしていなかった。ちょっとは考えたのだけれど、一歩踏み出せないでいる。

「今日はね、放送部に行くんだ!」

あやめが言った。それはおそらく「一緒にどう?」ということを意味しただろうけれど、私はどうしてもその気になれなかった。

仮入部が限られた期間にしかできないことは知っている。ゴールデンウィークまでには正式に入部届を提出する必要があるし、クラスメイトの何人かは既に入部届を提出していると聞いた。

焦りが無い訳ではない。

けれども心を突き動かして一歩踏み出すだけの高揚も得られない。

「いい部活だといいね」

私が答えるとあやめは幾分寂しそうな顔をしてから「ありがとう」と言って教室を出て行った。

私はカバンの中から生徒手帳を出した。

生徒手帳にはこの学校にある様々な部活動が列挙されている。あやめの言う放送部ももちろんある。

目を引くのは文学部。

あやめが『一番』と言っていた。運動はしなくていいだろうし、活動も少なそうだし、部員も多くないだろうし。もしあやめが文学部に入ってくれたら、私は彼女と一緒に過ごせる。

それなら。

他の部活よりはまし、かもしれない。

私はさっそく教室を出て文学部の活動に出ようと思った。思ったけれども、足は動かなかった。

「(活動場所はどこかしら?)」

私はとりあえず図書館に向かうことにした。

文学部といえば文学。文学といえば図書館。図書館へ行けば文学部の活動に近付ける可能性が僅かだろうけれども存在する。

図書館はたしか、向こうの方だ。

私は勘に任せて図書館に向かうことにした。

学校は閉塞的で閉ざされた小さな一つの社会だけれど、それで目当ての部活動に出会えるほど小さいものではないらしい。私は目の前にある図書館を見上げて自分の行動の無意味さを自覚した。

私はけっきょく、図書館で本を読んで、それだけで家に帰ることにした。

図書館には好きな作家の小説がたくさんあった。

最低な私の一日がそれで少しは良いものになっただろう。牡丹さんの家から一歩も外へ出なかった場合に、少しは近付けただろう。

金曜日の放課後、黄昏、世界は沈む。

地平の向こう、ビルの谷間、人間の列、白い月と赤い星、車のエンジン、言葉の海、霞んだ景色のその向こうに、世界は沈む。

そして淀みの中から何かが湧いてくる。

息苦しくて、切ない焦燥感と、無性に愛しい何か。

窓の向こうにそれがある。

消え去りたいのにそれができないことを思い知る朝に比べて、夕方の鬱屈には希望がある。何処かへ行けるような、本当に消えてしまえるような希望がある。

世界が消えて、私も消える。

私もこのまま、沈んでしまいたい、と思った時、肩を叩かれた。振り返ると藤瑚先輩がいた。冷たい目で私を見下ろしていた。

「こんにちは」
「あ、はい」

藤瑚先輩は「急にごめんね」と言って笑った。

その笑顔も、私には何処か冷たく感じる。この人は私のことが好きではない、という感じがするのだ。言葉にはしづらいけれど、冷たく鋭い目線が体に刺さる感じがする。

「土曜日のことで連絡したくて、ちょうど探してたんだ。連絡先交換しなかったから、もう諦めようかって思ってた」

そう言えば、花見をする場所も時間も分からない。

「申し訳ありません」

私が謝罪すると、藤瑚先輩は「君は悪くないけど」と断った。そう返す言葉の一つひとつにも冷酷な感情しか感じられない。牡丹さんが同じことを言ったら全く違って聞こえただろう。

牡丹さんと私の家に帰りたい。

心からそう願った。

暗くて重い私の心が、汚く濁って見通しの悪い私の未来が、牡丹さんという存在を思い浮かべるだけで明るく軽くなっていく。そのことが私の救いだ。笑ってくれるところを想像して、声を掛けてくれるところを想像して、私はそれで少し持ち直す。

「連絡先、メールでいいですか」

私が尋ねると藤瑚先輩は「うん」と頷いてスマートフォンを差し出した。

その画面にはQRコードが表示されていた。

「(なにかしら、これ)」

なんと言っていいのかも分からず、私は藤瑚先輩を見た。彼は然も煩わしいと言わんばかりの表情で私を見返した。眼鏡の奥の目が冷たい。

「ラインやってる?」

ライン?

「分かりません」

藤瑚先輩は「何それ」と呟いた。

『何それ』?

それは私の台詞だ。

花見をするのに、こんな風に蔑まれて、うっとうしがられて、顰めっ面されて、私だって不快な気分になる。連絡先を交換するだけのことなのに。なんで。どうして。

私には分からない。

「梅香ちゃんって家どこ? 電車使ってる?」
「え」
「言いたくなければいいけど」
「あの、いえ。最寄りは広尾です」
「日比谷線だよね。じゃあ広尾の改札に朝10時に来て。迎えに行くから」

え?

藤瑚先輩は「30分以上遅刻したら置いて行くから」と言って、その場を立ち去ってしまった。

私には藤瑚先輩の考えていることが全く分からない。牡丹さんとは余りに違う。あやめとは余りに違う。目が合った時に少し微笑む感じとか、様子を窺う時の探るような不安そうな目とか、そういう言葉にしないところでコミュニケーションを取れたらいいのに。藤瑚先輩はただただ冷たい。

私は取り残されて、立ち尽くした。

嫌だな。

春に浮かれた世界は嫌いだ。

春は風が気持ちいいから好き。春は桜が咲くから好き。春は不思議な形の雲を見掛けるから好き。春の早朝、静かで穏やかで少し冷たい空気が好き。鳥のさえずり、虫の音、風が吹いて木々が揺れて花の匂いを運ぶ春。

人間の居ない春はなんて素晴らしいものか。

春に浮かれた人間の世界は、なんて不愉快なものか。

私は重い足取りで学校を後にして、近所にある桜の並木道を通って帰った。並木道沿いにある小道とベンチには大学生らしき人や会社員らしき人がたくさん居た。

ああ、そうか。

今日は金曜日だもの。

桜は満開を過ぎて散っていく。風のひと吹き、ふた吹きごとに散っていく。

その美しさを損なう騒がしい声が、私には不愉快で堪らなかった。

浮かれて酔って騒いでいる。

私は春の世界を睨んで帰った。
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小野 柳水/The suspicious

牡丹さんは少しも変わらない。ブレない。色褪せない。

「会えて良かったよ」

牡丹さんは丸で映画に出てくる二枚目の役者みたいにそう言って微笑んだ。頬はつるつるで若々しいけどその優しさには年季が入っていると思う。

「俺も、今日はありがとうございました。すみません、最近そっち行けなくて」

牡丹さんは「うん」と静かに頷いた。

最近知ったことだけれど、牡丹さんはいま梅香と二人で暮らしているらしい。色男の牡丹さんは、しかし女性関係は地味だったから、こういうことも納得できる。

だからあのことは言えない。

あのことを知られたくない。

俺はいつも恐怖していた。あのことが知られたらきっと俺は嫌われ憎まれ呪われる。たとえ牡丹さんがどれ程の出来た人間だと言っても、俺を赦す訳がない。俺には牡丹さんに確かに嫌われるという自信がある。

だから御無沙汰だったのだ。

牡丹さんの友人達の中に自分が居られることの喜びよりも、その恐怖の方が圧倒的に強かった。

「ねえ、柳水はさ、梅香のことどう思う?」

牡丹さんはそう言って俺を見た。

なんだ、それは。

俺は生唾を呑み込んだ。その音が牡丹さんにも聞こえたかもしれない。その質問は余りに唐突だった。理由があるに違いない、そういう質問だった。

例えば、あのことを知られたとか。

「梅香は、可愛いと思いますよ」

なぜそんなことを答えたのか、分からない。

でも他に言うべき言葉がなかった。

「ああ、そう」と牡丹さんは答えた。反応が鈍いというか、俺の答えに満足していない感じがした。あり来たりに好きとか嫌いとか言って欲しかったのだろうか。

「どうしたんですか、急に」

俺は茶化すように尋ねた。

けれどもその声は少し震えていたから勘の鋭い牡丹さんにはその違和感が伝わっただろうか。牡丹さんの表情はいつもと何処か違うようでもその意味するところは分からない。

「梅香と何かあったんですか」と今度は少し真面目な調子で続けて尋ねると、牡丹さんはゆっくり首を振った。

「梅香じゃない。俺がどうしているんだ」
「本当に、どうしたんですか。何かあったんですか」
「今度の土曜日」
「はい」
「梅香が花見に行くらしい」
「はい」

牡丹さんはストローでアイスコーヒーをカランと掻き回した。

「それに俺も付いて行きたいなって」

もう一度、アイスコーヒーがカランと鳴った。

牡丹さんは破顔して俺を見た。

牡丹さんのポーカーフェイスは鉄壁だ。表情から内心が読めないだけでなく、柔らかい微笑はこちらの敵意や警戒心を剥ぎ取ってしまえる。容姿が優れているとか笑い方が優雅だとか、そういう説明ではきっと足りない。もっと次元の違う、完璧な理由がある筈だ。

俺は釣られて笑った。

「行ったら喜ばれますよ」

梅香なら喜ぶ。

そして他の誰でも、牡丹さんがするようには喜ばせられない。

牡丹さんは「そうかな?」と言って嬉しそうに目を細めてアイスコーヒーを一口含んだ。初めて会った時と同じ、悪戯っぽい笑みだ。

「でも入学して早々に花見をするなんて、けっこう仲良いクラスなんですね。良かったですね」

牡丹さんが梅香の新生活を気に掛けていたことを知っている。

俺だって心配だった。

「梅香が心配ですか?」

俺が尋ねると牡丹さんは俺を真っ直ぐ見た。

「まあね。梅香がなんて言っても心配なんだよ、仕方ない。柳水だって同じだろう?」

その通りだ。

俺達は梅香のことが好きだからだ。

「話し変わるんですけど」
「うん」
「土曜日、花見に行きませんか」

俺が言うと牡丹さんは迷わず賛同した。
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卯月/虚空を渡る

放課後の教室には誰も居ない。皆、部活動を選ぶ為に仮入部をしているからだ。興味のある部活動を体験して『仮』に入部して、高校生活を預ける部活動を決める。それで色々と悩んでいるところらしい。

私は、分からない。

部活に入って、どんな楽しいことがあるのか。

私には、人と関わったり、情熱を燃やしたり、怒ったり悩んだり何かに励んだりする自分の姿が想像できない。部活動を紹介するパンフレットを読んでも少しも心が動かされない。

とにかく毎日登校するのだって大仕事なのだから、今はそれでも良いかしら、と思う。

席を立って教室を出ると、人間が一人も居ない世界みたいに、本当にしんとしていた。森の中に居るみたい。牡丹さんのマンションで一人で居る時よりもなお静か。

スマートフォンが震えて、私は跳ね上がる程驚いた。

もしかして。

メール画面を開くと、メールは陽平君からだった。落ち着いた彼にしてはちょっと賑やかなメールの本文を読むと、私の顔は自然と頬が緩む。

「おつかれ!」と、陽平君の声が聞こえる気がする。

歩きながら返信するのも危ないので、私は近くの教室を覗いてみた。教室には二人だけ残っている人がいたけれど、私が教室に入っても余り気にしていない。私は借りられそうな椅子を見付けてそこに座って改めてメールを読んでみた。

牡丹さんとのメールとは違う。

ちょっと緊張する。

メールありがとう、なんておかしいかしら。



【虚空を渡る】



「ただいま」、と囁いてみる。部屋は暗いし牡丹さんからの連絡も無いから今夜は一人でお夕飯をいただく予定だ。

学校は詰まらないし寂しい気持ちになる。居場所が無くて息苦しい。

それが、ここに帰ってくると牡丹さんは居なくても幸福感に包まれる。父と暮らしていた時には得られなかったそれは、はっきりと心を満たして呉れる。

ソファに寝そべると疲れが体に伸し掛かる。

痺れが脚から伝って、骨が重みに耐え兼ねて軋む。それと同時に、私は安らかな開放感を得る。

牡丹さん、ありがとう。

牡丹さんと居ると私は幸せに成るの。

でもね、お願いよ。

私の為に牡丹さんは犠牲にならないでね。

お願いよ。

いつでもこの家を出る準備だけは整えているのよ。牡丹さんから離れて暮らすことも私は受け入れる積もりよ。

牡丹さん。

牡丹さん。

夕方にまどろむと、悪い夢を見る。

私は自分の体の重みを思い出して目を開けた。ソファに深く沈んだ体を芋虫みたいにもぞもぞ動かして俯せになると、私はゆっくり伸びをした。体が生き返るようなやつ。体がじんわり温まるようなやつ。

時間は?

窓の外は暗い。

沢山寝た気がする。

時間は、20時だった。

お夕飯どうしよう。お腹空いてないわ。牡丹さんの分を用意して、私はそれをちょっといただこう。

料理の本を見ながら作ると、なんだかぎこちなくて不器用な料理が出来る。不慣れで美しさのない料理は悲しくて惨めで栄養も乏しいものに思える。それを、疲れて帰って来る牡丹さんが一人で食べるところを想像すると、私は幸せでも牡丹さんは違うのだと思い知る。

料理を作ってラップを掛けた。

温かければ、せめてもう少しは美味しいのだろうけれど。

うん、言い訳です。

牡丹さんは忙しいから家に居られないし、私の料理の不味いのをその所為にするなんて余りに自分本位だわ。

私は心の中で牡丹さんに頭を下げた。

ごめんなさい。

お風呂にお湯を張っている間、私はパソコンを立ち上げてインターネットを楽しんだ。牡丹さんは私が機械音痴だと思っているだろうけれど、それは違う。機械音痴を装っているのだ。

機械が苦手な方が、女性らしいような気がしたから。

『俺がやるよ』

そう言って笑う牡丹さんは優しくてとても頼りたくなる姿をしているのだ。

私は思い出して嬉しくなった。

牡丹さんのことなら、なんでも嬉しくなる。牡丹さんが私の為にしてくれたことなら特にそう。牡丹さんの存在が私の近くに感じられて本当に嬉しくなる。

私は嬉しい気持ちのままでいたくて、直ぐにお風呂に入って寝ることにした。

一日の始まりは最悪。

だからせめて一日の終わりには幸せでいたい。

早く終わってしまえと願った朝、その一日の終わりには幸せな気分になっているなんて素敵だもの。全ての最悪がチャラな成るような夜を私は望む。

牡丹さん。

牡丹さんにも、そうであって欲しい。

私はメモ帳を一枚剥がして、牡丹さんのお夕飯のところに添えた。

『お疲れさまです』

それだけ。

でも、いいの。

前にこの些細なメモ帳を牡丹さんに褒められたことがある。ありがとう、って御礼を言われたことがある。私はその記憶だけで何度でも喜べる。

だから私はメモを残す。

不純ね。

私は自分でも笑ってしまうくらい、牡丹さんの笑顔を見たいと思う。

あの慈愛が欲しい。

あの、深い愛が欲しい。

時々不調になる牡丹さんの、最愛。

お風呂に入って寝る支度をして、そっと布団に包まるととても心地好くて、何日でもこうして居られるような安らぎを得る。眠る前のある瞬間、私は天国をスキップして歩くような軽やかな気持ちになれる。ふっと訪れるその瞬間を捕まえて、私は眠る。

牡丹さんの微笑みに、撫でられた気がした。

卯月/絆の電子化

朝、登校すると陽平君に一番に声を掛けた。目的は昨日から決めてある。

「おはよう」

私が声を掛けると陽平君は明るく笑って「おはよう」と返して呉れた。陽平君は明るいけれど落ち着きもあって、同級生の中に居ると大人びて見えるので安心感がある。

隣に居た男の子にもついでなので笑い掛けてみたら、避けられることもなく挨拶を返して呉れた。陽平君の御蔭で警戒されずに済んだのかもしれない。

陽平君には助けられてばかりだ。

陽平君には、入学式では先生に遅刻の理由を話して貰い、クラスで孤立し掛けていたところを助けて貰い、藤瑚先輩に眼鏡を返して欲しいと話して貰い、とにかく助けられっぱなしだ。陽平君は大人びて見えても同い年の同級生なのに。

私は心の内で陽平君への感謝の言葉を述べた。

どうもありがとう。

「連絡先交換したいなと思って」

私はそう言って、鞄から出したスマートフォンを陽平君に見せた。

陽平君は「ああ」と小さく呟いてから顔を赤くした。

顔を赤くするというのは大人びている陽平君が持つ数少ない年相応なところに思えた。照れたり慌てたりしない人かと思っていた。そういうところ、牡丹さんとは違うらしい。

陽平君はスマートフォンをポケットから出して、私達はスムーズに連絡先を交換できた。

牡丹さんの友人と何度か交換してあったのが良かった。そうでなければこう上手くはやれなかっただろう。

私のアドレス帳に陽平君の名前が出ているのを確認して、私はちょっと怖くなった。

もしこの名前が消えて、陽平君のスマートフォンからも私の名前が消えてしまえば、私は彼の友達ではなくなってしまうのだろうか。かつての同級生との関係のように、私と陽平君を繋ぐものがこんな危ういものであることが怖い。

「必ず連絡するよ」

陽平君は明るい声音で言った。

私は堪らなく嬉しくなった。



【絆の電子化】



放課後、私は部活動の仮入部に行く積もりで、パンフレットを眺めていた。部活動の紹介がたくさん載っている冊子のようなものだ。

文学部、というのもある。

私はそれをじっと見てみる。じっと見ても、何をする部活動かは分からない。

「仮入部?」

声を掛けられて顔を上げると、あやめは目を輝かせて私を見ていた。手には昨日見せてもらった彼女の「仮入部リスト」がある。

丁度あやめのことを思い出していたところだったから、タイミング良くてなんだか嬉しい。

「そう。どこに行くか迷っているの」

私が言うとあやめはとても驚いた様子で声を上げた。

「迷ってるの、もったいないよ! もう時間ないよ! どこでもいいから行ってみなよ!」

どこでもいいということはない。

私は同意し兼ねて笑った。

「運動部とかさ、文学部とかさ。なんか希望あったら教えて。私はこれからバスケ部に行くの。梅香ちゃんも一緒に来る?」

バスケ部、それは何をするところか私にも分かる。

「ごめんなさい。バスケ部には行かないかな」

私が断るとあやめは切なげに眉を下げた。それは私にも切ない気持ちを呼んだ。

あやめとバスケ部に入って、あやめと試合に出られたら、そんな毎日はきっと素晴らしい高校生活になるのだろうと思う。朝練、試合、合宿、引退、そんな絵に描いたような高校生活を送ることになるのだろうと思う。

私は確かに何部に入るか全く決めていないし、とくにこれと言った候補もない。けれど一つだけなんとなく想像できるのは、私はきっと運動部には入らないということだ。

それは、きっと。

間違いなく。

「そっか。それはすごい残念だけど仕方ないね。私はね、きのうは文学部で一番をあげちゃったから、今日はバスケ部なの。バスケもすごい好きだからさ。だからもう行かなくちゃ。ごめんね。違う部活で一緒に行けるのあったら、一緒に行こうね!」

私は「うん」とだけ言った。

あやめは鞄を抱えてあっという間に教室から走り去って行った。春の嵐の後みたいに、教室は急に静かになった。

部活。何処に行こう。

パンフレットを見てみるけれど、部活動の種類は山程あって候補を絞れない。

文化系だけでも幾つも有る。

あとは?

私のやりたいことは?

「……」

駄目だった。思い付かなかった。3年間、私の放課後の時間のうち幾らかを捧げられるような、そういう興味や欲求は私には無かった。

私はパンフレットを鞄にしまい、溜め息を吐いた。

帰ろう。

だって牡丹さんが居るのだもの。

私は牡丹さんのことを思い浮かべて少し明るい気分になったところで席を立った。早く帰りたいから足取りも心成しか早くなる。前とは全然違う。早く家に帰りたくなる。

牡丹さんの名前は、アドレス帳から消えても気持ちは変わらないだろうと思った。

牡丹さんにもそうであって欲しいし、そうであるだろうという形の無い自信がある。私はそれだけでもとても幸せだった。

卯月/量産型の憂鬱

牡丹さんの帰りが早かったのは、一緒に暮らすように成ってからその日が初めてだった。

「ただいま」

その言葉を聞いたら、私は堪らなく嬉しくて「おかえりなさい」と答えるのを忘れてしまったくらいだった。父や母が言うのとは違う、それは本当に甘美な言葉だった。

「料理?」

牡丹さんはキッチンを覗いてそう尋ねた。

「そう。お夕飯をね、作っていたところ」
「奥さんみたいだね」

私は多分、間違いなく、赤く成った。

「そしたら牡丹さんは、旦那さんみたいですね」

私の精一杯のお返しを牡丹さんは楽しそうに笑って躱した。

牡丹さんのその優しい笑い方に私はいつも体中の力を抜き取られてしまう。そこに、ぺたん、と座り込んでしまいたいくらい、私の体はふにゃふにゃに成る。

「牡丹さん、着替えないの?」
「うん」

牡丹さんは頷いて、部屋に行った。

牡丹さんのスーツ姿は完璧過ぎる。絵画に描かれたモデルみたいな黄金比がそこに在る。私とは余りに違う。牡丹さんは神様が一生懸命作った人間のモデルで、私は工場で作られた量産型に違いない。



【量産型の憂鬱】



「美味しそう」

突然の声に振り返ると、牡丹さんが居た。私の直ぐ後ろ。

「ごめん、驚いた?」

牡丹さんは、ふふ、と笑った。私が驚いたのを何故面白がるのかは分からないけれど、牡丹さんが楽しそうだから気にしない。

「ご飯、もうできるよ。何時くらいに食べたい?」
「じゃあ直ぐに食べたい。お腹空いてるんだ」

牡丹さんは自分のお腹を撫でた。

「テーブルで待ってて。お料理運びますから」

私がそう言うと、牡丹さんは「俺も手伝うよ」と言って盛り付けるお皿やお箸を用意して呉れた。私はそこに鍋やボウルから料理を移す。牡丹さんと食べるのだと思うと妙に意識して変な盛り付けに成ってしまった。

「こんなご飯でごめんなさい」

私は恥ずかしくてそう言った。

牡丹さんには、もっとお料理やお裁縫がうんと上手な女性が似合う。柔らかい手をしたお姫様。

私は料理を御盆で運びながら、悲しいお夕飯が詰まらなそうに並んでいるのを眺めた。それを見ていたら、後ろから牡丹さんに頭を撫でられた。

「本当は、掃除もご飯も俺がやる積もりだったのに。梅香に無理させて、ごめん」

何故、牡丹さんが謝るの?

「どうしたの?」

私が振り返って牡丹さんを見上げると、牡丹さんは大切なものを失ったような顔をしていた。

「俺はこんな感傷的な人間じゃない。分かってるよ。でも梅香が家に居て、俺が仕事で夜遅くまで帰れない時間、一人で過ごして居るのかと思うと駄目だ。今日も、本当はこんなに早く帰る筈じゃなかった。会社の人に飲みに誘われてたのを断っちゃった」

牡丹さんは崩れ落ちるように近くの椅子に座った。

牡丹さんを感傷的にさせているのは私だ。私はそのことが悲しくて、とても悔しく思った。

駄目じゃない。

全然、駄目じゃない。

牡丹さんの完璧ではないところ。恰好良くて、優しい牡丹さんの、完璧ではないところ。牡丹さんの黄金比ではないところ。私はそれが大好きだ。

私は料理を乗せた御盆をテーブルにそっと置いた。

「牡丹さん。私ね、今度学校の人とお花見に行こうと思うの」
「花見?」

牡丹さんは怪訝そうに私を見た。

「私はね、一人じゃないわ」

私はそう言って牡丹さんがそうするみたいに優しく笑ってみせた。

牡丹さんの笑みとは似ても似つかないそれを、それでも牡丹さんは真剣に受け止めて呉れたと思う。牡丹さんは私をじっと見てから、ゆっくり目を離した。

「学校はどう?」

牡丹さんは少しだけ暗い声でそう言って、続けて「こんな話しも、今までちっともできなかったね」と自嘲した。

「友達なんて一人もできないと思っていたのに、できたの。入学式の日には牡丹さんとの約束を守れるようにって気負ってたのに、今はそんなこと考えてないのよ。ただ、明日も学校に行くんだわ、って思ってる」

そうだ。

私にはあやめが居る。

「その友達と花見に行くの?」

牡丹さんは御盆の料理をテーブルに並べながら尋ねた。

おそらく、あやめは花見に来ない。本当は来て欲しいけれど、花見に招かれただけの私があやめを誘うのも憚られるので黙っている積もりだ。だからあやめは花見に来ない。

それは確かにそうなのだけれど、今そのことを牡丹さんに説明するのはちょっと話しがややこしくなりそうで、私は心の中の蟠りを飲み込んだ。

「そう。今度の土曜日」

牡丹さんは何時もみたいに笑った。

「そうかあ。俺の杞憂だったね。そう言えば、梅香はもう子供じゃないもんね」

牡丹さんの声には明るさが戻った。私はそれが嬉しい反面、牡丹さんを嘘で騙すなんてことをして後悔もしていた。

甘えれば良かったのだ。花見には行きたくない、上級生にからかわれて嫌な思いをしている、せめて牡丹さんと一緒に行きたい、そう懇願すれば良かったのだ。

牡丹さんなら拒否しなかった。

ねえ、そうでしょう?

牡丹さんはふんわり微笑して、「ご飯をいただこう」と言った。

「はい」

私は良い子の返事をして席に着いた。

不細工な料理が、惨めな私を笑う声が聞こえた。

卯月/取り引き

これから私の眼鏡を『預かっている』という先輩に会いに行く。

気乗りしない。当たり前だ。

『悪ふざけしてる』。

陽平君がそう言っていた。あの紳士的な陽平君がそんな風に言うくらいだから、きっと余り良い先輩じゃないに違いない。

眼鏡は返して貰わなければならない。あれは私の物だし父から戴いたものだから、他の誰かが力任せに奪うことは許されない。だから私はあの眼鏡を取り戻す。

私はこれ以上の口実を与える積もりはない。

詰まらない人間だもの。

私は詰まらない人間なのだとしっかり分かって貰えば良い。

それでお仕舞いにする。

それで眼鏡は私の元へ返って来る。



【取り引き】



あやめは元気いっぱいだった。これから部活動の仮入部に行くらしい。正式に入部する前に部活動を体験できる仮入部は、あやめでなくても多くの人が楽しみにしている。ゴールデンウィークが始まる前までに新入生は順次入部届けを提出していく、その準備だ。

彼女の満面の笑顔を見ると私もなんだか楽しい気持ちになる。

それは牡丹さんの笑みには敵わないけれど。

「だから私ね、ほら、行ってみたい候補を書いておいたの。もし梅香ちゃんが行く積もりのところと同じのあったら、一緒にどうかなって」
「候補?」
「そうそう。興味があること、憧れてること、好きなこと、知らなかったこと。部活はそういう色んなものがあるでしょ。でも選べるのは一つか二つ。よく考えないと後で後悔しちゃうから、私、そういう失敗よくするの。だから候補を挙げてちゃんと検討するつもりなんだ!」

あやめは両手を広げてそう言った。

「私はまだ、考えてなかったな」

部活動どころではなかったのが正直なところだ。牡丹さんと暮らすことが決まってからはその準備で慌ただしかったし、入学式では先生の話しをゆっくり聞いている余裕もなかった。

「そっかあ。そうだよね。入学式あって直ぐに今度は部活のことなんてさ、考えらんないよね。私もね、昨日までそんなの全然でさ、今日頑張ってね、これだけ書いてみただけで、あと部活のアピール大会みたいなのがあるって言ってたし、まだまだ決めるとかそんなんじゃないんだ」

あやめはそう言ってから私に可愛らしいメモ用紙を渡した。キャラクターもののそれは薄桃色で、小さくて丸い形をしていた。

「すごいね。こんなに行くの?」

そこには10個以上もの部活動が書き連ねてあった。

女の子らしい角のない字で剣道部やら物理学部やら書いている。統一感のないそれらが急に目に飛び込んでくると字が踊っているように見えて圧倒される。

「足りないよー。もっと行くよ!」

あやめは迷わず即答した。

彼女のバイタリティの原動力は何かしら。

「そう。楽しみね」
「すごい楽しいよー。ねえ、梅香ちゃんも一緒に行く?」

あやめはメモを見ながら、上目遣いで私の方をちらっと見た。まん丸い目が潤んでいる。長い睫毛がゆっくり上下している。

彼女の瞳が写すのは蛍光灯の光なのに、私にはきらきら光って見えた。

「ごめん。今日は用事があるの」

好意が真っ直ぐ伝わってくるから、罪悪感も強い。

あやめはにこにこ笑いながら「あやまんないでいいよー」と答えた。

「実はさ、私の知り合いがここの先輩で部長してるんだって。私その人とはそんなに仲良くないけど、って言うかその人には嫌われちゃってるんだけど、私その部活には興味あるんだ」
「なんの部活なの?」

私が尋ねるとあやめは「あっ」と言った。部活の名前をまだ出していないことに気付いていなかったらしい。

「文学部だよ」

何、それ。

あやめは、えへへ、と笑って続けた。

「私ね、文学部が本命なんだ。梅香ちゃんは文学部興味ある?」

それって何をするところだろうか。

「文学部は、よく知らない」

それが正直な答えだった。

「そうだよねえ。でも興味あったら来てよ。梅香ちゃんと一緒だったらすごい楽しいと思うから」
「うん。ありがとう」

とても嬉しいことを言われた。

あやめを見ると、恥じらうように視線を逸らして少し頬を赤くしていた。

あやめが照れているところ、好きだな。そう冷静な気持ちで思ったら私の方は照れるタイミングを逃してしまった。悲しいことに私は自分が常と変わらない愛想笑いをしていることを自覚した。

「一番好きなところに一番に行くべきでしょ? だから私は最初の日に文学部に行くの。あなたが本命よ、って正面から言うの。梅香ちゃんと行けないのはすごい残念だけど、文学部に行きたいのは今日だけなの」

愛を語るような口調だ。

あやめは言葉に違わずうっとりした表情をしているから、いよいよそう見える。

「じゃあ、早めに用事が終わったら文学部に行ってみるね」

あやめと一緒ならきっと楽しい、と私も心の底から思った。

「絶対だよ」

あやめが悪戯っ子のように笑った。

あやめが笑うのをもっと見ていたい。あやめの近くでもっと楽しい気持ちになりたい。

「じゃ、私もう行くね」

あやめは大きく手を振って教室を出て行った。

あやめの居ない喧騒に包まれて、私は無性に心許ない気持ちになった。まだあやめの笑い声が聞こえる気がする。

よく笑うところ。頬を赤く染めて照れるところ。明るくて健やかなところ。そういうことの一つひとつに好意を持った。あんなに真っ直ぐで可愛らしい人が居るなんて、きっとご家族は誇らしいだろうと思う。

私はあやめとは違う。

その違うところがきらきら光る。

触りたくなる、あやめはそんな女の子だ。

さっさと用事を済まそう。眼鏡を返して貰って文学部に行ってみよう。あやめが楽しいと思うことを私も体験してみたい。

私は荷物を片付けて教室を出た。

意を決して。

階段を昇って。

2年4組の看板を前にして、私は息を整えた。いよいよだ。きっと大丈夫。その眼鏡は私のものだと言えばいい。

よし。

「ハク、大好き!」

教室に入る少し前、聞き覚えのある声が聞こえた。それは私から眼鏡を奪った張本人のもののように思えた。

顔は憶えていないけれど、この声は。

その人が教室から出てきた。茶色い髪のその人は今風の若い人だった。昨日のあの時の、あの人だ。この声、この感じ、覚えがある。ともすると年下にも見えるその人こそ、きっと私の探していた人だ。

「あの、すみません」

私は心を決めて声を掛けた。

その人はさっと振り返った。

「あの、眼鏡のことなんですけど。藤瑚先輩が持っていると聞きました」

その人は爽やかな笑顔を作った。

あやめに似ていると思った。

「藤瑚ならまだ教室に居るよ。そこね」

え?

その人はそう言ってそのまま何処かへ行ってしまった。

先の口振り、あの人は『藤瑚先輩』ではなかったらしい。しかも私のことを全く憶えていないようだった。昨日あった出来事はあの人にとってはそれだけの些事だったのだろう。

眼鏡を持っているのは別人だ。

その人こそ陽平君の言うところの『悪ふざけ』を嗾けた張本人なのかもしれない。

私は2年4組を覗いて見た。

数人の人が居る。皆自習しているらしい。

ここで引いたら意味がない。今日で終わりにすると決めた。だから眼鏡を返して貰うまでは、或いは『藤瑚先輩』のヒントを得るまでは帰りたくない。

私は教室に踏み込んだ。

「どうしたの?」

声を掛けてくれたのはドアの近くに居た女性の先輩だった。

「藤瑚先輩いますか」

なるべくはっきりと言った。藤瑚先輩とは始めから知り合いだったみたいに思われた方が良いから、当たり前に堂々と呼んだ。それで怪しまれなければ明日には忘れて貰えるだろう。

「中条君」

その先輩は教室の中へ呼び掛けた。

近寄って来た人を見て、その人が『藤瑚先輩』だと理解した。

冷たそうな人だな、と思った。

目線が。刺すようなそれが、とても冷たかった。

「あの、私の『忘れ物』を預かってくださっていると聞いて」
「ああ。一年生の」

藤瑚先輩は私のことを頭から足の指先までゆっくり眺めてから、「こっち、来て」と気怠げに言った。そして私の返事を待たずにどんどん歩いて行く。

あやめとは真逆の人だ。

冷たくて、感情が平坦で、きらきら光って見えない。

「あれ、どうしたかなあ」

先輩はそんなことを言って鞄を探った。

「ねえ、君さ。名前なんて言うの」
「高階です」
「俺は中条藤瑚。2年4組。あの人、伝言をお願いした人から聞いてるかな」

あの人とは陽平君だろうか。

私が黙っていると藤瑚先輩は手を止めて私を振り返った。

「はじめまして、って言った方が良かった?」

そんなことより、眼鏡は。

藤瑚先輩は鞄を探るのを諦めたのか、もう探す素振りさえ見せない。

「いいえ、すみません。こちらこそはじめまして。私は高階梅香です。眼鏡、ありませんか?」
「高階梅香さん。可愛い名前だね。普段呼ばれる時は名前で?」

そんなことより。

「いいえ。あの、眼鏡ありませんか。あれが無いのは困るんです」

私はなるべく困った風に言った。

実際は代わりの眼鏡もあるし実害は無い。けれどもこれ以上只のあの眼鏡の為に全く接点の無かった先輩との繋がりができてしまうのは嫌だった。

強く言って、様子を見ることにした。

「無いみたい」
「え?」

そんな、馬鹿な。

「家にあるかも」
「では、明日また来ます。眼鏡が無いと困るんです。せっかく預かっていただいているのに、こんなこと言ってすみません。でも明日、また来ますから、その時に頂いてもいいですか」
「困る?」

藤瑚先輩は私を見続けている。

私は真っ直ぐ藤瑚先輩を見返した。

藤瑚先輩は私に近付いてから体を屈めて、私がかけている眼鏡の縁に触れた。また眼鏡を取られるのかと思って体を引いたら、藤瑚先輩は追わずに簡単に手を引いた。

「ねえ、桜は好き?」

藤瑚先輩の目には、少し熱があるような気がした。

「この辺の桜は今が見頃だってね。実は今週の土曜日、友達と花見するんだ。君も来ない?」

それは、引き換え条件の積もりだろうか。私は少し敵意を露わにして藤瑚先輩を見た。

「眼鏡は必ず返すよ。それとは別に考えてくれていいからさ、これも『縁』だと思って、まあちょっと付き合ってみるのはどうかな」

縁?

随分と乱暴な『縁』もあったものだ、と思った。

しかし私には藤瑚先輩の本心が全く分からなかった。彼が眼鏡を返すと言ったのが、「花見に来れば眼鏡は返す」という脅しなのか、言葉通り「眼鏡のこととは別で、花見はどうですか」という好意からくる誘いなのか、判然としない。

表情が冷たいから。

目が笑っていないから。

あやめと余りに違う存在だから。

これが取り引きなら誘いを断る訳にはいかないけれど、そうでなければできれば断りたい。その判別は私にはできない。

答えは、決まった。

「土曜日は予定があります。でもせっかく誘っていただいたので、時間が許すだけぜひ参加させてください」

私はそんな半端な答えをした。

私は桜が大好きだ。桜が今週にも満開になることは勿論知っているし、土曜日には散り際の桜がさぞかし美しいだろうと個人的な花見の計画もあった。もし藤瑚先輩が好意で誘ってくださったのなら、私は花見を楽しめばいい。

詰まらない花見なら途中で抜ける。

藤瑚先輩は嬉しそうに笑って「良かった」と呟いた。

その日、その「良かった」という言葉だけが、私が藤瑚先輩の感情らしきものを唯一感じられた彼の反応だと思った。
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中条 藤瑚/Blue Scale

ハクのことが好きだった。ハクに憧れていたしハクを真似したこともあった。ハクと釣り合うように身体を鍛えたり髪型を変えてみたりした。

俺は今でもハクが好きだ。

初めて見たハクは、世界の中で余りに自然に存在していた。



【Blue Scale】



彼は俺を疑っているだろう。菖蒲陽平という名前の一年生。俺達のことを事前に知っていた風でもあったし、俺に探りを入れようとしてきたところも考えると、あれは、この学校に仲の良い先輩でもいるらしい。

落し物を預かる親切な上級生であれたら、それが理想だったのだけれど。

きっと見抜かれた。

しかし預かった眼鏡を返すのに、俺が向こうの教室に行くのはお互いの為に良くないと思う。向こうは目立ちたくないようだったし、俺も変な誤解をされたくない。

でも、この眼鏡。

必要不可欠なものでもないか。

あの女は来ないかもしれない。けれど俺はあの女の顔をもう一度見てみたい。見てハクの女の趣味を確かめたい。ハクが可愛いと断言した女の顔を、もう一度見てみたい。

だから俺はこの眼鏡を預かって、あの女が来るのを待っている。だから放課後である今も、あの女を待つべく自分の教室で自習している。

菖蒲陽平を通して呼んだから、あの女は来ない可能性もあるけれど待つ価値はある。いつ現れるか分からない女を、俺は仕方なく勉強で時間を潰して待っていた。

「藤瑚、残るの?」

猫島が言った。声が直ぐ近くから降って来たことが分かったけれど顔を向けたりはしなかった。大した用事でもないだろう。

猫島とはクラスが違うから、俺を探してやって来たらしい。

「うん」

俺の返答に、猫島は暫く黙って近くに立っていた。

「ねー、藤瑚」
「うん」
「藤瑚って今度の花見来るっけ?」

真面目な声で、そんなことを聞く。

猫島ってよく分からない。

俺はハクと友達に成りたくて、ハクに近付く手段の一つとして、それだけの理由で猫島に近付いた。猫島はなんとなく俺に懐いて、俺はハクとも友達に成れた。そんな関係だから互いによく分からない部分が多いのかもしれない。

「ああ、花見。行くよ。そう言えばハクは来るの?」
「えー、わかんない。来ないかも」
「そっか」

なんだ。詰まらない。

「なんかさ、五霞先輩が今度の花見仕切るらしいんだよねー」
「五霞先輩?」
「藤瑚、知ってる?」
「名前だけ。向こうは俺を知らないよ」

遊び方が派手だから、名前はよく聞く。

「なんだ知らないの。てか、久保田さんが仕切ると思ってたんだけどなー。違うっていうから、なんかしんどくなっちゃった」
「猫島も来ないってこと?」

何それ。

猫島がやりたがっていた花見に俺だけがよく知らない先輩と参加するのか。ハクも来ないのに。

だいたい女の子と合コンみたいな意味合いでやろうとして、張り切って企画していたのは猫島だ。それを『めんどくさい』とは、猫島にしては珍しい。何かに付けて女の子と遊ぼうとするのが猫島だ。

余程五霞先輩が苦手らしい。

「でもねー、かんなちゃん誘っちゃったんだよねー。かんなちゃん、すげー可愛いから、たぶん俺それが目当てで行っちゃうんだけど」

なんだ、やっぱり。来るのか。

よく分からない奴だ。

「有名な人と遊べてラッキーだと思ったら?」

俺が言っても猫島の反応は鈍い。五霞先輩がそれ程の存在なのだろうか。俺からしたら派手で遊び好きなところは猫島とぴったりだと思うけれど、何が不満なのだろうか。

猫島は冴えない顔で俯いた。

「あ、ハク!」

廊下をハクが通るのが見えた。俺が大きめの声で呼び掛けると、向こうも気付いて教室の中まで来てくれた。俺の声で猫島も顔を上げてハクを探した。

「何してんの、お前ら」
「今度の花見どうしようかってさー、なんか迷っちゃって」

猫島がハクに甘えるように言った。

「迷ってる間に花なんか散っちゃうんじゃねえの」

ハクが少し呆れたように言った。

「五霞先輩来るんだってさ」
「誰だっけ」
「とーふーせんぱい」
「あ、ああ」

ハクが思い出したように「あのひとか」と呟いた。猫島とハクの間にある共通認識に俺は少し妬いた。

「かんなちゃん、呼んでるのに」

猫島は溜め息混じりにそう吐き出した。

五霞先輩と何があったのだろうか。思ったより二人には深刻な空気感が流れて、俺は疎外感を感じずにはいられなかった。

「あの人だって別に四六時中誰とでもセックスしたい訳じゃねえだろ」

ハクがそう言った。

一言一句違わず、そう言った、と思う。

とんでもないことを言ったと思ったのは俺だけらしい。二人は変わらない態度でいる。

「俺は花見がしたかったの。桜見て女の子とイチャイチャしてさー。でも五霞先輩って違うじゃん。愉しければ何でもいいっつーか。前なんかホモ呼んで交ぜてきて、俺それがマジでトラウマんなってんだよー。これセカンドバージンとか言うやつじゃん。すげー気が重い。だからやなの、ねえ」

何を言ったのか分からない。

五霞先輩が居るとそうなるのか?

俺もそこに行こうとしてるんだよな?

お前バージン奪われたの?

猫島はハクに助けてくれと言わんばかりに甘えたように縋った。俺も少しハクに縋りたい気持ちになった。

「自分でなんとかしろよ」

しかし無情にもハクは力無くそう言ってその場から立ち去ろうとした。

「やだ!」
「は、おい」

猫島は諦めなかった。

むしろここからが本番だった。

「助けて、ね?」

猫島のおねだりはいつでも効果覿面だ。そう、いつでも。猫島がハクの腕に両手で縋って、甘えた声で助けを求めて、上目遣いに見上げれば、それでハクが猫島を拒むところを見たことがない。

ハクは猫島の頭を撫でた。

「めんどくせえな、お前は」
「ダメ、かなぁ」

猫島は今度は目を伏せた。そして名残惜しそうにハクの腕をゆっくり手離す。

押して駄目なら引いてみろと言うが、この場合は押した時点で殆ど成功していたのだから、引いてみたのは猫島にとっては遊びみたいなものだっただろう。

結果は分かっている。

「分かったよ。俺がなんとかしてやるから、そんな声出すな」

ハクはそう言って息を吐いた。

「ほんと?!」

猫島は喜びを全身で表現した。本当に嬉しそうに笑うところなんか、ジュニアアイドル顔負けだと思う。

「ありがとう。すげー嬉しい。ハク、大好き!」

そう言って猫島は教室を出て行った。

ドアのところで振り返ってハクに手を振ったところなどは、教室に居た他のクラスメイトまで見入ったくらいだ。可愛い、とでも思ったに違いない。

恐ろしい奴。

ハクが来なければ、『アレ』のターゲットが俺だったのかもしれないと思うと鳥肌が立つ。

「災難だね」

俺が労うとハクは嫌な顔もせずに「いつものことだから」と答えた。

俺にはそれが、妬ましかった。

折角ハクと花見ができるとは言え、そのハクは猫島の為に仕方なしに来るのだ。嬉しいことだと思う反面、ハクが猫島のものだと思い知らされるようで苦しい。

猫島は俺のこういうところに気付いているのだろうか。

よく分からない。

「それ、昨日のか」

ハクが言ったので、その視線を追った。

それ、とは眼鏡のことだった。眼鏡ケースにしまわれたあの女の眼鏡。机の上にあるそれは多少ハクの目を引いたらしい。

なんと答えるべきか。

ハクはあの女が可愛いと言ったし、また会えるかもしれないと知ったら同席したいと思うだろう。そう言われたら俺は断れない。

そんなのは嫌だ。

都合がいいだけの受動的な男でいたくない。

でも。

でも、嘘は、吐けない。

「これは自分の眼鏡だ」とでも説明したとして、そんなリスクのある嘘を吐いて、ハクにバレたらその時が最悪だ。もう少し誤魔化しの効く嘘なら良かったけれど、ハクのタイプの女をハクから遠ざけたと知られたらきっと不快に思われる。

「うん。ハクも一緒に待つ? これからあの子が取りに来るかもしれないんだけど」

冷静に言えた。

まあまあだろう。

「ああ、今日は予定があるから無理だな。明日以降になるなら、そうしたい」

やっぱり。ハクはあの女に会いたいらしい。

「じゃあ今日は来ない方が良いんだね」

俺は冗談めかして言った。

「どうかな」

ハクは笑ってそう答えた。

俺は色気のあるその微笑に見惚れた。

ハクがタイプだと言った女に、できれば俺が引き会わせてやりたい。そういう気持ちもある。ハクがあの女と会いたいと言うのなら、俺がそれを叶えてやりたい。ハクとあの女を待つ時間も楽しいだろう。

ハクが笑った時、俺は半ば本気で思った。

ハクの望みを叶えたい。

如何にも馬鹿らしい考えだ。けれどそれは綺麗事ではなく俺の本心だった。妄想に近かったハクへの憧憬は、それが現実味を帯びてもなお膨らんでいる。

ハクとあの女を会わせよう。

ハクに「ありがとう」って言わせたい。まあまあ使える人間だと認識させたい。

でもまだあの女がどんな人間か分からない。

それは俺が確かめよう。

ハクが会うのはそれからでも良い。

「じゃあな」

ハクはそう言って教室を出て行った。静かな教室には俺みたいに所在無げに仕方なしに勉強しているような錆びた人間だけが残されているように思えた。

眼鏡ケースに触れてみる。

あの女、どんな顔だったか忘れた。

でも雰囲気は憶えている。

あの女は、なんとなく、少しでも早くこの眼鏡を取り返しに来るような気がした。
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卯月/クラスメイト

朝から学校というものは賑やかで、それはむしろ一日で一番の賑わいとも言えた。

出席を取るぎりぎりの時間に駆け込んだ私は、ホームルームが終わってからやっと彼らの空気に触れて、その温度差に少し嫌気が差した。なんでそんなに元気なのか分からない。

「おはよう!」

あやめの声はクラス中に響くようなものだったから、私はそれが私に向かったものだとは思えないくらいだった。「梅香ちゃん、おはよう!」と繰り返されて漸くそれを理解した。

「おはよう」
「今日ね、係りとか、委員とか、決めるって。あとね、選択授業とか分かって、クラス分けだって」

あやめは朝から元気だ。

「そう」

もっと気の利いた返事ができれば良かったのだけれど、取り敢えず発したそれをあやめはにっこり笑って聞き届けてくれた。

「あとね、さっき陽平が探してたよ」
「私を?」
「うん。梅香ちゃん、遅刻しそうだったからさ、心配したよ。遅刻するかと思った。道迷った?」

探してる、と言っても同じクラスだからそう急がなくても大丈夫だろう。

「迷ってないよ。ありがとう」

あやめはまたにっこり笑った。

「今日は眼鏡違うね」
「え、ああ。うん」

驚いた。

私の眼鏡のことに気付いていたとは思わなかった。抜けてると思うと鋭いところもある、油断ならない子だ。ぽわんとしていて女の子っぽいのに、昨日は先生のところへも付いて来てくれたし、勇気や男気もあるらしい。

厄介だなあ。

眼鏡のことは、分かっているのは陽平君くらいだと思っていた。昨日の朝にあの人に取られてそのまま裸眼でいたから、眼鏡じゃないと思ってくれていたらそれが一番良かった。

眼鏡が日替わりで違ったら変人だ。

眼鏡がないのは困るから私は昨日とは違う眼鏡を用意して来ただけ。それで遅刻もしかけた。

変人と思われたら嫌だな。

「おはよう」
「あ、陽平!」

あやめが陽平君に手を挙げて応えた。

「梅香ちゃん来たよ!」
「知ってるよ」

あやめは目の前の私を指差しながらそう言ったので、私と陽平君は顔を見合わせて笑ってしまった。

「ちょっといい?」

陽平君は廊下に誘い出すようにそう言った。あやめには聞かれたくないらしく、ちょっとあやめに申し訳なさそうな表情を繕っていて、そういう気遣いが立派だなと思った。

廊下にも人は沢山居るのだけれど、彼らのうち私達を見ている人は一人もいない。

「ごめんね」
「ううん、どうしたの?」
「昨日のことなんだけど。先輩から伝言あって」
「うん」

先輩って、誰だっけ。

「落し物預かってるって。2年4組に来て欲しいって、伝えるように言われた」
「ああ、あれか」

落し物って眼鏡のことかな。落とした訳ではないしそれを先輩が親切にも拾ってくれたのではなかったと思うけれど。

「あの先輩達、多分悪ふざけしてるよな。呼んでたのは藤瑚先輩だけど。その落し物が何かは知らなかったんだけど、俺がそれ預かりますよって言っても高階さんに直接来て欲しいみたいで駄目だった。ごめんね」

なんで陽平君が謝るの?

「陽平君は悪くないよ。ありがとう」

2年4組の藤瑚先輩、後で行こう。

「もう授業始まるね」

陽平君は自身の腕時計を見て呟いた。シルバーで重みのあるそれは彼の優しい気遣いとは対照的に無骨で男っぽい。

「高階さんさ、もし、あの、」

陽平君は言いにくそうに目を泳がせる。

「メアド交換しない?」

え?

交換するのはやぶさかではないのだけれど、今私はその為のスマートフォンを持ち合わせていない。陽平君が私を相手にメールをしてくれるといういう意味ならそれはとても嬉しいことだから、どちらかと言うと喜んで交換したいくらいだ。

後で、と言おうとした時、チャイムが鳴った。

爽快な鐘の音は遠慮なく鳴り続く。

その余りの鮮やかな響きに聞き惚れて私はなんと言う積もりだったか失念した。

私が言葉に窮していると、陽平君が早口で「授業が始まるよ」と言って教室のドアの前に立った。私が先に教室に入れるようにエスコートする彼は、やはりその気遣いに於いて立派だなと思った。

陽平君の顔は真っ赤だった。



【クラスメイト】



もし友達ができる瞬間というものがあって、それを切り取れるのだとしたら、今のことじゃないかしら。私は陽平君の連絡先を知らないし、その他のことも何も知らない。けれど私は心の何処かで陽平君を信頼して確かに“友達”と認めた。

卯月/約束

スーツ姿の牡丹さんは隙が無くて少し怖い。



【約束】



牡丹さんは夜まで帰って来なかった。誰かと食事をして来たらしく夕食は要らないと言う。作ってあった食事の残りはそれでも明日の朝食にすると言ってくれた。

「もう制服脱いじゃったの」

牡丹さんは私を見て開口一番そう言った。

少しご機嫌そうなところを見ると、これは、酔っ払っているのかもしれない。

牡丹さんはお酒を飲んでも酔っ払ったところなど見たことがないので確信はないのだけれど、テレビや小説で描写されるその姿と今の牡丹さんはなんだか似ている。

発言が可笑しいところ。

ワイシャツの裾が少し出ているところ。

ご機嫌なところ。

父が酔った時とは違う。饒舌になるでも気前が良くなるでもないけれど、なんだかその身に纏う雰囲気にお酒の匂いが混ざる気がする。

「もう11時だよ。制服なんか抜いじゃったよ」
「そう。残念ですねえ」
「これからは毎日見れるんじゃないの」
「……うめ」

牡丹さんが私を見た。

『うめ』というのは牡丹さんが私を呼ぶ時に偶に使う呼び名だ。これまでに何度かそう呼ばれた時は、もしかして今日みたいに彼がご機嫌だったからかもしれない。

「何」

牡丹さんは私に近寄った。

「うめ」

私がもう一度「何」と言おうとしたら牡丹さんはその場に座り込んでしまった。私は何も言えずに牡丹さんを見下ろした。隙の無い筈の牡丹さんが、隙を見せていた。

「こんなの、良いのかな」

牡丹さんの声は少し弱っていた。

「今日ね、お父さんとお母さんとお昼を食べたの。牡丹さん、私のお母さんは、私達が一緒に暮らすことを余り良く思ってないだろうって言ったでしょう」
「うん。言った」
「だから、お母さんにちゃんと言いました。私のことを許してくださいって」
「うん」

私は今日あったことを思い出す。

母の涙。

私の決意。

「お母さんは何も言わなかった。お母さん泣きそうな顔してた」
「……」
「その時にね、お父さんはワイン飲んでたの。お母さんが泣きそうな時に、オリーブの実を囓りながらワイン飲んでたの。だから私はあの家を出るんだって決めたの」

私はそんな父を愛している母を捨てることにしたのだ。

「そうか」

牡丹さんは座り込んだままそう呟いた。

「私は牡丹さんみたいには強くないから、お父さんの所為にして家出したかっただけかもしれない。でも私にはこんなやり方しか分からなかったの。牡丹さんには迷惑かもしれないけど、これから、よろしくお願いします」

私は牡丹さんの正面で三つ指ついた。

「そんなことするな」

牡丹さんはそう言って私の肩を押して顔を上げさせた。

牡丹さんの目は鷹の目みたいに鋭い。

「俺との約束、覚えてる?」
「勿論」

牡丹さんは私を見た。肩を掴む手には少し力が入った気がする。だから私は少しも躊躇しないで牡丹さんの恐い目を見返した。

「俺はお前と暮らせて嬉しいんだ。お前の親が反対してたのを知ってて、それでもこの話しを滞らないように進める為に、梅香に秘密で少し動いたよ」

牡丹さんの言うところの『動いた』とは何かは私には分からなかった。

「あの時、俺に恋人がいるのかって梅香が聞いてきた時にさ、俺はドキッとしたよ。梅香が初恋の人みたいに思えたよ。でも今はそれくらいじゃ満足しない。これから一緒に暮らして行くんだ。梅香が頭を下げてお願いしたからじゃない。俺もそれを望んでる」

牡丹さんは私から手を離した。

少し離れた牡丹さんに焦点がしっかり合ってちょっと恥ずかしい。

「だからもう、そんなことで俺に頭を下げるな」

恰好いい人だと思った。

私には勿体無いいい男だと思った。

「うん」

これからは毎日のように牡丹さんに会える。牡丹さんの嫌なところを発見できるくらい、牡丹さんと一緒に居られる。あの家を出た喜びと同じかそれ以上の幸福だ。

こんな幸福、無い。

「優しくするよ」
「うん」
「料理する」
「家事は私も手伝う」
「早く帰る」
「それはいいよ。お仕事頑張って」
「勉強教える」
「うん」
「優しくする。絶対に」

うん。嬉しいよ。

ありがとう。

「もう遅いから、寝よう?」

私が言うと牡丹さんは笑って頷いた。今までで一番優しい笑顔だなと思った。
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卯月/訣別

何歳も年上の三井さんに父は敬語も使わずに命令して、三井さんは人が良さそうな顔でそれに従う。私は彼らが大嫌いだ。

三井さんは主に父の運転手をしているけれど、それ以外の使いっ走りみたいなこともしている。三井さんと、あと桜井さんという人も運転手をしていて同じ給料を支払っていると父は言っていた。二人が自由に勤務日程を組んでいるらしいけれど、三井さんの方が休日や早朝などは多く勤務しているような気がする。

「すみません」
「何がです?」

三井さんはのんびりした声で答えた。

何が、って。

何もかも。

「お昼は食べましたか」
「ああ、ええ。待っている間、先にいただきました」
「そうでしたか」

三井さんには染み付いている。父の命令に従う日々の精神が、彼の芯までずぶずぶに侵している。その諂った感じは私の鏡みたいで、本当に、本当に、嫌になる。

体の中に虫がいる。

虫が体を這っている。

「今日は道が混んでますね。すみません。ホテルまであと15分程かかりそうです」

三井さんは私の嫌悪感を知ってか知らずか、そんなことを暢気な声で言った。その声は私の家族にはないものだから、嘲って排除したくなる反面、彼の子供はさぞ健やかに育つのではないかと余計なことを考えた。

「(毒みたいな、幸福。)」

損ばかりする三井さんが笑う家庭。三井さんにそっくりな子供がいる家庭。笑顔の絶えない家庭。妻が怒鳴られない家庭。

不幸を知らない家庭。

不幸に気付かない家庭。

明るくて、健やかで、愉快で和やかで無知で稚拙で暢気な家庭。

ホテルに着くと三井さんは「ごゆっくり」と言って私を見送った。その笑顔は幸福感や満足感に満たされたもののように思えた。理由のない幸福。毒みたいな、笑顔。

ホテルにあるレストランで、父はワインを飲んで待っていた。




【訣別】




「遅くなりました」
「うん。座りなさい」

席に着くと父はウェイターを呼んだ。間も無く来たウェイターに料理を注文する父は偉そうで不遜で横柄だった。そう言うと父は「俺は実際に偉いんだよ」と答えそうなので口には出さなかった。

「入学式はどうだった?」

母が尋ねた。

「無事に終わりました。時間も予定通りだったと思うよ」
「そう」
「そういえば新入生総代が同じ中学の人だった」
「どなた?」
「八萩さん。同じクラスだったこともあるから驚いちゃった」
「知らない子ね」
「そう?」

母が知ってる訳がない。

母が記憶している私の知り合いなんて、きっといない。

「牡丹は来てたのか」

父が尋ねた。

父の声には威厳があって圧力があってお金のにおいがする。他人を下してきた力が声や仕草に宿って何もない時にも他人を威圧する。膝を折って屈するのを待っているような感じなのだ。

「仕事があると言っていました」
「そうか」

父は牡丹さんが好きだ。父は、優秀で完璧で度胸があって父にそっくり似ている牡丹さんが、とても好きだ。

でも私は違う。

優秀ではないところ。完璧ではないところ。度胸がないところ。私はそんな牡丹さんが、好き。

父は牡丹さんが好きだし牡丹さんを信頼している。

私が牡丹さんと二人で暮らすのを父は少しも反対しなかった。母が困ったように「どうして?」と言ったのにさえ、父は少しも迷わなかった。

優しい母が何か言いたそうに私を見た。

「必要なものは、無いの」
「え?」
「私、心配よ。お小遣いが少ないんじゃないかしら。ご飯はどうするのかしら。まだ子供なのに家から離れて暮らすなんて、心配」

母は悲しそうに言った。

これには私もぐっときた。

父だけが平気そうにワインを飲んでいて私は父のこういうところを軽蔑する。牡丹さんは父に似ているけれど、こんな冷たい人間ではない。人間の心に興味がないのね、と言ってやりたくなる。

「大丈夫。向こうは一人暮らしが長くて料理も上手だし、私も色々教わってるの」

私が笑うと母は少し安心したようだった。

「でも彼も男の人だから。私、あなたが大丈夫だって言わなければ、良いなんて言わなかったのよ」
「分かってます」

ああ、離れ難い。

私は母の優しさが好きだ。温かく柔らかく捨て難く得難い。父とは違う。全く違う。

「牡丹さんは、大丈夫だよ」

私は母と私の為にそう言った。

母を安心させて差し上げたかったのだ。父のことはどうでも良かった。母に私は元気に暮らして行くことを教えたかった。新しい生活は私には最高の幸福であると伝えたかった。

母は暫く黙ってから、口を開いた。

「そんな風に呼ぶなんて」

悲しげな顔だった。

私はそう言われてから初めて自分の口にしたことを自覚した。

牡丹さん。

牡丹さん。

私にはもう、あなたは『牡丹さん』になってしまいました。牡丹さんを『彼(たにん)』と呼ぶ母を悲しいひとだと思ってしまいました。

父と暮らしたくなかった私は、それで母も失うのだ。

母と離れなければ父とも別れられない。

お母さん。

お母さん。

私は母の悲しげな顔に向かって、極めて明るい表情を湛えて、言った。

「お母さん。お母さんには他人でも、私には違うの。ごめんなさい。私、牡丹さんとこれから暮らして行くの。だから心配しないでください。私は元気に暮らして行きます」

今生の別れの言葉のようだった。

それは母にとっても同じように響いたらしい。

母は目を赤くして涙でその澄んだ瞳を潤ませた。小さくて可愛い黒目がキラキラ光った。

「お母さん。だから、私を許してください」

父の言いなりで諦めないでください。私を許してください。あなたが、私を許してください。私を憎んでください。憎んで怒ってそれで私にあなたの感情を見せてください。耐えて忍んで私を諦めないでください。私はお母さんの子供だから、お母さんと離れて暮らすなんて本当は嫌なのよ。仕方がないの。他にどんな方法も分からなかったの。

母は私から目を逸らした。

お母さん。

お母さん。

私はその母を見た時、それでもそうまでしてでも父から離れたかったことに気付かされた。

別れるのは今しかなかったのだ、と自分に言い聞かせた。

卯月/冬に臨む

教室を離れていたことについて、先生は私を咎めることはしなかった。先生はあやめを先に教室に帰して今日あったことについて尋ねた。

若い人だな、と私は場違いなことを思った。



【冬に臨む】



「早く着いたので、校内を少し歩いてました。すみません。その時に落としたのかと思って慌てて探しに戻ったんですけど、さっき教室に戻ったらカバンに入ってました」
「それは、見付かって良かった。今日のは遅刻にしないけど、僕のクラスでは出席を取る時に教室にいない人は遅刻扱いにするから、気を付けるようにしてね」
「はい。すみません」
「あーあと、高階さんは菖蒲陽平君と知り合い?」

それは、確か。

陽平君って、彼だよね。

「さっき初めて話しました。先生が呼んでるって教えてくれました」

先生は特に顔色も変えずに「そうですか」と答えた。

陽平君は「先生に目を付けられた」と話していたけれど、私こそ先生に目を付けられた筈だ。平凡な高校生活を地味に在り来りに過ごしたいと思っていたのに、いきなりクラスで名前を売ってしまったのだから最悪だ。

陽平君にとって悪いことは喋りたくないけれど、何を言うべきで何を黙っているべきか分からない。

私自身にとってさえ、それは定かではない。

「分かりました。もういいですよ。47分には廊下に整列して欲しいので、高階さんも準備してください」

先生はそう言って愛想笑いした。

若いのだけれど、若々しくはない。

「はい。すみませんでした」
「いいよいいよ」

私が教室に戻るのを先生は淡々と見送った。それは父が今日私を見送ってくれた姿に似ている気がした。私情のない姿。仕事をする男の人の顔。

これから始まる新生活は楽しいものになるだろうか。

これから始まる高校生活は価値あるものになるだろうか。

これから始まる人間関係は得難い友情を築くだろうか。

私は不安だ。自信がない。牡丹さんだけが私の希求する光明であり感傷を呼ぶ愛着であり唯一の親友であり私の内情を知っているかもしれない人だ。牡丹さんと一緒にいる為に私はこの学校で何事もなく過ごしたい。目立たない存在でいたい。

例えるならば桜に見劣る梅の花。

私は私を見てくれる牡丹さんのためだけに咲きたい。

ああでも梅の花も可愛いから私には贅沢な例えかも。

教室に戻るとあやめと陽平君が明るく迎えてくれた。陽平君には先生に上手くは言えなかったことを謝罪した。あやめにはできるだけ優しげに微笑んでみた。特に上手くはいかなかったから自己嫌悪した。

卯月/あやめ

教室に戻ってみることにした。入学式まで時間がないからだ。このまま帰るには私は余りに無実だと思う。突然見知らぬ人に絡まれて眼鏡を奪われて思わず逃げ出してしまったけれど、向こうがごめんと言って引き留めに来るでもない。あの人の名前も知らない。顔も見なかった。これでは余りにあんまりだ。

私が入学式まで放棄することはないだろうと思う。

しかし酷く惨めではある。

教室の前に来ると騒々しくて、明るくて、私はとても悲しくなった。

出席はもう取ったのだろうか。

私は遅刻ということになるのだろうか。

「あっ!!」

その女の子の声は、明らかに私に向かっていた。教室のドアから先への敷居が高く感じられて足を踏み出せずにいた私には嬉しいものだった。

「あの……」
「良かった! 先生が来て、タカシナさん居ないから、あの男の子が話してくれて、もう入学式だから身だしなみをって言われて、あ、トイレもね、向こうにあるんだけど場所分かる?」
「うん。トイレは大丈夫」
「良かった! あ、ボタンは留めた方がいいみたい」

彼女は忠実忠実しく私のブラウスのボタンを留めた。

「遅れた理由をね、話さなきゃだと思うの。最初の日だから、その時は私はいなかったから、私が説明できたら良かったんだけどね、でもあの前の席の男の子が話してくれたから大丈夫。心配だけどね、私、一緒に先生のとこ行こうね!」

うむ。

なんだか如何にも女の子然としたクラスメイトに気遣われているようだけれど、話していることが要領を得ない。

教室を見回してみる。

男の子と目が合った。

「あ、タカシナさん。戻ってたんだ」
「はい、すみません」
「なんか災難だね。朝来てた先輩達、学校では結構有名な人らなんだよね。先生にタカシナさんのこと説明しづらくて、校内に何か落し物したみたいだって言っといたよ」
「ありがとう」

男の子はちょっと疲れたように笑った。

「俺の方は先生に目付けられちゃってさ、タカシナさんも上手いこと言っといてよ」
「え?」
「いや、いいや。『落し物』ってのは本当なんだよな?」

『落し物』には、覚えがある。

「タカシナさん、落し物したの?!」

女の子が心配そうにそう言った。悲鳴みたいな声だった。

「いや、大丈夫。それよりさ、名前聞いてもいいですか」
「あ、私! 下遠野菖蒲。あやめって呼んで!」
「あやめちゃん、色々ありがとう」

あやめは照れ臭そうに破顔した。

「俺は菖蒲陽平。陽平でいいよ」
「ありがとう。助かりました」

陽平君はやはり疲れたように笑った。

「私、先生のところに行ってくるね」
「うん!」

職員室に向かうと何故かあやめが自然と付いて来た。来るなとも言えない私は親に付き添われているようで妙に気恥ずかしかった。

「ピンあげよっか」
「え?」
「これ! 私よくピン失くすからさ、ポケットのとこに留めてるの。ピンってすぐ失くなっちゃうんだよね。だからこうしてさ、無いと不便だしね」

あやめの手にはヘアピンが摘ままれている。

「前髪かかっちゃうでしょ。入学式だと何度もお辞儀したりして邪魔になっちゃうから、ヘアピンあったらいいと思うんだ」
「ありがとう」

勢いに押された。

なんとか有耶無耶にして断りたいところだったけれど、あやめは立ち止まって私の前髪を留めてくれた。

「ありがとう」
「いいよ! あのね。実はさ、タカシナさんすごい可愛いなってね、ずっと思ってたの」
「は?」
「教室でタカシナさんの隣空いてなくてさ、私ちょっと遅刻しそうだったから、前の方しか空いてなくてさ、だから席はすごい遠いんだ。でもこうして友達に成れてすごい嬉しい」

私の目にあやめは本心から照れて嬉しそうな表情をしていた。私がこの高校の入学試験に合格したことが分かった時でもこんなには嬉しそうにしなかったと思う。

あやめこそ可愛い女の子だよ。

「タカシナさん、名前なんていうの?」
「うめか」
「うめか! 可愛いね!」
「ありがとう」

じっと見詰められた。

「あ、やっぱり、あの、前髪ないと顔見えてさ、やっぱ可愛いね」

あやめが赤面したので釣られて私も顔を赤くした。

なんか恥ずかしい子だな、と思った。



【あやめ】

藤ヶ谷 かんな/Queen's Smile

高校生って言っても周りに居るのはついこの間まで中学生だった連中だからやっぱりどうもガキっぽい。だから先輩達が来てくれて良かった。丁度良い退屈凌ぎになる。

「一年の女の中じゃ、かんなが一番可愛いよ」

中学が同じで知り合いだった久保田先輩がそんなことを言ったお陰で他の先輩達が興味を持ってくれたらしい。入学式を控えているというのに『一年で一番の美少女』を見る為にさっきから何人もの先輩達が私を囲んでいる。

「あ、久保田さんみっけー」

そう言って近付いて来た人は中々レベル高い顔だ。可愛いジャニーズ系の顔。

「こっちこっち。こいつが『かんな』。可愛いだろ」
「あ、噂のかんなちゃん? まじだ、すげー可愛いっすね。つーか俺らかんなちゃん探すのにクラス間違えてなんか面倒なことになっちゃったんすよね。あ、俺は猫島ってゆーの。よろしくねー」

猫島先輩はにっこり笑った。

なんか女装させたいくらい可愛い顔だわ。

「お前、手伝いに来て面倒起こすなよ」
「藤瑚がなんとかしてくれるからいいんですよ」

猫島先輩はいい笑顔で久保田先輩にウィンクした。

「久保田さん、設営の人が探してましたよ」

そう言ったのは猫島先輩と一緒に来た人だ。かなり長身でいい男だけど私には興味無さそうなのが伝わってくるからこっちもその気にはならない。

「じゃあ俺行ってくるわ。かんな、そっちのデカい方の男には気を付けろよ。捨てられた女に刺された傷が身体中にあるって噂だから」

大丈夫でしょ。

こいつは私に興味無いだろうし。

久保田先輩はそう言って教室を出て行った。

「連絡先教えてよ、ね」

猫島先輩は早速そう言った。人懐こい笑顔でそんなこと言うから許せちゃうところが罪だわ。いつもにこにこ近くで笑ってくれたら癒されそう。

ヤバいのはこっちでしょ。

猫島先輩は自分の武器を自覚している人だ。

「ちゃんと連絡くれるんですか」
「今度ハクと花見するから、一緒にどう?」
「お花見いいですねえ」
「そうっしょ?」
「じゃあ、花見、絶対ですよ」

連絡先を交換すると猫島先輩はあっさり帰っていった。猫島先輩もそれ程私には興味無いらしい。

程良く時間も潰せたところで、私は近くに座っている女の子に声を掛けてみた。先輩達とのやり取りを聞いてはいたらしく、そのことを話すと喜んで食い付いてきた。

高校生活もちょろいわ。

笑ってれば上手くいくんだから。

退屈な高校生活が、しかし思い通り順調に滑り出したことに私はほくそ笑んだ。



【Queen's Smile】

卯月/浮き雲

目をじっと合わせてからの、シカト。

私のぎこちない「おはよう」を不気味に感じたに違いない。せっかく声を掛けてくれたのに、私はなんて失礼なことをしたのだろうか。これから1年間、或いは3年間は同じクラスで過ごす可能性だってある人なのに。

努めて笑顔で。

笑え、私。

「おはよう、ございます」

とりあえず隣の席の人に言ってみる。

「私、あの。ええと、緊張しますね。あの、これから同じクラスだから、あの、よろしくお願いします」
「……、そっすね」

これは失敗した。引かれた。しかも名乗り忘れたら向こうも名乗ってくれなかったし距離を置かれた気がする。

男に声掛けたからか。女の子は女の子同士で集まっているみたいだし、私もあそこに入らないと。今から入らないとこれから先はもう居場所がなくなる。

どうしよう。周りに私みたいな人が居ればいいのだけれど、見回してみれば教室の最後列には強面の男しかいない。後は私と似た様な雰囲気の女の子が携帯をいじっている。あと本を読んでいる男もいるけれどあの人はもう友達作る気ないんだろうな。

ああ、でも。

『友達なんて無理して作る必要ないよ。うめにとっていい友達をゆっくり探せばいいんじゃないの』
『緊張しないで、リラックス、ね』

牡丹さんのくれた言葉だ。

そうだ。

何を気張る必要があるのか。

如何にも授業をサボっていそうな男に愛想よく話し掛けなくても良かったんだ。

私は周囲をきょろきょろ見回すのを止めた。ぼーっとしてみる。リラックスしてみる。なんか落ち着いてきた。トイレに行ってこようかな。トイレが綺麗だといいな。花なんか飾ってあったりして。

「こんにちは」
「あっ、こんにちは!」

声を掛けられた。その人は机越しに私の目の前に立っていた。

笑え、私。

「うーん。やっぱり違うと思うんだけどなあ」

何、何が?

「でも顔よく見えねーし。ねえ、髪にちょっとホコリ付いてる」
「えっ」

その人が私の方へ手を伸ばしたから私は反射的に椅子を引いて逃げた。なんか変じゃないかな、この人。顔は、なんて言うか可愛くて愛嬌があるのに、やってることが突拍子もないから警戒してしまう。

「逃げないで。取ってあげるから、ね」

もの凄く好感度の高い笑顔でそう言われると無下にはできないものである。あと、この人がさっき言った『取ってあげるから、ね』って言い方が牡丹さんに少し似ていた。

親切な人なんだ。

突拍子もないけど。

私は少し俯いて目を閉じた。

「うああ、なんでっ。駄目!!」

私がデカい声で叫んだことには理由がある。突拍子もないことに、眼鏡を取られたからだ。

教室が静かになったことが分かった。

「あー、ごめんごめん」

何、何?!

何これ?!

顔を見られたくなくて、私は顔を下げた。眼鏡を返して欲しくて手を差し出したのに、その人は私の前髪を触って来ただけだった。驚いて私は仰け反ったのだけれど、それだけで済まずにすっ転んでしまった。

おかしい人間だと思われた。

きっと変人だと思われた。

私は居た堪れなくなって教室から逃げ出した。

最悪だ。

目立ちたくないのに。

教室にどうやって戻ろうか。どんな顔で戻ろうか。だいたいあの人はなんだったのか。誰だったのか。クラスメイトだったら私はまたしても失礼なことをしてしまった。

でも他人の眼鏡を取るっていうのは普通じゃない。

あんな笑顔で誤魔化しても私が驚くのも無理はない。皆にそう理解してもらえていたらいいのだけれど。

ああ、でも。

周りの人からしたら、私が急に叫んで教室を飛び出したってだけだから、私をおかしい人間だとしか思わないかもしれない。

「(もう嫌だ。)」

私はなるべく人の気配の無い方向を探して歩いた。

こんなのって無いよ。

牡丹さんに会いたい。

早く今日が終わって、牡丹さんに会えたらいいのに。

私はその場にしゃがみ込んだ。

溜め息しか出てこない。

最悪だ。

目の前には大きな窓がある。窓から見える青空には純白の雲が優雅に浮いている。仲間外れの雲が見えた。形が違う。きっと浮いている高度も全然違うのかもしれない。あれは、私だ。

私の目には涙が滲んでいた。



【浮き雲】

卯月/登校

目覚ましが鳴って起こされた。朝の支度はさっさと済んで予定より少し早く家を出た。風の強い日だった。

制服姿の私に牡丹さんは喜んで写真を撮った。牡丹さんに本当のことを言えないでいる私は適当に笑ってそれに応えた。溜め息は白く濁って広がる。

私は幸せだった。

夢に見た生活。憧れた生活。

家に居る間、学校に行くまでの間、私はその幸せに浸ってより絶望を深くした。



【登校】



新学期、私は今直ぐ消え去ってしまいたい様な暗い気持ちでいた。

私は父の車に乗っている。右手には父がいて、助手席には母がいる。彼らは二人とも牡丹さんの様には喜んでいないことが妙に心細い。

「式の後は一緒に食事をとろう」

父が提案した。

「新入生は少しオリエンテーションがあるって。だから直ぐには合流できないと思う」
「そうか。そうしたら、私達はホテルで待っているから、お前はこの車で後から来なさい」

父は仕事の約束を取るみたいな口調でそう言った。

「わかった」

私の返事に父は黙って頷いた。

私はこの春、今日この入学式の日を迎えて花の高校生になる。憧れていた志望校の真新しい制服に身を包んで。派手過ぎない、でも華やかな、可愛い、私には不釣合いのブレザー。

「(きっと嫌になる。)」

私は心の中でそう思った。

帰るなら今じゃないか。でも高校を卒業できなかったら牡丹さんとの約束が果たせない。今日を耐えられなければ、卒業なんて夢のまた夢だ。

約束を破れば私はまた、……。

車が速度を落としたので顔を上げると、そこはもう校門の前だった。真っ白い下地に“入学式”の文字が書かれた看板が一際眩い輝きを放っている。

一緒に車を降りた母が右手を挙げて「行ってらっしゃい」と言った。その上品な仕草を父が愛おしそうに見ていたのを私は知っている。

牡丹さんの家族とは違う。

何かが決定的に違う。

私は父母に背を向けて一歩踏み出した。足は酷く重くてその場に座り込みたい衝動に駆られる。

ああ、なんてことだ。

もう引き返せない。ここまで来たら後はもう教室に入ってあの閉鎖的で嫌に明るく健やかで賑わいと緊張と喜びの満ちた空気を吸うことが義務付けられてしまう。

目が合った。

たぶん上級生だ。

「おはようございます」

その笑顔が嫌だった。作り物みたいに整い過ぎた笑顔は私の心を写す鏡に思えてならないから。

私は逃げる様に早足でその場を離れた。

会釈をした積もりだったけれどそのまま下を見て歩いたからそうは思われなかっただろう。私の長い前髪が目にかかる。

「おはようございます」
「おはようございます!」

後ろからまた上級生の声が聞こえた。そして女の子の挨拶も。

ああ、あの子はちゃんと挨拶を返したんだ。こんな当たり前のことなのに私にはできなかった。入学式には基本的に新入生しか出席しないらしいから、あの上級生は何か役職のある人だったのだろうか。だから挨拶すべきという訳ではないけれど。

切り替えよう。

学校では違う自分になるんだ。

挨拶もしよう。

作り物で何が悪いと言うのか。美しい造花を愛でる人だって沢山いる。或いは写真や絵画が現実をより写実的に見せることさえあるのだから、作り物の笑顔が悪いということもない。

新入生のクラス分けで自分の名前を確認して、私は覚悟を決めて教室に入った。

そこは明るい場所だった。どこまでも明るい、未来ある場所だった。

私は笑ってみた。

気持ち悪くなった。

早く来過ぎたのか教室には数人しか居ない。彼らは元から知り合いなのか既に打ち解けて話している。

私は一番後ろの席に座った。黒板に大きく『自由席』と書かれていたから教師の目に付かなそうな座席を選んだ。一番後ろの廊下から二番目の特等席だ。自由席というのは予想外だったけれど早く登校した甲斐があった。そこに座ってまた教室を見回してみる。

「(馴染めない気がする。)」

余りに暗いことしか考えられなかったから、私は牡丹さんのことを思い出してみた。

優しい声で「おはよう」って言ってくれた。髪を梳かしてくれた。温かいお茶を淹れてくれた。制服に変なところがないか確認してくれた。玄関まで来て「行ってらっしゃい」って言ってくれた。牡丹さんの笑顔は少しも嘘っぽくないから安心できた。

牡丹さんに来て欲しかったな。

仕事があると言っていた。

日曜日なのに?

お願いすれば来てくれただろうか。

分からない。

「おはよう」

そう声を掛けられた時には、座席の殆どが埋まっていた。慌てて「おはよう」と答えたけれど、上手く笑顔を作れたかどうか自信がない。

私は後戻りできないことを深く自覚した。
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卯月(卯の花が咲く)

藤波の咲く春の野に延ふ葛の
下よし恋ひば久しくもあらむ

序詞

やまとうたは、人の心をたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひいだせるなり。花になく鶯、水にすむかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をもいれずして天地をうごかし、目に見えぬおに神をもあはれと思はせ、男女の中をもやはらげ、たけきもののふの心をもなぐさむるは歌なり。
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