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ノイウェンス ハウゼン/解放

僕が結婚したいと言った時の先生の顔、とても悲しそうだった。いつも先生から離れることを考えていたのに、そのはずなのに、あれ以来いつかはこの人と離れてしまうのだと思い知らされた。

「僕と付き合ってよ」
「……」
「ダメ?」
「当たり前だ」

離れようとすれば苦しい程に傍らに縛り付けて繋ぎ止める癖に、寄り添おうとすれば寂しい程に拒絶して引き剥がそうとする。強がるから弱って見える。笑顔は冷たい欺瞞。罵声は仄甘い熱情。先生といても辛いだけ。

惹かれるものは何もない。けれど一生に一度の人だということは分かる。

「先生と一緒にお昼を食べたい」
「断る」
「僕は先生のものでしょう?」
「……」
「先生は、僕のものにはならないでしょう?」
「私は私だ。ノイも誰のものでもない」
「……」
「今日はもう帰れ」
「ねえ」
「帰れ」
「先生と一緒のものが欲しい」

無性に別れ難いのは僕だけ?

「淫乱な女みたいなことを言うな」
「会ったことない」
「……」
「先生は女の人が嫌いなの」
「……」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! ヤだ…ッ!!」

先生の暴力は大概本気ではない。痣になるように蹴ったりはしないし、教鞭で叩かれた痕も気付いたら治っている。だからいつか僕から全ての痕跡が消えていくのかと考えると言いようのない切なさがあって、そういう自分も、そういう自分にした先生も憎い。

「悪い子は嫌いだよ」
「……」
「ちゃんといい子にできる?」
「うん」
「そう、よかった」
「ねえ」
「……」
「……付き合うってことは、別れられるってことだよ」
「……」
「ねえ」
「……」
「付き合おう?」

先生の恋人だったのは1日だけ。別れは静かに告げられた。僕の手では二人分ある手作りの昼食が揺れる。ゆらゆら揺れて崩れて形も残さないものなら良かったのに。

消えそうにない傷痕は心にあった。

「別れよう。だからもうここへは来なくていいよ」

やっと言ってくれた。ありがとう、その言葉をずっと待っていたよ。先生が綺麗に笑うから、楽しくなかったけれど、僕は先生と一緒になって笑うしかなかった。

「言うのが遅いよ」

フランツ マイヤー/衝動

そのつもりはなくてもノイを前にすると感情が心の奥底から突沸する。それはそうしてぐつぐつと煮立ち、直ぐさま自分でも何か分からなくなる。

「ノイ」

ノイは静かに座っていた。床にある体育着が気になったけれど、私をじっと見詰めるノイを前にしてしまえば彼を抱き締めずにはいられない。

「いい子にしてた?」
「……」
「寒いね。制服持って来るから、もう少し待っていられる?」
「うん」

準備室にある制服は私を責める。

始めは純粋に可愛いと思った。しかし必修であるはずの私の担当科目を履修していなかったノイとの接点を見付けることは難しかった。だからと化学第二準備室へ連れて行こうと強引にノイの手を握ったあの時に、きっと私の中の何かが弾けてしまったのだ。箍が外れてしまったのだ。大切なことを忘れてしまったのだ。

「これを着て」
「……」
「ノイ、この体育着は何?」
「知らない」
「最初からあったわけじゃないでしょう?」
「知らない人だよ。その人が持ってきた」
「名前の刺繍があるから、」
「そんなの要らない!」
「……」
「ここは寒いから嫌い」
「……」
「僕は先生を待ってたんだよ。先生以外じゃ、駄目なの」
「……」
「だからこんなの置いて早く行こうよ」

触れなければ良かったと、何度となく思った。

ノイは私を狂わせる。私がノイを狂わせるよりももっと強い威力をもって確実に蝕んでゆく。ノイは一方で私を拒絶しながら、他方で私を束縛する。世界に二人だけなら良かったのだ。そうでないから狂うのだ。

狂気の中にある平穏に心から安らぐ自分が怖い。

「先生のこと嫌い」
「……」
「叩くし置いて行くから」
「お仕置きだからでしょう?」
「でも嫌い」
「……」
「もう叩かないで」
「ノイが悪い子だからだよ」
「先生が怖いからだよ」
「そう思うなら、いい子にしてね」
「もう叩かないで」
「……」
「本当は叩くの止められるでしょ?」
「……」
「そしたら僕、先生と結婚したい」

知的で神経質そうな顔と仕草。丁寧な言葉遣い。育ちのいい上品な感性。真面目さと堅実さの漂う筆記体。そのどれもがノイを形成する為の必要な部品、私以外は。

「結婚する時は僕がお嫁さんになってあげる」

ノイウェンス ハウゼン/笑顔

とてつもなく大きな力で捩じ伏せられる心地がした。善悪の区別よりも恐怖感が先行した。目前の薄ら笑いが脳裏に焼き付いて離れない。

「もっとこっちへ来て」

放課後たっぷりと勉強をした後に、帰ろうと一人廊下を歩いていた僕に声を掛けたのはまだ若い先生だった。本当のところ、僕には彼がなんの科目の担当教官かも分かっていなかった。用事があると言って化学第二準備室に連れて来られ、強引に僕とハグをした。

「どうしたの、先生が怖い?」
「……」
「なんで基礎化学を履修しなかったの?」

先生は僕を持ち上げ教官用の大きな机に座らせると腕や脚をさすった。抵抗してはいけない気がしたけれど、その手の動きは気持ち悪くて恐怖を掻き立て僕を混乱させる。

「どうしてなのか、言って」
「……」
「ノイ、先生に怒られたくないでしょう?」
「……」

何か言いたくても声が出なかった。

だいたい僕は、この人の名前すら知らないのだ。

「せんせ、……だれ?」

そう言った途端に先生は表情を変え僕を机から床に引きずり落とし、僕のズボンを下ろして強く尻を叩いた。その時に漸く嫌だと言って抵抗したけれど、口に近くにあった雑巾を詰められて何も言えなくなってしまった。

何度も叩かれて尻がひどく痛むようになって、やっと先生はその手を止めた。

「お仕置きだよ。お前が悪い子だからいけないんだよ」

叩いて熱くなった手でゆっくりと先生は尻を撫でた。でもその感覚はあまりなくて、泣きじゃくっている僕には口に何かを詰められていることの苦しさが強かった。

「そんなに泣くから顔が汚れてるね」
「……」
「大声を出さないって約束するなら、これを出してあげる」
「……」
「約束できる?」
「……」
「いい子だね」
「……」
「それで、お前は先生のことを知らないの?」
「……」
「マイヤーだよ。忘れたら、また怒るから」

先生の笑顔はピノのものに似ていると思った。作り物の笑顔。楽しくなかったけれど、僕は先生と一緒になって笑うしかなかった。

ズボンを下ろされたまま僕は基礎化学を仮既習していることを説明した。また怒られるかもしれないと思っていたけれど、先生は化学が好きなんだねと言って喜んでくれた。

「ノイ、また明日もここへ来てね」
「……」
「約束破ったら、お仕置きだからね?」

先生は次第にエスカレートしていった。

マイヤー先生は僕を見掛けるとにっこりと笑って手を振る。僕は同じように先生に返すけれど、どうしたってぎこちなくなるのだった。

「今日はどんなことがあった?」
「授業だけ」
「お友達とはどういう話をした?」
「……憶えてない」

準備室に入ると鍵を閉める。それは恐怖感を煽るのと同時に安心感を与える。誰かにこの姿を見られなくて済む。先生よりも僕は自分の方が悪いことをしているようで、今の状況を誰かに言うなんてできなかった。

制服を次々と脱がせ丸裸にすると先生は僕の身体を丹念に舐める。隅々まで舐めながら、おまけみたいな会話をする。

「授業で分からないところはある?」
「うん、あ、でもピノが教えてくれるから平気」
「なぜ先生に聞かないの」
「……」
「どうして黙るの」

先生が怒ったのが分かって、でもどう言えばその怒りが収まるのかは検討も付かなかった。ごめんなさいと言い切る前に僕は床に放り投げられ先生に教鞭で叩かれた。

教鞭は細くてしなるからすごく痛い。自分の手が痛くなるのが嫌になって、先生はお仕置きする時に物を使って叩くようになったに違いなかった。

「もうピノとは話しちゃ駄目だ」
「……」
「約束しなさい」
「……」
「約束しなさい!」
「できない!」

約束しても守れるとは思えなくて、でも約束しなくても同じように酷い目に合うことは分かった。どちらにしても同じなのだから僕は約束しようとは思えなかった。

先生が今までにないくらいに怒っていると気付いたのはその直後。

先生は僕を準備室の外、化学第一準備室、化学室まで蹴って押し出してからすべての鍵を閉め自分はさっさと廊下からどこかへ行こうとするのだった。僕は混乱しながら先生に縋り付いたけれど何も聞き入れてはくれなかった。

「そんな姿で、恥ずかしくないの?」

そう言って笑う先生と目が合ってから、僕は靴下だけの惨めな姿でいることに気付いた。

流石に先生と一緒に階段は降りられなかった。僕は化学室や化学準備室の廊下側のドアをすべて確認したけれどどれも開いてはくれなかった。恐怖や悲しみよりも誰かに見られてはいけないという思いがあって、一番近くのトイレへ入った。

僕は人がいるのも構わず個室に駆け込んだ。蛍光灯はくっきりと僕の姿を照らし出す。

「どうしたの」
「……」
「なんで服を着ていないの」
「……」
「誰かに取られたの?」
「……」
「大丈夫?」

ドア越しにでも、その人が僕を本当に心配していることが分かる。暫く一方的に話し掛けられた後に、その人はトイレを出て行ったようだった。

寒くて不安で僕は泣くこともできなかった。さっきの人に助けを求めなかったことの後悔はあったけれど、これまでのことが全て知られてしまうことの方が怖かった。これから先も同じようなことが繰り返されるのかと考えると陰鬱とした気分になる。

そして突然、ドアの上から服が落ちてきた。

「それ私の体育着だから。下着はないけど、そのまま着てください」
「……」
「もう校舎が閉まるから、それ着て帰ろうよ」

僕はその厚意に甘え掛けてから踏み留まった。

準備室に閉じ込められたことは何度もある。絶対に誰にも見付かってはいけないよと優しく囁いてから先生は僕を残してどこかへ消える。今回もそれと似たようなことなのだ。いつもより怒っていたけれど、多分結末は同じ。

先生が僕を迎えに来てくれる。

服を投げ入れてくれた人は僕の反応がないからか帰って行った。個室の床に散らばる役立たずの服を眺めて、その惨めさは僕に近いものがあると思った。

僕を助けるのは先生でなければならない。それ以外の誰でもいけない。先生だけが僕を救う。

「ノイ」

震える僕の肩を抱き寄せるのはいつも先生の温かく大きな身体なのだ。そうでなければもう安心できない。先生が体育着を踏み締めるのを見て、そう思った。

残酷なのは先生ではなく、見知らぬ優しい人の方。

クレシエル

話し掛ける相手の感情がある程度分かるという単純なことが、どれだけの安心を齎すものか俺は知っている。

「それは、おめでとう」
「ありがと」
「わざわざ俺に知らせてくれるなんて初めてじゃない?」
「うん」
「……よかったな」

兄は自分のことのように微笑んで、俺を純粋に祝福してくれた。兄が俺のそういう関係に必ずしもいい感情を抱いていないのは知っていたから、本当は報告するつもりはなかったのだけど、今になってしまえば言ってよかったと心から思える。

「お兄様は、どうなの」
「どうだろう」

苦笑いする兄は、それでいて困った風ではない。自分の好きな人がまた自分を好きであるということと同じくらいに、自分の恋人との関係が祝福されることは俺にとって信じられない程の感動を与えた。これ程までに嬉しいことってないんじゃないか。

昔は違った。

何が兄を変えたのだろうか。何が俺を変えるのだろうか。

人間の精神的な事柄について、時間が大きな変革の力を持たないことは知っている。俺たち家族は、それを痛い程に知っている。

人の心を変えるのは、一番にはやはり人の心なのかもしれない。

ノイウェンス

ぐらぐら揺れる。

「まあでも、君が、俺を、その、嫌いな理由は、他にもありそうだけどね」

信じていたものはなんだろう。

僕は誰の噂話も陰口も鵜呑みにはせず、自分の見て聞いたものだけを信じた。それが突然、それこそが間違いだと言われて、僕はどうしたらいい。何を見ればいい。何を知ればいい。事実が真実と食い違うなんて、僕は知らない。

だから嘘も偽物も嫌い。

どれほどの間違いを犯してきたことになるのだろう。これまでのものが前提から違ったのだから、僕のすべてが偽物みたいに思える。僕こそが長い間嫌忌し続けていた偽物だった。

「嫌いに、ならないで」

その言葉にはっとした。ピノは、今度は、感情を全て押し込めるように僕を鋭く見詰める。縋るように、切望するように、痛むように。

その瞬間に、振り出しに戻った。

「何か、言ってよ…」
「ごめん」
「……」
「分からないんだ」
「何が?」
「ピノのこと、好きだったよ」
「え」
「でもどこからかそれが変質して、今はもう分からない」
「……」
「いや、分からないわけじゃない」

分かってる。赦したくて、その大きな身体を抱き寄せたくて、頭を撫でながらいいんだよと言いたくて。僕の芯からの衝動は分かってる。

ピノの困惑する表情というのは、なかなか見られないだろう。眉を寄せ、息を詰まらせ、涙を流し、助けを求め、苦痛に耐える。それは今まで出会ったどんなものより美しいものだった。

消えゆきそうな作り物は、そこにはない。

「君がそんな風にならなくたって、僕は君と友達になりたいと、入学式のあの日に、思ったのに」

ピノがヒーローになってからずっと思っていたことが、言いたくて仕方のなかったことが、漸く言えた。彼はその意味を判断しかねるように、一層困惑したようだったけれど、僕はあまりの爽快さに笑いすら込み上げるのだった。

「誰もピノを嫌いになんてならないよ」

ノイウェンス

「ザハトさん、君のお父様、元気?」
「え」
「時々僕の家の病院で見掛けたから」
「元気、だと思う」
「どうして見捨てたの」
「……」
「すごく弱ってたから、僕、そのまま死んでしまわないかって…」
「そう、あの病院の」
「どうして見捨てたの」
「そういうわけじゃ、ないんですよ」
「奥様の看病だって、」
「……」
「どうして、」
「引っ越したのは、」
「療養? 奥様を置いて?」
「……」
「ザハトさんがどれほど弱っていたか、知ってるの」
「待って、ごめん。本当のことが知りたいの?」
「もちろん」
「失礼なようだけど確認させて。誰にも言わないなら、君になら教える」
「……言わないよ」
「そう」
「……」
「あの人、まず、このあいだ亡くなったっていう俺の母親、後妻なんだよ」
「……」
「再婚したのは俺が退学してから」
「……」
「退学する直前に生みの母が死んで葬儀に行かされて、それで初めてあの人は母親じゃなかったって知ったんだよ。そもそもあの人を母だと思うようになったのは寄宿舎に入って少ししてからで、ほとんど他人と変わらないしショックはなかったんだけど。毎週会うのは時間取られるし、母親との接し方なんて分からなくて困ってたし、ちょうどいいから見舞いは止めたの」
「……」
「他人だって知ったら全部どうでもいいやってなって、」
「……」
「だから見捨てたんじゃなくて、俺が捨てられたんだよ。父にも母にも」
「……」
「どう?」
「ごめん、なんか、頭の整理が…」
「つまりあの人は退学するまではただの他人で、生みの母が死んだことで再婚が決まって、それに向けて俺は弟と暮らすことにしたの」
「……」
「どう?」
「いや、だからって弟と暮らす理由が分からない。弟の年齢考えても寄宿舎にいてよかったんじゃないの」
「……」
「現に今がそうでしょう」
「さすが、鋭い」
「…どうも」
「君のイメージ壊すようで申し訳ないけど、父は精神的に不安定で俺への暴力がすごくって、」
「え」
「あの頃の傷はだいたい寄宿舎の人がやったものだったけど、父の分もそこそこあったよ」
「……」
「だから俺は父が好きじゃないの。見舞いは論外。家庭内暴力は弟の教育上悪いから父から離れたくて」
「療養は、」
「作り話」
「……」
「2人して学校に行ってなかった言い訳が思いつかなくてさあ」
「……」
「今は週末に呼び出されることもないし、父もましになったみたいだけど」

ノイウェンス

本当はもう、何が真実かなんて分からなくなっている。呼ばれて振り返っても、そこにあるのは事実だけ。

「ノイウェンス!」
「……」
「間に合ってよかった。ムーア先生がこれを渡して欲しいって」
「ああ、また」
「うん」
「どうも」
「あなたのこと好きです」
「……」
「突然すみません。でも嫌われていたとしても、だからまた話し掛けてしまうと思います」

プリントを受け取ってすぐに前へ向き直ったから、またピノを振り返りたくはなくて、その顔は伺えなかった。けれど、その表情はなんとなく分かる。作り物の笑顔を湛えているのだろう。

美しいのは現実味がないから。

「じゃあ、いいじゃないですか」
「え」
「だから、嫌われても話し掛けるのなら僕がどうこう口出せないのでしょう」
「……」
「何」
「それは、それでも、悲しいよ」

あまりの痛切なピノの声に耐え切れず目線を向けると、彼はただ静かに下を見ていた。その表情は徐々に歪んで、僕はそれにすら見とれる。

「嫌い、なんですか」

大きく息を吸ったかと思うと、瞳からぼたぼたと涙を零した。吐き出される息の震えは離れていても伝わってくる。

「悪いところは直しますから、俺を、嫌いに、ならないで」

ほとんど真下を見る彼の表情はもはや見えないけれど、その声に嘘は無いように思える。ピノでも泣いたりするのかという驚きとともに、すべて赦してしまいたい欲求が湧き上がった。

ジョシュ

ピノには誰も敵わない。クラスアシスタントとして他のどのクラスのそれよりもクラスメイトには頼られていたつもりだった。けれど、ピノが戻ってきてからはそれも大した意味は持たなくなった。何においても一番はピノなのだから。

目の前にいる男は欠点のひとつも見当たらないような人間で、それを俺は嫉妬しているのかもしれない。

「どうしたの、大丈夫?」
「……」
「なに?」
「他の学校でもちやほやされた?」
「…いいえ」
「ピノってさ、自分が誰かを傷付けたかもしれないって考えたことある?」
「私があなたを傷付けたのなら、謝ります」
「違う」
「言われて気付くなんて遅いですけど」
「だから違うって!」
「すみません」
「…いつも自分が正しいことしてますって態度取るよな…」
「すみません」
「謝らなきゃいけないのって、俺に対してじゃなくない?」
「……」
「急に戻ってきて、みんながピノを歓迎してると思わないでね」
「……はい」
「自分を歓迎しない人がいるって自覚あるんだ」
「ええ、あります」
「誰? 数え切れない?」
「言いたくありません」
「自覚あるんなら、いいや」
「……」
「自覚あるんなら、ちゃんとやれよ」
「それは、どういう、」
「ちゃんとやれよ」
「……」
「俺は“あいつ”が傷付く姿を見たくない。自分から痛いと言えない人に、漬け込むような真似も赦さない」

ピノがとても悲しい顔をしたから、ピノにとっての“あいつ”が誰なのかは明確じゃなくても、俺はそれ以上は何も言えなかった。

自分こそ誰より傷付いているような顔をするなよ。

そうして唐突に浮かんだのは、ずっと昔のこと。いつも傷だらけで、痣だらけで、それでも笑顔を絶やさなかった。俺たちの期で初のクラスアシスタントに選ばれ、その任期が終わらないうちに学校の大半を敵にして彼に不安がなかったはずはない。俺だってあの頃、ピノの言うことに素直には従わなかった気がする。

忘れていた。

ピノはこの寄宿舎で誰よりも多くの人に傷付けられたんじゃないのか。あらゆる暴力的な手段で蹂躙されたんじゃないのか。

ピノは悲しい顔で、それでも真っ直ぐに頷いて、俺を見た。

リリスレイ マープレシーボ/忘れ物

ジャックが地面を這ってでも到達したかった場所ってなんだろう。その手も顔も泥で汚して、心までも打ち砕かれそうになりながら目指した光はどこから差していたんだろう。

僕には手の届かない崇高なところ?
僕には立ち入ることのできない清らかなところ?

とにかく、最近のジャックは前に増して穏やかで嫌になる。無邪気に笑うジャックをどうしてそのまま受け入れられるのかな。フォルテ・トロイはその変化に気が付かないのかな。

ジャックには大きな傷痕があって、それが痛むらしい時の彼はたまらない。僕の何かが昇り詰める。

永遠に癒えないからよかったのに。

忘れるはずないんだ。忘れそうになれば何度でも自分でその同じ傷痕を抉っていたのはジャック自身じゃないか。忘れられないはずなんだ。

忘れたくないはずなんだよ。

なのに、どうして、すべてなかったみたいにしていられるのだろう。忘れ物は僕が届けようか。落とし物は僕が拾うから。

苦しみ喘ぐあなたでなければ嫌だ。

オットー

ピノは自由な人だ。相部屋になって気付いたのはそんなこと。

「すごいよねー」
「はい」
「オットーは好きな子はいないの?」
「…機会もないので」
「なにそれ」

この人の含み笑いは本当に何かを含んでいるに違いない。声も出さずに、しかしこちらにはその笑顔が容易に想像される。筋肉質な身体とは対照的に、表情はとても繊細だ。

「ねえ、じゃあキスはしたことある?」
「……」
「あるんだ」

綺麗なものは綺麗なほどいい罠になる。

ピノの目は澄んでいて綺麗。でもそれを見詰めてはいけない。吸い寄せられるようにして覗けば、そこに写るものは自分の顔でしかない。綺麗なものを見ようとしても、そこにはないんだ。

ピノの含み笑いにはなんの詮索も下品さも感じられない。ただ何かを含んでいるという意識だけが俺の中に生まれて、自分から自白させられるのだ。敵わないと、そう思わせる。もしかしたらピノは何も知らないかもしれなくても、そんな仮定はないのと同じになってしまう。

「この寄宿舎で8回生でキスしたことあるって、早い方だよねー」
「……」
「無理矢理されたんだ」
「思考を読まないでください!」
「あはは、無理矢理されたんだ?」
「……」
「女の子って、そういうところで押しが弱い男は好きじゃないのかと思ってた。オットーの彼女に会ってみたいなあ」
「……」
「大丈夫。俺は人の彼女には手を出さない主義だから」

ピノはだいたいのことを見透かすけど、時々肝心なことを遣り過ごす。肝心でありながら関係に支障のないことだから遣り過ごしたって平気なのだけれど。

それも罠のうち。

「でもオットーって基本が男前だから大丈夫なのかもな」

ああ、この人は自由だ。自在に走り、飛び、泳ぎ、話し、自在に笑い、笑わせ、困らせ、話させ、自在に生きる。自由だ。この人は何にでもなれるに違いない。

寄宿舎中の憧憬を一身に浴びながら、それでも、なお自分の為の自分の人生を見失わない。それがどれほど素晴らしいことか知る必要もない。

限りなく自由。

ノイウェンス ハウゼン/見学

本当は僕もはしゃぎたい。

体育の時間に遠くで聞こえる声はとても楽しそうでうらやましい。その中で一緒に笑っていた時期もあったけれど、もうダメだ。

だから遠くで聞こえる。

僕は先生に渡された特別のトレーニングが書いてある紙に目を落とした。体育を受けられないからその換わり。無理はしなくていいと散々に注意されたので適当にこなす。だいたい無理をして筋肉を付けるつもりもない。

僕の身体は丈夫にできている。こうなるまでに風邪をひいたことはなかったし、そもそも人間というのは簡単には死なない。周囲の過剰な心配は嬉しいけれど失礼ながら的外れだなと思う。

だいたい身体が弱かったのはピノの方だ。今でこそ逞しくなって帰ってきたけれど、あの頃は押せば倒れるような少年だった。庇護欲を煽るようなはかなげでか弱い少年だった。細くて白くて透けていきそうな少年だった。

そして美しかった。

トレーニングもそこそこにクラスの様子を眺める。グラウンドの土と草と湿った独特のにおいに居心地の悪さを感じながら、僕はただ身体を休める。

疲れる。ピノを見ると、疲れる。

アトム

平気です!
ぼくは高性能ロボットですから!

クレシエル

マイノリティというのはどうしたって集まるしかない。セクシャルマイノリティなら尚更だろう。正当化できなくたっていい、一人じゃないのだと分かるなら。

ずっとそうやってきた。

シュナイツが俺に興味を持っていたのはすぐに分かった。だから寮長と仲のいいジャックにお願いして外出届の許可を簡単にもらえたのをいいことに、俺はシュナイツと毎週のように会っては互いの理解を深めた。

シュナイツは文句なしでいい男だった。

俺は兄に自分の性癖を明かすのと同時に兄の職場の人たちにも正直に話した。なんて言われても気にしないようにして、ただ人間として好感を持ってもらえるように努めた。もし同じ性癖の人がいたらという淡い期待も込めて。

しかし多くの人は俺を避けた。普通に接してくれる人はいたけれど、同じ性癖の人はなかなかいなかった。

その頃から俺と興味本位で関係しようとする人はいて、そういう人はだいたい俺より女性の方が好きだった。悔しくて卑屈になったことは何度もあったけれど、仕方ないと割り切っている自分もいた。これから先もそういう関係でしかやっていけないだろうと思っていた。

好きになった人が自分を好きだと言ってくれるのは、だからそれこそ信じられないくらい嬉しい。

シュナイツが初めて好きだと言ってくれた時、俺は図書館の隅で美術の本を見ていた。知らないものがたくさんあるのだと漠然とした気持ちで眺めていた。

「この彫刻好きだなあ」
「そう」
「…クレシエルも、」
「……」
「俺、クレシエルが、好き」
「……」
「ごめん、こんなところで」
「俺も、」
「……」
「俺も好き、です」

嬉しすぎて緊張するなんて初めてだった。どうして今まで平気で話していられたのだろう。目が合うと、身体が触れると、声が聞こえると、心臓が壊れるくらいに高鳴る。

本を仕舞おうとした時に腕が震えていることに気付いた。

ハグするにも力が入らない。近付くにも上手く歩けない。話すにもいい返事が見付からない。世界がどうかしてしまったみたいだった。

どうかしてしまったのは、俺。

グレイブン

「……」
「お久しぶりです」
「あ、ああ、…ピノくん?」
「はい」
「……」
「……」
「あ、すみません、カギですよね」
「はい」
「いや、うん、……え…」
「また今日からお世話になります」
「あ、そう、そうなんだ」
「はい」
「カギ、ですよね」
「はい」
「こちらです」
「ありがとうございます」
「…いいえ」

久しぶりに見たピノはたくましくて違う人のようだった。それでも途方もない憧憬に変わりはないのだけど。

積極的

食べていい?

グレイブン サヨルフ/愛

頭がよくても他には何もない。
それが私。

それでも小さい時はクラスの有名人だったけれど、みんなが勉強以外の魅力に気付いてしまえばまるで陰の薄い人間になってしまった。それに授業の分からないところを聞きにくる人もいなかった。そういうことはだいたいクラスアシスタントや面倒見のいい人たちの仕事だ。

ボサボサの髪、皺だらけのシャツ、いびつなタイ、引きずって擦り切れたズボンの裾、伸びっぱなしの爪、そのどれもが私にとってはどうでもよくて、なのにそういう表面的なことで自分が評価されていることにも気付いているから苛立つ。そう思うと余計に容姿を繕うことが嫌になって、私は寄宿舎にいるあいだそういうことには必要以上に気を遣わなかった。

いつか誰かが自分の中身を評価してくれるに違いないと信じて。

成績だけはトップクラスで卒業したから大学院を出てこの寄宿舎に戻った時には喜ばれた。寮長をかってでて任されても生徒と特に仲よくなることもなくて、それを孤独というのだと気付いたのはジャックに会ってからだった。

ジャックの周りには人が集まる。

彼はいつも突然現れる。

「それってわざと?」
「え」

急に現れたジャックは制服を着ているから一度は学校に顔を出したのかなと頭の端で考えた。

そしてジャックは当然のようにソファに座る私の隣に腰掛ける。

「寮長って、実はすっげーえげつないの?」
「どこから聞いていたんですか」
「恋人いるんですかぁ? ってあたり」
「……」

面倒なことを聞かれたと思う反面、機嫌の良いジャックと話すのは嫌いではない。時折見せる笑顔は人懐っこくて愛嬌があると私は思う。

「で、わざとなの?」
「なんのことでしょうか」
「うっわー」

安いリアクションを取りながらどこからか煙草を出したジャックの手からそれを奪うと彼は甘えた声を出して、それがまた可笑しかった。

「話しを聞くつもり、あるんですか」

ジャックはまた安い謝罪をする。

「ごめんごめん。それより教えてよ」
「何が知りたいんですか」
「愛の告白を受け流す心境。本気っぽいのに可哀相に」
「……告白が不真面目だったという意味ではありません」
「寮長ってピノに好きって言えないだろ」

ジャックは背もたれに姿勢悪く沈みながら私を見据えた。

「はい?」

視線から逃げるように背筋を伸ばしながら、それでもまだ彼の機嫌が良いことを私は分かっていた。声が、違う。

ジャックは乱暴する時、酷く冷たい声で話す。

「同性だから蔑ろにするわけ」
「違います」
「ピノに告白してみたら?」

笑ってしまおうかと思ったけれどジャックの真剣な表情を覗き見てやめた。

「……ピノは私にとって救いなんです」
「救い?」
「君も私にとっては大切だけれど、ピノも同じように不可欠なんです」

全く違う存在だけれど。

「それが救い?」

ジャックは笑いもせず詰まらないものを詰るように囁いた。ちょっと低く響いたそれは機嫌が悪くなってきたように思えて私は焦る。

「ピノが私を清らかな気持ちにしてくれる。ピノはこんな私をも愛してくれる。それが私の人生のすべてなんです」
「何言ってんのか分かんねえ」
「分からないと思うよ」
「……」
「私の人生は否定で出来ていた。ピノはそれを唯一肯定してくれた。綺麗事を言うつもりはないけれどピノは事実美しい。ピノのことなら、だから、綺麗事を言ってもいいんじゃないかなって…」

ジャックはまた煙草を取り出した。ほとんど無意識らしいそれを私は静かに見詰める。

「それが愛かよ、」

ジャックのその呟きを私は心の中で反芻した。

「私の前で吸わないで下さい」
「は?」
「煙草は身体に悪いですよ」
「……ああ。じゃあもうやめるよ」

何が愛かなんて、君にはまだ分からない。

「ピノがいるから私は存在を許され、私はそのピノの前で一人の人間としてただ立つことができる」
「……」
「なんのしがらみもなく純粋に。だからピノは清らかな気持ちにしてくれる」
「……」

気を悪くしただろうジャックに私は大人気なく畳み掛けた。どこが彼のスイッチなのかは未だに分からないけれど、彼の声が教えてくれる。

ジャックは微動だにしない。

「赦されることが前提の告白にピノを巻き込むつもりはありません」

私は耐えられずに立ち上がった。

ジャックの優しさは血の味がする。

彼は言葉も行為も不器用で真っ直ぐで私の身体を貫いてそのままどこか遠くへ行ってしまう。ゆっくり回り道してくれれば、届くのに。

「…それが愛かよ、」

そうですよ。
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