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垢を脱ぐ

※BL
※41歳と35歳




昨夜、恋人と指輪を交換した。男同士なので実際に結婚することはないが結婚指輪のつもりで買った。

この感動を言葉にすることは困難だ。年のせいで脆くなった涙腺がこの感動に耐えられるわけもなく。俺はほとんど一晩中しくしくと泣いていたし、いまからだって思い出して泣けるほどだ。

蓮斗(れんと)と二人で選んだ指輪。その一つがいま俺の薬指にはめられている。輝くプラチナは飾り気も少なく派手さはない。しかしこの輝きが永遠に続きそうな安心感がある。この幸せが永遠に続きそうな安心感がある。

この指輪、本当は今夜予約している店で互いに交換する予定だった。予定が狂ったのは蓮斗のせいだ。

仕事帰りに受け取った指輪は美しい純白の紙袋に入れられていた。いかにも幸福そうな外装に、それを見た蓮斗が我慢できずに開けてしまった。蓮斗は指輪をはめるよう俺にせがんで、それが叶うととても喜んだ。

蓮斗の笑顔は宗教画を思わせた。

幸福が人の姿を借りて俺の元を訪れているのだと思った。

俺はその幸福に触れることができるしその幸福は俺の言葉に応えて笑う。

ああ、また泣かせやがって。

俺は涙をぬぐった。くそ、ムカつくほど幸せだ。なんなんだあいつは。出会った頃はクソビッチだったくせに。浮気もされた。バカだし。仕事を選ばないし。若い頃に稼いだとかでいまは無職で自堕落な生活を送っているくせに、かといって家事もしない。なんなんだ。

俺は指輪を外した。

指輪の内側には刻印がある。俺の名前が彫ってある。

蓮斗が俺の名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。

俺は自分の矮小さに嫌気がさした。あいつは俺のことをそこそこ好きな程度だとしても、いつも俺に優しいし素直な愛情をむけてくれる。それに何度も救われた。

俺がまた泣きそうになっているところで蓮斗が起きてきた。

「おはよう」

蓮斗は極上の笑顔で挨拶を述べた。目線が俺の手元の指輪にあったので俺は憮然とした表情を取り繕った。無駄だとしても。

蓮斗はくすりと笑って自らの指輪をはめた手をひらひらと振って見せてたずねた。

「なに、嬉しさをかみしめて泣いてたの?」
「べつに」
「またまた〜。前から涙もろいけど、年とってさらに涙腺弱ったよね〜」

俺が睨むと蓮斗は洗面所に避難した。

確かに俺は年を取ったけど、蓮斗だってもう35歳になるのだ。なんなんだあいつ。今夜行く店は人気だから休日はなかなか予約が取れない。個室を予約できたから、そこで指輪交換する予定だったのに。

俺がこのことをどれだけ楽しみにして特別に感じていたかなんて知りもしないのだろう。

結婚はとうに諦めている。そのことで父親には距離を取られている。

俺は思い出した。

同棲を始めて暫くしてから互いの家族に挨拶に行った。その際、俺の家族は俺と蓮斗とのことを、心からは受け入れてくれなかった。俺が蓮斗の家族と会ったときは、優しく受け入れてもらえただけに、とても申し訳なく思った。

『ごめん。ああいう父親で。来なきゃよかったな』

俺がそう言うと蓮斗は笑った。

『まあいいじゃん。なに言われたって、俺たち二人が幸せなら』

蓮斗はそういう男だ。

そういうセリフはどこで教わったんだろう。これまでに付き合ってきた男とか? 水商売のテクニック?

俺が思い詰めた表情でダイニングテーブルの席についていると、蓮斗が水を入れたコップを手に戻って来た。

「そんなに怒らないでよ。昨日はごめん。段取り台無しにして」
「べつに怒ってないよ」
「そう。ねえ、じゃあさ、政幸を怒らせるようなこと言ってもいい?」
「は?」

何を言っているんだ?

「指輪のことで」

さっそく指輪を失くしたのかと思ったが、蓮斗の指にはまだ指輪があった。

「大事なことじゃないんだけど」
「なに?」

俺は蓮斗を睨んで言葉を待った。

「この名前のところ、これだと貸し物件、テナント募集中って感じしない?」

蓮斗は指輪を外して楽しそうな声音でそう言った。

俺はその言葉の意味がわからずに暫く指輪を眺めながら蓮斗の言葉を反すうしていた。貸し物件。 テナント募集中。

“For Rent”

俺はようやくその言葉の意味を理解した。

それは明らかなミスだった。

『蓮斗』はローマ字表記なら“Rento”とすべきところ、最後の“o”がないために、貸し物件という意味の英語になってしまっていた。

俺は返す言葉もなく愕然とした。

なんて失態だ。こいつのこと散々にけなしておいて、俺はなんてことを。店でつづりを確認されたが全く気づかなかった。

「あ、ごめん。それ。間違えた。店持って行って直そう」

俺が必死にそう提案すると蓮斗は優しげに笑って言った。

「俺はこのままがいいな」
「いや、よりによってこんな」
「政幸が俺の家主でいいじゃん」
「いや……」
「それに、こういう秘密って好き。だからさ、二人が分かってればいいんじゃない?」

蓮斗を見ると、後光が差しているように見えた。こいつはそういう男だった。俺にないものをたくさん持っている。

俺は泣いていた。

「なんでそんなに優しいの。俺って小さい。怒ってごめん」

指輪なんてどこで渡したっていいじゃないか。怒るようなことじゃない。

蓮斗はバカだけど俺を責めるようなことは言わない。からかって楽しむくらいの意地悪はするが、そこに怒りや憎しみはない。それはずっと前からわかっていたことだ。

俺って情けない。

俺って全然懲りない。

蓮斗は優しい。

蓮斗は俺を優しくする。

蓮斗はこうやってひっくり返す。俺のこいつへの評価を。バカだし家事も手伝わないし働く気ないみたいだし。でもそんな不名誉はなんでもないんだ。

「俺ね、政幸のそういうとこ好きだよ」
「は?」
「だからさ、この指輪して、あと百年でも二百年でも俺の家主でいてね」

俺は蓮斗を見た。俺は泣いていた。

「バカ。そんなに生きないよ」

俺が言うと蓮斗は俺の隣に立って俺を抱きしめた。

「そっか。でも、きっとあっという間だよ」

そうかもな。こいつなら、二百年でもあっという間だろうな。




曰く、“垢を脱ぐ”。
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PIERRE MARCOLINI

PIERRE MARCOLINI
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