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ジョセフ バートン/呪う者の悲哀

主人が嬉しそうに笑うと私も嬉しくなる。主人の喜ぶこと、主人の好むこと、主人の愛するもの、主人の選ぶもの、それらが分かると私はとても嬉しくなる。

そう教えられてきたし、そうあるべきだ。私のような人間を迎えて雇ってくださる人に、恩を示して報いることになんの疑問の余地があるだろうか。

しかし私には、その当然のことが、時々恐ろしくなることがある。

主人が無知蒙昧の男だったら?

主人が悪逆無道な男だったら?

主人が悪人だったら?

私は信じて付き従う人を、自ら選べるのだろうか。そんな良識と勇気を、果たして持ち合わせているだろうか。

私には分からない。だから恐ろしくなる。

「ありがとう」

アキ様は傷だらけの腕を伸ばしてタオルを受け取った。

見た目には唯の子供にしか見えない彼が適格者だというのがまだ信じられない。ただ、アキ様から感じる底知れない不気味さが、唯一彼をそう思わせる。

「いつから家事役なの?」

アキ様は髪から滴る水を乱暴にタオルで吸い取りながら言った。

「3年程前からです」
「そっか。今忙しいのに、呼んじゃってごめんね」
「とんでもございません」

それに続く言葉は、思い浮かばなかった。




【呪う者の悲哀】




シエラは悲しげに私を呼んだ。時折見せるその息苦しそうな表情を見ると、私はとても悲しくなる。

シエラは呪われている。

「旦那様はまだお目覚めになりません。寝室がお留守でしたから、書斎にいらっしゃるようです。エリーゼが書斎に伺っています」

書斎の中から入れる続きの部屋にはベッドが置かれていて、主人は書斎で遅くまで仕事をした時は寝室まで行かず、そこで寝てしまうことも多かった。昨夜も遅くまで部屋から明かりが漏れていたから、そこで寝たのだろう。

「分かった。私も行くよ」

私がそう言うと、シエラは小さく頭を下げた。

不憫なシエラ。

シエラを呪ったのは、私だ。

書斎に向かうと、エリーゼが扉の前に立っていた。

エリーゼはつい最近雇われた女だ。誰かからの紹介らしいが詳しいことは分からない。主人が宜しく、とおっしゃったから、私は彼女に仕事を教えるだけだ。

「おはよう、エリーゼ」

エリーゼははっとして私を見上げた。

「おはようございます、ジョセフ様。あの、ノックしたのですけれど、お返事がなくて」

私もノックしてみた。

返事はない。

「失礼致します」

書斎に入ると部屋は暗いままだったが、奥からは明るい光が見えた。持ってきた主人の着替えを書斎に置いて、部屋の奥の入口に立つと、ベッドの上で主人は上体を起こして本を読んでいるのが見えた。

「おはようございます」
「おはよう」

主人が穏やかに笑ったので私はほっとした。

「お茶をお持ちしても宜しいですか」
「頼む。もう起きるよ」
「かしこまりました。お召し物をお持ちしましょうか」
「構うな、向こうにあるのだろう?」

主人が書斎に目をやったので、私は「はい」と答えた。

「向こうで着替える」
「かしこまりました」

頭を下げて部屋を出ると、エリーゼがまだ立っていた。手にはティーセットの乗ったトレーを持っている。一度キッチンに戻っていたらしい。

エリーゼは字が読めて賢い女だった。お茶の淹れ方を教えると、茶葉の銘柄や淹れ方の違いをよく覚えた。またよく気の利く女で、手が欲しい時に頼まなくてもこうして手伝ってくれるので、助かっている。真面目な性格を気に入られて、他の給仕とも上手くやっているのも嬉しい点だ。

「もう起きていらっしゃるから、お茶をご用意して差し上げて」

私が言うとエリーゼは微笑んで「はい」と頷いて書斎に入っていった。

エリーゼの笑顔は清廉で明るくて、主人もそういうところを好んでいるのか、身の周りのことを直接頼むことも多いようだ。他の給仕達は主人を少し怖れているが、エリーゼはそうは見えないところも主人は好ましく思っているのかもしれない。

私も主人が少し怖い。

シエラだってそうだろう。

私は一度そこを離れて、新聞と手紙を持って主人の書斎に戻った。

主人は用意した服に着替えていた。そして楽しそうにエリーゼと話している。こういう明るい表情は私には見せないので、つい主人の顔をじっと見てしまった。

「ここら辺にあるものは、君にも楽しく読めると思うよ」

主人は書棚の一部を指差した。そこには小説や戯曲の本が並んでいる。宗教や哲学を題材にした古典的なものから、最近好まれるような俗っぽいものまである。俗っぽいものは、おそらく売り込みに来られて、そのまま買ったものだろう。どうやらこれらの本をエリーゼに貸してやるらしい。

エリーゼは嬉しそうに本を出しては冒頭の数行を読んでいる。

主人はエリーゼの様子を微笑みながら眺めては、時折その本について説明をした。声音も何処か優しげだ。

エリーゼはそんな主人の話しに嬉しそうに聞き入っては、また別の本を手に取って読んでいる。

二人が暫くそんなやり取りを続けていたので、私は新聞と手紙を静かに机に置いて、主人の脱いだローブを畳んで持った。

このまま失礼した方がいいかな。

私が部屋を出ようとしているのに気付いたのか、主人は「待ちなさい、ジョセフ」と言って呼び止めた。そして椅子に腰掛けて手紙を持つと、優雅にペーパーナイフで封を切って中身に目を通した。

「欠席だ」

主人はそう言って手紙を私に手渡した。

「かしこまりました」と言って受け取った手紙を見ると、結婚式の招待状だった。街の若い者からの招待なのでちょっとした祝儀と花束でも送れば良いだろう。

それから主人は軽く新聞にも目を通したが、その間に何度もエリーゼに目をやっていた。

「何か変わったことは?」

主人の質問に、私は「ございません」と答えた。

「そうか。ありがとう、もう下がっていい」
「はい。失礼致します」

私は礼をして部屋を出た。

主人の目線はずっとエリーゼにあった。

エリーゼのことが余程気に入ったらしい。

今までも『お気に入り』と呼べる給仕は何人か居たが、エリーゼに対してはそれより更に態度があからさまだ。普通なら贔屓していると思われて古株の給仕に嫉妬されるところだろうが、エリーゼの清廉さがそうさせないことは私にとっても有難いことだった。

煩わしいことが起きないといいが、この先もそうだという保証はない。

そもそも主人はエリーゼにどんな気持ちを?

まさか、恋慕を?

いや、まさか。

家事室に行くと給仕達が食事の支度を進めていた。そこにシエラを見付けて声を掛けた。

「シエラ」
「お兄様。先程エリーゼが茶器を持って書斎に行きましたよ」
「ああ、来てくれた。今もまだ書斎に居るんだが、他の仕事は大丈夫か?」

主人と仲良く話すことがエリーゼの仕事ではない。朝食の準備や接客の用意、買い出しなどもシエラの仕事だ。今、彼女が仕事をサボっているという訳でもないが。

シエラは「大丈夫よ」と言って笑った。

シエラは笑ったが、私には何処か悲しげに見えた。笑っていても苦しそうな目をしている。呪われているからだ。私に、呪われているからだ。そしていつか、シエラはこの街の『黒い柩』に、呪い殺されてしまいそうで恐ろしい。

アキ様もシエラと同じだ。

呪われている。

「シエラ、アキ様をお願いしてもいいか?」
「ええ」
「では朝食の準備と付き添いを頼むよ」
「かしこまりました」

シエラは笑って頷いた。

その瞬間、私はシエラを呪っていた。
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アキ/一人遊び

体が痛む。

俺を介抱している人は広場で父と一緒に居た女性だ。きっと父にとって特別な人。

「おはようございます」

俺が言うと女性は驚いたのか体を小さく揺らした。

華奢な人だ。背はそれ程小さくないのに、体が細いからとても華奢に感じる。ユーリとは丸で違う。押したら倒れる、曲げたら折れる、そんな感じ。

「あの、誰か呼んでいただけますか」

俺はその人になるべく優しく頼んだ。

喉がからからに渇いている。

喉を潤したい。

女性は小さく「何か召し上がりますか」と答えた。高くもなく低くもない、柔らかい声。女性らしく穏やかな声。この人は俺の世話をしてくれるらしい。

そして、「どうぞ」と女性が言って差し出したのは、綺麗な細工のあるグラスだった。中には、多分、水が入っている。それは、口から喉まで真っ直ぐ潤した。中身のないグラスにはまた水が注がれる。

喉はひりひり痛んでまだまだ水を求めている。

もう一口飲む。

また渇く。

もう一口飲む。

それでもまだ足りない気がした。

グラスの横にはお菓子の盛り付けられた器が置かれている。ドライフルーツとクラウンハウンドだ。小さい頃好きだった。

ああ、くだらねえ。

つまんねえ。

だって恭博さんが居ないじゃないか。

分かってるよ、そんなこと。

分かっているよ。



【一人遊び】



「申し遅れました。私はシエラと申します。お着替えをお持ちしました」
「ありがとう、シエラ」

シエラは業務的に微笑んだ。父が好きそうな大人しい顔立ちだ。瞳が綺麗で化粧が薄い。目は大きくて目尻が下がり気味、口は小さくて唇は薄い桃色、頬はふっくらしていてそばかすが少しある。そしてちょっと悲しそうな笑い方をする。

姉さんみたい。

父は変わっていない。

俺は変わりたいと願ったけれど、何も変われなかった。昨日分かった。そして父も変わっていないし、この屋敷も変わりない。暗くて重々しくて息が詰まる。

恭博さんが居たら。

恭博さんが「ばーか」って言って笑ってくれたら。

恭博さんがあの牢獄に窓を開けてくれたら。

そうだと思っていた。

そう願っていた。

着替えを持って立ち上がると眩暈がした。ほんの数年前にはこの屋敷しか知らなかったのに、今は屋敷の外ばかり夢見ている。こんな眩暈も、外を知る前は無かったと思う。どれほど血を流しても翌日にはすっかり元気でいられた。

「シエラ、申し訳ないのだけれど、誰か呼んでくれないかな。体を綺麗にしたいんだ」

シエラは「ただ今連れて参ります」と言って静かに部屋を出た。

この部屋、どこだろう。

なぜここに?

体が思うように動かない。

俺は着替えをベッドの上に放り投げてそのまま仰向けで倒れるようにベッドに寝転んだ。体は不快感に強張っているから気分は悪いままだ。

水が足りないのか。

だから頭が痛いのかもしれない。

倦怠感と体の痛みは昨日の行為のせいだし、この眩暈は俺の精神の弱さのせいだ。

『お父様、ぼくを叩いてください』

俺はそんな風に請うた。俺は父に服従すると安心する。虐げられるのは自分が望んでいるからだと思えるから惨めにならずに済む。無抵抗の俺を父は褒めるしどうせ叩かれるなら褒められた方が良い。

シエラは知っている。

ヘイト地方の有力者の一人である父の、残忍な一面を。

父が愛する人にその姿を見せることは滅多にないことだ。姉には決して見せなかったし、俺以外の使用人のほとんどは知らない。

それだけシエラは特別なのだ。

俺は水を一口飲んで再びベッドに寝転んだ。グラスを持ってほんの少し傾けるだけでも骨が軋むような重い気怠さがある。関節はセメントを詰められたように固くて痛い。

昨日の行為の所為だけではないらしい。

毒でも盛られたかな。

それくらい気分が悪かった。

「つらい」

思わず呟いた。それを恭博さんが見てくれていて、「バカ。そんな格好で寝るからだろうが」って言って布団を掛けてくれたような気がした。
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アキ/救済されるべき資格

たった一口、フォークに刺した少しの野菜を口に運ぶだけで腕が千切れるように疲労する。焼印が疼く。父が同じ屋敷に居ることを知るだけで身体が萎縮する。

俺はホールをゆっくり見渡した。

見覚えのある顔もあるし、見覚えのない顔も多い。

「アキさん。来てたんですか」

声を掛けて来たのはハイノだった。彼はヘイトの出身ではないからなのか、元来の気性からなのか、昔から俺に気安く接してくれる。

ヘイトの人間ならこうはしない。能力者のことを忌み嫌うから俺に笑顔を向けることなど有り得ない。

「相変わらず、お変わりないんですね」

その意味を少し考えて、考えるのを止めた。

他の誰かの言葉なら、俺はこんな風には思わなかった。でもハイノが言うから。

まあ、いっか。

“変わらない”ことは俺が能力者であり忌々しい存在であることを意味するから、他の誰かが言えばそれは明白な悪口になる。でもハイノは違う。ハイノが言うとそれはなぜか悪口には聞こえない。

身構えたことを恥じるくらいだ。

俺はハイノに笑い返した。

「ジョセフはアキさんとは違うんですか」

ハイノは俺の顔を興味深そうに眺めて尋ねた。

「ジョセフ?」
「家事役の。あれ、ご存知ないんでしたっけ」
「家事役ってルンゲがやってませんでしたっけ」
「ああ」

「それが、」とハイノが言い掛けて、遮られた。

「いいの?」
「え?」

突然話し掛けてきたモネは挨拶もなしに会場の奥の方へ目配せした。

「貴方の連れが、お父様に声掛けられてますよ」

見るとモネの目線の先、カーテンで見通せない場所がある。父が順番に親族と挨拶するので区切られている場所だ。

「ありがとう」

俺が礼を言ってもモネは答えずにハイノの方へ顔を向けて、始めから俺との会話など無かったかのように振る舞った。それでも俺はモネに感謝した。

ハイノを見ると、彼は「そっちを優先してください」とでも言うような表情をして、困ったように微笑んだ。

モネは嘘を言うような人間ではない。

俺はモネを信頼して父のところへ向かうことにした。そこに恭博さんがいるのは確かだ。

恭博さん、見ないと思ったら。

無茶なことしてたりして。

俺は静かにしかし足早にカーテンの前まで歩いて、小さく外から声を掛けた。できる限り穏やかで優雅な声音を使ったのでカーテンの外を見張る使用人にも怪しまれなかっただろう。

「アキです。お父様、ご挨拶をさせていただいても宜しいでしょうか」

少し待つと中から若い女性が顔を出した。

「中へ、どうぞ」

その女性の声はなんとも聞き心地が良かった。ユーリみたいな低音の声とも違う、高く通る声とも違う。彼女はきっと間違いなく父と今最も親しい人だと直感で分かった。

「失礼します」

名前を聞いておくべきだと思ったけれど、恭博さんのことが気になった。

俺は女性のことは後にして、とにかく父とそこに居るらしい恭博さんと対面する為にカーテンをくぐった。中には料理の良い香りが漂っていた。

恭博さんは父の真正面に立っていた。仁王立ちしていた。

「お父様、こんばんは」

掛けるべき言葉が見付からず、俺は仕方なしにそんなことを口走った。

父は、しかしながら、上機嫌だった。

恭博さんの方は少し複雑そうな変な顔をしている。俺を見ても何か言うこともなかった。

「お前は、挨拶が遅い」
「すみません」
「まあいい。彼のことを私に紹介しないのか?」

父は恭博さんを見た。

恭博さんは父に断りもせずに近くの長椅子に腰掛けた。

この二人の距離感が分からない。

「こちらは恭博さん。ずっと、お世話になっている人です。案内状が来たので、あの、僕が是非にと誘いました」

父は恭博さんをじっと見ている。

「ようこそ、我が屋敷へ。食事会は身内とその知り合いでやっているものだから、粗末なもので驚かれたことだろう」
「そんなこと、ありません」

恭博さんは如何にもな社交辞令で答えた。父はそれに機嫌を悪くすることもなく話しを続けている。

「しかし、不思議な名前だ。ご出身はどちらですか」

恭博さんは父のことは見ずにテーブルにあるドライフルーツをつまみながら答えた。

「マイルハイ=フロントです」
「なるほど。それは、遠い」
「確かに遠いですよ。こことは別世界です」

恭博さんはまたドライフルーツをひと掴み取って、そのうち少しを口に入れた。恭博さんの言葉や動作には楽しさや優しさはないけれど、憎しみや嫌悪がある訳でもなかった。

別世界。

うん、恭博さんは正しい。

「お父様にも、前に一度、ご報告は差し上げたんですよ」

父が俺を見た。

身体が、固まる。

能力の中には人の身体的自由を奪えるものもあるし、或いは今身に付けている拘束具みたいなものもある。俺にとっての父は、それだ。

言葉もなく自由を奪う。

俺は話したいことを見失う。

大丈夫だと、思ったんだけど。恭博さんが大人しくして、いつもみたいに長椅子に腰掛けたから。

でも、駄目だった。

手が震えてる。

なんだっけ。

何を言おうとしたんだっけ。

「恭博くん」

父の声だった。恭博さんを父が呼んだ。

「何?」

恭博さんの声には明らかに苛立ちが混ざっていた。『恭博くん』呼ばわりされたのが嫌だったのだろうか。父と恭博さんだと、恭博さんの方が年上になるから、当然と言えば当然か。

「君は、能力者なのだろうか」
「そうっすよ」
「私はね、恭博くん」

父は長椅子の恭博さんを見据えて言った。

「私は能力者が嫌いだし、能力者に招かれた能力者とは、この街では不吉だとされている」
「へえ」
「私は、能力者は嫌いだが、これのことは愛している」

『これ』とは、俺のことだ。

「アキ、だから、これからはこの屋敷で暮らし、恭博くんとは離れなさい」

ふざけるな、とは言えなかった。

手だけじゃない。

全身が震えていた。

怒りの為じゃない。

恐怖の為だ。

「……やすひろ、さん」

俺は縋った。恭博さんが助けてくれると信じて。だから上擦った声が呼んだのは、勿論、だから、恭博さんの名前だった。

他にどんな言葉を話せただろうか。

恭博さんは手のひらに余っていたドライフルーツを纏めて口に放り込んだ。

「俺はお前を助けるよ、アキ。お前が撃たれて死ぬ前に、俺は敵を出し抜く積もりだ。だけどなあ、アキ。これはそうじゃねえわ。お前はただ、親父と話してるだけじゃねえか。なあ、違うか?」

恭博さんは長椅子から立ち上がった。

「アキから離れろって言われたらな、俺はそんなことは絶対にしないと答える積もりだったけど。これは、違う。お前はお前自身の手でその拘束具を捨て置くべきだ」

なんでそんなことを言うの?

恭博さんは「じゃあ」と言ってカーテンを潜った。

「あ、それ、すごく美味しいですね。持って帰りたいくらいです」

恭博さんが振り返ってそう言った。

「砂糖漬けとクラウンハウンドというケーキも有名ですから、ぜひ食べて行かれてください」

父が答えると、恭博さんは「そうします」と言って本当に去ってしまった。

なんで?

「アキ、ここへ来なさい」

父がそう言って手招きした。

「アキ。早く、ここに来なさい」

俺は恭博さんには助けてもらえないことを覚悟した。父には逆らえない。自分で拘束具を捨てるなんて、できる筈がない。

俺はふらふらと歩いて父の足元に跪いた。

「悪い子だ」

父はそう言って、俺の肩に足を乗せた。力を入れればいつでも蹴れる、そういう態勢だった。

視界がチカチカする。

白い霞が掛かって痺れる。

腿が引き攣る。

俺は父に服従したくて堪らなくなった。腹を見せて足を舐めて平伏したくて堪らなくなった。

逆らわないから、逃げ出さないから、なんでも言うことを聞くから、だから酷いことはしないで!

身体に刷り込まれた恐怖は簡単には消えない。太腿に焼き付けられた痛みは今でも夢に見る。あんなことは二度と嫌だから、もう味わいたくないから、だから絶対に服従していることを理解して欲しくて惨めで賤しいことでもなんでもできる気がする。

「お父様、ぼくを、叱ってください」

父はぼくの言葉を鼻で笑って、愛おしそうに足先でぼくを撫でた。


【救済されるべき資格】
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シエラ バートン/私のご主人様

古い屋敷に仕える者は並べてそうだろうと思うのだけれど、その屋敷の主人にはなんとも言えない風格を感じるものだ。それは親愛や敬服や威圧感が綯い交ぜになった圧倒的な風格だ。

「アキは、あれは、化物だな」

主人が言った。不遜で排他的な物言いは私を戦かせるのには十分過ぎる。その証拠に私の腕にはポツポツと鳥肌が立った。

「お前も見たか?」

主人が尋ねたので私は渇いた声で答えた。

「はい」

私の精一杯の返答を、主人は鼻で笑った。

私もアキ様を見た。

『あれ』は、化物だ。

「お前は能力者が好きか。お前はあの言い伝えを信じないのか?」
「私は……」

ああ、なんて答えれば良いの?

主人は葉巻を手で弄びながら残忍な笑みを浮かべて私を見上げた。それは私が子供の頃には知ることのなかった主人の裏の顔だ。主人が一部の人間にだけ見せる彼の本性だ。

私はそれを知りたくはなかった。

「君は、アキは俺に似ていると思うかな」
「どういう意味でございますか」
「私の一族であれ程強い能力者が生まれるということを、不思議には思わないか」

主人は葉巻に火を点けてからそんなことを言った。

恐ろしいことを言った、と思った。

恐ろしいことを言おうとしている、と思った。

「シエラ。美しいシエラ。そう怖い顔をするな。私はあれのことが好きなのだ。あの臆病で脆弱で怠惰な化物が、私は好きなのだ。お前達が恐れるようなことは何もない」

それは。

違います。

私は「はい」とだけ答えた。

「そう言えば、ジョセフがアキの“連れ”を見たと言っていたな。正確には『見られた』と言っていた」
「お連れ様には、私もお会いいたしました」
「どんな女だった?」
「あの、いいえ。あの方は男性でございました」

主人は葉巻をゆっくり吸って、吐いて、私を見た。

「おい。男、と言ったのか?」
「はい。見た目は女性のようではありましたが、おそらく男性だと思います」
「男だと。どんな男だ」

主人は苛立ちを隠さなかった。

「中性的な面持ちの、その、少し無作法な方だとは思いました」

挨拶もされなかったし目を合わせた時には射殺されるかと思うような構えで見られた。所作も無骨でアキ様とは似ても似つかないまるで別世界の人だと思った。主人の放つ恐ろしげな雰囲気と似ているけれど、少し違うとも思った。

「男の客人とは不吉ではないか。あれの“仲間か”?」

主人は扉の方を睨んだ。

仲間かと問われるとそうではない気がした。研ぎ澄まされたあの方の雰囲気は攻撃される側のものだった。

「申し訳ありません。私にはわかりません」

主人は鋭く尖った目線を私に移した。

「食事の支度を急げ。私も早くその男に会うとしよう」
「かしこまりました」

私は頭を下げて急いでその部屋を後にした。

私の背中には薄い皮一枚を容易く引き裂いてしまえる鋭い刃を突き立てられている気がした。


【私のご主人様】
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恭博/弟子からの、たすけて

「挨拶してくるから、自由にしてて。夕食の時にまた呼ぶから」

アキは服装を整えながら言った。

「え。俺も行くよ」

これからお世話になるのに挨拶ぐらいした方がいいのではないか。大人ならそれくらい当然だ。挨拶は全ての始まりであり全ての終わりを告げるものでもある。

「それはまあ、そうだけど。でも、いずれっていうか、すぐ会うんだからさ」

俺の申し出に、アキは少し身動きを止めて言葉を濁すようなことを答えた。

「そんな不義理なことできねえよ。理由があんのか」
「理由はあるよ」
「なに」
「言えねえから、こうしてさあ」

理解してくれ、とアキの目が言った。

そう言われたら、俺は、俺をここへ招いてくれたアキを裏切ることはできない。ここではアキが俺の主人なのだからアキが駄目だと言えばそれは絶対に駄目なのだ。

「わかった。いいよ」
「部屋の外も出ていいからさ。適当にしてて」

アキはそう言うとさっさと部屋の外に出た。

「適当に、って……」

改めて部屋を見回してみる。豪華な部屋だ。ゴテゴテに飾られた内装、家具、調度品、そしてどうしても無視できないのが如何にも高級そうな絵画や置物の類。

俺にはそれらの価値が計り知れない。

仕事上でお世話になる人達もそういうものが好きらしくて壺やら武器やらが飾られていた。それらは収集家の思想が体現されたかのように見る者を圧倒する。だから彼らの領地に入る時はその無言の圧力だけで膝を付きそうになるくらいだった。

この部屋は、違う。

不必要に凝った飾りはそれ自体が不必要であることを主張していて俺の方が疲れてしまう。

どれもこれも無駄なんだ。

無駄な物。

無駄な空間。

無駄な時間。

それを見ている者も、やはり無駄。

「しんど……」

俺は一人でそう呟きながら部屋を出た。

ここはアキの故郷でありアキが憎んでいる場所でもある。俺にはそれが分かるような気がした。

冬には雪に覆われて食料も少なく交易もなくなる。真っ白い世界に並ぶ家々は黒い柩であり、土地を歩く人々はその葬列である。狭苦しい世界に忽然と現れる豪華絢爛なこの城もやはり黒い柩でしかないのだ。

部屋がどんなに綺麗だってそこに感情がないなら薬物依存患者の汚い部屋と同じものでしかないだろう。ただ在るだけ。それは死に行く者の視界に映る、最期の景色。

俺が辿り着いたのは音楽室だった。

他の部屋とは何処かが違う。

「どうかしましたか?」
「え」

俺に声を掛けたのは若い男だ。その男と会って、漸く俺は気付いた。

この男は能力者だった。この街に来て初めての。

この男は粗末な身形で陰鬱な表情で背を丸めて俺を見た。親に殴られる前のガキみたいに服従と反感を合わせた目をしている。

この街では、コレが能力者なのだ。

この男はかつてのアキだ。

この気分が悪くなる異様なものの正体は、だから俺には直ぐに理解できた。

アキと同じだ。

あの時の。

「お前能力者か」
「はい?」
「最悪だ、この家は」

アキが付けられていた拘束具は何処かで売られようとして捕まった時に付けられたのかと思っていた。或いは相手をしてはいけない連中に喧嘩を売ったとか。ああ、でも違った。漸く分かった。

この家が原因だった。

「すみません」

男は謝罪した。謝罪する理由はひとつとしてなかっただろうに。

いや、あったのか。

この男にとっては謝罪するだけの理由が。

「すみません。拘束具を、付けているんですが。私は能力者です。すみません。すみません」

すみません、と何度も言われた。

最悪だ、本当に。

こんな場所にはもう居たくない。

俺は一刻も早くこの家を出て自分の住むあのボロい家に帰りたくて仕方なかったけれど、荷物を取る為にあと少しだけと我慢して部屋に戻った。あの男は放っておいた。あんな男のことはもう知らねえ。

「クソ!」

こんな家、ぶっ壊してやりてえ。

そう思ってカバンを持つと笑顔のアキが目の前に現れた。

「恭博さん。ダメですよ」
「ダメじゃねえ、帰る」
「ダメです」
「うるせえ帰るっつってんだろ。お前は好きにしろ。俺のことも好きにさせろ」

俺はアキを睨んだ。

アキの方はまだ笑顔だ。

「残ってください」
「嫌だ」
「俺の力になってください」
「はぁ?」
「たすけて」

アキは小さな声で言った。口元には微笑。普段は真っ直ぐで迷いを見せない視線だけがいつもと違ってふらふら揺れている。

「なに言ってんの」
「おれ、ダメになるんだ。この家に居ると」
「ダメって」
「恭博さん。たすけて」

ダメだって言ってんじゃん。

こんな所には居たくねえ。

拷問部屋なんだ、この家自体が。

ダメだ。

ダメだ。

そんな目を向けられたら。

「お前のことは俺が面倒見てやってんだ。お前が弱ってる時に助けてやんねえわけがねえんだよ」

アキは俺を見た。

照れたように、つまんなそうに。

「なるべく早く終わらせる」

ああ、そうしてくれ。

俺は内心で毒づきながら「いいよ。何年かかっても」と答えてアキの頭を撫でてやった。

最悪だ。


【弟子からの、たすけて】

恭博/仄暗い柩の森

以前にハルメンへ行った時、そこは深い雪の為なのか低い気温の為なのか、人は誰も殆ど外に出ずにいた。とても静かで侘しい街だと思った。

「寒くないだろ」

アキが言った。アキは上着を手に持って、陽射しを喜ぶように窓越しの太陽を見上げている。

だから彼の問い掛けは、俺への批難も込められている。俺は肌寒さを感じて上着を着込んでいる。指先が冷えるのでポケットに手を突っ込んでアキを見た。

ことこと軽快に音を鳴らしながら馬車は進んで行く。

「まあな」

俺は自嘲して返事した。アキはそれに少し嫌な顔をしたものの、黙って視線をずらして、哀しいものを労るように街を見た。

「冬は人がよく死ぬんだよ。ヘイトでも黒いレンガを使うのはここら辺だけらしいけど、棺桶みたいだって他の町の連中が言ってた」

雪の中を足元を見ながら少しずつ歩む様は、そう言われると葬列のようでもあった。

『棺桶』。

確かに、黒いレンガは珍しい。雪で閉ざされたこの街ならば、遠目からは柩が並んでいるようにも見えるのかもしれない。

「特殊な加工でもしてあるの?」

俺が尋ねるとアキは首を傾げた。

「知らない」

アキは過ぎ行く家々を眺めている。俺は、彼はハルメンがとても好きらしいと思っていたけれど、そうではないらしい。

アキに誘われて気軽にパーティーに参加することにしたけれど、それが失敗だったことを知る。アキは、この街を憎んでいる。

だから育った家を飛び出して俺のところへ来たのだ。

この街に何があるというのか。

この街で何をしようと言うのか。

「向こうが俺の家」

アキが指差した先には高い塀で仕切られている。そして視界の奥の方で、タクシーがなければとても辿り着けない場所に城とも呼べる屋敷が聳え立っていた。黒いレンガで建てられたそれは暗黒組織の居城といった風情があった。

安心したことと言えば門が無事に解錠されたことくらいだ。

「アキ様。これは、お久しぶりでございます」
「うん、元気?」
「はい、ご覧のとおりにございます。皆様はまだお着きでない方もいらっしゃいますので。どうぞ、中へ」

扉の先に広がる内装は、外観から想像される以上に豪華だ。

俺は少ない荷物を荷台から下ろした。屋敷から出てきた男がそれを見て、「私が部屋へお運びしても宜しいですか」と言った。

「ありがとう」

慣れた様子のアキが礼を述べて、圧倒された俺は粗相のないように黙って彼らを追うことしかできなかった。

厭なところに来てしまった。

俺は今直ぐに引き返したい衝動に駆られていた。暖かい部屋で馴染みのソファに寝そべりながら即席のジャンクフードを食べる、そんな夢想を抱いていた。

「恭博さん、はぐれちゃダメだよ?」

アキが表情もなくそう言った。

地獄門の番人は、門扉の前で罪人の手を引いて、引き摺り込んで、冷酷に、残虐に、最期の優しさを見せるのだ。その手はきっと地獄のフルコースを振る舞うだろう。

厭なところに来てしまった。

俺は確信していた。

厭なところに来てしまった。

ここから引き返すことは許されない。

俺は仄暗い柩の森で、道を失ったのだった。


【仄暗い柩の森】

アキ/故郷からの案内状

世界中で能力者が重宝されていると言うのに、俺の生まれた街では能力者を異端とする風潮があった。特に俺の家は能力者を忌み嫌っていた。


【故郷からの案内状】


「恭博さん、俺の故郷に興味ある?」
「は?」

恭博さんに案内状を見せた。父からの食事会への誘い文は如何にも厳粛で気が滅入る。

「同伴者は2人くらいまでなら常識の範囲内ってやつじゃねえ?」
「お前って家出てなかった?」

恭博さんは案内状をじろじろ見ている。

「飯とかは食わせてくれないけど離縁された訳じゃねえからなあ。遠戚って扱いにはなるだろうけど、こういう時は割ともて成してくれるよ」
「もて成すって……」

恭博さんは裏があると思っているらしく、可成り胡乱な表情をしている。普段はチャーミングな目元がきつく案内状を見据えて穴でも空きそうなくらいだ。

この話しには正しく裏があるので強引に誘うのは止めて俺は引いてみる作戦を執ることにした。

「興味なければいんだけど、その日ら辺はちょっと仕事できないよ」
「仕事はいいけど」

食いついたか?

「ヘイト地方なんだけど」
「ヘイト?」
「行ったことある?」
「仕事で、何度か」
「ハルメンの北の方で、パンと菓子はすごく美味いんだよ。なんか土産物買って来るから楽しみにしてて」

来い。

「ハルメン?」

来い。

「冬は寒いけど今の時期はけっこう暖かいんじゃないかな」

来い。

「それ、俺も行ってみようか」

来た!

「あ、ほんと?」
「立て込んだ仕事もねえし」

俺は顔がだらしなく緩むのを堪えるように努めた。恭博さんは押されると警戒するけど引かれると気を許す。痛い目にも何度か遭っているらしいのに懲りない人だ。

「来週くらいに出発するけど、いい?」

恭博さんは小さく頷いた。

あの街はとにかく能力者を嫌っている。世界の人口に対する能力者の比率に比べて、あの街のそれが極端に低いのはそれが関係しているに違いない。

恭博さんはどうなるかな?

恭博さんから案内状を返してもらうと、それは実に愉しいパーティーからの誘い文のように思えた。

恭博さんと初めて会った時に俺が能力を抑制できる特殊な拘束具を付けていたのが俺の家族に因るものだとは恭博さんはまだ知らない。

何か良いことはないか。

新しくなくても良いし、全身が震える様な歓喜である必要もない。どれ程些細な出来事でも、それで心が弾んで足取りが軽くなる様な、思い出しては誰かに話したくなること。ほんのり笑えること。

何か良いことはないか。

そんな気持ちで毎日を生きて、そんな気持ちで人が死ぬのを見送ってきた。

「美味しいです」

リノは遠慮がちにそれだけ言った。ケーキを極小さく切って少しずつ少しずつ食べていたので好きではなかったのかと心配した。

「それは良かった」

リノは必ず適格者になる。間違いない。学院を卒業すれば職業能力者になり長く生きることになる。

誰かの力に成りたい。そう思ったから司書庁に就職した。そして今また同じことを強く思った。

力に成りたい。

誰かを支えたい。

ずっと傍にはいられないから、せめて今だけでもありがとうと言われたい。役立つ人間でありたい。平和で穏やかな世界である為に何かをしたい。

君の為に、何か良いことをしたい。

「もっと食べていいよ。もしかして気分悪いの」
「いえ」

リノは小さな欠片を口に運んだ。

「無理しなくていいよ」
「いえ」

リノはまたケーキを少し切ってフォークを口の方へ運ぼうとした。俺はその手を止めた。

相変わらず、細い腕。

「いいよ、食べなくて」
「食べたいんです」
「でも無理してる」
「してません」

リノはフォークを反対の手に持ち替えてケーキを大きく切った。そこに乱暴に突き刺して食べようとしたので俺もまた反対の手で押し留めた。

「君に無理させる為にここへ来た訳じゃないよ」

リノは苦しそうに眉根を寄せて眉間に皺を作った。

「食べたいんです」

メープルシロップ色したショートヘアーは彼女の顔に陰を作らない。凛々しい顔立ちは毅然としている様で、しかし何時でも容易に脆く崩れ去ってしまえる不安定さを隠している。

「ケーキ、ぐちゃぐちゃだ」
「ごめんなさい」
「何かあったの。今日はいつもと違うよ」

俺が手の力を緩めるとリノはフォークを皿に置いた。すっかり形の崩れたケーキは余り美味しそうには見えない。

「あの」

リノは顔を俯かせて言った。

「なに」
「何かしてますか」

リノは指で洋服を触りながら言った。緊張しているらしいのが伝わってくる。

『何か』?

しているさ。

「変なんです、確かに。佑さんの中が全然視えないんです」

その方がいいと思ったんだよ。

違うのか。

「何か、してるんですか」

リノは最後の方は本当に小さな声で言ったのでその声はケーキ屋の和気藹々とした空気の中に消え入った。自問する様なその声は疑問というより不安を表している。

「ごめんね、不安にさせて。こういうの、訓練でできるようになるんだよ。嫌かな」

リノはチラッと俺を見てからまた俯いた。

「『訓練』?」
「誰でもできる訳じゃないし、リノが視ようとすれば簡単に視られると思うけど」
「やっぱり心を読まれるのは嫌?」

リノの目には涙が滲んでいた。

「なんでそんなこと聞くの」

当たり前だろう。心を読まれるのは気分が良い話しではない。でもそれをそのまま言える訳もない。

「ごめんなさい」

君に謝られると悲しくなる。胸が締め付けられて苦しくなる。息を吐こうとすると途中でつっかえる。呼吸もままならない。俺だって泣きそうになる。

それでも、そうまでしても、俺は君と居たかったんだ。

最初は綺麗な子だなと思った。

力に成りたい。

手助けしたい。

そういう気持ちは気付いたら恋に変わっていた。好きになっていた。好きな人に邪な感情を知られたくないと思うのは当然だろう。

だから知られたくなかった。

リノと居ると嬉しくなる。リノの力になれることが嬉しい。リノが苦しむ程、藻掻いて助けを求める程、俺は嬉しくなる。

こんなこと、許されない。

「能力のこと、忘れることなんてできないよ。一度得たものは簡単には離れて行かないよ。リノはこれから先ずっと能力者で在り続ける。でも、俺は、それだけでは満足できなくなった。分かるだろう?」

リノは能力を使わなかった。

何か言いたげに視線を泳がせて、少し開いた口からは意味を成さない音ばかりが漏れている。

「貴女のことが好きです。能力が嫌なんじゃない。気持ちを知られるのが怖かったんだよ」

何かないか、誰かいないか、そうやってずっと探して来たものが、リノだと知った。

心が落ち着く。

心が安まる。

眠る様に、君を想う。

「聞かないで、視れば良かったのに」

リノにはそれができる。人の心を読んで苦手なものを避けられる。

「嫌われてるのかと、思ったの」

リノは声を震わせて呟いた。

「好きだよ」

俺はその時、色んな言葉を飲み込んだ気がした。履歴を追って、探して、接触して。リノはその輪の中から生まれたのにその輪から遠い場所で泣いている。

輪から飛び出す為の合言葉が、きっとそれだった。

「好きだよ」

眠る様に、君を想う。

夢から醒めた様に、君を想う。

ルキ

タキは渋い表情で紅茶を飲んだ。タキがティーカップをソーサーに置く所作には何処かの貴族と言われれば納得する高貴さを感じる。しかし今日はそれが少しばかり雑だ。

「なんかあった?」

タキはそれ程表情豊かという方ではないけれど、今はいつもよりもっと不機嫌な顔で溜め息まで吐いている。憂いた吐息が紅茶の湯気と共に漂った。

しかしながらそれはそれで頬杖を付くのも様になっているから羨ましい話だ。

「女に迫られたとか?」

俺が言うとタキはむっとした顔で俺を見た。

タキが生まれた時、彼らはとても喜んだ。病弱だった頃はそれほどでもなかったけれどタキが4歳の誕生日パーティーを開いたら花嫁候補の女が山ほど集まったのには笑った。

因みにタキが女だったらもっと大変なことになっていただろう。

トキが良い例だ。

俺の知らないところでタキは余程えげつない方法で女に迫られたトラウマでもあるらしく、その手の話題はある種のお決まりのネタになっている。必ずタキがむっとするので俺は楽しいのだ。

「そういえばお前、ロスのとこに行ってたんだって?」
「誰に聞いた?」
「風の噂」
「あの人は話題に事欠きませんね……」
「お前って階級主義なのにロスのことは大好きだよな」
「は、何だそれ」

タキのハスキーな声で凄むとけっこう怖い。

「それで俺のことも好きなんだろう?」

こうして話し相手になってくれる程度にタキは俺に心を許していると思う。俺は貴族にも名士にもなれないけど彼らも怖れる化け物にはなれた。

理解者っていうのも悪くないだろう。

「本当は階級なんてどうでもいいんです。私が見下しているのは学も力もない低俗な者です」
「俺には力がある?」
「ルキは……」
「俺は?」

タキは黒い瞳で俺を見た。

タキが貴族らしい白い肌に紅茶の赤を映して気品ある妖艶な獣の様になるのが私は好きだった。赤い獣は愚か者を喰らって生きる。貴族も庶民もみんな喰っていくところが貴族の中でも騎士階級に生まれたタキらしいところだ。

「ルキは少なくとも愚か者ではない」

そうか、ありがとう。

お前に言われると嬉しいよ。

「俺は愚かだよ」

タキは怪訝な顔をした。それを見て本当に俺を愚かだとは思っていないらしいことが分かった。

それでも俺は彼らと居るとしんどいんだよ。いつまで経っても彼らが俺を見下している様な醜く貧しい気持ちを否定できないでいる。大体お前が生まれる前の惨めな俺をお前は知らないじゃないか。

これは卑屈ではない。

真実だ。

俺は能力で彼らを蹂躙する以外にこの貧しい嫉妬を克服する術を知らない。

「俺はロスとは違う」

俺の言葉にタキは紅茶をテーブルに戻した。真剣に俺の話を聞こうということだろうけれど、俺にはこれ以上話すことはない。

俺とロスは違う。ロスは貴族でなくても市民ではあった。俺はそれ以下の賤しい動物だった。

忘れられない。

人間に蔑まれるあの感覚を。

赤い獣は俺のことを慎重に見た。気品あるその獣は俺のことを喰い破るべきか見定めながら舌舐めずりしていた。
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ロス

恭博さんはタキに追い出されたことを根に持っているのか、病室では可成り警戒している様だった。今はその時程には気を張っていないらしく、ソファにだらっと座っている。

「退院早かったな」
「はい。恭博さんが忠実に通ってくれたからですねー」

俺が言うと恭博さんは頬を引き攣らせた。

「お前は、能力の跡を辿って追跡できるくせに、あんなんでよく生きてこれたな」

なんか、冷たい恭博さんも好きだなあ。

「嬉しそうにすんな!」

わお、バレた。

「60年間、恭博さんと仕事したくて、名前を売ってきたからですよー。敵が多いんです」

恭博さんは眉間に皺を寄せた。それは彼の声の調子や態度とは違ってとても思い詰めた表情だった。俺を批難する積もりだと思っていたけれど、そういう風ではない。

「本当ですよ」

恭博さんを探そうと決意した時には手遅れだった。彼は適格者になっていて、お互いに遠いところで稼いでいた。学院に居た頃とは違って恭博さんが何を考えているのかさっぱり分からなくなった。

「お前、死のうとしたのか」

恭博さんは相変わらず辛そうな表情をしている。声だけがその場にそぐわない淡々としたリズムを刻む。

「なあ、そうなのか」

そうかと聞かれたら、そうだ。

「そんなこと言わないでください。今は恭博さんに会えて嬉しいし、恭博さんにも同じ様に思って欲しいんですよ。こんな風に、あの頃みたいに、また話したいって思ってました」

ずっと思ってた。

会いたい。

会って話したい。

最後に言われた言葉があんな罵声では悲しすぎる。

「でもあんなの、自殺と同じだ」
「死んでもいいのと死にたいのは違います」
「同じだろ」
「違いますよ!」
「生きなきゃ意味ねえんだよ! 生きてたから会えたんだろ、俺たちは」

恭博さんは舌打ちして俯いた。

「違います。俺は、恭博さんに会う為に生きてきました」

恭博さんが死んだら、俺は生きる意味を失う。生温い仲間意識に浸ってタキやユーリとやっていくのはもう耐えられない。それは生きる為にはいい調味料でもその為に生きることとは掛け離れている。

恭博さんが、好きだ。

恭博さんを好きではない俺ではもう駄目だ。生きていけない。60年間平気だったことが、変わってしまった。

「お前って昔から頭おかしいよな」

恭博さんが笑った。

昔と違ってとても口が悪いところは是非とも直して欲しいのだけれど、左の頬にある黒子と笑った時の緩んだ表情は変わっていない。

好きだ。

凄く好きだ。

「はい。おかしいんですよ、おれ」

普通じゃいられない。きっと恭博さんが腕を切るのを見たあの日に、彼の鮮血が俺の心を奪ったまま恭博さんの中に還ってしまったのだ。普通でいられるわけがない。

それを初恋と呼ぶのだろうか。

「バカ」

恭博さんは俺を笑った。そこには不確かな愛があるような気がした。俺が見下してきた心温まる愛が、恭博さんの息の中から伝わった気がした。

馬鹿なんですよ。

おかしいんですよ。

恭博さんが俺の心をどうにかさせたんですよ。

アキ

恭博さんは酷く疲弊していた。長時間能力で戦ったような嫌な体力の消耗の仕方だった。

「どうしたの」

あんたらしくもない。

「もう疲れた」
「何に?」
「今の仕事」
「転職すんの?」
「年金貰う」
「は?」
「こんな時の年金積立」
「…ああ、そう」

いつ終わるかも分からない人生を年金で生きるの?

恭博さんは溜め息を吐いた。

「今ならジョイの気持ちが分かる」
「って、誰だっけ?」
「摂取の適格者。ここ何十年か年金で暮らしてる」
「なんか暗いね」

恭博さんは俺を睨んだ。それにも力が無くて威力は皆無だったので俺は満面の笑みを返してやる。

恭博さんは視線を逸らした。

あんたは拗ねた子どもか。

時々酷く弱々しいところのある人だったけれど、今回はそれとは違う。自虐を通し越して実際に傷だらけになってしまったように危うい。

世話の焼ける人だ。

「暗いよ。俺は暗い人間なんだよ」
「能力別人格形成と発達への影響って研究分野知ってる?」
「ああ」
「複写の能力者は楽天的で要領が良く、また基本に忠実で道徳的規範に厳しい。自分の能力で直接他人を攻撃したり損害を与えることがなく、多くの能力を幅広く活用する必要があるからね」
「…へえ」
「優秀な能力者は観察力に優れ、他者への気遣いができ、人間関係の中では潤滑油としての存在になる」

ちなみに短所は何かを評価する時に直ぐに比較して考えること。ハングリー精神に乏しく自分より優秀な人には簡単に服従すること。

言わないけれど。

「お前は?」

恭博さんは俺を見た。

「風には情熱がなく自分の人生も他人事のように生きる。稀に攻撃的になるが忍耐強い」
「へえ」
「他にもあるけど」
「俺と全然違うじゃん」
「そりゃそうだよ」
「組み換えは?」

恭博さんの表情は和らいでいた。

「計算高くて商売上手。道徳観よりも損益勘定を優先する。常に保険を用意して人を裏切ることも厭わない」
「さ、最低…」

恭博さんは眉を顰めた。

「ロスのことだよ」

俺が笑って言うと恭博さんはあっと呟いた。

「分かってて言った?」
「勿論」
「なんだ。じゃあ今までの嘘?」
「いや、全部本当だよ」
「本当かよ」

ちょっと故意に抜粋したけれど。

恭博さんは「間違ってはないからなあ」と言った。皮肉っぽく笑う様子が元気を取り戻したらしいことを教えてくれる。

「それで、年金の申請すんの?」
「まだいいや」
「そう? それは良かった」

まだ疲れが完全に取れた訳ではないだろうけれど、無気力からは脱したらしい。

「アキ、ありがとう」

恭博さんは俺の頭を撫でて言った。

タキ

ロスは抜け目が無い。転んでもただでは起き上がらない、そういう男だ。

ユーリと繋がる人間は往々にそうらしい。

しかし突然現れた恭博という男は何処か愚かしい程実直な印象を受ける。計略には敏感な癖に自分の価値に鈍感。自身の命も惜しくないと言いそうな危うい実直さ。

昔のロスに似ている。

今のロスなら嗤って棄てる。

そう思った。

私は恭博を廊下に出してロスを落ち着かせた。不服そうなロスを目で制する。恭博は私を威嚇しながらもロスに言われると素直に従った。

碌に体力も回復していないのに抱擁でもし始めそうな勢いの2人の仲を疑う積もりはなかった。

しかし確認すべき事を軽んじることはできない。ロスが命を狙われたことも、あの男に不審な点が有ることも事実だ。

「おはようございます」
「おはよー」

話している内に血色は良くなったようだ。唇に赤みが差した。

「彼はなんですか」

ロスはまだドアを見ている。正確には、ドアの向こうに消えた恭博の影を見ている。

「婚約者」
「…貴方が敬語なところか察するに、あの男は適格者ですか?」
「そー思う?」
「どうでしょう。履歴の適格者のようですが、聞いたことのない名前です」

ロスはドアから目を離すと私の目を見た。

「いつまで経っても子供みたいでしょ?」

そして「ちょっかい出したら怒るからね」と微笑んだ。その目が本気だったのでこちらには笑えない話だ。

掴めない男だとは思っていたが男色にまで手を出しているとは知らなかった。個人的な趣向に関してとやかく言う間柄ではないので、それについて言及しないことに決めた。

見る目が変わるとはこの事か。

「彼の性格は、まあいいでしょう。しかしあの粗野な男が貴方に悪影響を与えないとは限りません」
「悪影響?」
「卒倒するまで身体の異変にお気付きにならなかったようですね」

恭博と居る時のロスは端から見ると異常だ。

元から無駄に愛想の良い男だけれど先程の笑みはそれ以上だった。詰まり男色だということに尽きるのかもしれない。

ロスは私を睨んだ。

悪く言われるのも嫌らしい。

言動は甚だ可笑しいが、ロスの口元に張り付く微笑は常と同じで妙な安堵を齎す。

「ちょっかい出したら怒るって言ったよね?」
「ええ、」

私が非難したいのは、粗野で口の悪い分不相応な貴方の婚約者ではなく、柄にも無く感情に溺れる無責任な貴方自身の方ですよ。

そう言い切る前にノックがあり医師が室内へ入って来た。

「…良くなったようですね」

私の身分を訝る医師に笑顔を向ける。

私と医師の間に在る空気に恭博は気付いたらしい。野性の嗅覚がよく働く男だ。

「お話しした通りですよ」

ロスに治療的行為をする為に多少強引な方法を使ったのは事実だ。病院にも恭博にも詮索されるのは好ましくない。

私は「また参ります」とだけ告げて病室を去ることにした。

ロスを振り返ると片手をひらひらとさせていた。その隣では様を見ろとでも言いた気な下品な笑顔をしている恭博が居る。

私は目礼して退室した。

面倒なことになった。

恭博

金属は職業上の能力者としては扱いづらく、更に致死領域と並んで人聞きの悪い能力だ。威力がなくても適性が高ければ暗殺者になれる。

「今、ダンガードを呼びます」

医者は剣呑な顔でそう言った。

俺も似たような顔をしていると思う。

「ごめんな…」

気付いて遣れなかった。倒れるより前から身体は酷く辛かっただろう。嘔吐したのに出てきたのは胃液ばかりだった。

医者と共に小綺麗な男が現れてロスの肩に触れると、皮膚にキラキラとしたものが浮き出てきた。

治療なのだろうか。

この男がダンガード?

どちらにしても俺はそれを眺めるしかない。

履歴を使って実行者は簡単に探し出した。履歴を消せもしないど素人にロスはやられた。それを俺は黙って眺めていた。

今のように。

「2週間もすれば、元通りになりますよ」

男はそう言いながら医者と看護師に合図を送って部屋から追い出した。冷静になって彼を見ると適格者であることに気付く。

「お前、」
「はじめまして。タキと申します」
「……タキ?」

胡散臭い。

営業スマイルが、“あいつら”と同じだ。

俺の胡乱な目に気付いたのか、タキは無為に笑うのを止めた。余計に堅気らしさが消えて笑いすら誘う。

こんな人間にロスの命を預けてしまったのか。

自嘲する。

「警戒してますね。ロスとは知り合いなんですけど、」
「あ?」
「…仕事で何度かお会いしたんです」
「へえ。適格者だからか」

タキは表情を崩さなかった。

「ご存知でしたか?」と紳士的に呟いた。何となく身振りや言葉遣いが一々紳士振っていて癪に障る男だ。

「貴方はロスとはどのようなご関係ですか?」
「さあな」
「…命の恩人には変わりありませんけれど」

男は笑った。嘘臭く。

「2日前に会っただけ、つったら信じんの?」
「…ご友人ということですか」

男は笑う。嘘臭く。

「お前、何? 何か目的があんの?」
「いいえ」
「コイツと知り合いなの。それで?」
「…ただ、」
「ぁあ?」

おお、苛立ってるなあ。

しかし直後にタキは安い笑みを消した。それは苛立っているのではなく、平静を取り戻した合図だった。

「…正直に申し上げます。ロスは故意に殺されかけ、駆け付けると素性の知れない青年が近くにいた。私はその貴方を疑わなければなりません」

正論だ。

でも間違っている。

「暗殺者はずぶの素人だった」
「見たのですか?」
「仲間にやられてなきゃ生きたまま捕まえてある」
「…それは、何処にいるのか、教えて頂けるのでしょうか?」

そんな美味い話しがあるかよ。

「あれは俺がゆっくり殺す」

タキは真っ直ぐ俺を見た。射殺すような敵意ある視線だった。

「貴方は履歴の他にも能力をお持ちなんですか?」
「お前は履歴に慣れてねえ。ロスに時々組み換えて貰ってんのか?」

「ちょっとした家出にはちょうどいいよな?」と言うと、タキの口角がほんの僅かに引き攣った。

「貴方は口が悪すぎる」

底辺を這って生きてるからか?

「次会う時までに直しとく。てめえもそれまでに巣立って見せてくれや」
「私は人殺しはしない」
「つって、甘えてんの?」
「…不愉快だなあ」
「俺はダンガードと何度も搗ち合って、身を以ってその怖さを知ってる。でもてめえは怖くねえ」
「能力は戦う為にある訳ではない」
「限界まで向き合えてねえのに、よく言うな」

馬鹿らしい。

「私は適格者だぞ!」

タキが声を荒げたその時、ロスが動いた。眉を顰めると青白い顔の不健康さに拍車が掛かる。

「ロス…」

それは俺とタキの二人の声だった。

不快だ。

けれどロスと目が合うと、タキへの嫌悪感や優越感は吹っ飛んでしまった。始めから俺とロスの二人しかいなかったと錯覚する。

「恭博、さん?」
「なんだよ」
「…恭博さん…」

だから何?

何幸せそうに笑ってんの?

馬鹿じゃねえの。

「お前、倒れたんだよ」
「憶えてます」
「脱水症状起こすくらい吐いた」
「えー、すみません」

弧を描いていた口に合わせて目も細められる。不本意だけれど安心感のある笑顔だった。

「ちゃんと元気になるって」

良かった。

ごめん。

ロスは「当たり前じゃないですか」と笑った。

ロス

恭博さんの能力を仕事に使えば、きっともっと稼げるようになる。けれど俺は60年間そうできないでいる。

「恭博さーん」

恭博さんは俺を睨んだ。

「お前、仕事は」
「まー、自由業なので」

俺が笑うと恭博さんは目を逸らして溜め息らしきものを吐いた。俺はそれを普通より長い呼吸と解釈することにする。

「仕事中まで付きまとうなよ…」
「ずっとこうしたかったんですよー?」
「迷惑だ」
「アシスタントってことで」
「必要ない」

酷い。

恭博さんは珍しく口を大きく開けて、「迷惑だ」と言葉を区切りながら言った。

「そんな頭ごなしに言わなくてもー」

そして暫く俺を見据える。

「何か、あったのかよ」

恭博さんの、そういうところが好き。やっぱり好き。隙だらけなところが好き。なんつって。

「…そーなんです」

信憑性を持たせる為に深刻振ってみた。

恭博さんは警戒しつつも俺に近付いて首を傾げた。その目は困惑の色を隠せない。

「どうした? 家族…は、いたっけ…。大丈夫かよ」

とても心配して貰えているようだ。それによって心の中に芽生えた感覚は優越感とも限らなくて、罪悪感のようなものも感じた。

久しぶりに会って緊張した。

懐かしい愛を思い出した。

何も知らなかった時。平凡な自分と平凡な恭博さん、そのどちらか一人でも適格者になるとは思いもしなかった時。生きる事より優先できることがあった時。

あの頃の幸福感はなんだったろうか。

罪悪感、俺の中にまだあったのか。

ユーリに唆されて恭博さんに会ったことは、失敗ではなかったらしい。恭博さんが世界のどこかにいるのは知っていたけれど、それを実感できたことはなかった。

会えて本当に良かった。

これから先、俺と恭博さんの関係に変化は生まれるのだろうか。

協力…は、きっと無理。

二人でできる仕事なんて昔は探そうともしなかったけれど、あるのだろうか。年を取って気弱になっているのだろうか。

「大丈夫か」と繰り返した恭博さんに、俺は彼の望み通り泣き付いて良いのだろうか。

疑問ばかり。

迷ったことがないのが俺の自慢だったのに。

「恭博さん。結婚してください」
「あ?」
「俺、苦しい」
「…え? 何、これ、悪ふざけ?」

俺は恭博さんを真っ直ぐ見た。

「苦しい、」

また60年も会えなくなるんですか。恭博さんが軟禁されても17年も気付けずにいることになるんですか。

一緒に仕事がしたいという簡単なことが言えない。自由業なのに。

恭博さんだってフリーなのに。

分かっているのに。

「ロス!?」

俺が膝を付くと恭博さんは流石に不安になったのか俺の肩を抱いて顔を覗き込んだ。「気分悪いのか」と言いながら身体を撫でてくれる。

これって幸せって言うの?

「…はっ、あ……」

でも不幸なことに苦しいのは事実だった。呼吸が浅くて脂汗が滲んでいるのは迫真の演技ではない。

すみません、恭博さん。

俺は有って無いような意識の元で朦朧としながら、何かの能力で身体を浮かべられて病院へ搬送されるのを感じていた。

「俺は傍にいるから、頑張れ」

あー、幸せ。

苦しい。けど幸せ。

詰まらない罪悪感を思い出したりしたから、あの頃の幸福感まで蘇ったのかもしれない。安上がりの幸福感。

「……、」

結婚してください。そう言おうとしたけれど、もう声を出す気力もなかった。

ヨル

「ここでの生活には慣れた?」
「はい」

リュウは椅子に座っている。飲み物を出すと「ありがとうございます」と言った。そして彼の綺麗な指がコップを触る。

「試験は受けるの?」
「はい。実践を3クラス受ける予定です」
「え……」

それだと、卒業してしまえる。

「できれば次は水で卒業して、それから働きたいって思ってて」

僕は圧倒された。

「リュウは、きっと適格者になるんだね」

コップから指を離してから、黙ったリュウは肯定も否定もしなかった。

アヤ

リュウは静かに私に触れた。触れられたところからゆっくり温かくなって、それはとても気持ちいい。

「安定してきたみたいです」

リュウはひくりとも笑わずに私を撫でた。

ああ、やっぱり気持ちいい。

「気持ちいい?」
「…へ!?」
「ごめん。変な意味じゃなくて、猫撫でた時みたいな反応するから、つい、」
「ね、こ」

どうしよう。ドキドキしてる。

「可愛いって意味だよ」

いま絶対に顔が赤い。緊張してなんと返事をすればいいか分からない。リュウが笑った。女の人みたいに綺麗な肌と髪と目と歯と手と爪とで出来ている美しい人間が私に触れている。滅多に崩れない顔がいま笑った。

『可愛いって意味だよ』

ドキドキする。

「猫が、好きな、の?」

猫みたいで可愛いってことは私のことも少しはそう思っているってことかもしれない。顔を上げられないから向こうの様子は伝わらないけれどさっき見せた笑顔が頭の中で浮かぶからそれが本物だろうと空想だろうとこの緊張を助長することに変わりはない。

「好きって、言って欲しいの?」

屈んだリュウと目が合うと彼は無表情に私を眺めていて、急に自分が恥ずかしくなった。笑ってなんていなかった。

彼は私のことなんて気にしていない。

「べつに…」

三谷くんが言った通りリュウは誰かに特別思い入れたりはしない。深追いしないからいつも一人だけど、彼にはそれがいいのだろう。リュウは美しいから目立ってしまうし能力者は元来利用され易いし肩入れすれば簡単に均衡を崩してしまう。

彼は自分を弁えている。

そういう冷静で禁欲的な雰囲気も含めて周りは騒ぎ立てるのだろう。

けれど私には滅多に笑わない彼が珍しく笑ってくれたから特別なのではなくて、きっとどんな彼でも特別になってしまうのだ。話しかけられたら戸惑うし近寄られたら緊張するし可愛いと言われれば意識してしまう。

「アヤ?」

リュウは私を直視したまま呟いた。「怒ってるの?」と更に尋ねたけれど私はそれに今自分は怒っているように見えるのか、とぼんやり思っただけだった。

「いいえ。それよりさっきの、猫、好きなんですか?」

リュウは少しだけ黙ってから視線を逸らした。その姿もまるで予定された動きのように綺麗だった。

「……どうだろう。嫌いではないけど」

好きでもない?

「そう、」

残念。

私の心臓はリュウを見ると相変わらずドキドキするけれど彼は心踊るほど浮かれるようなチャンスをそう易々と私に与えてはくれない。むしろその他大勢であることを痛感させられる。けれどそのくらいでちょうど良いのかもしれない。

私は自分を弁えたい。

好きになってしまいました。貴方が触れるととても気持ちがよくて安心するけれど、貴方に私がしてあげられることのない内は甘えたり頼ったりしたくないのです。もうこれ以上は。

可愛くない女でごめんなさい。

「……ごめん、アヤは猫が好きだった?」

好きよ。

お願い、もう少しだけ待っていてください。必ず貴方に追い付いてみせるから、孤独を私が終わらせてみせるから、それまではどんなに冷たくされても耐えてみせるから、だからお願いです、待っていてください。

「好きですよ」

リュウはそれにひくりとも笑わずに答える。

「そうか。ごめんね」

リュウの笑顔は心臓に悪いからそれでいいのだと私は思った。頭を優しく撫でる手に気持ちなんて篭っていない方がいい。

「いいんです。好きですから」

だからいいのです。

エトー

今ソファーでパズルをやっているアキは見た目はただの小さな子どもで、初めて彼を見た時にも適格者だと俄には信じられなかった。ユーリがその小さな子どもを信頼して仕事に起用するのかどうかも疑わしかった。

「……」

ただのパズルに夢中な子ども。

私は能力はほとんど発動できないから本当のところ彼らのことは雲の上の人間のようにも思っていた。

ユーリはクロックスを使えるらしいけれど職業上の能力者は別物だ。中でも適格者などはもっと得体が知れないし、私たちのことなど簡単に殺してしまえる存在だと言われている。

例えばアキが命じればこの部屋は真空になってしまう。

そして私は死ぬ。

けれど目の前にいるのはただの子どもだった。

時間はもう夜になり窓の外は真っ暗だ。そろそろ寮に帰した方が良いかと思ってアキの肩を叩こうとした瞬間、バタバタと廊下が騒がしくなった。

「エトー」

アキは顔を上げると直ぐにその声がユーリのものだと気付いたらしい。扉が開かれたと同時にアキはそこにいる人間に駆け寄った。

ユーリは男に抱かれていた。

「こんばんは」
「…どうも。なあユーリ、ここはお前の部屋じゃないの?」
「ん〜?」

男はユーリに囁くと優しく口付けた。ユーリは相当酔っているらしいが悪い酔い方はしておらず気分の良さそうな顔をしている。

寝室は全く違う場所にあるが私に顔を見せるために態と客間に足を運ばせたのかもしれない。

「寝室はあちらですよ。こちらからどうぞ」

私が案内する間アキは呆然としていた。

教育に悪いだろうか。

「ラゼル、違う」
「何?」
「こっちにオモチャは無いよ」
「……」

ユーリはゆっくり男の顔を撫でた。

つまりそういうことをする道具のある部屋でそういうことをしようということらしい。男はユーリの綺麗な顔を見下ろしてうっとりと赤面した。

私はユーリの言葉を思い出す。

『こういうのはセックスじゃなくて、遊びって言うんだよ』

入れないし、入れさせない。

出しても抜いても遊びでしかない。

「申し訳ありません。こちらからどうぞ」

私は丁寧に彼らを案内した。その部屋に辿り着くと男は興奮を高めたようにまた深くユーリに口付けた。嫌な音が耳に付いて私は顔を逸らした。

「エトー」
「はい」
「お前も一緒に遊ぶ?」
「…いいえ。アキが来ていらっしゃるので」
「アキ?」

ユーリは男から下りるとこちらを見た。

開けたドレスを見ないようにして私は平静を装う。努めて冷静に笑みさえ浮かべて、それは仕事の時のそれ以上に徹底的に本心を頓隠して。

「客間にいらしてます。もうお帰りになる時間ですが、」
「早く言ってよ」

ユーリは不機嫌な声でそう言った。

ユーリのことは分からないことが多過ぎる。素養も能力も余りに違い過ぎて理解できない。向こうは私のことならほんの些細な機微まで感じ取ってしまうのに私の方は今聞こえる大きな溜め息の理由さえ分からない。

「申し訳ありません」

あなたに呆れられると泣きそうになる。

「……ラゼル、少しだけ一人で楽しんでいて」
「え、なんで」
「此処にある物は好きに使っていいから、貴方の身体の準備だってあるでしょう?」
「戻って来るんだよな?」
「勿論」

男はそれ以上は引き留めなかった。

静かな廊下にユーリの靴の音が響く。それは時間を刻むように正確で数論を愛するユーリらしくて、私は昔からいつもその音を追って生きてきた。

「……」

客間の扉を開くとまだアキはソファーで寛いでいた。

肘掛けに乗る脚は細い。

「イイことしてきたの?」

その声音は多少大人っぽくても声そのものの幼さは隠せない。適格者の強大な力が彼らをどれだけ試練に晒しているのだとしても不自然に成長の止まったその身体は私たちの知る摂理を軽々しく超越してしまうから空恐ろしい。

畏怖する。

このただの少年を、私みたいな平凡な人間は畏怖する。

「阿呆。来るなら事前に言いな」

ユーリは親しげに笑ってアキのいるソファーに腰掛けた。私の手渡した毛布を膝に掛けて、アキの頭をそっと撫でた。

「言っても忘れるでしょ」
「ユーリが忘れない。でしょう?」

私は笑って頷く。

「やっぱ忘れるのかよ」
「私にはそういうことは必要ないからね。エトーはそのためにいるの」

ユーリは私を置いて遠くへ向かう。

私はユーリを追って追い掛けて自分のできることを必死に探して提示する。それがユーリのスケジュール管理だけだとユーリが言うならそれは正しいのだろう。

正しい。

「……」

するとアキが起き上がってユーリの方へ手を伸ばした。青いその生地を触るのを止めようとして思い留まった。

私の仕事ではない。

「なんだ?」

ユーリは妖しく笑んでアキを見た。「エトーの前で、」と言いかけたのをアキは大袈裟に溜め息を吐いてみせてから遮る。

「ファスナー下ろして誘っても、気付かない男もいるって知ってる?」

ユーリはくすりと笑った。

「大きなお世話」

私は品のない自分を恥じたと同時にアキの言葉の意味を考えた。その『男』はアキのことなのか、ラゼルのことなのか、或は他の誰かのことなのか。

アキとユーリは楽しげに幾つか言葉を交わしながら玄関へ向かった。

「恭博さんは、また変な仕事してるみたいです」
「ああ、そう」
「……」
「悪いけど恭博さんとは最近仕事してないの。そもそも彼だって誇りを持って仕事してるんだから、私が色々言うのは間違っているしね」
「でも恭博さんはお金のために働いてるんだ」
「……君はまだ若いね」
「はい?」
「そんな気持ちは50年も働けば消える」
「……」
「私はギャンブルはするけど真っ当な仕事しかしない。恭博さんはギャンブルはしないけど堅気の仕事もしない。なんでか考えても分からないなら働くことね」

ユーリはにっこりと笑って手をひらひらと振った。扉に凭れて気怠げに、けれど顔は心底楽しげに。

アキは少し考える素振りを見せたけれどすぐに笑顔になった。

「年寄りぶるなよ。ユーリは綺麗だよ」

見当違いにも思える返答を、けれどユーリは喜んだ。

これからユーリがラゼルのところへ行って不健全な行為に耽っても私には咎められない。手を貸すことすらあるのに心ではそれを拒否している。

それをユーリは絶対に知っている。

「またおいで」

ユーリは最後にそれだけ言って扉を閉めた。

私は笑う。

結婚したら後悔してきっと直ぐに別れてしまうのに私はいつまでも結婚願望を持っている。ユーリが気まぐれに私を振り返るのを歓迎してそうでない時の嫉妬を箱の中に押し込めている。

適格者と平然と接するユーリは、けれどやはり私とは違う世界の人間なのかもしれない。

「ファスナー、気付けなくて申し訳ありませんでした」
「興味がなくて見ていなかったんでしょう」
「…いいえ」

嫉妬する自分が怖くて、見られなかっただけです。

ユーリは規則正しい音を立てて廊下を歩く。辿り着く部屋にはラゼルが待っているのにユーリは少しも乱れず歩く。

「面白くない男」

そうごく小さく呟いたユーリを私は無視した。

恭博

適格者が重宝されるのは希少だからだけではない。

圧倒的な力があるからだ。

絶対的な違いがあるからだ。

その日は大切な取引があったから俺も同席していた。向こうにも能力者がいて、『視た』ところ彼は多少火が使える程度だったので油断したのだと思う。

「サツです!」

その声は突然響いた。商談の大事なところは済んでいなかったのに事務長はあっという間に消えてしまった。その程度の対策は抜け目なく行っているのだろう。

彼らは巧妙に姿を暗ませて連絡を絶つ。それで終わりになった仕事は少なくないから知っている。

けれどそれは俺が部外者だからだ。

警察は分かっていない。

子どもは親のためなら命を捨てても功を立てる。身を削っても義理を立てる。小指を落としても絆を復する。血の繋がりを忘れても通した筋は刻み付けている。

彼らは情や仁義で結ばれる。

警察は分かっていない。

金や安っぽい取引に応じるような人間は組では信用に値せずいつでも切り捨てられる。重要な情報の保有は許されず顧みられることもない。

適格者だとか純潔だとかいうことは彼らの関係にとっては髪が長いか短いかくらいの意味しか為さない。

俺はだから憧れた。

隣のビルまで4メートル。今の高さから飛び込めば地面に叩き付けられる前に隣のビルのフロアに入れる。

失敗すれば死ぬ。

隣のビルの構造は分からないがあんなきな臭い場所で警察に補導される方が面倒だ。水面に飛び込むみたいに指先から壁に『入る』と、あっという間に隣のビルに辿り着いた。

不慣れだったから上手く『通過』できずに指先は酷いことになったけれど、俺は他の誰よりずっと簡単に車に乗り込む事務長を発見して追い付くことができた。

事務長は俺の腕を引っ張り車中に放り込んだ。

「どうやって来た?」
「企業秘密です」
「えらい度胸だな」

俺は彼が取り出したタバコにすかさず火を点けた。

「取引はどうなりますか」

事務長は長く煙を吐き出した。口からも鼻からも燻って堅気にない威圧感を助長する。

何かの能力みたいだ。

「もう無理だろうなあ。日向の奴らも逃げただろうが、」
「……」
「ああ、分かってる。きちっと金は出すからな。迷惑かけた詫びもまた入れる」
「……」
「飛田に運ばせるからちゃんと受け取るといい」

そしてまた煙を吐いた。

「警察は誰を見張ったんでしょうか」

俺の問いには答えず事務長は目を瞑る。子どもを置いて逃げ出した自分を思ってか、自己犠牲の上に親を助けた子どもを思ってか。

「その指はどうした?」

事務長はタバコを銜えたまま上着を脱いで派手なシャツが現れる。上着を預かると血が付着しているのに気付いた。

警官の血かもしれない。

「…ぶつけて、」
「スイマーも使えたのか?」
「……企業秘密だったんですけど」
「そういう組み合わせはよくあるのか?」

目が合った。

「俺は、普通じゃないので」

睨まれたと言った方が近い。よく見ると傷だらけの顔とその目付きはただ目が合うだけでは済まさない雰囲気がある。

「問題は誰を側に置くか、だ」
「……」

突然の話しの展開に俺は怪訝な顔をしたと思う。

タバコの火を揉み消した事務長は新しいタバコを出してそれを銜える。

「俺はお前をそこそこ気に入ってる」
「……」

俺は火を差し出した。

「嘘を吐かなければいいって姿勢は食えないが、それもお前の仕事なんだろう」
「……」
「それに、指をそうまでして生き抜こうって根性は悪くない」
「……」
「けどなあ、」

シートに身体を深く沈めたと思ったら彼はどこからか短刀を取り出した。繊細な桐の鞘から刃を抜くと目の前に翳す。

刃は滑らかに光る。

事務長の瞳も同様に。

「……」

距離が距離なので警戒を強めた俺の首筋を、けれど事務長は容易にその刃で撫でた。その動作は自然でやはり彼がそういう世界で生きてきたのだろうと思い知らされる。

「あいつらはどんなに馬鹿でも俺が認めたから置いてんだ。身内に責任転嫁しようって姿勢は良くねえなあ」

俺が疑ったから。

「……」

彼の短刀を持つ腕を切り落とそうと思えば簡単にできるのに俺はそうはしなかった。

「部下の不始末は親の責任でもある」
「……」
「野倉、止めろ」
「……」

車が止まった。

「俺のところで仕事できねえって言うなら構わねえよ」
「……」
「今ここで降りろ」

俺は力を抜いてシートに沈んだ。

「あんたになら殺されてもいいや」

首から顎が刃で撫でられる。

「殺ってやろうか」

しかしその言葉に反して事務長の左腕は微動だにしなかった。いっそ優しく声を出す。

「もう少しだけ、ここに置いてください」
「……」
「お願いします」

頭は下げられなかったけれど事務長は俺の言葉を黙って聞き入れてくれた。下げられた短刀は鞘に戻される。

「……」

車が再び発進した。

「上着、汚れていますよ」
「そうか」
「怪我はされていないんですか?」
「ああ」

事務長はそっと笑ってくれた。

絶対的な力を前に圧倒的な違いを感じさせずに気持ち一つで親子になった彼らが、俺には羨ましかった。

三谷

僕は嫉妬した。

自分だけのものだと思っていたアヤが選りに選ってリュウと親しげに話していた。好きとか嫌いとか況して付き合うということは分からないけれど、彼らが自分とアヤよりも親密な関係であることはなんとなく分かった。

「アヤと知り合いだったの?」

突然の問い掛けにリュウはゆっくり振り返った。感情の見えない瞳が僕を見据える。

僕も見返す。

「知ってるけど」
「もしかして、アヤのこと救ったのってリュウ?」
「ん?」
「久しぶりにアヤに会ったら前より元気そうだったから」
「……そうか」

鈍い反応。

リュウにとっては取るに足りないことなのか。

「何それ」

僕は小さく呟いた。

アヤを照らすのは僕でありたかった。光の粒の一つひとつを見て、それらが漏れなくアヤのために光るのを僕だけが知っていたのだから。

リュウはお茶を口に含んで視線を前に戻した。

興味ないみたいに。

「何って。アヤってお前の彼女なの?」
「はい?」
「心配するような関係じゃないよ」
「はぁ!? 心配してないよ!」
「してたでしょう」
「してない! 意味分かんない!」

別に、そういう意味じゃないのに。

リュウはトレーを持つと静かに立ち上がった。能力を使ったのかと思うくらいに音がなくて少し怯んだ。

「三谷ももう13か」

意味が分からない。

でも少しだけ分かったから苛立った。

「とにかくアヤと何があったか教えてよ」
「そうだねー」
「何」
「そうだねー」
「……」
「俺は、本当に聞きたかったら本人に聞くものだと思うけど」

分かってるよ。

子どもだから分かってないことも多いけど、そういう人間の道義は少しは分かるよ。

「ロスに似てきたんじゃないの」

分かってるけど聞いたんじゃん。

トレーを返してから俺を見たリュウとまた目が合った。食器を片付けていく音が耳に障るけれどリュウは全く気にしていないようだった。

「兄に向かってそんな風に言う?」

本当に似てきたよね。

恭博

懐かしい拘束具の感覚にすぐにそれと分かった。

拘束具は歴史上でただ一人しかいないルーミアの適格者がお遊びで造ったらしい。絶対契約の適格者よりも絶対領域の適格者よりも圧倒的に世界を支配していた一人の少女が自分を隔離するために原子レベルで精錬したもの。

今は一部の金持ちと政府が占有していてその存在すらあまり公には知らされない。

「どうしたの」

薄汚れた子どもが持つものではない。

「…ねえ、ご飯おごってくれない?」
「は?」
「俺に同情したんでしょ。なんか食わせてよ」

ほんの1メートル先に見え隠れする拘束具に貧血に似た眩暈を感じながら、それを所持する当の本人はけろりとしている。

「腹減ってんの?」

その子どもは少しの間を開けてから、「当たり前じゃん」と言った。

「じゃあ俺ここで待ってるからさ、気が変わらなかったら何か持ってきてよ」
「付いて来ないの?」
「こんな格好のガキ連れて歩きたくないでしょ」

遠慮だとか容姿の身奇麗さだとかはいくらかでも躾られた人間の言うことだった。子どもは何か理由があって家出でもしているのかもしれない。

そうじゃない人間ばかり相手にしてきたから知っている。

「お前、家出?」
「…なんで?」
「いつからこんな生活してんの」
「いーじゃん、そんなこと」
「1つ質問に答えたら1食おごってやるよ」

その子どもは顰めると急に立ち上がった。

「あんたロリコン?」

俺はまだ16歳だ。見た目は。

しかしそれは心の中に留めておいて、立ち去ろうとするその子どもにそれらしく「お前男だろ!」と注意した。

「てかロリコンじゃねぇよ!」
「へー」

子どもは気の無い返事をしたけれど立ち止まりもこちらを見もしない。

「結婚歴もあっから!」
「へー」

これでも疑いは晴れないのかと自分がそっち側に見えるらしいことに落ち込みかけたけれど時間差で「え?」と今度は振り向いてくれた。

「お前能力者だろ」
「……」
「俺もだから。それ、拘束具、どこで付けられた?」

目を見開いて、混乱しているらしい。

「……」

路上生活はそう長くもないのか、今まで能力者に出くわしたことがなかったのだろうか。

「俺もうっかり付けられたことあるから分かんだよ。飯やるから俺んとこ来い。嫌なら好きな時に出てけばいいだろ」
「え。ほんと?」

それは子どもらしい反応だった。

「来る?」
「……行こっ、かなー…」

子どもの態度が急に小さくなった。

今なら上下関係をはっきりさせられそうだと踏んだ俺は幾分か胸を張った。顔も態度も相手に見くびられない商売用のものにする。

「じゃあ、お前、はっきりさせなきゃなんねえことがあるんじゃねえの」

子どもの表情も硬くなる。

「家のことは言わないよ」

落し前の大切さは身に沁みて知っている。

「そんなことはどうでもいい。お前が本当は化け猫でも構わねえけど、お前、さっき、俺のことロリコンだって疑っただろ」
「はあ?」
「これから世話になる人間にそれはねえだろうが」
「いや、あんた結婚してるんでしょ」
「義理を通せって言ってんだよ」
「え、え?」

ここぞとばかりに凄みを利かせる。

「俺が違うって言ってんだ。お前が自分の立場分かってんなら、本音はどうでも俺の顔を立てんのが筋だろうが」

子どもはぽかんとしている。

「……、すみません。どういう意味ですか…?」

もう決まったも同然だ。

「俺は食わしてやるって言ったんだからお前がいらないって言うまでいつまででも家に置いてやる。それが筋だからだ。その俺がロリコンじゃねえって言ったらお前はなんて答えなきゃいけなかったのか、分かんねえのかよ」

子どもは少し考えてから顔を明るくした。

「なんだ、大丈夫。俺は男だし、あんたがロリコンでも気にしない!」

俺はこいつをぶん殴ろうかと思った。
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