※刀さに(ぶしさに)
※女審神者




音もなくしとしと雨が降っている。風も吹いて肌寒い。薄着の二人は布団の中でもつれ合い、やがて深く口付けた。

「主殿」
「うん……」

山伏が私の寝間着に手を差し入れた。素肌が触れ合う。手甲がない。

「主殿」
「うん……」

服を脱ぐ。あまり受け身だと飽きられてしまいそうだけど、慣れていると思われてかえって良くないかしら。まあ、今さらか。神様のことはわからない。

山伏にじっと見られているのがわかる。緊張する。でも嬉しい。緊張なのか興奮なのかわからなくなる。

私も山伏を見る。山伏は美しい。そして逞しい。その山伏が私を見ている。

うまくいって、お願い。私は心の中で願った。

私には気がかりなことがある。

「山伏も、」
「ああ」

肌けたところから触れる山伏の手が熱い。彼はなんてちょうどいい加減で触れてくれるのだろう。優しすぎず、山伏の力強さを感じられるちょっと強引な、でも決して無理を強いない加減で。その彼の手がとても熱い。

山伏は何もかもが熱い。

彼の大きな手も、私に向けられる視線も、かけられる言葉も。

なんて熱いのだろう。

山伏が一層深く抱きしめたとき、私の指が思わず跳ねた。快感からではない。その余りの熱さ故に。

やっぱりだ。気のせいではない。

「主殿?」

心配そうに声を掛けてくれた山伏にどんな言葉も返せないまま、もう一度山伏の背に腕を回すが、とても我慢できそうになかった。熱い、熱いのだ。余りにも。

山伏が再度深く抱きしめようとしたところで、私は彼の胸に手をついてそっと押し返した。

「ごめん、ちょっと……本当にごめん」

山伏は普段からは想像できないような優しい声音で「お気に召されるな」と答えて、私の寝間着を整えてくれた。聞こえるはずのない夜更けの雨音が、私たち二人のあいだにまで届いた気がした。


 **


ここのところの私の悩みは山伏との夜のことだ。それはつまり、恋人として過ごす、夜のこと……。実は、初めて服を脱いで山伏に触れたとき、その余りの熱さに彼を突き飛ばしてしまった。山伏はびっくりしていたし、直ぐ私に謝罪した。私はとにかく誤解のないよう、山伏に好意を伝えたが、どこまで伝わっていたのかわからない。そういうことが三度あった。

それから山伏は私に何もしてこない。

これでは飽きられる前に呆れられてしまう。

季節は変わって寒さの厳しい時分となった。最後に二人で寝所に入ったのはだいぶ前のことのように思う。

この頃、朝は特に冷え込む。今日も寒さの余り私は寝たふりを決め込んでいたが、見計らったように歌仙が「おはよう、主。今日もいい天気だね」などと言いながら部屋へ入ってきて、布団のシーツを足下から強引に剥がしながら「ところで、山伏国広とはどうなんだい?」と尋ねた。私は追い出されるように布団から這い出つつも、その行動とは裏腹な歌仙の優しさに泣きつきたくなった。

私と山伏との関係は本丸内で概ね知れ渡っているようだけれど、さすがに誰彼なしにそのことを相談できるはずもない。歌仙は数少ない私の相談相手だ。

歌仙は面倒見のいい刀だ。それを歓迎する者と、そうでない者がいるだけで。初期刀として顕現した責任が彼をそうさせるのか、それは私にはわからない。

刀剣男士に個性のような違いがあることは、政府から説明されている。私の本丸の歌仙と、他の本丸の歌仙は、まったく同じに思えることもあれば、どこかが違うと感じることもある。

だから、山伏に何か他の本丸との違いがあるとすれば、それは彼を顕現させた私のせいだろう。

『山伏国広』を顕現させたのは私だ。山伏がただ居てさえくれればそれでいいとか、他の本丸と違うならそれでもかまわないとか、それでは余りに無責任だ。私と山伏とのことは、私たちが解決しなければならない。

「相談に乗ってくれる?」

歌仙は私のすがるような目線を雅に受け流し、「どうしようかな」と答えた。

私はかまわず彼に話しかける。

「歌仙さんは山伏の入れ墨に触ったことある?」
「あるよ」

歌仙は事も無げに答えた。

それは一体どんな時だったか、気にならないでもなかったが、今はそれより自分のことだ。

「実は、私、山伏のあの入れ墨がすごく熱く感じて、ずっと触っていられないの。あの入れ墨って、不動明王の迦楼羅炎、ってやつなのかな。それで、その、あれって私みたいな『人間』には、触れないものなのかな……。それとも、それは、私の問題? 私が煩悩まみれだからとか……。そのせいで私、山伏と共寝もできてなくて、申し訳なくて……」

煩悩まみれ。口をついて出た言葉だけど、そのとおりだ。

それならこれは私自身の問題であると言える。

私のせい。

私のせいで、この先ずっと山伏を抱きしめることができないということ。互いになるべく触れないようにして体をつなげることは可能だろうけど。

「主。それでは、山伏をやめて他の誰かにするかい?」
「そうだね。山伏には、その方がいいのかも」
「主はひどく残酷なことを言うね。僕たちはもうただの刀じゃない。手に取ったり手放したり、物のように扱われては山伏国広だって可哀想だ」

言わせたのは歌仙のくせに。

私は心の中で悪態をついた。

「それって私がこのまま山伏に触れないことと、どっちが残酷なのかな」
「僕が言ったのは、そういうことじゃないんだけどね」
「そうかなあ」

歌仙は私を一瞥して「なぜこの僕がこんなに情緒を解さない主に仕えなければならないのだろうねぇ」などと独り言とは思えない声量でつぶやいた。

「主。その入れ墨、今度昼間に触ってみたらどうだい?」
「昼?」

そのことについて歌仙ははっきりとは説明せず、「僕はもう行くよ。片付かないんだから、早くご飯を食べにおいで」と言って、シーツを抱えて部屋を出て行った。

歌仙は雨の日も夏の暑い日にも風流を感じると言ってはよく歌を詠んでいる。私も歌仙くらい雅な人間なら、山伏に自分の気持ちを和歌にして伝えたりできたかもしれないけど、それは難しそうだ。

私は身支度を整えて食堂へ行った。

食堂では内番に当たっていない刀が遅めの朝食をとっている。特に決められた席はないのでみんな好きにしているようだ。

「やあ、おはよう」
「おはようございます」

私は白いジャージを肩に掛けた、山鳥毛の向かいに座った。

山鳥毛にも入れ墨が入っている。彼のはよりモチーフ性が高い。ときどきアクセサリーを身に付けていて、髪型も大人っぽく整えられて色気がある、そんな彼をより魅力的に見せる入れ墨だ。

座っていると光忠が朝食を運んできてくれた。

「おはよう。どうしたの、山鳥毛くんのことじっと見つめて」

見つめていたかな?

私が「山鳥毛さんはカッコいいなあと思って」と答えると、光忠も山鳥毛を見つめた。

一度に二人に見つめられた山鳥毛は、「ありがとう。そんな風に言われると、照れてしまうな」と言って赤くなった頬を掻いた。

私は山鳥毛が恥じらう姿が好きだ。思わず目を細めて「本当だよ。カッコいいよ」とさらに褒めると、やり過ぎだと言わんばかりに光忠が「ほら、ご飯も食べてね」と言って私を小突いた。

しばらく静かに食事していると、私にまだ視線を送られているのに気づいたらしい山鳥毛が、「小鳥は何か私に聞きたいことがあるようだな」と言った。

サングラスをかけて同派の刀を率いる姿は相当な強面だが、こういう気さくなところもあるのが憎い。山鳥毛は、彼を支えなければと思わせる不思議な力を持っている。

山伏は、彼といると、どちらかと言うと寄りかかりたくなる。

同じ刀剣男士でもこんなに違う。

「不躾なお願いなのだけど。山鳥毛さんの入れ墨に、触ってみてもいい?」

山鳥毛は私の目を真剣に見返して、「ああ。手でもいいか?」と答えて左手を差し出した。大きくて、でもとても綺麗な手だ。グローブで隠れているが、手の甲から腕の方まで入れ墨が入っているようだ。

山鳥毛の手を取って、腕の方にある入れ墨を撫でてみる。彼の体温は感じるが、熱くはないし、特に痛みもない。

いつまでも山鳥毛の腕を触っていると、「主殿」と声をかけられた。

「山伏、おはよう」
「あまりそう、ひとの肌に触れるべきではない」

声をかけたのは山伏だった。山伏は、山鳥毛の後ろから私を真っ直ぐ見下ろして言ったが、その手は山鳥毛の肩に置かれたので山鳥毛を咎めるような印象を与えた。

「これは失礼した」
「すみません、私が……」

山鳥毛は落ち着いた様子で詫びて、そっと腕を戻した。私のせいで彼が詫びるなんて良くないとは思ったが、山伏の燃えるような強い視線を前にして私は言葉を失ってしまった。

山伏は嫉妬深い神様ではないと思う。妬みや憎しみからはほど遠い。仲間と楽しそうに過ごしているか、或いは静かに瞑想している。山伏にこういう目を向けられるのを、おそらく私は一度も経験したことがない。

嫉妬でないなら、軽薄な女と思われた?

私は山伏から目を逸らし、やっと絞り出した声で「お皿、下げてきます」と言って席を立った。

私はちょっと、ショックを受けた。

怖くなっちゃった。

山伏が感情を露にした、それだけでこれほど動揺してしまう。

私は山伏を神様らしい神様だと思っていた。彼に刻まれた不動明王の入れ墨、彼の戦装束、『山伏国広』という御刀、それで私は山伏をいかにも神様らしい神様だと思って、自分は無条件に庇護される立場であると高を括っていたのだ。そういう傲慢な自分にもショックを受けた。

私が山伏を神様だと思うからそう見え、そうでない一面に触れても見ぬ振りをしていたのではないか。

流しには椅子に腰掛けて雑誌を読んでいるらしい燭台切光忠がいた。

「山伏を怒らせちゃった」

私の言葉に光忠は何も返さず、私の後ろへ視線を寄越した。

振り返るとそこには山伏がいた。先程感情を露にしていたのが嘘のように、いつもと変わりない山伏だ。ただ少し、申し訳なさそうに眉尻を下げている。

「あいすまぬ。主殿へ相応しくない物言いをしてしまったゆえ謝罪がしたく」

しゅんとした山伏は「それは拙僧が」と言って私の使った食器を受け取って流しに置いた。お詫びのつもりらしい。

こういうところを可愛いと思う。

でもそれは、私が怖がらないよう、山伏が努めてそのように振る舞っていただけなのかもしれない。彼の中には激情が渦巻いていて、山伏自身もそれと対峙しているのかも。

山伏が食器を洗い始めたので私は彼の横に立って少しだけ体をくっつけた。

山伏は濡れるのも構わず手甲をつけたまま洗い物をしている。光忠はまめに手袋を外しているのを見かけるが、山伏の手甲はほとんど外すのを見たことがない。お風呂上がり、もう寝るだけでというとき、同じ布団に入って私に優しく触れてくれた彼の手を思い出す。大きくて、熱くて、私を求める手。

「変なお願いしてもいい?」

山伏は食器を水切りかごに置いて、「なんであるか?」と大らかに聞き返した。

「山伏の、入れ墨を触ってもいいかな……」

山伏は「うむ」と短く返事して、袖をまくった腕を差し出した。

山伏の腕は筋肉質で、その肌にはまるで生きものが這っているかのような炎の入れ墨が彫り込まれている。山鳥毛とはやはり違う。触っているうちに、熱くなってきた気がして、私はそっと手を離した。山伏の入れ墨は今にも体の内からその身を焼き尽くしてしまいそうな迫力がある。

そう言えば歌仙は昼に入れ墨に触ってみればと提案してくれたが、どういう意味だったのか。

「僕、席を外した方がいいかな?」

光忠におもむろに声をかけられたので、私と山伏は目を見合わせて笑ってしまった。どうやら話しの続きは場所を移動した方が良さそうだ。

「ごめん。もう出ていくね」

私は用意してもらったお茶を持って、山伏と執務室へ行った。いつもなら朝食の後は今日やる仕事について歌仙から報告があるが、歌仙が訪ねてくる様子はない。何か察して時間をつくってくれたのかもしれない。

「主殿。先ほども、山鳥毛殿の腕に触れていたようであるが」

部屋で二人きりになるとさっそく山伏に切り出された。直球だ。ごまかしは効かないだろう。

私は覚悟を決め、山伏に座るよう促してから「そのことなのだけど」と話しを続けた。山伏の入れ墨が熱く感じること、それは山伏だけ特別であるようだということ、この問題をどうにか解決したいと思っていること。歌仙に相談したところ、昼間なら何か違うかもしれないと提案されたこと。

山伏は囁くように「主殿、抱き締めても?」と尋ねた。

拒否するべくもない。

山伏は膝立ちになって私を抱き締め、「主殿の心配事は、すべて拙僧の未熟ゆえのことである」と言った。

「拙僧の体を覆う、この炎。これは『山伏国広』に彫られた不動明王に由来するものであろう」

山伏は私から離れると、おもむろに服を脱いで私に背を向けた。そこには背中をすべて隠してしまうほど大きな不動明王が、世界に災厄をもたらすものすべてを牽制するようにこちらを睨んで座している。山伏が呼吸するたび不動明王とその身にまとう迦楼羅炎がうごめいて、まるで生きているかのように錯覚する。見事だ。真に迫るものがある。

私は言葉を失って山伏の背中に見惚れた。

「この炎は拙僧の身を焼く迦楼羅炎。拙僧の未熟さがこの炎を地獄の業火へ変えてしまうのである。まさか主殿までこの炎を熱いと思っているとは知らず、心配をかけ申した。あいすまぬ」

一体どんな顔でそんなことを言ったのか、背を向けられているから想像するしかない。

『山伏国広』に彫られた不動明王という神様の浮き彫りは、鋼に彫られたとは信じられないほどに緻密で、恐ろしく、思わず手で触れたくなるような美しさを持っている。触れれば何か願いが叶うのではと思わせる力がある。

山伏国広は人の願いを聞く側の存在だったのに。

山伏国広は美しい「祈り」の御刀だったのに。

山伏国広は刃こぼれとも錆とも無縁で、生まれたままの姿を愛され大切にされてきたのに。

今や山伏は自ら願いを抱き、祈り、そして人を愛そうとして苦しんでいる。戦って、その刀で誰かを傷つけて、自分の未熟さを知って、迷って、これだけ苦しんでいるのにまだ道は続いている。

私が彼を呼んだ。それで彼は苦しみを知ってしまった。でも私がやらなくても誰かがやっただろう。未来の見えない戦況、複雑化する情勢、政府を助ける刀剣男士は増え続けている。人の心に一条の救いをもたらすようにと生まれた『山伏国広』が、誰にも呼ばれないはずがない。

私は山伏の背中に触れた。

「今も熱い?」

触れたところから痛ましいほどの熱が伝わってくる。

「うむ。熱い」

私は山伏にぴったりくっついて、彼の体に腕を回した。ちょうど目前には不動明王が見えて、その余りの迫力に、彼の三鈷剣で私の体が切れてしまうのではと怖いくらいだった。でも離れ難い。

「この炎の熱さは、私が煩悩まみれだからなのかなって思ってた」

私の腕に山伏が触れた。手甲はすっかり乾いている。

「拙僧はこの姿で顕現した。山と修行と、筋肉を鍛えることが好きである。この体を覆う炎、背中に座す不動明王、それは入れ墨とは違う。このように在るよう、はじめから定められている。腕を切られ、肌が焼け落ち、肉体を失っても、主殿に呼ばれる限り拙僧は必ずまたこの姿で現れるという確信がある。何度溶かされ、何度鍛え直され再刃されても、拙僧の在りようは変わらぬ。それは主殿には責任のないこと」

山伏を苛むもの、それは山伏の在りようそのものだ。

そんなに苦しめるくらいなら顕現させなきゃいい。それだけのことで山伏は太刀として、所有者に大切に手入れされ、穏やかな時間を過ごせる。

でも私には山伏が必要だ。

彼の炎が、不動明王が、熱くても、苦しくても、山伏の肌から離れないのと同じように。まるでそのようにはじめから在るように。

歴史修正主義者との戦いを、他の男士がいるからいいや、とは割り切れない。

私には山伏が必要なのだ。

「責任ならある。私は山伏の主だから」

山伏が「カカカカカ」と笑った。背中から私の頭の中に直接響くような大きな笑い声だ。

「では、責任を取っていただくかな」

不敵な声音でそう言ったかと思うと、山伏は体を捻って私と向き合い、私を強く抱きしめた。そして、信じられないことに、山伏はそのまま私の首元にキスを落とした。私はいま山伏と触れ合えている。

この展開は……。

驚きつつも、私はこれをチャンスと思った。

「布団ひく?」

私が小さい声でそう言うと山伏は虚をつかれたような顔で私を見返した。

言った自分も恥ずかしくなる。

「それはまた夜に」

今度こそ私は恥ずかしさに顔を真っ赤に染めた。


 **


「この炎が熱くなるのは、私の心の持ちようなのかな」

私が尋ねると山伏は自分の腕に走る炎の一筋を撫でた。興奮すると色を濃くするそれは、確かに入れ墨とは違うもののようだ。生きた、彼の体の一部なのだ。

「拙僧が、主殿に下心を覚えると炎が熱くなるのは事実である」
「え?」
「歌仙殿が昼間に触ってみるよう促したのは、その為であろう。ただし、拙僧がこの炎を熱いと思うときと、主殿がそう感じるときは同じようでいて少し違う。それぞれの煩悩の形が違うように。今日、主殿と触れ合えたのは、主殿と拙僧が、互いを受け入れる準備ができたゆえかもしれぬなあ」
「心のことを言ってる? それとも体の?」

私が笑って尋ねると、山伏に片目をすがめて「両方を願うのは欲深いかな?」と返された。

それなら私だって欲深い。

生きることは苦しみに満ちている。傷つき、苦しみ、痛み、もがき、逃げる術はなく、立ち向かい、抗い、死ぬまで生きる。でも私たちも、刀剣男士も、苦しむために生まれてくるはずがない。そんなことあってはいけない。

私は熱いくらいの山伏の体に顔を寄せて、彼がいまここに存在することに感謝した。

「拙僧は、筋肉を鍛えるために修行している」
「え?」
「苦しむためではない。この筋肉で人々を救うため。誤った方法で人を傷つける者を止めるため。主殿と心を通わせるため。その歓びは何にも変え難い」

私は山伏の言葉に呆気に取られた。

それはそっくり私の考えていたことと同じだからだ。

私のための言葉みたいに、その言葉は私のこころの奥深くまで沁み入った。

「主殿。拙僧を顕現してくれたこと、感謝である」

山伏は八重歯を見せてにっこり笑った。

「山伏……。この本丸にきてくれて、ありがとう」

この歓びを得るために私は生まれた。

燃えよ煩悩、私は生きている。生きる苦しみ、生きる寂しさ、上等じゃないかしら。この煩悩がないなら、私は死んでいるのと同じだ。そしてこの苦しみはどこまでも私一人のもので、孤独だけれど、生きているひと、みんなどこか痛くてひとりで耐えている。

だから私は、今日くらいは痛みを忘れてこの歓びに浸ろうと思った。