画像は本文とは関係ありません(笑)


先日、ラジオであるお坊さんが極楽と地獄の風景についてお話されていたんです。
極楽でも地獄でもおいしい食べ物があるという話なんですよ。で、そこに行った皆さんは、食べ物を食べるとき、必ず長い長い箸を持たなければならず、箸は決して手放すことができないようになっているんですって。

で、地獄では皆、おいしいものを我先に食べようとするんですが、箸が長いので当然、自分の口に運ぶことができず、取っては落とし取っては落としして、いつまでも食べられず苦しむんですって。
一方極楽では、やはり皆、長い箸を持っているんですが、ここでは皆さん互いに相手の口に食べ物を運んで上げるんですって。あなたはこれが欲しいんですね、あなたはあれが欲しいんですねと、相手の食べたいものを思いやって食べさせ合うので、皆さんいつもおいしいものを満足に食べられるんですって。

皆さんはこの話、どう思われますか。

この話は確かにフィクションでしょう(何だよ)だってあの世を見てきた人っていないんですから。復活したといってあの世を語る人は死んでいなかったわけですから。あの世を見たということを覚えているということは結局脳が生きていたわけで、死んであの世に行ったわけではないんですから。異論はあるでしょうけど。

でも私、この極楽地獄の話にはある意味人が幸せに至るための真実が隠されているのではないかと思うんですよね。

私、幸せとは、極めて簡単、単純に言えば、望んでいることが得られることなのではないかと思うんですよ。
詳しくは述べませんけどね。ニュアンスだけ受けとってください。異論はあるでしょうが。

で、望んでいること、それはおいしい食べ物、お金、物、健康、地位名誉、心の平静、愛、恋人、家族の幸せ、自家菜園の収穫物など、様々なこと、ものがあるでしょうが、結局はこれ、1人では実現できないものだと思うんですよね。
人が社会生活で他人との関わりの中で得られるものだと。

健康だって他人の作ったお米とかを、お金とかで買って食べたりして維持している意味で、1人では実現できないものであると言える。

地位名誉だって他人の協力を得たり、他人との関係で手に入るもの。で、1人だけでは単なるお山の大将。

えっ?自家菜園で収穫物を得た場合の幸せはどうなのかですって?…う〜ん、これはどう説明しよう。これは例外。いや、それが唯一の幸せというのであればすばらしいことですよ。無人島とかで。

でも、殆どの幸せというものは他の人とのつながりの中で相手からありがたいことに得られるというものなのではないでしょうか(と佳境に無理矢理持っていく私)。

今日、ある本を読んでいたら、生きたお金を呼び寄せる一例が書かれてあったんです。
それによると、お金を使う時に、それで得られるもの(買う対象物)を作った人々、販売する人々、関係する人々に常に感謝して使いなさいということなんですよ。で、心をこめてありがとうと。できれば態度で示すと。
そうした行為、効果が相手にもいい感じで伝わったり、何らかの反応を起こしたりして、結局お金とか人間関係で生きて返ってくるんですって。詳しくは書けませんが。情緒的なニュアンスがあるようにも聞こえるでしょうが。

でも、これをするのは少なくとも悪いことではないし、私がその本を読んだ時には「これはありうるな、やってみよう」と思ったわけですよ。

こうした、お金を使う際、どうせ使うなら本当に感謝して使ってみたい、決して悪いことではない、これで生きた人間関係、お金で戻ってくるのならすばらしいことだ‥そう思いまして、ぜひやってみようと思っているのです。

これは幸せを得るための一試案にもつながっていきますよ。これで本当にいいものが返ってきたら大々的に回りに伝えますし、その前に人間関係でも試してみます。いつも相手の口元においしいものを運べるように、利害関係なしでやってみたい。

で、それが私の思う幸せにつながるのを確信したら、回りにも大々的に広めて行きたいと思っています。