理性を失わせるカレー

今日の私の晩ごはんはカレーだったのですが、カレーってお腹がすいているときには、なんというか、理性を失わせるんですよね。

画像をご覧になればおわかりのとおり、いきなりご飯を盛って、カレーをかけて、もう食べようとしている自分にハッとする。

本来ならば、西洋皿にご飯をサッとよそって、にんじん、じゃがいも、お肉、玉ねぎなどを彩りよくバランスよく盛っていく、というのが筋で、その上で写真を撮影し、「これ、ブログに載せようかな」などと考えるものなのですが、私の場合、空腹のときにはもうカレー、盛って食べることしか考えていない。もう、いてもたってもいられない感じでカレー、食べようとしている。

じつは、というか、「じつは」と改めて書く必要もないのですが、私はカレー、ほんっっっとうに好きなのです。

どう好きかというと、限られたメルアドの文字に敢えてカレーという文字を入れているくらい好き。

私にとってはカレー、人生の食における何本かの柱の一つ。
カレー作りは私にとってのライフワーク。いかにおいしいカレーを作るかは私の一生の課題でもある。

いずれは私のカフェでの限定メニューとして提供したいとも思っている。

カフェではカレー、ロイヤルコペンハーゲンやリチャードジノリのお皿にきれいに盛ってお出ししようと考えているのですが。

盛り方はもちろん、ライス半分にカレーを見映えよく、が基本。
ときにはバターライスを別の器に盛り、カレー皿にカポッとひっくり返して出し、カレーを盛ることも考えている。
赤、黄、緑、紫などの夏野菜等を軽く揚げてカレーとブレンドしお出しすることもあるでしょう。

でもそうした中、お客さんにお出しするカレーは、ルーを絶対ご飯に放射状にかけることはないでしょう。

東京カリー番長の水野さんはカレー、ほとんどご飯には放射状に、イメージとしてはヒトデが乗った感じにカレー、おかけになっている。

水野さんのカレーの書籍は10冊は持っているけど、カレー、大部分は放射状がけ。
水野さんはダンチューの「カレーの教室」で、「自分は家庭風のカレーのかけ方が好きなので、このかけ方で統一している」といったことをおっしゃっておられます。

やっぱりカレーは人それぞれ。カレーの決まった形、こうあるべき、といったことはないのです。

ある方、確か作家のある方は、カレー、どんなカレーが作りたいか、といったときに、他人に出したら他人から「これはアレだろ、カレーだろ」みたいなことを言われたい、そんなカレーを作りたいとおっしゃっておられます。

私はカレー、どんなカレーでも好き。
様々なカレー、食べていきたい。

これからは、スパイスの魅力というものをカレーにもっと生かしたい、とも思っております。

ブログの終焉ということについて

皆さんこんばんは。

お久しぶりです。

ボスですけど。


最近、あんまり記事を書いておりませんね。


以前、「ブログを書いている人って、いつかはブログ、書くのに飽きるとか、意欲がなくなるとか、書き甲斐がなくなるとか、書く意味を喪失するとか、そうした諸般の事情でブログ、終焉を迎えるのではないか」といった趣旨のことをここに書いたことがあるのですが、私がブクマさせていただいている方々が、やっぱり私と同様、ブログの記載にかなりインターバルがあいたり、時にぜんぜん更新がなくなったりすると、やっぱりブログ、いつか終末、終焉を迎えるのだな、と、さびしい、むなしい気持ちになったりするんですよね。


ブログ、もしかしたらエムブロさんから他社のものに乗り換えたり、あるいはツイッターとかラインとかフェイスブックとか、他の交流、情報発信手段を中心に活用され、ブログはやめた、という方もいらっしゃるのかも知れませんね。


そうした中、みなさんがこうしてここのブログを書く意味、意義って、なんですか。
そして、その気持ち、持ち続ける自信、といえば変ですが、ブログ、長期に続けられる意思って、ありますか。


私は・・・

他に自分の近況を発信する手段がありませんので、ここでやらせていただきますよ。このエムブロの「アロマ珈琲」で。

いずれカフェを開業し、軌道に乗せ、みなさんの中からご興味のある方が私のカフェ、訪れてくださる、ということがあったりするのなら、それはとてもうれしいことですよね。


画像は題名とはまったく関係ありません。

私のお気に入りのお店のおにぎりと酢の物です。

最近、1日二食にし、お米を食べております。

過去を振り返ること

画像は、私の気に入っているお店の三色膳です。
よろしければご一緒にいかがですか。



さて、過去を振り返ることについてですが。

世の中、過去を振り返ることについては、否定的と申しますか、前向きじゃない(当たり前ですが)、とか、得るものがない、暗くなる、前を向いて進みましょう、とか、そんな言葉、発言が多々ありますよ。

東日本大震災以降、特にそうした言葉が多々あるように感じたりしますよ。

先日、テレビを見ていたら、人生後ろばかりむいていたら、交通事故を起こしてしまいますよ(前を向いていないと人生良くならないの例え)とかの発言があったり。


確かに、後ろばかり見て、前を見ないのだったらいかがかな、と思うのですが、私は後ろを見る、過去を振り返り、様々なことを反省したり、失敗を分析しこれからに生かすヒントを見いだしたり、あるいは、過去をただじっくりとことん懐かしんだり思い出に浸ったりするのは本人がそうしたいならすればいいじゃないかと思うんですね。

過去を振り返り絶望して前に進まない、というのではないですよ。
過去を振り返り、浸って、味わって、そこで過去の思い出がつらいものであったら、つらいものを時間がかかっても修復して、思い出が失敗したものであったらなんであんな失敗したんだろう、とか反省して今後に生かすとか、反面、いい思い出だったら何度も楽しむとか、もったいないから時々思い出して大事に楽しむんだ、とか、そんなことがあっていいと思う。

人生、過去を振り返らないと、失敗に気付かず、後ろに白バイがついているのに気づかなかったり、前向きだけでは気付かない失敗をし続けたり、そんなことがあったりするのではないでしょうか。


私は、過去を振り返るのが好きで、くよくよ反省人間なんですよね。
あと、夢ではしょっちゅう、過去、相当前の風景や懐かしい人々を見るんですよ。

そしてそれをずっと考えたり分析したり、懐かしんだり、楽しんだりする。

で、それをこれからの生活、人生に生かす。

そんな価値観、生き方、考え方があってもいいと思ってます。

時々、過去を振り返ることを否定的に扱う発言がテレビとかで見られ、ついこの場で書いてしまいました。

情報ネットワークからの退会方法がわかりにくかったり簡単でないのはいかがなものか。

画像は私の気に入っているお店の「ミニメンチカツ」です。
お召し上がりになりながらお読みください。



さて、先日は、Facebookに入会し、すぐ退会したことについて、くどくどと書いてしまいました。

そして今回もまた、そのことを引きずって記事を書こうとしている。


その背景には、じつは憤りというものがあったんですよね。

Facebookでは、退会の方法がズバリわかりやすいようになっていなかった、と。

退会する手続きを見つけることは、私にとって非常に難しかったと。

どこに退会の入り口があり、どう進めばいいかわからなかったと。

で、ネットで調べ、退会手続きを進めると、退会の理由を求められ、選択すると、そのことに対する諭し、それは誤解ですよ、と言わんばかりの説明が表示され、同じ並びに、「今後Facebookからのメールを中止しますチェック」とか、当たり前のことや、退会しようとする人には不要の、期間設定つきの「○日後に再開しますチェック」があり、辞めたい人には不要の紛らわしいチェック、間違ってチェック入れてしまいそうな項目があり、さらに退会ボタンを押すと、メールが届き、画面では中心にクルクル回るタイマーが、私の場合15分以上続き、「これはどうなっているのだ」と思いながらメールを見ると「間もなく手続きが終了します」とあり、クルクル画面に戻ると、「認証に失敗しました」と表示され、では認証手続きをしてみよう、とバックキーを押すとFacebookのパスワードが求められるトップ画面が表示され、パスワードを入れると、「Facebookの再開手続きがされました」というまったく意にそぐわないメールが来て、結局、先の手続きに要した手間と時間がまったくムダになり、再度、同じ時間をかけて手続きを行うも、また同じ経過をたどり「Facebookの再開手続きがされました」と出るなど、はっきり申して「なんでわざと退会させないようにワナを仕掛けているんですか、愛って何ですか!!!?」と、ダイハツムーヴのCMのアンドロイドのように叫んでしまわざるを得ない状況があったのです。ちなみに私はこのダイハツムーヴのCMのアンドロイドが大好きです。

で、そうした背景があったものですから、腹が立ってしまって、さらにその手続き上で、以前、同様に手間取り、結局できなかった「本屋倶楽部をローマ字にした情報提供団体」からの退会手続きの腹立たしさ、トラウマがわきおこってきて、結局、くどくどと書いてしまった次第です。


そもそも、個人が「必要性がないから辞めたい」という、あくまで個人の意思がストレートに反映されてしかるべきの情報ネットワーク団体からの退会手続きですよ。エムブロさんみたいに簡単に辞められるシステムにすればいいじゃないですか。私はこの点、エムブロさんは潔いと思いますね。

そうでない団体、退会手続きをわざとややこしく、極めて手続きしにくくワナめいたものを仕込んでいる団体、もしくは本人がメルアドを変えなければ情報提供拒否や退会は永久にできないんだぞ、どうだまいったか、というような考えがありありとある団体が、あるんですよ。

だから、そうした団体への登録に当たっては、「この入会、ほ ん と う に 必要なのか」と真剣に判断すべきで、個人的には、原則、入会しない、という決意を持つべきだと、今さらながら思った次第です。


話は違いますが、同様に「カード加入」とか、「個人情報をどこに漏らされるか不安なポイントカード加入登録」とかもできるだけ入らない、という姿勢も大事だと私は思っております。


いずれにしろ、私は迂闊でした。

今後、できるだけ手を広げない、加入しない、断捨離をする、ということを徹底する決意です。そうでないと、被るデメリットにかき回されてしまいかねません。
そう思わされた今回の事例でした。

Facebookはやらない

先日、先般、私の誕生日だったんですがね。

記念に、私のスマホの画面に購入時から表示されているFacebookというものに登録してみたんですよ。

登録には、メルアドはもちろん、氏名・よみがな、性別、生年月日の入力を求められ、さらに必要に応じて詳細な個人情報まで入れる様式、構成、ページになっているんですよね。

で、私は、求められる必要最小限の情報を入力してみたんですよ。


でも。

浅はかだった。

私はふわふわしていた。気持ちが。

自分のことをよく省みないまま、登録してしまったものだと感じたんですよ。

完全に、ミス、衝動買いみたいな過ちをしてしまったな、と思ったわけですよ。


じつは、よく考えると、というか、よく考えなくても、考えるまでもなく、私って、「私ほど友達のいない人はいない」と言ってもいいほど友達っていないんですよね。これだけは自慢できる。自信を持って言える。

私ほど友達がいない人っていない。

友達、とは、もちろん知り合い、とは別の意味です。知り合いはたくさんおります。でも、この人って友達か、というと私の中ではほとんどすべて、友達という程度ではない。

第一、友達の必要性というものを感じたことがない、知り合いも敢えて増やす必要もない、そういう感覚の人間なんですよ私は。


だから、結婚式での出費や交際費が少ないので助かっている。

それはともかく。


友達がいない。


そもそも、友達がいない、ということはわるいことだろうか。
はずかしいことなんだろうか。
後ろめたいことなんだろうか。
ひみつにするような、敢えて口外するのはまずいようなことなのだろうか。

そんなことを敢えて言ってしまうということは、私は個人的にははずかしいようなことだと主観としては思っているのだと思う。


でも、ここでは、今日は書いてみよう。友達がいないということを。


そもそも、私は、友達というものの必要性を感じない人間なのだ。

「ボスさんって、さみしい人・・」と言われるかもしれませんが、そうなんですよ。

で、今まで、友達がいない、ということで困ったことがない。さみしいと思ったこともない。
友達がいないこととさみしいことは私の中ではまったくつながらない。
他人がよく言う「友達がいない人はさみしい」という感覚はまったくない。


自分のことは自分で対応するし、必要に応じてしかるべき人らの意見や判断を参考に求めることはあることはあったかもしれない。

原則、自分のことは自分で判断、決定する。

行動も同じ。

友達というものがいたら、友達のことも考慮しなければならない。


そうした中で、同性の友達というものは絶対必要としない。
ありえない。

よく、同性どうしでご飯を食べに行くとか、ツーリングするとか、そんなことは私にとってありえないこと。
お断りする。行きたくない。
そんな人なんですよ。私は。

でも、決して、同性どうしで行動することがある方々を否定的に思うわけではありません。
それはむしろ、あって当たり前、ふつうのことです。
同時に、そのような行動をしない人も、あって当然。ふつうのこと。


私にとって同性、男性は、言うなればライバルみたいな、いつ攻撃されるかわからない、みたいな、安心できない、鼻持ちならない、みたいな、そんな油断がならないもの。
親しくなるのも何かいやなんですよね。そういう存在。


話がだいぶずれましたが、私はFacebookを必要とする人間ではないということなんですよ。

Facebookがどんなものなのか、当然、すべてわかって言っているわけではありませんが、やっぱり私にとってはFacebookは必要ない。そう思ったことでした。


いやしかし。Facebookって、個人情報のるつぼですよね。

あれって、はまってしまえば身動きとれなくなるんじゃないでしょうか。

時間もとられるし。

きっと、はまればにっちもさっちも行かなくなるような気がする。


あと、超天才ハッカーとかが、Facebookシステムの個人情報を入手したりできると、大変なことになるんじゃないでしょうか。


そもそも、私の考えや行動とかが、情報をシェアする人は選ぶことができるとは言え、個人を特定されながら見られるのがこわい。はずかしい。
情報の押し売りみたいなことや、反対に情報や意見、感想等の催促をされるような雰囲気があることが日常になったりすることがあれば煩わしいし。
何か無意識のうちに義務みたいな制約、気持ちができてしまうことがあるのではないかという心配もあるし。
Facebookの仕組みに誤解があるかもしれないけれど。


とにかく、Facebook、私は退会しました。


これからの人生・有限の人生、情報機器、ネットワークの断捨離も必要、そもそも断捨離以前に、持たない、抱え込まないことも必要だと、個人的に思ったりしているボスでした。


今日の話はまどろっこしいものでした。
お口直しに画像のイチゴ、どうぞ。











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