月曜日に元気がないのは当たり前

月曜日に元気がないのは当たり前。

最近、確信した。



月曜日に元気があるわけがない。


まずは、金曜日の寝る時間から土日のサイクル、生活サイクルが、めちゃくちゃになっている。


土日の午前中や、下手すれば午後、夕方まで、太陽の光を感じない生活になったりしている。

私は、人には、キカイダー(石ノ森章太郎のマンガのキカイダー)じゃないけど太陽電池がついているのではないかとほんとうに思っている。
人は太陽の光を浴びないと、月曜日には確実に萎える。

個人的には、太陽の光はつらい。
ヒリヒリする。
刺激が強すぎる。

でも、適度には浴びなければ、やる気は確実になくなる。メラトニン云々とかの話は敢えてしない。


あと、人は飛行機のようなものである。

金曜日は巡航中の、最もスピードがのって調子がいい時。

しかしいったん土日に着陸すれば、月曜日の離陸時には、かなり、最も力が要る。

止まった巨大な機体を、太陽電池切れのエネルギーがないままに動かさなければならないのだから当たり前。


月曜日には、体調がわるいとか、体が特に重いとか、やる気がないとか、極めてゆううつだとか、ずーっと寝ていたいとか思うのは、当たり前の当たり前ー、なのだ。

でも、生きていく以上、食っていく以上、働かなければならない。ここで月曜日も休むと、月曜日の電池切れも加わり、ゆううつさが増し、火曜日にはますますやる気が出ないのに拍車がかかるのは経験上でも確実なのだ。

私も何度、月曜日に休んだことか。
月曜日に休むと、火曜日の朝にはほんとうにますます絶望的になるのが確実なのが身に染みている。



月曜日にはまずは、職場にたどり着くのを目標にしなければならない。

私は月曜日、職場のデスクで、自宅で淹れたポットの熱いコーヒーを「ここは落ち着く喫茶店なのだ」と思い込みながら飲むのだけを目標に、職場に向かうことにしている。
その時には、朝から、「今日は長い一日になりそうだ」とかは思わずに、むしろ「今日は、出勤して、さいあくすぐ休みをとろう」と出勤する。
気張らないのがいちばんだ。


で、月曜日はフンジャラケ、火曜日はハンジャラケ、水曜日はスイスイスイ、木曜日はモーリモリ、金曜日はキンキラキン、という唄のイメージのとおり過ごすことになる。


で、いちばん調子が乗るのが金曜日なのだ。
飛行機の巡航状態。

疲れはたまっているかもしれないけれど、調子は乗っている。
明日から休みだ、という安堵感と開放感、時に充実した金曜日を終えたという達成感もあり、金曜日の夜は、一週間の中でも最も調子がいい、気分もいい時なのだ。



という所で、次回は、できるだけ月曜日に調子がよく朝を迎えるための、私が考える経験上の最善の方法について書いてみようかな。

今、非常に不安な仕事があるのだが。

今、非常に不安な仕事があるのですが。


今まで、いろいろ不安な仕事をしてきたのですが、今回ばかりは、いつもとは異質ないやな予感がする。


不安だ。


9月16日の夜、どんな気持ちでここにいるのだろうか。


うまいビールを飲んでいればいいのだが・・。





朝、職場の机までたどり着くのが大変なのです。

台風が近づいている。


災害の危機管理業務から外れ、台風、と聞いても動悸がしなくなったのはありがたいことだ。


じつは、不謹慎かもしれないけど、昔から台風はきらいではなかった。

小学1年生のころから、16、7年間、ずぶぬれに馴れていたからなのかもしれない。


台風の、各地の災害の状況を見ながら、大変だな、と思いながら、大雨に当たると何か気持ちが吹っ切れて気持ちいいんだよね・・とか遠い目で思ったりして。


つまらぬことを言ってますが。




さて、私は朝、職場の机までたどり着くのが大変なのです。


たどり着けばなんとかなるけど、たどり着くまでが問題。



朝、気持ちよく目覚め、ストレッチをして希望に溢れて起き、水圧の高いシャワーを浴び、空腹で食事をし、熱いコーヒーをゆっくり飲み、「さて、行くか!」と微笑みをたたえながら呟いて出勤する、というのが永遠の課題。理想。


そんな朝を迎えてみたい。

仕事に行くのがつらい

仕事に行くのがつらい。


夜中、目覚めるとゆううつ。


朝には、行きたくない、と10回は言いながら、まずは、今日、行かない選択肢というのはないか、自問する。


年次有給休暇もかなり少なくなっている。


だから、気軽に休める余裕もない。



最近、ほんとうに、休む選択肢がなくなってきている。

仕事、切羽詰まっているし、もし休めば、不安で不安で仕方がなくなるのがわかりきっている。



思えばほんとうに、最近は、休む、休める、という選択肢がなくなっている。


重圧がある。


つらい。



早く、早く、退職したい。





しかしながら。



休みたい、仕事に行きたくない、というのは、休めば休める、仕事に行かなければいかなくてもいい、最悪なんとかはなる、という選択肢、考えが、頭のなかにあるからそう思うのではないか。


人は、もし砂漠の中にいて、20キロ四方に水がない、20キロ先には水がある、といった場合、歩くでしょう。絶望的にはなっても。

それは、そこには歩かず干からびてしぬ、という選択肢がないから歩くのです。



仕事に行きたくない、という気持ちを持つのは、気持ちにまだまだ余裕があるということなのかもしれないな、と自分をだましたりしているボスでした。

小さい白いにわとりの話A

このお話は、前の記事からの続きです。


さて、一人で麦をまき、水をやり、育てた麦を刈り、粉に引き、パンをこね、パンに焼いた小さい白いにわとり。

その都度、ぶたや犬やねこに、労働しませんかと尋ね、その都度、みんなから「いやだ」と言われ続けた小さい白いにわとり。


最後に、このパンだれが食べますか?と聞いたら、ぶたも犬もねこも、「食べる」と言う。


小さい白いにわとりは、そのパンを食べさせたのか否か。
みんなにどう言ったのか。


私はいまだに、この答えがわからないでいる、と前の記事に書いた。


じっさい小さい白いにわとりは、みんなにどう言ったのだろう。パンをどうしたのだろう。


これは、ウクライナの民謡からの話だということだけど、やはりこの後の話はないようだ。

想像に任せる、ということだろう。


話からすれば、その都度、みんなに話しかけたにわとり、最後も、パン、だれが食べると聞いている。

食べさせないのに聞くはずがない。

聞くからには、食べさせてもいい、という気持ちがあると思われる。

ここで「上げませんよー」と言ったら、「じゃあ聞くな」と言う感じになる。


だから筋としては小さい白いにわとり、パンをみんなに上げたのだろうと推測する。


でも。

じっさいはどうだったのだろう。
どうあればよいのだろう。


実は前回の記事、書いてから、ずーっと一晩、考えていたのです。なかなか眠られなくて。
眠っても、夢の中で頭から離れなくて。


で、行き着いた結論は、「小さい白いにわとりは、みんなにパンを分けました。」ではないのか、ということになった。

ただ上げたのではない。分けて上げたのだ。


ぶたも犬もねこも、そこに生きている、ということは、それぞれ食べるにそんなに困らず、ぬくぬくといたのではなかろうか。でなければ、にわとりが麦をまいてから、水をやり、麦を育て、パンに焼くまで生きているはずがない。

ぶた、犬、ねこらは、単にデザート感覚で、にわとりが焼くパンを、「食べてもいいよ」という程度に思っていたのではなかろうか。


いや、そこまで読まなくても、世の中、社会保障が整備されている。

生活保護制度もあるでしょう。

一生懸命働いて、税金を納め、その中から、働かない、働けない人に、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する、という憲法の条文に則り、生活保護のお金を支払っている。決して飢え死にはさせないことになっている。


だから、小さい白いにわとりは、一生懸命作ったパンを、そのまま等分には上げないまでも、健康で文化的な最低限度の生活に相当する程度の分を、分け与えたのではないのだろうか。


しかし。

じっさい、これでこの話はハッピーエンドになるのだろうか。

一生懸命働いた小さい白いにわとりの労働、焼いたパンの対価は一切入らないのだろうか。

ほんとうならば、「小さい白いにわとりは、みんなにパンを売りました。」もありなのではないか。


でもでも。

小さい白いにわとりは、自分で一生懸命作り、育て、麦の成長を見守り、育った麦を刈り、粉にひき、パンをこね、パンに焼いた、その過程を、いちばん楽しんでいたのではないのだろうか。

そして、みんなにパンを分け与え、自分でも苦労して作ったパンを、みんなで一緒に食べることで、誰よりもいちばん幸せを味わったのではないのだろうか。



これで私の一晩の空想は終わるのですが。


皆さんは、どんな結末だったと思われますか。



画像は、話とはまったく関係ありませんが冷麺です。どうぞ。
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