例え話をしましょうか。

私は茶道を習っています。交際範囲としては他にも馴染みの方とか行きつけのお店とかあるとしますよ。

で、私、ちょっと多忙その他やんごとなき事情でそうした人たちと当分付き合いを絶たざるを得ない状況になったとする。

でも、多忙などのために個別に挨拶できず、ご無沙汰する挨拶を付き合いがあった方に、全く同じ文面のハガキでしたとする。で、忙しさとかのピークが過ぎ落ち着いたら個別にひっそりと挨拶しようと思っていたとする。

ここで私の付き合いの茶道仲間にはA、B、C、Dさんがいたとしますよ。
付き合いはAからDさんまで順次薄くなるとしますよ。

AさんからDさんまでは何か友達のネットワーク化ができていて、Aさんに伝えた私信はなぜかしらBさんにも伝わったりしていて、私としては別れの挨拶をとりあえず付き合いの一番深いAさんにだけはしようとは思うのですが、そうした挨拶を多忙だとは言えAさんにだけしたことがすぐBさんCさんDさんに伝わるとすれば、これはやはり忙しさが落ち着いたら同時に皆に挨拶すべきだなと思うわけですよ。私とB、C、Dさんとのつながりに妙な気まずさを残さない意味で。

こうしているうち、茶道仲間のAさんからDさんの中では内輪でいろいろしゃべり合うわけです。「深い付き合いだと思ってたけどこの程度。あっさりとしたものよね」「追うな追うな。バッハハーイ」「♪逝きな〜さ〜い〜」とか。

先日まで深い付き合いがあって信頼していたつもりなのに、落ち着いたら挨拶するつもりだったのに、「は?」ですよ。「この人たち、そんなに冷たい人たちでしたっけ」ですよ。こちらはそんなつもりはないのに。あとでちゃんと手紙出して説明しようと考えていたのに。

でもやはり人間は超能力者ではない。言わないと伝わらないものなんですね。

一方、ひそひそ話って、本人が直接言われるより本人がいないところでそうした話が展開されていることが本人に伝わる方が本人にとってはこたえるものなんです。

で、伝わるものなんですよね。

あんなに憎みも憎まれもしない仲良い関係だったはずなのに、情が深い関係であったがゆえに疑心暗鬼の度が強くなる。悲しみを通り越して不信感が出たり。おかしなもんです。

一方、私と馴染みの人たち、この方々を甲さん乙さんとしましょうか。

甲さん乙さんと私は「君子の交わりは淡きこと水のごとし」、淡々とあっさりと、かつ長い付き合いだったとします。私が思い切って他人から誤解を受けるような行為をしてもあっさり受け流してくれますよ。

で、乙さんは私のするいやな行為を見ても「そんな時もあるよ。人だから」と平静でいてくれたり、「あんた付き合いをやめるといったけどいつでも付き合いたくなったら戻ってらっしゃいよ」とメールをくれたりするのです。人生の機微を知っているというのか、ちゃんと逃げ道を準備してくれている。

人は追うものからは逃げるんです。で、追い詰められるともはやなすすべがなく、うずくまるしかないのです。

逃げ道を準備してくれている乙さんには、「いや〜、付き合いやめると言っちゃったけど、また来ちゃったよーメンゴメンゴ」となるわけです。

甲さんもまた私と個々の付き合いをしている人です。この方は臨機応変で深みがある方です。私が憎まれ行為をしてもあっさりと受け流し、「なぜこの人はこうした行為をしたのだろう」と背景を探るくらい余裕がある。
酸いも甘いもどころか、辛いも苦いも噛みわけた方なんです。安心感がある。
ネットワーク化がなく疑心暗鬼も生じない。「いや、実はさぁ‥」と私がいつ復帰しても話を打ち明けやすい状況にしてくれているんです。

結局、茶道仲間とは再起不能ですわ。


いずれにしても今回の事例の一番わるかったことは私の説明不足と筆まめではなかったということ、不義理だったということだったんですね。不義理は恐いね。

これからは言いたいことがあったらちゃんと口で伝えよう。

あと、私は物事の背景を探れる冷静さを持ってみたい。

その方が辛辣な言葉を言っている場合、その人がなぜそうした言葉を言っているのか、自分はその人を怒らせる言葉を言ったことがなかったのかとか。相手が意外なことを言っていたときには特に。そうしたい。