それがどうした。
という題名ですが。
いや、ここにはある真理が隠されているんですよね。
実は今日は、私が管理しているある団体の監査があって、共同監査する人らと監査対応して、お昼に近場の食堂に入ったんですね。
で、実は私は、皆さんご承知のとおり、なわけないんですが、来月の病院受診に備えてダイエットしておりまして、本当ならばお昼には、車にあるリンゴ1個で済まそう、という気があったのですが。
でも、さすがに他のかた方がたと団体行動しないわけには行かず、結局私も食堂に行ったわけなのですが。
こうしたときに、皆さんは、どんなものを注文されますか。
好きなもの?
時間がかからなそうなもの?
私の場合、年長者が注文するものと、同じものなんですね。
なぜなら、注文がまちまちだと、調理され出されるのがバラバラになるし、さいあく、お昼時間内に間に合わなくなるかもしれないからですね。
年長者がラーメン、と言ったら、私もラーメン。
決してカツカレーとか、焼き肉定食、とは言わない。
反対に、年長者が焼き肉定食プラスギョウザ、と言ったら(ンな)、私も焼き肉定食プラスギョウザでいく。
作る手間が一緒だから。
そして、こうした注文のしかたは、連帯感を高める。また、信頼感も高まるんですね。
人は、自分と同じ行動をとられると、相手に信頼感を増すのです。
心理的テクニックとして、相手と仲良くなりたい場合は、相手と同じ行動をとること。
相手が耳をさわったら、自分も耳をさわってみる。
相手が髪をさわったら、自分も髪をさわってみる。
相手が鼻をほじくったら、自分も、いや、そこまではやらないのですが、とにかく、そうした配慮もあって、今日は年長者が最初に注文したカツ丼を私もやっぱり注文したというわけです。
でも、一緒に行ったいちばん年下の人は、1個作るのにガス台を1基占領する最も手間がかかりそうな肉鍋定食を注文しました(笑)
ところが、肉鍋定食がいちばん最初にできて運ばれてきたという。
笑い話のようなほんとの話。
今日、月曜日、職場のSさんが休んだ。
朝、8時半ちょっと前に電話があった。
体調がわるくて、と。
ゆっくり自宅で休養してもらいたい、と一瞬思った。
でも、私は今日の朝、Sさんを職場の駐車場で見ているのだ。チラッと。Sさんはあの外車に乗っている。まちがいない。
Sさんは、日ごろから快活で明るい感じがするいい人。
でも、私は知っている。
心に風邪をひいていることを。
Sさんはきっと、朝、がんばって自宅から65キロ車を走らせ職場に来たのだが、気持ちがついていかなかったんだと思う。
日ごろ快活さをがんばって出しているSさん。
私も、今日のSさんの気持ちが非常によくわかる。
Sさんの気持ちが、そのままわかるのだ。
お互いひっそりがんばろう・・。Sさんに心の中でエールを送った私だった。
その子は、京都市東山区の川端通に住んでいる。祇園の子。
夕子。
私は数日前から、夕子をいただきたかった。
食べたかった、と言ってもよい。
いや、誤解しないでいただきたい。
夕子さんは、そう。言わずと知れた井筒八ツ橋本舗の八ツ橋、夕子さんなのだ。
数日前から、食べたくてしょうがなかった。
でも、私は今、来月の1日に東京の病院で検査し、2日には命の恩人のスーパードクターとお会いするので、それまで体重を落とさなければならず、ダイエットしているのです。
だから我慢していたのです。
でも、今日はいただこう。
お昼は、リンゴ1個でしのいだし。頑張った。
だからいただく。夕子さん。
夕子さんは、あんまり甘くなく、上品なので好き。
今日は、銀座の名店、カフェ・ド・ランブルのニカラグアマラゴジペでいただいてます。
サイコーです。
明日からの不安が半端ない。
具体的には、仕事への不安が半端ない。
こうしたとき、お酒で明日があることを忘れられるならどんなにいいだろう。
お酒は飲んでもいいけど、明日を忘れることはできない。
お酒で酔うことはない。むしろ目が冴える。
昔から、こうした時には食べ物に走ってきた。
暴飲暴食。
あと、激辛食品。
今日はどうしようか。
ブログって、記事に書くことはまったくの断片にすぎない。
楽しそうな記事の裏に膨大な悩みがあることは普通。
その人が、悩みを忘れるために楽しげなことを書いていることもある。
私の場合、晴れない気持ちを隠すために、つまらぬことを楽しげに書いているにすぎないのかもしれない。
晴れない気持ち、暗雲が、スキッと晴れる日が、これからの人生であるのだろうか。
夜中ですが、渡り蟹のクリームパスタはいかがでしょうか。
モッチモチの、こってり濃厚な、旨味がブワーッの、渡り蟹のクリームパスタはいかがっすかー(笑)
いやー、これはおいしい。
渡り蟹のミソの旨味が生きている。
あなたにも味わっていただきたい。
渡り蟹、といえば、私は港町の近くで生まれ育ちましてね。
家は海に近かった。
幼い頃から魚釣りをしたり、タコやナマコをとったり、蛤を掘ったり貝をとったり。そうして遊んだりしたものです。
私には兄がおりましてね。私より七つ歳上の兄なんですが。
兄は夏によく、夜に海に行って海に入り、懐中電灯の明かりで渡り蟹やアブラ蟹やモクズ蟹を探して、しょっちゅうバケツ一杯の蟹をつかまえてきたものです。
で、私らはいただいてきた。
蟹で生きてきた。(ンな(笑))
兄は、私が雑な蟹の食べ方をすると、怒ったものです。「蟹は身をていしている。おれらはそれをありがたくいただいている。命をもらっている。殻までよく噛んで、感謝しながら食べるんじゃ」と。
で、私は蟹は、感謝しながら、もう誰よりもむだなく味わい、いただくようにしている気持ちがある。
私は大人になり、ある時期から、生きたものの命をいただくことが申し訳なくなって、自分では生きたものをつかまえ、食べることはしなくなった。
兄もそんな感じ。
現在、蟹は市場やスーパーで購入するようにしている。
こうして海から上がってなくなっている蟹をいただくのは、蟹にはわるいが、ありがたいことであり、大事にいただいていこうと思っている。