臨時営業

皆さん、今回の話はセンチメンタルな気持ちを持たずに、単なる明るい茶飲み話というイメージで聞いてください。
ブログについての観念的なことを書きます。決して挑戦的な話ではありませんから。

話したいのは、皆さんはなぜブログをやっているのかなということと、やるメリットはデメリットと天秤にかけるとやはり大きいのかなということなんです。自分をだましてやり続けたり、ただ惰性でなんとなくやっている人が結構いるんじゃないかということなんです。

世の中、友達が極めて少ないとか、交際範囲が狭いとか、ヒマでヒマでしょうがないという人だったらブログをやる意味はあるでしょう。これはわかる。寂しいんだから。
あと、趣味の話で交流するのが楽しいとかね。わかる。

でも、多くの人にとってブログって面白いんだろうか。やる意味があるんだろうかってね、そう思ったりして。

だってさ、世の中のブログを見てごらんなさいよ。殆ど、9割方、電車やファストフード店とかで小耳に挟む雑談でしかないんじゃないでしょうか。「今日は旦那と喧嘩した、お昼○○食べて○○の本読んで、面白かったよ〜ん」みたいな。

ファストフード店にいる人の雑談だったらそれでもチラ見で顔がわかるから「あー、この人こんなこと考えてるんだ、へ〜‥」とか思うこともできるけど、ブログって、どこのどんな顔の年齢何歳くらいの人が書いているのかとかさえ、殆どわからないわけじゃないですか。
で、会話だったら少なくとも数分聞いても言葉にするとかなりの情報量のことを話しているわけで脈絡がわかるけど、ブログって殆どが数行、10〜20数行程度の、話し言葉に換算するとわずか数十秒のこと、しかも殆どが断片的な内容のことしか書かれていないわけですよ。

この情報が氾濫する社会の中でそうした、巷で聞き飽きたような、テレビつけたらどんどん入ってくるような、そんなビジュアルでもない断片的な話を見て、どこが面白いのかなと思ったりすることがしょっちゅうあるんですよね。

いや、ご気分を害したらごめんなさい。これは決して少ない情報量のブログを否定しているわけではなく、普通に考えて客観的にそう思われはしませんかと、そういうことなんですよ。

あなたは馴染みのブロガーさんがいて、思い入れがあるから「そんなことないよ」と言うかも知れませんが、普通に考えてみて、こうしたブログ見て上記の雑談しか書いていないのが殆どの中で、見ていて面白いですか。
面白いと断言なさるのなら幸せなことですけど、私としては先に書いたような何の期待もできないブログが多い状況にワクワク感とか持てないのです。

あと、皆さんはそうした数行数十行書くのに結構時間をかけていませんか。時間対効果的に(かけた時間から考えた効果として)、書く意味がありますか。相手はパッと読んだらスッと忘れるんですよ。殆どが。それでも何かを期待して書く意味がありますか。

で、たまに記事、本人が意図した以外の誤解とかがあって、ガッカリすることがあなたにはありませんか。やり切れない思いになることはありませんか。


以上のことがらに対して普通に考えてあなたはどう思われますか。

私ごとで恐縮ですが、この疑問に私自身が納得しない限り、私は現実生活で疲れたり忙しくしている中、敢えてブログをやろうとは思わないでしょう。

今回の記事を見て「へー、ボスさんってそういう人だったんだー、冷たい人だったんだね‥」とか思わないでください。

ブログを愛し、のめり込み、そんな中で思い続けてきた疑問を書きました。

ボスの知らせ

皆さん。






元気ですかーーーーーーーーーーーっ!!!!!!!







今日は私、申し上げたいことがあるんですよ。




私、これからちょっと旅に出ようかなと思っているんですよね。



旅というのは、比喩が入っていますが、私、これから本命の役目に邁進したいなということなんです。



本命の役目とは、はっきり言えば「仕事」です。



ア ロ マ 珈琲は、私の長期入院、手術、そして回復まで私を支え、皆さんの励ましの力を映し出す魔法のブログでした。


私はこのブログを通じて多くのすばらしい方々と出会いました。


記事ではもちろん、拍手、ミニメとかでも、ほんとうに温かな交流がありました。


私はそろそろ本命の役目に邁進するときがきています。



ア ロ マ 珈琲は私のために、大役を果たしてくれました。


今、ブログ作成時から初めてドキドキしながら記事を書き、初めてコメントし、返事に喜び、入院先の病院の一角、あちこちで夢中で記事を書き、コメントが来て、交流があり、悩みを書いたり励まされたり…

そうしたたくさんのことがフラッシュバックされ、しみじみ感動しています。


ブログをやらなければ皆さんと出会えなかったというこの奇跡。



私は今まで自分のためにブログに時間をつぎ込みました。

今度は私、その時間を私の本命の役目に使っていきたいと思います。

役目とは、明るいことです。先ほど「仕事」と言いましたが、具体的に言えば、若い方を私なりに力づけようとする、前向きなことがらです。



だから皆さん。もしかしたらあなたたちをちょっと悲しませているかも知れませんが、どうか、お許しください。そのぶん私、がんばりますよ。


私が今までブログにつぎこんだ力を、今度は私の役目に集中させて使っていきますよ。


だから悲しまないでください。今でも一部の方からあたたかなメールをいただいています。この記事を書く直前にも、あるすばらしい方からメールが来ていました。メールをくださる方々は、ほんとみんなすばらしい方々。

今、あなた方のもとを訪れ、いろいろとお話したいことはたくさんありますが、そうすると私、ブログを去ることができなくなりますので、ごめんなさい、この場であなたにしばしのお別れを言わせてください。ごめんなさい、メールも、悲しくなるのでできないかと…
いや、決心が揺らぎますのでメールはしないことにします。お許しください。



今回私、ブログの電源を切りますが、でも時々、新聞を見るようにあなたがたの記事を見させてくださいますか。



あなたがたのことは忘れません。



あ り が と う 。

      泣き虫ボス

子は親の鏡

鯛のかぶと煮、ごはんのおかずにどうぞ

手術後の熱に薬がとても効きやすくなっている。昨夜38度あったのに薬でちゃんと36度台になっている。

さて、今日は「子は親の鏡」というお話です。

これは、遺伝子的な話ではなく、子どもが生まれてから、そう、就学前、6歳くらいまでは育ててくれた方の性質がかなり受け継がれるのだということを主体としたお話です。
「育て」におばあちゃん、おじいちゃんが深く関わったのなら、その子どもにはそうした人の影響が多分に入るということです。

これは簡単に言葉で見て「当たり前だよ」というほど軽いものではありません。

0から3歳児までは皆さんおわかりのとおり、その頃の記憶はまばらです。中には全く思い出せないという方もいらっしゃいます。

でも、その頃の物事の吸収に当たっては、今あなたが持っている「これは承服しかねる」とか「これは一部納得」とかという判断の基準のフィルターがありません。問答無用に回りの環境、育ててくれる方の考え方、行動パターンとかがガバッと入ってくる。というか、その人の人格そのものとなる。
そこでは本人の選択の余地は全くありません。無条件刷り込み。

思考、行動パターンの無条件的吸収は6歳頃まで続きます。6歳頃まででその人の人生の土台となる土地は決まる。

「土地」とは人生を家に例えた場合の土台のことです。
で、そこでいう土地は、ふつうイメージするまっさらな土地ではなく、そこには簡単に例えると裁縫セットがあったり、沢山の書籍があったり、明るい笑いがあったり、隣にケーキ屋さんがあったり、かわいい洋服屋さんがあったり、いいにおいのする食堂があったり、中には主要なものにノミとかなづちしかなかったり(これは語弊がありますが殆ど放任の場合の例え)、その土地はボコボコだったり湿気が多かったり、水が染み出さないようにしっかりコンクリートで固めてあったり、中には木炭、竹炭が敷き詰められるなどかなりマニアックで家の将来がしっかり考えられるものであったりするのです。

話がくどくなりました。
もっと詳しく聞きたい方はアロマ珈琲のカウンターにお座りください。

さて本題です(長いな)。

こうして与えられた土地には、6・7歳以降、どんどん建築物が構築されていきますので、もはや土地自体にはリフォームがききません。

その後の人生においては限られた条件の中でいかに素晴らしいお家を建てるかが大事です。
狭い土地でもハイテクの開放感、清潔感があり、かつ味のある高層の建物を建てることも可能。
こじんまりとしたお家が好きな方はそれでもいいでしょう。
傾いた土地では建物をそのまま建てていって傾いた家にするか、床下の柱の長さを調節して家を平らにする工夫を施すか、そうしたことは、与えられた土地を基に、受け継いだ子どもが自ら選択して決めていくことです。

与えられた限定された土地にどんな家を建てていくかは、その子ども次第。

最初だらけていけばそれにしっかりとした床、2階とかはできません。一生だらけた貧相な人生で終わります。行動しましょう。いや、行動したい。なお、今までだらけて来た方、改善プログラムが私にあります。応相談。

行動。小さなことからでも行動したい。ラジオが聞きたくて離れたところにラジオがあったとする。面倒くさくてそこで寝っころがっていればそれでそのまま。起き上がってラジオを取り聞けば話題は広がり、以降同様に遠くにラジオがあっても前よりは能動的にラジオまで動くことができる。

ちょっとでも行動したい。

ところで行動というのは最初にいちばん力を要します。
ちょうど列車が動き始めるまでが当てはまる。
最初に「ガタン」と動かすまでが大事、いちばん力を要する。
ジャンボジェット機でも同じ。離陸までにいちばん力、燃料を要する。

列車の場合で、列車がガタンと動き出せば加速がついて行きますよ。線路に少々の雪(支障、障害)が積もっていても関係なく進むことができる。
まず「ガタン」と動かしたい。これがいちばん大変ですが何か一つ、ガタンと動かし始めたい。

ただ、それには「なぜ動かす必要があるのか」という強力なモチベーションの基が必要です。これがない方、探す方法があります。捜索プログラム。応相談(くどい)。

さて、話がずれました。ずれすぎです。

「土地」がしっかりしているとその後の人生は安泰です。
何らの支障がでても、豊かな土台があれば笑って解決できます。いや、笑うほど余裕がなくても「神は乗り越えられない試練は与えない」といった気持ちで、障害があっても解決できるという確信を持って対処できる。

障害の例でなくても豊かな音楽を楽しめる余裕、食事をするにも膨大なリストから選ぶことができる豊かさ、時に読書をし、香り豊かな珈琲を堪能し、思えばプイッと外国に行くことができる行動力の素養、資力を出せるのです。


※編集していていちばん言いたかったところの文章がガバッと消えました。

要点としては、私は幼少の頃から親からの制約が多く、おしっこをするにも「トイレに行ってもいい?」と聞くくらいの子どもだったと。

で、物心ついてもそうだったくらいだから生まれてからそのころまでは相当「あれダメ」「これダメ」と育ったのだろうと。

どうりで私、行動半径が狭いわけだと。

あなたに子どもが生まれたら、あなたをそのまま真似るでしょうと。

あなたがイヤだなと自分でも思いながらやっている行動は生まれ来る子どもがそのまま引き継ぐだろうと。

だから、あなたが将来を託す子ども、その子にあなたが思うようなすばらしい人間になってもらうには、あなたも、悪い点があればご自身を極力変えるなど努力しなければならないと。

で、そのプログラムはアロマ珈琲に無料で置いていますよと、そういう話なのでした。最後は投げやりですみません。次回からは短文にしたいです。

リセット

皆さん、こんにちは。
私、手術後の熱はまだ上がったり下がったりですが、そろそろ回復の予感がしています。

多くの方々のお力で私は救われました。感謝します。この感謝の気持ちで今後世の中に尽くして行きます。

私が再び社会に出るに当たって、気分的に整理しておかなければならないことがあります。それは、手術後の私の記事にあるような、何かモヤッとしたものの整理です。

いまさらナンですが、私、このままでは新たなお役目に全力投球できません。

皆さんの中にも釈然としない気持ちをお持ちの方がいらっしゃることでしょう。

さて、前の私の記事を見ながら私は、なんでこんなことになったのだろうと思っているのです。

私は誰に誹謗中傷されたわけでもないし非難されたわけでもないのに、なぜか誰かに対して憤慨しているのです。おかしくはありませんか。

これまでの経緯を簡単に言えば、私が一年以上にわたる病院での入院生活で、悩み、ダイエットし、手術の恐さに怯えながらもブログに入院生活のこととか書いて、いつしかちょびちょびと気心の通じるブログ友達ができ、そうした方々に静かに励まされながら手術を迎えたかったということ。

で、励まされながら、回復し、ありがとうと、これでハッピーエンド、感謝の念で終わり、そして新たな出発に至るという目標があったわけです。

ところが前回の記事にあるように、私の気持ちは釈然としなかった。

なんでこんなことになってしまったのでしょう。

大前提が私の未熟さでしょう。

私のもとにお集まりの方々は、皆が善意のいい人たちばかりです。これはわかります。

ただ、手術を一年以上待った私は、しんみりと、静かに皆さんに感謝しながら手術を迎え、その後の回復を待ちたかったのですが、その雰囲気がなかったので残念だったということなんです。

あと、手術後、発熱と頭痛で苦しんでいる私のブログの拍手コメント欄に、いまだかつてない提案とか依頼を求める内容のものが出始め、そうした拍手コメントに私は動揺し、戸惑ったということです。

心の狭い私、だんだんやり場のない気持ちが出始めました。

私を憎みもしていない人、単に最近私をお知りになり、ご自身の判断で購読を解除したと思われる方々に対してわるいことばを使ったりもしました。
私は今、だれを非難しているわけではありません。ただ、私自身に余裕がなかったと非難しているのです。

ということで、私は皆さんにわびましょう。で、今から、新たなお役目に着手いたします。

そして還る

前回の記事に対して無言の抗議がきているのかもしれません。

ブログをログインする画面に「購読者数」というものがあり、たまに目に入るんですが、入院直前に6件ほど増えた件数が、前回の記事をアップしてわずか6時間で4件減りました。

結局、以前からの購読件数プラスアルファに戻りました。

購読云々は気にしていませんが、なかなか面白い現象だなと。

前回の私の記事は気に障りましたか。確かに前記事、編集前は辛辣な部分はありましたが。

こういうものです。浅い付き合いというのは。

いやなことを書いていますが、ちょっと言わせてください。いいですか。だめなら止めますけど‥。

でも敢えて言うと、去った方、記事一つで去っていく程度の購読だったんですよね。

もし、前回の私の記事一つで、「ボスってこんな人だったんだ」と見切りをつけたのならば、その人と私はその程度の付き合いだったということです。


ということで、アロマ珈琲は、ふつうの記事を書くお店に還ります。でも、たまに皆さんをギョッとさせますからね。タノシミー


それにしても…


前回の私の、ブログの付き合い自体を否定しているようにも見える記事に対して、コメントくださった方々のコメント内容は、極めて大人ですよねー。驚きましたよ。イヤハヤ‥

前記事はある意味実験だったんです。私の精一杯のダークな記事に「あなた」がついてこれるかためすという‥。でもあなたはついてきましたね。4人落とした甲斐がありました。よかったです(えらそうに言ってますが。)

ところで、前記事で私、リア友とか現実生活の大事さを書きましたが、ブログはブログで非常に大事だと思っているのです。

私がブログ、否定するはずがないじゃないですか。

ただ、現実生活が充実していなければ、ブログでは豊かな内容の記事を書けませんよ。生活が淋しい場合、ブログ内容は情緒的になったり夢まぼろしみたいな内容になったりする傾向があるのではないでしょうか。

反面、ブログが現実生活を豊かにする面というのもあるのではないでしょうか。

ブログはすばらしいですよ。確かに。

実際に、あるブロガーさんたちは私の強力な力になっていますよ。

何か相談してもすごく的確な回答をくださる方もいらっしゃいます。すばらしい方。

ブロ友さんたちは、私にとってものすごい力になっていますよ。ほんとすばらしい方々ですよ。

ふつうの近所の知人には、魂のお話はなかなかできません。

ブログってすばらしい。
私はこうした付き合いを、ほんと大事しにしていきたいと思っています。
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